鈍色
彼には、その男のその行動が自殺行為にしか見えなかった。
この岩窟での日々において彼が失ったものは、過去の記憶だけではない。いや、むしろ彼にとって過去とは、大きな意味を持たないガラクタのようなものだった。
痛みすら感じることができない彼にとって、記憶の有無は些細なことだった。それは彼がある事情から、最早生物ではなくなってしまったからだ。自分が生物ではないと理解しているからこそ、彼は過去に対して何の価値も感じない。
むしろ記憶が残っていたとしたら、現状の自分を受け入れ切れずに自らを破壊していただろう。
だからといって、存在し続けていたいという強い欲求があった訳ではない。ただ漠然と、自分という存在が消え去ってしまうのが怖かった。それだけだった。
豚鬼どもは薄汚く底意地が悪いが、ただ黙って殴られていればその内に鍛冶場から立ち去る。どうしても好きになれない自分の頭部を覆い隠す為のズタ袋を奪われることが苦痛ではあったが、それも豚鬼どもが飽きるまでの辛抱だ。
それでも、心の奥に自分にこんな仕打ちを下した人間に対する憎悪や、蔑み殴り蹴る豚鬼に対する憤懣は募っていく。
だが鉄を打つ、その瞬間だけは全てを忘れることができた。木製であるが故に鉄をも溶かす業火で焼け焦げ煤けたその両の拳は、彼にとっての誇りだった。
極限まで熱され赤く歪んだ鉄を槌で打つと、無数の火花が散る。打つ度に変わるそれが求める形になり、望み通りの強度を持ち、術を施し強い呪物へと仕上げた時の悦びは、女と交わり得るそれよりも遥かに強い。
だから、鉄を打つ。
それが頭部に生首を打ち付けられた木製巨像であるガブリエルにとって、たった一つの存在理由だった。
あの男は無謀にも、フォーク一本で二匹の豚鬼に襲い掛かった。勿論返り討ちにされたが、フォーク一本で豚鬼の一匹を殺してしまった。無謀ではあるが、男の行動が無意味だった訳ではない。
肩と背中を深く斬り付けられ、死に向かうその時、男はガブリエルを見詰めながら「戦え」と告げた。戦うこと、抗うこと、それはガブリエルがそれまで一度も考えたことがなかったことだった。戦ったとしても何も変わらないと自ら決め付け、戦う前から諦めていた。
豚鬼は粗雑で凶暴だ。歯向かう相手には容赦などしない。それをよく知っているからこそ、彼は常に従順でいた。
その言葉から逃げるかのように、男に背を向ける。その瞬間、ふと思った。自分は豚鬼どもよりも遥かに巨大であり、最下層の屑鉄を打つことすらあるその腕力は、連中と比べるべくもないだろう。
『ならば、どうしてこの屑どもに屈する必要があるのだろうか』
だが歯向かえば、今までのように殴られる蹴られるだけではすまない。手斧で斬り付けられるだろうし、たとえ目の前の豚鬼どもを片付けたとしても、仲間を殺されたと知った他の豚鬼どもが次々にこの鍛冶場へとやってくるはずだ。
何匹いるのかすら分からない、そんな豚鬼どもとたった独りで争うなんて、自殺行為以外何物でもない。
「戦えっ……!」
次の瞬間、背中越しに届いた鋭い叫び。思わず振り返り男の眼を見詰めた。その眼には強固な意志が秘められているように感じた。
それは『立ち向かわなければ何も変わらない』と告げているように思えた。
男の眼に煽られたかのように、自分の意思や打算に関係なく、ゆっくりと、黒く煤けたその巨大な拳を振り上げる。それを振り下ろした瞬間、間違いなく目の前の何かが変わる。それが齎す結果は、もしかすると己が破滅かもしれない。
それでも――
ガブリエルはその巨大な拳を、意識を失った男を蹴りつける豚鬼の背中目掛けて振り下ろした。
思っていたよりもあっさりと、彼の怪力の前に豚鬼の身体は吹き飛び、岩窟の壁に叩き付けられ、まるで巨大な竜の鉤爪で殴られた生物の残骸のような肉塊と化した。
その瞬間、確かにガブリエルは自らの意思で、己が運命を切り開いた。
ベッドで静かな寝息を立てる男に、ガブリエルは不審げな視線を向ける。
ガブリエルには、男が受けた傷が致命傷のように見えた。背中に受けた傷は肺に達しており、肩の傷も鎖骨を砕き動脈を切り裂いていたが、それでも男は生きていた。
放っておく訳にもいかず、無理矢理に傷を縫合した。それから数日が過ぎた頃には、傷からの出血が止まった。傷を確認してみると、それぞれに薄い膜が張り、回復しているのが分かった。
だがガブリエルには、少なくともこの男が自分と同じような魔法により創られた生物には見えなかった。ガブリエルの知る魔術の知識の中には、こんな人間そのものと思えるような魔法生物を創り出すほどの技術は存在しなかった。
勿論、彼よりも遥かに高い技術を持つ魔術師ならば、もしかすると可能なのかもしれないが、それにしてもこの男の存在はあまりにも自然すぎる。
魔法により創り出された生物は、例えばガブリエルがそうであるように、極めて不自然な外見となることがほとんどだ。
ガブリエルは人間の頭を木製巨像に打ち付けられた特異な外見をしている。それは人面獅子と同じように、幾つかの物体(生物)を魔法により強制的に結合しているからだ。
複数の物体を合成したそれらを総じて、複合生物という。
もしもこの男が複合生物だとしたら、その外見に生物としては極めて不自然な部分があるはずだ。最下層の屑鉄で打った戦斧を振り回すという怪力や、致命傷を受けても死なない回復力はともかくとして、その外見からは少なくとも複合生物であるとは考えられない。
だとすれば、考えられるのは人造人間だろう。複数の物体を魔法により合成したのではなく、何者かがその存在そのものを魔法により創りだしたのだ。この男の場合、こちらだと考えた方が理に適っているだろう。
かといって、人造人間だと断言することはできない。それは現状の魔法技術で創り出すことができる人造人間は手のひらほどの大きさでしかなく、その思考能力は犬や猫よりも遥かに劣る程度のものだからだ。
つまり、あらゆる意味合いでこの男の存在は不可解であり、ガブリエルにとっては興味が尽きない存在だった。
だが、今はこの男に構っている場合ではない。そんな悠長なことをやっている場合ではないのだ。
こういう時、痛みを感じることのない体は便利だ。豚鬼どもに作らされた、最下層の屑鉄で作った鎧を打ち直し、それらを己の巨体に鉄杭で打ちつけ、特に頭部はブ厚い兜で覆い隠した。
たったの数日でその姿は、ずた袋を被った木製の巨像から鈍色の鋼鉄を纏った巨兵へと、大きく変わっていた。
そしてその手には、男の戦斧に劣らないほど巨大な鉄槌が握られている。
その無骨な兜の額には、髑髏を象った紋章が刻まれていた。それは、これから押し寄せてくるであろう豚鬼どもに対し「死」を撒き散らしてやるというガブリエルの決意表明だった。
男がもたらした結果に対して、今更不満なんぞありはしない。自分自身の結末を誰かに委ねることの無意味さなら、これまでの長い時間で十分に思い知った。
逃げても何も変わりはしない。
静かな寝息を立てる男の枕元に、豚鬼の鎧を仕立て直したそれを置き、戦斧を立て掛ける。もしもこの男が目覚めるのだとしたら、きっとこれらが必要になるはずだ。
唐突に、岩窟に鉄を叩くような打撃音が轟いた。どうやら豚鬼どもがやってきたらしい。
ガブリエルは巨大な鉄槌を持ち、ゆっくりと立ち上がる。
無骨な兜の奥に光るその眼に、以前のような弱さは欠片も存在していなかった。