シニアの戯れ26
福島のじいさんはかく語りき。
俺の死は寂しいだけさ。
孤独な老人ではないが、私は己の死をよく直視する。
方法は簡単だ。
自分の心を未来にワープさせれば良い。
今この私がいないこの部屋の未来は、私を欠いているのだから、その欠如分、私は空洞であり、その空洞は無的であり、他者が私の存在をおもんばからない限り、そこに寂漠感はない。
つまり私は絶対の無になるわけで、その無が周囲の虚無な日常を無化していくのだから、私は無そのものであり、それ以外の何物でもないわけだ。
つまり私の心は死を迎えるにあたって無機質なロボット的有機細胞になり、分裂を起こして、ムササビになる?
月夜のムササビライトは命のほむら的哀愁エレジィの牧場か?
懐かしい死よ。(^0^)/
こんにちは的死の凝視が私ならば、死思い、故に我ありか?
タリラリラン(^0^)/
ウーん(^0^)/
孤独な老人は死を直視しているのか?
福島のじいさんの孤高的死の直視を、私は情けで汚し、その神秘性を冒しているやもしれず。
だったら猫じゃらしではないか?
マイブームの死を我が十字架にしたく思うが、私は宗教で自分の死を冒涜はしたくないわけだ。(笑)
しかし死があるからこその宗教概念であり、存在論的ビーム光線哲学?(^0^)/を用いれば、片方無化すりゃあ、あんた両方死んじまうぞと、福島のじいさんは言った。
私は返す。
「本当かよ、福島の親父?」
福島のじいさんはかく語りき。
「俺の死は寂しいだけさ」




