抗う
「誰かたすけて!」
脳裏にあの女の悲鳴が響いた。全身を駆け巡る強烈な痛みと仄暗い快楽に男の意識は唐突に覚醒し、小さく呻きながら身を起こした。瞬間、頭頂部の裂傷と背中の刺し傷が激しく痛み、身体を丸めて蹲る。
岩窟で意識を失ったはずだが、どうやら粗末な作りのベッドに寝かされていたらしい。粗かった岩肌は多少整えられている。二間四方ほどの広さの小部屋だ。
そっと触れてみると傷口は縫われ、薄汚れた布で保護してあり、一応ながらも傷の手当てはしてあるようだ。
小さなランプが心許ない灯りで周囲を赤く照らしている。
あの巨大な戦斧はベッド横に無造作に置かれ、サイドテーブルには茹でた大豆が一皿と二切れのパン、そして乾燥肉が置かれている。ふと、大豆からはまだ湯気が立ち上っていることに気付いた。
手当てをしておいて今更殺すこともあるまいと、男はパンを手に取り齧る。その瞬間に感じた味を男は死ぬまで忘れないだろう。周囲を見渡せば牢獄のようなあの岩窟であることは間違いない。そこで与えられた食事がまともなものであることもまずないだろう。だがそこで与えられた硬く乾燥し切った一切れのパンの味は、山のように積み上げられた黄金を対価として払う価値があると思えるほどに美味かった。
次の瞬間にはサイドテーブルに置かれた粗末な食事を貪り食っていた。自分の頬を涙が伝っているのが分かった。そしてそれは、相応の長い時間をあの暗闇に繋がれていたことを、身体が覚えているのだと理解した。
「くそっ、くそったれっ」
悲しみよりも悔しさで涙が止まらない。
どれだけのものを失ったのだろう。きっと時間だけではないはずだ。ただそれらを思い出せずにいるのは、ある意味で幸福なのだと男は知っていた。
「元気ニナッタ」
不意に掛けられた硬い言葉に、男の身体が強張る。気配を感じることについては並の戦士よりも長けているはずだというのに、全くそれを感じることができなかった。
思わず身を翻し戦斧に手を伸ばす。まだ傷は激しく痛むが、ここがどこなのかも分からない現状、呑気に食事をしている場合ではないことは確かだったはずだ。
ランプの小さな灯りに照らし出されたそれを見上げ、男は言葉を失った。それは麻のずた袋を被った巨人だった。あの牛頭の魔人よりも更に頭一つ分も大きい。それが狭い岩窟で身を屈めながら男を覗き込んでいたのだ。
ふと、男にはなぜこんな巨人の気配を感じ損ねたのかが分かった。それが人間ではなくとも、生物ならば感じることは容易かっただろう。だがこの巨人は人間ではない。その巨体を動かす度に小さく軋む。どうみても、それは幾つもの太い木材で組み上げられてあった。
「もしかして、木製巨像なのか」
「違ウ」
巨像とは高位の付与魔術師により創られた魔力によって動く巨大な人形であり、その材質によって様々な特徴を持つ。代表的なものでも、戦闘に特化した鉄製、力が強く土木工事等にも利用される石製、そして軽い為に小さく作られることが多い木製などがあるが、その性質上ここまで巨大な木製の巨像には用途が少なく、まず創られることがない。
だが、この目の前にいる木で組まれた巨人は、厳密な意味合いでは木製巨像ではないだろう。基本的に巨像には主人の命令を実行する以外、それ単体には意思というものがなく、自発的に行動することはない。例え高度な魔術であれ所詮は魔力により仮初の命を与えられただけの人形でしかない。
だがこの木で組まれた巨人には、少なくとも意思がある。その時点でこれは木製巨像という範疇にはないだろう。
「確かに会話をしているな」
「理解早イ、オ前、頭良イ」
「じゃあその頭がいい俺に教えてくれないか。お前は何なんだ」
男は手を伸ばした戦斧を握り締める。こいつからは敵意こそ感じられないが、ここはまだあの岩窟と考えて間違いない。ならば安易に信じることはできない。
「俺、付与魔術師。名前、ガブリエル」
何とも突拍子のないことを言う奴だと男は思った。このずた袋を被った片言でしか話さない木の巨人が付与魔術師だと、どうして信じることができるだろうか。
「お前のどこをどう見たら付与魔術師に見えるってんだ」
「皆、ソウ言ウ」
硬い言葉が、どこか哀しげな色を帯びる。どうやら意思や感情があることには間違いないらしい。
「お前が手当てしてくれたのか」
「俺大キイ、オ前小サイ、縫ウ、トテモ難シイ」
多少乱雑ではあるものの、確かに傷口は縫われていた。戦士としての経験が長い男から見ても、その処置は的確なものだった。それをこのガブリエルという木の巨人がやったという。信じ難いことだがこいつの言葉の真偽を考えたところでそこに大きな意味はない。
もしも真実だとすれば、この木の巨人が付与魔術師だという言葉もあながち嘘ではないだろうと思えた。
魔力を付与するというその性質上、付与魔術師は魔術だけではなく錬金術や鍛冶、細工等の技術にも精通している必要がある為、手先の器用さは最低限必要な才能の一つだといえるからだ。
「ソノ斧、奥ノ牛頭ニ俺ガ打ッタ」
「この戦斧、お前が作ったのか」
「牛頭ハ馬鹿デ怪力、ダカラソレ、トテモ重イ斧。オ前モ怪力デ馬鹿ナノカ」
「誰が怪力馬鹿だ」
そうはいうものの、確かにこの戦斧の大きさは通常のそれの軽く倍はある。だがその重さは大きさに比例してはおらず、遥かに重い。この男はそれを片手で振り回すのだから、怪力馬鹿と呼ばれても否定はできない。
「つまり、この戦斧は呪物ということか」
「付与シテナイ。最下層ノ屑鉄デ打ッタダケ」
「最下層ってのはどこだ。牛頭がいた辺りのことか」
「違ウ、モット下ダ」
会話にはなっているものの、どうにも意思の疎通ができているとは言い難い。ガブリエルの発音はかなり硬く特徴的で、しかも言葉は片言が多い。その上、頭がずた袋に隠されている為に表情も分からない。
どちらにしてもこの戦斧は呪物ではないらしい。それが知れただけでも大きな収穫だ。呪物はその魔術の発現に何かしらの対価を求める。それが人間の身に耐えられる程度のものであればいいが、そうでない場合がほとんどだ。
付与魔術師によって付与された魔力の根源は悪魔であり、付与魔術とは対象物と悪魔を一部同調させる簡易契約のことを差す。そうして作成された品物を総じて呪物という。
もしもこの戦斧が呪物であった場合、何かの切っ掛けでその魔力が発現する可能性があった。そして、もし求められる対価に耐えられなければ、男は死んでいたということだ。
少なくとも、ガブリエルが自分に対して危害を加えることはなさそうだ。男は小さく溜息を吐くと、戦斧から手を離した。
「それで、ここは何処なんだ」
「ココハ墓ノ山ダ」
「確か俺が殺した死霊術師もそんなことを言っていたな」
「俺、ズットココニ居ル。ヨク知ラナイ」
どうやらこいつも長くこの岩窟に閉じ込められているクチらしい。その哀しげな色を帯びた言葉からは諦観すらも感じられる。
「俺はどれくらい眠っていたんだ」
「分カラナイ」
昼も夜もない、こんな暗い岩窟の奥深くでは無理もないことだ。男自身も時間の感覚は既に失っている。それを生物かどうかも怪しい、この片言で話す木の巨人に望むのはあまりに酷なことだろう。
ただ、結果としてここが何処なのか、それすらも曖昧なままだ。墓の山なんて抽象的な名称だけでは何も分かりはしない。
だが、その名称ならば死霊術師がいたことは理解できる。奴らの側には好む好まざるに係わらず、常に死体が転がっているものだからだ。
同時に、ここから先にも死霊が彷徨っているであろうことも明白だった。
「お前と同じように、ここに捕まっている女について、何か知らないか」
「女、沢山捕マッテイル」
「どれくらい捕まっているんだ」
「分カラナイ」
どうにも要領を得ない。こいつにこれ以上のことを求めても仕方がないだろう。こいつもまた、男と同じ立場なのだろうから。
どちらにしてもあまりゆっくりもしていられない。牛頭と死霊術師を既に殺している。ここが何者かの支配下、管理下にあるのだとしたら、それらを知られるのも時間の問題であるはずだ。
ただでさえ意識を失い、長い時間を無駄にしていたのだ。本気でこの岩窟から逃げ出そうと考えるのならば、ゆっくり傷を癒している暇など在りはしない。
「傷を塞いでくれたことには礼を言う。だがゆっくりもしていられない」
「無理ハスルナ。頭ノ傷、トテモ深イ」
「だが、」
「オ前、斧ヲ持ツ、辛イ」
「俺は牛頭と死霊術師の小男を殺ったんだ。ゆっくりしてる余裕なんざねぇよ」
「連中ココ、来ナイ」
「どういう意味だ、それ」
ガブリエルによると、付与魔術師ではあるがこんな姿形をしているため、彼の仕事場であるこの場所へ連中がやってくることはまずないらしい。
だが、男にひとつの疑問が沸く。
「お前の言う『連中』ってのは、いったい誰のことなんだ」
「上ノ奴ラノコト」
「だから、その上の奴らってのは何だ」
「分カラナイ」
男は溜息を吐き眉を顰めながら、思案げに暗闇を睨む。きっとガブリエル自身も理解していないのだろう。人間の手によって仮初の命を付与され創られた、一種の魔法生物にすぎないであろう彼にこれ以上の答えを期待することが間違っている。
人間が不完全である以上、人間によって創られたガブリエルが、創造主である人間よりも完全な生物であるはずがない。
いや、たとえ完全な生物を作り上げることができるとしても、己よりも完全な生物の創造はしないだろう。
人間としての愚かな誇りと、その己が不完全さゆえに。
不意に、岩窟に金属を叩いたような音と、どこか獣じみた、鼻を鳴らすような甲高い奇声が幾つも響く。男は以前どこかで、その甲高い奇声を聞いたことがあるように感じた。
ふと、脳裏に猪のような顔した醜い怪物の姿が浮かんだ。確か豚鬼という名だったはずだ。奴ら豚鬼は群れで動き、女は犯し男は殺したはずだ。己の欲求を果たすことしか考えていない、そういう連中だ。
男の眼が刃のように鋭く尖り、脇へと置いた戦斧にもう一度手を伸ばす。
「大丈夫ダ」
「何を言っている、あの奇声は豚鬼だろうが」
「奴ラ、武器、取リニキタダケ」
ガブリエルは殺気立つ男をその巨大な手で制すると、身体を軋ませながら部屋から出て行った。
考えてみればガブリエルは付与魔術師であり、この巨大な斧を打った鍛冶師でもあるのだから、それらを打っていてもおかしくはない。
それなら豚鬼にそれらを渡している理由も理解できる。ガブリエルは男と同じように、ここに閉じ込められ、長い年月を過ごしてきた。それは彼が魔法生物であるという点だけではなく、きっと付与魔術や鍛冶、細工等に秀でているからでもあるのだろう。
そしてここで彼にそれらを作らせ、それを搾取しているのだ。
その時、岩窟に何かが軋むような音と打撃音が響いた。そして厭らしい色に染まった豚鬼どもの下品な嗤い声が轟く。そしてガブリエルが漏らした、小さな呻きが男の耳に届いた。それは確かに、苦悩苦悶に満ちていた。
打撃音が響くたびに、豚鬼が嗤う。時折聞こえるガブリエルの小さな悲鳴は、ただひたすらそれらに耐えていることを男に伝えた。
どうして耐えているのか。痛みを感じるのかどうかは別としても、あの巨体なら豚鬼を叩き潰せるくらいの力はあるはずだ。
その理由のひとつは分かっていた。それは間違いなく、男がここにいるからだろう。
男の眼が鋭く尖る。脇に置いていた巨大な戦斧を握ると、身体の具合を確かめるかのように強く握り締めた。
命を助けられた恩、一宿一飯の恩、世界で一番美味い飯を食わせてもらった恩、理由なんざどれでもいい。
何よりも、豚鬼どもの耳障りな声は聞くに堪えない。ああいう下衆は潰すに限る。
戦斧に手を伸ばし力を込めた瞬間、背中の傷口が激しく痛んだ。さすがにこの状態でこの巨大な戦斧は肩に担ぐことすら難しそうだ。
その時、男の目にサイドテーブルの上に置かれた料理が映る。男は皿の横に転がるフォークを手に取ると、口元を歪めた。
男は身を屈めながら、小部屋から岩窟へ顔を覗かせる。部屋から左右に岩窟は延びていた。その右から豚鬼の奇声とガブリエルの呻きが聞こえた。右の岩窟は先で更に右へ直角に曲がっている。
角の先からの松明の灯りに照らされ、幾つかの歪な影が岩窟の壁に蠢いていた。男は息を潜ませながらそちらへと歩を進める。
牛頭の魔人ほどではないにしろ、豚鬼はその体格は成人男性よりも一回りは大きく、力もそれに比して強い。ここが錬金術師であり鍛冶師でもあるガブリエルの住処であり、ガブリエルの言葉の通りここへ武器を取りに来たのだとすれば、連中は相応の武装をしていると考えたほうがよい。
自身の記憶がほとんどなくとも、身体が戦い方を覚えている。そして武器を持つ力もなく、鎧どころか腰布だけの状態で、奴らと正面から戦うのは無謀を通り越して自殺行為に過ぎない。
なら、どう戦うのか。
もっとも安全な手段はガブリエルを放置して逃げることだ。逃げることもまた、戦うことに他ならないからだ。だが、恩義がある以上、この手段はあり得ない。
ならば奇襲する以外に方法はない。
こんな時に腰布だけで靴すらない状態が役に立った。決して隠密行動を得意としていない男でも、気配を消し音を立てずに歩くことができる。
様子を見ようと、角から顔を覗かせたその瞬間、眼に飛び込んできた光景に男の顔が強張った。それは豚鬼の醜さやガブリエルへの暴力の酷さに対する驚愕ではない。
それはあまりにも非現実的な光景だった。
ガブリエルが頭に被っていたズタ袋が、薄汚れた革鎧を纏った二匹の豚鬼によって奪われ、ガブリエルの頭部が晒されていた。
ガブリエルの頭部は、端正な顔つきの若い青年のものだった。それは木製の巨体にはあまりにも不釣合いで、端正な顔であるが故に薄気味悪く、強い嫌悪感すらも抱かせた。
次の瞬間、男の頭の中で何かが音を立てて切れた。強烈な怒りが焔の色に思考を染め上げていく。
「くそったれが、叩き殺してやる!」
男は怒声を上げながら豚鬼どもに襲い掛かった。
直前まで組み立てていた奇襲という安全な筋書きのことなんぞ全て消し飛んでいた。手にはフォークしかない。それでも、どうしても怒りを抑えることができなかった。
ズタ袋を奪われたガブリエルは無表情だった。当たり前だ。ガブリエルの頭は、木製の巨体の上に数本の杭で無理矢理に繋げられているだけだ。それはガブリエルの創作者がまるで彼を憎んでいるかのように見えるほど、酷く乱雑な扱いだった。
だが、無表情であるはずの彼の目からは、大粒の涙が流れていた。
自分を善人だとは思わない。むしろこんな岩窟の最奥に幽閉されていたような人間だ。悪党にに決まっている。屑に決まっている。
だがそれでも、許せることと許せないことがある。そして豚鬼どものガブリエルに対するこの行為を、男はどうしても許すことができなかった。
苦しいに決まっている。
哀しいに決まっている。
そして、憎いに決まっている。
男の怒声の驚き振り向いた豚鬼の頭に、男は渾身の力を込めてフォークを振り下ろす。刹那、鈍い音が岩窟に響き、フォークはその半ばまで豚鬼の頭頂部に突き刺さっていた。
豚鬼は「ギヒッ」という妙な悲鳴を上げその場に転がる。その身体は小さく痙攣していた。強引に引き抜いたフォークが半ばから折れていた。
「がっ……」
次の瞬間、背中に激痛が走った。もう一匹の豚鬼が腰に下げていた手斧を背後から振り下ろしたのだ。背中からどろりとしたものが溢れるのが分かった。意識が朦朧とし、全身から力が抜け思わず膝をついた。
如何に男が歴戦の戦士であれ、ただでさえ酷い手傷を負っていたその上で更にこの一撃は致命傷に近かった。
立ち上がろうと歯を食い縛るが、豚鬼の手斧がもう一度振り下ろされ、それは男の右肩に叩き込まれた。
それは激痛というよりも、もはや鈍痛に近かった。
「くそったれっ……」
男は小さく呻きながら倒れこむ。その男の頭を、豚鬼が踏みつけた。頭が小さく軋む音を男は確かに聞いた。
呆然とした視界の中に、苦悩の前に座り込み頭を抱えるガブリエルが見えた。ふと、ガブリエルと視線が重なる。彼は逃げるかのように視線を逸らすと、男に背を向けその巨体が小さく震え始めた。
「たたかえ……」
男の口から、小さな言葉が漏れる。その小さな言葉はガブリエルの耳に届いたのか、彼は眼を見開きながら男を見る。
「たた、かえ、たたかうん、だ……」
ガブリエルの眼には苦悩が満ちていた。その眼は、自分の存在理由すらも分からないと告げていた。こんな姿にされ、幽閉され、虐げられ、ただひたすら鉄を打つ日々。そんな生に何の意味が、価値があるだろうか。
自分の頭が、鈍く嫌な音を立てたような気がした。意識が遠くなっていく。男は最後の力を振り絞り、短く叫んだ。
「戦えっ……!」
その言葉に反応するかのように、ガブリエルは巨体を震わせると男の眼をじっと見る。
逃げたところで何も変わりはしない。立ち向かわなければこれからも虐げられる。奪われ続ける。
こんな薄暗い岩窟で、ただ延々と。
意味、意義、存在価値、そんな御託はどうでもいい。
それでも、
「たた、か、え……」
男の眼を見つめるガブリエルの眼の色が変わっていく。
暗転していく意識の中、男は豚鬼の背後で、巨大な拳を振り上げるガブリエルの姿を見た。その眼は強い焔の色に染まっていた。