「君の代わりはいる」と言われたので、代わりの方に引き継ぎました
「リディア。君には、この家を出てもらう」
夕食を終えたところで、夫のアルベルトはそう言った。その隣には、ここ半年ほど伯爵邸へ頻繁に顔を出していたアレクシアが座っている。
艶のある黒髪をきっちりと結い上げた、美しい令嬢だった。背筋はまっすぐ伸び、わずかに顎を上げてこちらを見る姿には、自分の能力に疑いを持ったことなど一度もないのだろうと思わせる気品がある。
「離縁の手続きはこちらで進める。最近の君は、使用人が足りないだの、予算を増やしてほしいだの、そんな話ばかりだっただろう。もう夫婦らしい会話すらない」
寝耳に水だった。それなのにリディアの頭へ最初に浮かんだのは、悲しみではなく、明日の朝は五時半に起きなくてもいいのだろうか、ということだった。
「……明日の厨房も、もう私が見なくていいの?」
「何の話だ?」
「料理人が一人休むの。あなたの明日の予定も二つ重なっているし、布商人への返事もまだだけれど、それも全部?」
アルベルトは面倒そうに眉を寄せた。
「当然だろう。もう家のことは君に任せない。これからはアレクシアがやる」
「では、あなたが予定を忘れても、急にお客様を呼んでも、お義母様が何の連絡もなくいらしても、もう私のせいではないのよね?」
「何を当たり前のことを言ってるんだ。離縁するんだから、君には関係ないだろう」
その瞬間、胸の奥でずっと張りつめていたものが緩んだ。
来客に失礼があれば、自分の準備不足。料理が遅れれば、自分の管理不足。アルベルトが予定を忘れれば、自分の確認不足。いつからか、家の中で起きることは何でも自分の責任なのだと思うようになっていた。
それが明日から、自分の責任ではなくなる。
「本当に、出ていっていいの?」
「何度言わせるんだ」
アルベルトは呆れたように笑った。
「君の代わりなんて、いくらでもいるんだから」
リディアは思わず口元を押さえた。泣きそうになったのではない。笑いそうになったのだ。
「何がおかしい」
「ごめんなさい。まだ、少し信じられなくて」
「強がる必要はないぞ。家のことは君に任せていたのに、何年経っても忙しい、人が足りないと泣き言ばかりだった。結局は君の力不足だったんだろう」
家令が辞めた時、リディアは後任を雇ってほしいと頼んだ。けれどアルベルトは、「今まで回っているのに、なぜ給金を増やす必要がある」と却下した。
会計係が辞めた時も、侍女長が辞めた時も同じだった。人を増やす許可は出ない。それでも仕事は残り、何とか回せば「ほら、できたじゃないか」、失敗すれば「君の努力不足だ」と言われた。
「私は領地経営で忙しいんだ。家のことまで私が考えなければならないなら、君に任せている意味がないだろう」
「でも、人を雇う許可をいただけなければ」
「金がかかるじゃないか。今いる人間で回す方法を考えるのが君の仕事だろう」
アルベルトは本気で言っている。責任は任せるが、金を使う権限は渡さない。そのおかしさを何度説明しても、最後には「私は忙しい」で終わった。
「私なら、もっと効率よくできると思いますわ」
それまで黙っていたアレクシアが、静かに口を開いた。
「失礼ながら、奥様は人へ任せることがお上手ではなかったのでしょう。伯爵夫人が何でも自分で抱え込む必要はありませんもの。私なら、今いる使用人を適切に動かしてみせますわ」
「そうかもしれませんね」
リディアが素直に答えると、アレクシアは少し拍子抜けしたようだった。
「では、三日だけ引き継ぎをさせてください」
「三日も必要なのか?」
「私も一日あれば十分だと思いますけれど」
アレクシアは自信たっぷりだった。
「では、一日で必要ないと思えば、そこで終わりにしましょう。明日の朝六時、厨房前へ来てください」
「六時ですの?」
「いつもは五時半です」
「……六時で結構ですわ」
その夜、寝床へ入ってから何度も仕事を思い出した。厨房の卵、アルベルトの上着、布商人への返事、週末の席順。そのたびに、もう自分の仕事ではないのだと思い出した。
気づけば、笑いながら眠っていた。
◇
翌朝六時。
リディアは紙の束をアレクシアへ渡した。
「こちらが来客予定、こちらが使用人の勤務表です。次が仕入先と支払日の一覧。それから領地から届いている報告と、こちらが会計です」
「会計ですの?」
アレクシアは紙をめくりながら眉を寄せた。
「これは会計係へ渡せばよいのでは?」
「会計係はいません」
「では家令が確認するのでしょう?」
「家令もいません」
アレクシアの手が止まった。
「家令が、いない?」
「三年前に辞めました」
「では、この使用人の勤務表は侍女長へ?」
「侍女長も二年前に辞めました」
アレクシアはゆっくり顔を上げた。
「少し待ってくださいませ。家令も、会計係も、侍女長もいない。それでは、その仕事を誰がしていたんですの?」
「私です」
厨房から料理長が顔を出したので、アレクシアは反射的にそちらを見た。
「料理長は?」
「おります」
「……よかったですわ」
「ありがとうございます」
料理長も神妙な顔で頭を下げた。
そこへアルベルトがやってきた。
「朝から何を騒いでるんだ?」
「伯爵様。家令も会計係も侍女長もいないとは聞いておりませんでしたけれど」
「ああ、その話か。三人分の給金が浮いたんだぞ。父上の頃は人を置きすぎていたんだ」
アルベルトはむしろ誇らしげだった。
アレクシアは少し考えてから尋ねた。
「では、今後人が足りなくなった場合は、私の判断で補充してもよろしいのですね?」
「それは駄目だ。人件費が増える」
「では、仕事の方を減らすということで?」
「そんなことをしたら困るだろう。家のことは君に任せるんだから、今いる人間をうまく使ってくれ」
アレクシアは初めて言葉に詰まった。それでも、すぐにいつもの微笑みを取り戻した。
「なるほど。要するに、人員配置を工夫すればよいのですね。奥様は少し、仕事の振り方が悪かったのかもしれませんわ」
「そうかもしれません」
その時、料理長が申し訳なさそうに声をかけてきた。
「奥様、マルタが子どもの熱で休みたいそうです」
「帰してあげてください」
「でしたら代わりの料理人を呼びましょう。今日のお客様は三名でしたわね?」
アレクシアがすぐに指示を出そうとしたが、料理長は困った顔をした。
「呼べる料理人がおりません。今いる者で全員です」
「では、ほかの使用人を厨房へ回せば」
「食事時には配膳の者もぎりぎりでして」
アレクシアの眉間に小さな皺が寄った。そこへアルベルトが思い出したように付け加える。
「そういえば、今日の客は四人になったぞ。今朝決まった」
「今朝決まったのでしたら、なぜ先ほどおっしゃらなかったんですの?」
「今言ったじゃないか」
アレクシアのこめかみがわずかに動いた。
それでも料理長と相談し、肉料理の量を調整して卵料理を増やすことで対応した。
「これで問題ありませんわ。やはり、やり方次第です」
アレクシアは満足そうに言った。時計を見ると、引き継ぎを始めてまだ十二分しか経っていなかった。
結局、一日では終わらなかった。
二日目にはアレクシアも何も言わず五時半に現れ、三日目にはリディアがほとんど口を出さなくても屋敷を回せるようになっていた。アレクシアは実際に有能で、急な来客にも対応し、商人との揉め事も自分で収め、使用人への指示も的確だった。
三日目の夕方、アルベルトが突然言った。
「今夜、客が六人増えるから」
「六人ですの? いつお決まりになったんです?」
「昼くらいだったかな。家のことは君に任せているんだから、それくらい何とかしてくれ。私は忙しいんだ」
アレクシアは何か言い返しかけたが、リディアが見ていることに気づいて口を閉じた。
「……承知しましたわ」
料理長と献立を変え、席を組み直し、足りないワインを買い足した。最後の客を見送った頃には日付が変わりかけていたが、アレクシアの勝ち気な笑みはまだ消えていなかった。
「どうです? きちんと回ったでしょう」
「ええ。よくできていました」
「やはり、慣れれば何とかなりますわ。明日からは私一人で大丈夫です」
リディアは念のため確認した。
「本当に?」
「もちろんです。それに、ここで無理だと言ったら、私が奥様より劣っているみたいではありませんか」
その答えを聞いて、リディアは少しだけ笑った。
「では、お願いします」
「ご心配なく。もうお戻りいただく必要はありませんわ」
「ありがとうございます」
「……どうしてお礼を言うんですの?」
「もう戻らなくていいと言ってくださったからです」
翌朝、リディアは七年間暮らした伯爵邸を出た。
アルベルトは馬車へ乗り込むリディアへ、満足そうに言った。
「ほらな。君がいなくても何の問題もない。もう戻ってこなくていいからな」
「ええ」
リディアは心から笑った。
◇
四日後。
朝食を終えたアルベルトへ、アレクシアは補佐を一人つけてほしいと申し出た。
「会計、来客、使用人管理、仕入れ、領地との連絡、それから伯爵様の予定管理まで一人で見るのは非効率です。能力の問題ではなく、人員配置の問題ですわ」
「リディアは一人だったぞ。それに君、自分ならもっと効率よくできると言っていたじゃないか。まさか、もう無理なのか?」
アレクシアの表情が固まった。一度は必要性を説明しようと口を開いたものの、アルベルトの笑みを見て言葉を飲み込む。
「……結構ですわ。私がやります」
「そうだろう。今まで一人でできていた仕事に、二人分の給金を払うなんて馬鹿らしいからな」
そこからアレクシアは、意地でも弱音を吐かなかった。
朝は五時半に起き、夜は日付が変わってから眠る。料理長も侍女も下男も、自分の仕事以外まで手伝った。
屋敷はぎりぎりで回った。
そして、それを見たアルベルトは満足した。
「ほら、やっぱり人なんて増やさなくてもできたじゃないか。これなら下男を一人減らしてもいいかもしれないな」
「減らすな!」
令嬢らしい口調が吹き飛んだ。
アルベルトが目を丸くすると、アレクシアは一度目を閉じ、咳払いをした。
「……失礼しました。ですが、これ以上人を減らすのはおやめくださいませ。今でさえ皆、自分の仕事以外まで抱えております」
「でも終わってるじゃないか。なら問題ないだろう」
アレクシアは何も答えなかった。
その日の午後、料理長が帳簿を抱えた彼女へ声をかけた。
「先代の家令も、人を増やしてほしいと何度も旦那様へお願いしていました」
「その方は、どうなさったの?」
「辞めました。その後、侍女長も会計係も同じようにお願いして、同じように辞めました」
アレクシアは紙をめくる手を止めた。
「では、どうしてリディア様は辞めなかったんですの?」
「奥様でしたから」
「……それだけですの?」
「それだけです」
アレクシアは何も言わず、再び帳簿へ目を落とした。
それでも耐えた。自分ならできると言った。リディアより上手くやれると言った。ここで無理だと認めることは、彼女の高い自尊心が許さなかった。
二週間目には、三時間眠れれば長い方になっていた。食事を抜くことも増え、帳簿を読みながら朝を迎え、そのまま厨房へ降りる日もあった。
そんな朝に料理人が一人休み、午前中には返事の遅さに腹を立てた商人が訪ねてきた。昼にはアルベルトが同じ時間に二件の約束を入れていたことが分かり、午後になれば、また客が三人増えた。
夕方、アレクシアはもう一度アルベルトの部屋へ入った。
「伯爵様、やはり人を一人増やしてください。来客か会計だけでも担当する者が必要です。昨日までできていたのは、私と使用人たちが睡眠時間まで削っていたからです」
「昨日までできたなら、今日も同じようにやればいいだろう。できないのを人員不足のせいにするなよ。家のことは君に任せているんだから、その程度は自分で何とかしてくれ」
アレクシアはしばらくアルベルトの顔を見つめてから、低い声で言った。
「私は昨日、三時間しか眠っておりません。昼食も取れませんでした。それでも足りないから、人を増やしてほしいと申し上げているんです」
「それは君の時間の使い方が悪いんじゃないか? 私は領地経営で忙しいんだ。家の中のことまで持ち込まないでくれ」
アレクシアの唇がわずかに震えた。
「……あなた、本当に何も分かっていないんですね」
「何が?」
本当に分かっていなかった。
それでもアレクシアは仕事へ戻った。厨房で料理長へ指示を出し、客間へ向かう途中で侍女に呼び止められ、引き返したところへ領地から急ぎの手紙が届く。
受け取ろうとした手が震えていた。
「アレクシア様、少しお休みになった方が」
「大丈夫です。これを確認したら、次は夕食の人数を」
「でも、お顔が真っ青です」
「大丈夫だと言っているでしょう!」
声が厨房へ響いた。
侍女が黙り込み、アレクシア自身も一瞬だけ顔を歪める。それでも謝る余裕すらないのか、すぐに周囲を見回した。
「次は何ですの? まだあるでしょう」
「今日はもうお休みください」
料理長が静かに言った。
「無理ではありません。リディア様が七年もやっていたんですもの。私だって、これくらい」
机へ置いた手が滑り、皿が一枚床へ落ちた。アレクシアは割れた皿を拾おうとして屈み、そのまま膝から力が抜けた。
侍女に支えられながらも、何度も首を振る。
「できますわ。私は、できるって言ったんですもの。あの方にできて、私にできないなんて……」
声が次第に細くなった。
「……もう嫌」
その日の午後、アレクシアは寝室へ運ばれた。
数時間眠ったところで、アルベルトが部屋へ入ってきた。
「母上が来るんだけど、夕食はどうなってる?」
「料理長に聞いてくださいませ。今日は、もう無理です」
「またそれか。リディアはこんなことで寝込まなかったぞ」
アレクシアは目を閉じたまま答えなかった。アルベルトはその沈黙すら気にせず、思い出したように続ける。
「そうだ。週末に十六人呼ぶから。前に六人増えても何とかなっただろう? 今回は五日前に言ってるんだから、もっと楽なはずだ」
アレクシアはゆっくり目を開け、アルベルトの顔を見た。
何も言わなかった。
その夜、荷物をまとめた。
翌朝、部屋は空だった。
机には一枚だけ紙が残されていた。
『辞めます。探さないでください』
アルベルトはそれを読んで鼻で笑った。
「無責任な女だな。あれだけ自分ならできると言っていたのに」
料理長は何も言わなかった。近くにいた下男が小さな声で呟く。
「二週間か」
「長かったな」
料理長も静かに返した。
◇
アルベルトは新しい代わりを探した。
最初の三人は全員断った。一人は仕事内容を聞いて途中で帰り、一人は補佐を二名つけてほしいと条件を出し、一人は提示された給金を聞いて「この仕事量で?」と笑った。
とうとうアルベルトは、人材を紹介する商会へ相談した。
担当者は仕事内容を書き取りながら、何度も確認した。
「家令業務、会計、使用人管理、仕入れ、来客管理、領地との連絡、それから伯爵様ご自身の予定管理まで。こちらを何名で担当する想定でしょうか」
「一人だ」
「……一名ですか?」
「リディアは一人だった」
担当者はしばらく黙った。
「正常に運営するのであれば、少なくとも家令、会計、それから使用人管理を担う方は分けるべきです。できれば補助の者も必要でしょう」
「そんなに雇ったら、いくらかかると思ってるんだ」
「でしたら仕事を減らしてください」
「家格があるんだぞ。来客も領地の仕事も減らせるわけがないだろう」
「でしたら、人を増やすしかございません」
アルベルトは苛立って机を叩いた。
「だから金がかかると言ってるんだ! リディアは一人でやっていたんだぞ!」
担当者は静かに書類を閉じた。
「でしたら、そのリディア様へお願いされるのがよろしいかと。弊社では、この条件でご紹介できる方はおりません」
誰も来なくなった。
それでもアルベルトは、しばらく問題ないと思っていた。伯爵領はもともと土地が肥沃で、大きな街道にも近い。先代から続く優良な取引先も多く、多少管理が雑になったところですぐ赤字になるような土地ではなかった。
ところが、少しずつ綻びが広がった。
長年付き合っていた商人との契約が切れ、仕入れ値が上がった。何度も届いていた水路修繕の報告は返事をしないまま埋もれ、対応が遅れたことで翌年の収穫見込みまで下がった。
アルベルトは、そのたびに商人が強欲だ、領地の者が自分で判断できない、使用人にまともな人間がいないと怒った。自分に原因があるとは、一度も考えなかった。
決定的だったのは、落ちた評判を取り戻そうと開いた大きな晩餐会だった。
招待状の返事を管理する者がおらず、予定より七人多く来た。犬猿の仲で知られる二人の貴族を隣へ座らせ、料理は遅れ、途中でワインまで切れた。
「旦那様、追加のワインがありません!」
「なら買ってこい。いつもの商人に頼めばいいだろう」
「その商人とは、先月で取引が切れております。ほかを探しても、今からでは間に合いません」
食堂の反対側では客同士の口論が始まり、玄関では帰りの馬車が足りないと騒ぎになっている。アルベルトは青ざめながら使用人たちへ怒鳴った。
「何とかしろ! 前はこんなことにならなかっただろう!」
誰も動けない。全員、自分の持ち場だけで手いっぱいだった。
「リディアなら、こんなことにはならなかった!」
その名前を叫んだ瞬間、食堂が静かになった。
客たちの視線が集まり、その中にいたアルベルトの母がゆっくり息子を見た。
「なら、どうして追い出したの?」
アルベルトは答えられなかった。
◇
そのころリディアは、隣町の小さな家で暮らしていた。
最初の一週間は、何もしないことに落ち着かなかった。朝になれば今日は誰が来るのだろうと考え、夕方にはアルベルトの翌日の予定を確認していないことが気になった。
そのたびに、もう自分の仕事ではないのだと思い出した。何度も繰り返すうちに、本当に自分の仕事ではなくなっていき、最近では朝寝坊にも慣れていた。
そんなある日の午後、扉を叩く音がした。
開けると、以前よりずいぶん痩せたアルベルトが立っていた。
「リディア、戻ってくれ。家が回らないんだ。人を探しても来ないし、商人は離れる。領地の利益まで落ちてる。晩餐会だって、あんなことになった」
リディアは扉に手をかけたまま聞いていた。
「人を増やせばいいでしょう。紹介所もそう言ったんじゃないの?」
「三人も四人も雇ったら、いくらかかると思ってるんだ。それに家格がある以上、仕事を減らすことだってできない。だから君が戻るのが一番いいんだよ」
「それで、私が戻ったら何か変わるの?」
「給金だって払う。家令と同じだけ出す」
「私がしていたのは、家令の仕事だけではなかったでしょう」
「だからって三人分も四人分も払えるわけないだろう。君なら一人でできるんだから、それでいいじゃないか」
リディアはしばらく元夫の顔を見ていた。
離縁を言い渡された日の自分なら、この言葉に傷ついただろう。けれど今は、驚くほど何も感じなかった。
「嫌よ。もう七年やったもの。これ以上はやりたくないわ」
「何でだよ。今までできてたじゃないか」
「できることと、やりたいことは別でしょう」
アルベルトはしばらく黙っていたが、やがて顔を歪めた。
「頼むよ。何人探しても駄目だったんだ。アレクシアも逃げたし、紹介所にまで断られた。誰も君みたいにできないんだよ」
声が震え、とうとう涙まで滲んだ。
「いなかったんだよ! 代わりなんて、いなかったんだ!」
リディアはその言葉を静かに聞いた。
あの日、アルベルトは「君の代わりはいくらでもいる」と言った。今度は、自分の口でそれを否定している。
「そう。でも、それは私が戻る理由にはならないわ」
アルベルトは目を見開き、しばらくして子どものような顔で尋ねた。
「じゃあ、私はどうすればいいんだよ……」
「人を雇えばいいんじゃない?」
「だから金がかかるって言ってるだろ!」
その返事を聞いて、リディアはもう何も言わなかった。
扉を閉めた。
◇
翌朝、リディアが目を覚ますと九時半だった。
昔なら、もう四時間も寝坊している。けれど今日は来客もない。商人への返事もない。誰かの予定を確認する必要もなく、失敗しても誰かに「君の努力不足だ」と言われることもない。
リディアは布団を引き上げた。
「……あと三十分だけ」
誰にも止められなかった。




