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side story  作者: 夜音沙月
41/43

桜がみせるは雪の……

 その手は温かくて

 知っているけれど

 求めたぬくもりではなくて

 相手を哀しませるし 迷惑をかけると

 それが判っていたから 言えなかった言葉

 そっと抱えこんだ 心の奥に隠した孤独


《桜がみせるは雪の……》


 長い冬が過ぎて、桜の季節がやってくる。

 桜が咲くと、アヤは必ず小さな丘がある草原の桜並木へ足を運んだ。

 満開になった桜の花は、風が吹く度に揺られて、はらりはらりと花びらを散らす。

 ひらひらと宙を舞う、薄く色づいた桜の花びらは、一つ前の季節を連想させる。雪と違うのは、地面に落ちてもすぐに消えないことと、氷のような冷たさがないことだろう。

 桜並木の中を歩くアヤは、宙を舞う桜の花びらを見て心の中で呟いた。

 まるで、雪みたいだ。

 そんなことを思ったからか、頭の中に雪が降った日の記憶が浮かんできた。

 今も気を抜けば体調を崩すが、小さい頃は冬に一回は寝込んでいた。熱を出したアヤに、周りの大人達は優しくしてくれた。心配してくれたし、大切にしてくれていた。それでも、心にぽっかり穴が開いたように、淋しさを感じていた。

 心が揺れる。思い出すのは、雪が降る日。

 晴れていた空に、薄暗い雲が広がる。然程時をおかずに、ぽつりぽつりと空から雫が落ちてくる。

 ゆっくりと降り出した雨は、すぐに本降りとなった。

 アヤはぼんやりと桜並木の途中で立ち尽くしたままだった。

 冷たい雨が身体に降り注ぐ。

 そんなことが気にならない程、アヤは過去の記憶へと思考を飛ばしていた。

 あの日も、今みたいにどんよりとした空模様だった。違うのは、雪が降っていたことだろう。

 なんとなく、朝から調子が悪い気がしていた。今はそれが悪化したようで、身体は重いし、頭もうまく働かない。立っているのがやっとで、思うように身体を動かせない。

 何かがおかしい。

 そう思うのに、何がおかしいのかが判らない。判らなければ、手は打てない。だから、アヤは流されるまま身を任せるしかなかった。それをしてはいけないと、頭の片隅で思いながら。

 そういえば、前にもそんなことがあったな、と数年前のことを思い出す。

 その時は冬で、ちょうど雪が降っていた日だった。

 朝から体調が悪かったのに、学校の裏庭をふらふらと歩いていた。いないと判りきっている存在を求めて、心が思うままに彷徨った。

 歩を止めて、ふと空を見上げると、どんよりとした薄暗い雲が広がっていた。暗い空を見た時、アヤは嫌な記憶を思い出した。

 そこから先のことは、ぼんやりとしか覚えていない。

 保健室で目を覚ましたアヤに、魔力を暴走させて倒れたのだと付き添っていたハルルが伝えた。それを聞いたアヤは、なんとなくそんな感じがしていたのもあって、すんなりと納得した。

 今の状態は、あの時の感覚に似ている。

 アヤがぼんやりとそんなことを思っていると、更に雨足が強くなった。

 それとほぼ同時に、うっすらと青白い光を纏っていたアヤの身体の光が強くなる。

 それは制御を失った魔力が更に暴走したことを表していたが、それに気付ける者は誰もいない。

 魔術師の魔力が暴走すると、その術者が得意とする系統に影響が出る。

 アヤは、常々周囲の人達に治癒を含める光系統の魔術が得意だと伝えている。しかし、実際に影響が出ているのは雨――水系統の魔術だった。アヤが本当に得意とするのが、水系統である証拠だ。心を許しているタクトやハルルには、本当のことを伝えているため、二人が見ても驚くことはないだろう。

 数年前にアヤの魔力が暴走した時は、雪を降らせた。そして今回は、雨を呼んだ。

 自覚のない暴走は、収まることはなく力を増す一方だった。このままでは、術者であるアヤが倒れるまで暴走が続く。

 そう思われた時だった。

 アヤの右手に、温かいものが触れる。

 冷え切った右手に熱を感じるや否や、今度は頭上から穏やかで優しい声が届く。


「アヤ」


 名前を呼ばれた。

 いつも迷子になったアヤを、現実の世界に連れ戻してくれる、落ちついた声で。

 その声の主は、アヤの左手もそっと握る。


「こんなに冷えちゃって。一緒に戻ろう?」


 続けられた言葉は優しいもので、アヤの心にゆっくりと染み渡る。

 焦りでも驚きでもない落ちついた態度。その穏やかさが、夢と現の狭間にいるアヤを現実へと引き戻す。


「タ、クト……」


 アヤの両手をそっと包み込む相手の名前を呟く。


「うん」


 ゆっくりと顔を上げると、目の前で穏やかに微笑むタクトが立っていた。


「迎えに来たよ」


 そう言って、タクトはアヤを優しく抱きしめる。

 帰る場所がある。

 迎えに来てくれる人がいる。

 一人じゃないという安心感を抱いたら、もう無理をしなくていいんだと思えた。

 目の前に信頼している人がいる。だから、もう大丈夫。そう思ったら、ぴんと張っていた糸が切れるように、ふっと意識が遠のいた。

 アヤが意識を失い、その場で頽れそうになる。

 タクトはそれが判っていたのか、アヤを抱きしめる腕に力をこめ、倒れないように支えた。


「もう、心配したんだよ」


 タクトの呟きは、アヤに届くことなく消える。

 腕の中にいるアヤを横抱きにすると、タクトは転移魔術で城へと移動した。




 城に到着すると、タクトはアヤと親しい使用人のルディシアに声をかけた。雨に打たれて濡れてしまったアヤの着替えを依頼し、タクトも濡れた服を交換する。

 ルディシアから着替えが終了したことを聞くと、アヤの部屋へ向かう。

 部屋に入ると、アヤは寝間着に着替えさせられてベッドの上で眠っていた。

 少しだけ早い呼吸。閉じられた目には力が入っているようで、苦しそうな表情を浮かべている。

 そっとアヤの額に手を当てると、予想通り熱をもっていた。

 タクトが熱を出したアヤの世話をしていると、アヤの部屋に母親であるティファナが入ってくる。


「ファナさん」

「ルディシアから、アヤが熱を出してるって聞いたから心配になってね」


 ティファナは、困ったような苦い笑みを浮かべながら言った。そして、眠るアヤの傍に椅子を置いて座る。

 それを見たタクトは、自分がここにいると邪魔になるだろうと思い、退室することにした。


「ファナさん。あとは頼んでもいいですか?」

「ええ。ありがとう」


 タクトの気遣いを悟ったティファナは、お礼を言うだけに留めた。

 視線の先で眠るアヤは、熱に魘されているようで辛そうな表情を浮かべている。少しでも楽になってほしいと願いを込めて、手を伸ばす。

 触れた額は熱く、かなりの高熱であることが窺えた。

 朝にも顔を合わせていたのに、倒れるまでアヤの調子が悪いことに気付けなかったことが悔やまれる。

 後悔したところで何も得られない。ならば、今できることをしようとアヤの隣で様子を見る。

 そうして思い出したのは、十年以上も前のことだった。冬になると熱を出すアヤの傍で看病していたのが随分前のことのように感じられた。ティファナがアクマに捕らわれてから、アヤは淋しい思いをしなかっただろうか。

 ティファナがそんなことを思う横で、アヤは過去に辛い思いをした時の夢を見ていた。




 雪が降るほど寒い冬の日。

 アヤは熱を出して寝込んでいた。

 養い親が、学校の小学部の担任へ連絡してくれたため、午前中はずっと眠っていた。

 寝ている間、小学部へ上がる前の夢を見ていた気がする。夢の中でも、アヤは熱を出していた。違ったのは、傍に優しいぬくもりがあったことだろう。

 眠りから覚める一歩手前。瞼は重いが、意識だけ浮上する。

 その時、優しく額に触れる手があることに気付いた。それと同時に、心に影がさす。

 この手じゃない。

 これじゃない。

 コレジャナイ。

 嬉しいのに、拭えない違和感。求めていることではあるけれど、心は違うと声をあげる。

 アヤを心配している手で、大切にしてくれている手だと頭では判っているのに、心が否定している。

 本当に求めているのは、今アヤの傍にいてくれている人の手ではないと判っていた。

 両親を失ったアヤを預かってくれた人達に悪いと思いながら、望んだのは本当の母親の存在だった。

 幼い頃に行方知れずになってしまった母親。会えない人のぬくもりを求めても、手に入らないのは判りきっている。それでも、願わずにはいられない。

 たった一言、声に出したい言葉がある。けれど、それを言ってはいけない。

 学校で、クラスメイトが口にする『お母さん』は本当の母親で、アヤが言う『お母さん』は養い親であることが多い。本当は、アヤも同じ存在で呼びたいのに。

 小学部の割に賢かったアヤは、周囲の空気を読むのも妙に長けていた。そのせいで、本音を隠してしまうことが多くなっていることに、本人は気付かない。だから、今回も一人静かに傷を負う。

 アヤが本当の母親を求めて『お母さん』と声にしたら、いつも傍にいてくれる大人達を困らせてしまう。

 呼んではいけない。

 せっかく優しくしてくれているのに。いつも大切にしてくれている人を傷つけるだけだから。

 求めてはいけない。

 いくら望んでも、願っても、手を伸ばしても届かないと知っているから。

 淋しいけれど嘘をついて。

 哀しいけれど誤魔化して。

 渦巻く負の感情に、そっと蓋をする。

 本音を言ったところで、誰も得をしない。それどころか、傍にいてくれる人達を傷つけるし、困らせるだけだと判りきっている。アヤが一人で抱え込んでしまえば、周りの大人達に迷惑をかけずに済む。だから、アヤは本音を隠す。

 元気になったら、ここまで気にしなくなるから。そうしたら、いつものように笑えるから。

 そう心で呟きながら、アヤは眠るふりをして布団にもぐった。

 まだ小学部に通うアヤが、本当の母親の存在を求めたところで責める人はいない。それでも、アヤは弱音を吐かない。

 本人も自覚してはいない、本当は甘え方を知らないだけだということを、養い親ですら判っていなかった。

 それから毎年同じような葛藤を繰り返した。

 とうとう耐えられなくなったのは、二年前。アヤが高学部に上がった年の冬だった。

 その日、アヤは熱を出していた。いないと判りきっている存在を求めて学校の裏庭を歩いた。淋しさと哀しさ、孤独を感じたアヤは、魔力を暴走させて雪を降らせた。魔力を使い果たして倒れたアヤを保健室まで運んだのは、担任でもありアヤの親友でもあったハルルだった。

 目を覚まして視界に入ったのは、白い天井。薬品の匂いが漂う部屋に、アヤは保健室のベッドで寝ていたことを知る。


「よかった。気が付いたんだね」


 そう声をかけてベッドで横になるアヤの元へやってきたのは、養護教諭ではなかった。教師の中では心を許している存在のハルルだった。


「大丈夫?」


 ハルルはアヤの隣にある椅子に腰をかけると、裏庭で見たことを話す。

 裏庭で空を見上げてからの記憶が抜けているアヤは、ハルルの話で魔力を暴走させてしまったことを知った。

 熱による怠さの他に感じた不快感は、そのせいだたのかと納得する。

 魔術師の魔力が減ると、眠気や怠さなどが襲ってくる。それは、魔力が底に尽きそうになっていることを身体が伝えてくれているからだが、使い切ってしまうと意識を失う。睡眠や休息をとれば回復するが、魔力の消耗が激しいと戻るまでにかなりの時間がかかる。アヤも魔力を暴走させて使い切ってしまっていたため、少し眠っただけの今は、ほとんど魔力がないような状態だった。


「すごく、怠い……」

「無理もないよ。熱もあるし、さっきの暴走でほとんど魔力がないんだから」


 額に触れる手が心地よくて、思わず目を閉じる。


「今日はもう帰りな。家の人に連絡しといたから」

「……やだ」


 帰りたくない。

 今の家は確かに養い親のいる城だけれど、帰るのはそこじゃない。どこにあるかも判らない、本当の家に行きたかった。


「……何か、あったの?」


 普段は物分かりの良いアヤが、珍しく否定した。ハルルは何か訳があるのだろうと思い、躊躇いつつもそっと声をかける。


「何もないよ」


 返ってきた言葉は、ハルルが予想した通りのものだった。

 それ以上の追及を避けるかのように、アヤはハルルに背を向けるように寝返りを打つ。


「本当に?」


 悪いと思いながらも再度尋ねる。

 これではぐらかされたら、諦めよう。ハルルはそう思っていた。


「……なんで」


 しかし、返ってきたのは小さな呟きだった。


「そっとしといてよ……」


 これ以上踏み込んでこないで。放っておいて。

 そうでもしてくれないと、自分を保てなくなる。そうなったら、相手を傷つけてしまう。だから、これ以上は何もしないで。

 アヤが心の中でそんなことを思っているとは露知らず、ハルルは引かれた線の先へ足を踏み入れる。


「放っておけないよ」


 熱も出ている。何かを抱え込んでいる様子もある。そんな弱ったアヤを放ってはおけはない。

 ハルルが望んでいるのは、親友という繋がり。本音を曝け出してもらえる関係だ。


「どうして」


 何で、突き放そうとしたのに追いかけてくるの。心の中に入ってくるの。自分を守るように引いた境界線を越えられたら、醜い感情が見えてしまうというのに。

 そう思ったのは一瞬で、何か言おうと口を開いていたハルルが声を発する前に、アヤは溜めこんでいたものを吐き出した。


「何で、一人にしてくれないの。どうして、そうやって踏み込んでくるの」


 一言呟いたら、止まらなかった。

 頭の中で思っていた言葉が、考えるより先に声となって零れていく。


「そっとしといてって言ったじゃん。なのに、何で……。今は誰にも会いたくないのに。帰っても辛いだけだから嫌なのに、どうしてそんなこと言うの。もうやだ。何で判ってくれないの。何で勝手なことばかりするの」


 苦しい。苦しい。嫌だ。

 こんなこと、言うつもりなんてなかったのに。全部、全部、熱のせいだ。頭が働かないのも、考えなしに心の裡を吐き出してしまうのも。

 心の奥の、知られたくなかった想いが言葉になって出ていく。最後の方なんてハルルに対する不満だ。

 苦しさと、申し訳なさと、いろいろな感情でごちゃまぜになったアヤは、最後には泣きながら言葉を紡いでいた。


「傷つけるのが判ってたから、言わないようにしてたのに……」


 その一言を聞いたハルルは、思わず目を見開いた。

 予想外の言葉に、何も言えなくなる。最後に呟かれる言葉が、他人を想うものだなんて誰が予想できただろう。大人ならまだしも、それを言ったのは、まだ十二歳の子供だ。

 あまりにも優しすぎるアヤに、やるせなさを感じる。


「……抱えすぎだよ」


 ハルルはぽつりと零すと、アヤの頭にそっと手を当てた。


「アヤちゃん、さっきはごめんね」


 不用意に踏み込んでしまったことを謝るが、返事はなかった。

 それでいい。無理に返されるより、聞いてくれていれば充分だった。


「今は、私だけしかいないから、全部吐き出しちゃっていいよ」


 ハルルがそう声をかけると、アヤは首を横に振った。


「無理にとは言わないけれど、アヤちゃんが辛い気持ちのままでいる方が嫌だな……」


 遠回しに、迷惑ではないと伝える。

 少しの沈黙の後、小さな声でアヤの本音が呟かれた。


「お母さんに、会いたい……」


 心の奥にしまってきた、ずっと言わないできた本音を声にする。そしたら、止まりかけていた涙が溢れてきた。

 アヤは静かに身体を震わせながら涙を流す。

 声を抑えながら泣くアヤを安心させるように、ハルルは優しく背中を叩く。

 暫く一定のリズムで触れていたら、抑えられた泣き声が静かな寝息へと変わった。


「おやすみ」


 せめて、眠っている時くらいは悪い夢を見ないでほしいと、そう願いながらハルルは静かに声をかけた。




 小学部に上がってから数年前までの、熱を出して寝込んでいた時の夢を見た。

 求めたぬくもりは絶対に手に入らないことが判っていて、淋しさと哀しさでいっぱいになって辛い思いをした。数年前なんて、親友のハルルに当たり散らしてしまった。それでもハルルは優しくて、アヤが次に目を覚ます時までずっと隣にいてくれた。

 少しだけ意識が浮上し、額に触れる手があることに気付く。

 まだ学校に上がる前の小さな頃に感じた、優しい手。小学部に入ってから去年までは、いくら求めても手に入らなかったぬくもり。

 目を開けて、その手を差し出してくれる人を確認したいのに、重い瞼はぴくりとも動かない。

 ずっと欲しかったものがすぐ傍にある。

 アヤのことを想って注がれる愛情。

 嬉しくて、幸せで、瞳の奥がじんわりと熱くなる。

 涙を見せたら、きっと誤解されてしまう。それに、泣き顔を見られたくない。そう思って、アヤはベッドの中央へ身体を向けるように寝返りを打った。

 アヤが動いた時に離れた手は、戻されることはない。遠ざかったぬくもりに、淋しさを感じる。

 先程まであった温かさが突然なくなり、不安が押し寄せる。

 嫌だったと思われた?

 もう、撫でてはくれないのかな。

 淋しい……。

 こんなことになるなら、動くんじゃなかった。

 嫌だ。嫌だ。嫌だ。

 昔みたいに失ってしまったら、もうどうしたらいいのか判らない。

 暗い感情が心を支配し始める。このまま気持ちが沈んでいくのなら、落ちつくまで耐えるしかない。

 そう思って顔に布団を引き寄せ、少しだけ身体を丸くする。そうすれば、ほんの少し淋しさが和らぐから。

 大丈夫。今までだって、ずっとそうしてきた。だから、今回も。

 このまままた眠ってしまおうと思っていると、頭に先程と同じ温かい手が触れた。


「……ぁ」


 驚いたアヤは、ぴくっと身体を震わせ、小さな声を漏らす。

 望んでいたぬくもりに安心する。

 心の中に広がった暗い気持ちが、さっと引いていくのが判った。

 もう、大丈夫。


「……起きてる?」


 アヤが反応したことに気付いたティファナは、遠慮がちに小さな声で尋ねる。

 声を出したくても、意識だけ浮上している状態では、頭が働くだけで何もできない。

 返事をしなかったら、また離れてしまうのだろうか。不安に思っていると、アヤの心を読んだかのように優しく囁かれる。


「大丈夫。ずっとここにいるから」


 そう言いながら、ティファナはアヤの頭を撫でる。


「ゆっくり休んで」


 傍にいてくれるなら、もう大丈夫。

 安心したら、浮上していた意識がぼんやりと溶け始めた。

 幸せを感じながら、そっと意識を手放す。

 アヤは再び眠りに落ちた。

 今度は、温かな記憶という夢を見る。




 幼い頃の記憶は酷く曖昧で、覚えているのは、頭を撫でてくれる手がとても温かくて優しいものだったことだけだった。

 熱を出して寝込む小さなアヤの傍で、ずっと離れずにいてくれたのは母親だった。

 忙しいはずなのに、傍にいてくれるのが嬉しくて。アヤはその優しさに甘えていた。

 ティファナは、額のタオルを交換したり、安心できるように手を握ってくれたり、アヤが苦しくないようにつきっきりで看病した。

 我慢をすることが多く、なかなか甘えられないでいたアヤは、ティファナがずっと傍にいてくれるこの時間が好きだった。身体は怠くて辛いけれど、普段は隠してしまう小さな我が儘を言うことができたから。


「おかあさん」

「どうしたの?」


 呼べばすぐに返ってくる優しい声。

 それが嬉しかった。


「どこか苦しい?」


 心配そうに尋ねられ、ゆるゆると首を横に降る。


「よかった。お水飲む?」


 頷くと、優しい手が伸びて、ゆっくりと身体を起こしてくれる。そして、後ろに倒れないように背中を支えながら、水を飲む手伝いをする。飲み終わると、布団に横になる手助けをしてくれる。

 何をするにも、アヤが辛くないように世話をしてくれていた。

 とろとろと眠りの世界へ歩き出せば、布団の上から心地好い強さで胸の辺りでリズムをとってくれる。際限なく与えられる愛情が嬉しい。そう思いながら、そのまま意識を手放した。

 その後も何度か意識だけ浮かんでくることがあったけれど、傍には必ず母親がいてくれた。

 ふわふわとした意識の中でも、額に添えられる手がひどく優しいものであることが感じられて、安心したのを覚えている。




 ふっと意識が浮上して感じたのは、夢と同じぬくもりだった。

 昼間にも、同じ手の温かさを感じた。

 失ってからずっと求めていたもの。

 昼間は嬉しくて、幸せで、身体の怠さもあってそのまま意識を飛ばしてしまった。

 ずっと傍にいてくれたのか、近くからほんのりとコーヒーの香りが届く。

 忙しいはずなのに。

 それだけ大切にされていたんだと知って、嬉しくなる。

 今なら、呼んでもいいだろうか。

 離れてから、体調を崩す度に求めたけれど、ずっとずっと言えなかった言葉。


「おかあ、さん……」


 アヤの小さな呼びかけに、ティファナは頭を撫でる手を止める。

 突然止まった手に、昼間と同じように不安が押し寄せる。

 怖くて目が開けられない。

 閉じる瞼にぎゅっと力を入れたら、優しい声が降ってきた。


「起こしちゃった?」


 声のした方に身体を向け、恐る恐る目を開ける。

 そこにあったのは、心配そうにアヤを見つめるティファナの顔だった。

 ただ驚かせてしまっただけだったのだと、そう思って安心する。

 ぼんやりしているアヤを心配し、ティファナは違う質問を投げる。


「どこか苦しい?」


 熱で身体は怠いけれど、苦しさはなかった。

 アヤが首を横に振って答える。


「よかった」


 ほっと胸をなでおろすティファナに、アヤは小さな声で尋ねた。


「ずっといてくれたの?」


 その質問は、アヤが昼間のことを知っているんだと思わせるものだった。

 ティファナがアヤの額に手を当てていた時、起きているように感じられることがあった。


「もしかして、昼間起きてたの?」

「ううん」


 またもやアヤは首を横に振って否定する。

 昼間は瞼が重く、起きることは敵わなかった。意識だけが外に向いている状態だった。

 その時感じたのは、つい先程までアヤの頭を撫でていた優しいぬくもりだった。


「ただ、お母さんのあったかい手だけは感じてたから」


 嬉しかったんだ。

 幸せすぎて、涙が流れてしまうくらいに。

 そう思ったら、自然と笑みがこぼれた。


「そうだったの」


 ティファナの呟きに、アヤは頷いて返す。

 幼い頃と似たような状況に嬉しくなるが、ふと心配事が頭を過る。

 熱に浮かされた頭は、思考することを放棄して、浮かんだ疑問をそのまま声に出していた。


「忙しく、ないの?」


 困ったように笑うティファナを見て、アヤは言わなければよかったと後悔した。


「忙しくないって言ったら嘘になっちゃうけれど、今はアヤの方が大切だもの。ずっと傍にいられなかったんだから、こういう時くらい心配させてよ」


 ティファナは、穏やかな声で言葉を紡ぐ。そして、言いながら優しい手つきでアヤの頭を撫でた。


「……っうん」


 嬉しくて、泣きそうになる。

 ずっとずっと諦めていた。

 望んでも、求めても、かすりもしないなら、いっそのこと諦めてしまえば辛くはなくなるから。そう思っていたけれど、心の奥ではずっと願っていた。

 黙っていたら涙を流してしまいそうな気がして、アヤはティファナに話しかける。


「寝てる時ね、昔の夢を見たよ」


 幸せだった記憶と、辛かった過去の記憶。

 アヤはゆっくりと言葉を紡ぐ。

 その間、ティファナは静かにアヤの話に耳を傾けていた。


「最初はね、哀しい夢だったの」


 いないと判りきっている存在を求めた夢は、淋しさと哀しさが多かった。

 あの頃は、迷惑をかけまいと本音を隠して生活していた。言わなかっただけで、アヤは常に淋しさを感じていた。


「昼間に、お母さんが頭を撫でてくれたのが判って安心したらね、優しい夢を見たよ」


 幼い頃の夢は、温かくて幸せなものだった。


「ずっとついててくれてありがとう」

「うん」


 もう、以前のように淋しさを感じることはない。

 ずっと求めていた人が、傍にいてくれる。それだけで、幸せを感じる。

 薄暗い雲が広がっていた心に日が差す。

 気が付けば、外の雨もやんでいた。

 明日になれば、体調も天気も少しは回復しているだろう。

 久しぶりに長めの話を書いた気がします(笑)

 桜の季節がやってきたので、今年こそは桜の話をと思ったのですが、桜要素の少ない話になりました。でも、書けたので満足しています。

 いつもならプロットを作って下書きをするのですが、今回は下書きをせずに書き始めてみました。以前の書き方に戻した感じです。下書きをすると楽ですが、同じような話を二回書くことになるので途中で飽きてしまうことがありました。今回は飽きることなく、途中で脱線しましたが、思うように書けたのですごく楽しかったです。特にアヤがハルルに本音を伝えるところは、脱線した部分でもありますが、楽しく書けました。

 今度から今回のような書き方に戻して執筆していこうかなと思います。楽しく書きたいので(笑)

 読んでくださった方、ありがとうございました。

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