シニアの戯れ22
物書きは多角度の見識で、福島のじいさんの孤独感にも寄り添える幸せがあると思うが、諸兄はどう思う。(^0^)/
しかしだ。
私には護るべき子供がいるが、福島のじいさんには護るべき子供がいない。
タリラリラン。(^0^)/
この差は、孤独感の目分量としては大きな差と言えよう。
とにかく一人暮らしの老人は寂しいものなのだ。
例えば私は長女とよく喧嘩をする。
「ふざけるなよ、くそじじい!」
私は半ばじゃれあうように応戦する。
「何、この馬鹿娘、お前がだらしないから、いけないのだろう、違うか?!」
私は娘のだらしなさを矯正する為に半ば友達同士のようにじゃれあい交じりの喧嘩をするのが上手い。
つまり余り追い詰めづに、お互い逃げ道を作りながらの、やり取りだ。
タリラリラン。
親の役割は子供に勉強を強いるよりは規律、だらしなさを取ってやる事だと私は認識しているのだが、これがなかなか根気が要る作業となるわけだ。
はっきりと言えばうざい時もあれば面倒臭い。
このじゃれあい喧嘩には畢竟孤独感は皆無という事となる。
福島のじいさんには家族がいない。だからじゃれあい喧嘩をする子供もいないわけだ。
喧嘩出来る幸せ。相対して喧嘩出来ない不幸。
喧嘩出来ない不幸には孤独の影が忍び寄る。
そしてこの孤独感は絶望へと繋がっているわけだ。
例えば人を憎み、呪う力があれば、この孤独感の中に人は得てして絶望は見出ださないだろう。
だが福島のじいさんはそんなタイプの人間ではない。
ひたすら寂しいのだ。
それしかない。
タリラリラン(^0^)/
私は物書きだ。
だから、私は想像力を以って、福島のじいさんの孤独に寄り添う。
その孤独に寄り添う姿勢には、相手の立場に立って慈しむ事が必要条件となる。
福島のじいさんは限りなく寂しいのだ。
そして私は娘との喧嘩にぼやいたり、悩んだりしてはいるが寂しさは無い。
だから私は駄目親父なのだが、娘に苦しむ分、幸せなのだと思う。
物は考えよう。
物書きは様々な角度で物事を考察出来る幸せがあるわけだ。
それは銭金では買えない幸せだと思う。
諸兄よ、如何なるものかな?
(^0^)/




