第六話 転生と始まり➁
今世でクリスは“捨て子”だった。
父も母も分からない。名前すら、本当の名前かどうかわからない。
物心ついた頃から、彼が暮らしてきたのは――
砂漠の外れにぽつんと建つ、小さな孤児院。
園長はハンス爺。
血管が浮き出た大きな手と、砂漠の太陽みたいに温かな笑顔を持つ老人で、獣人の子どもたちまで分け隔てなく受け入れてきた。
吸血鬼の支配が続くこの世界で、獣人への差別は根深い。
それでもハンス爺だけは、誰の尻尾も耳も気にしない。
だからこそ、クリスはずっと思っていた。
――あの人は、聖母だ、と。
孤児院には、いつも騒がしいケモ耳たちと人間の子供達が跳ね回り、ハンスはその中心で笑っていた。
だが、現実は厳しい。
今年は、彼らが十三歳となった年。
この歳まで引き取り手が来なかったクリスとロランは、来年にはもう孤児院を出て働かなければならない。
“子ども”でいられる時間は、残り短かった。
♢
「クリス!もうそろそろ帰らないと怒られるよ!」
「ロラン待って、もう少しで釣れるってば」
一日の中で、暖かな日は落ち切って、間もなく静寂の闇が訪れようとする時刻。
二人は小さな溜め池のほとりで釣りをしていた。
なけなしの金で買ったボロ竿に、土から掘ったミミズを餌にして。
大物がいると噂の、いつもの溜め池まで孤児院から歩いて来た。
「しょうがないさ。爺ちゃんへの誕生日プレゼントはもう買ってあるだろ。それだけでも十分さ」
「うるさいなぁ、黙ってろ」
クリスの負けず嫌いな性格は、前世から大きく変わっていると言えるだろう。
すると、今まで鳴りを潜めていた竿先がぴくぴくと動き出す。
クリスは全神経を集中させ、竿にぐっと力を入れた。
「言ったろ?」
ロランがあっけにとられているうちに、ボロボロの竿が折れそうに軋みながら曲がり始めた。どうやら大物のようだ。
安い竿にリールなんてものはない。クリスは力を振り絞って竿を引き、上体を反らす。
少し格闘すると、水面付近に魚の顔が見えてきた。
――やはり大物だ。
見たことのないその大きさと、夕日を反射して銀色に光るウロコがクリスを興奮させる。
あともう少し!クリスはより一層力を入れた。
「つ、釣れそう!」
そう言ってクリスがニヤリと笑った瞬間、
ブチッッ
不快な音と共に糸が切れた。魚はそそくさと池の底に帰る。
「おい!嘘だろ?最悪だよ!もう!」
池のほとりに膝まづいて悔しがるクリスに、ロランは釣り具を片付けながら声を掛けた。
「やっぱり帰るのが正解だったろ?プレゼントは来年働き始めてから、もっと豪華なのを渡せばいい。ごちそうは明日でも食べれるさ」
そう言って早速帰り始めるロラン。クリスは渋々諦めて、急いでロランの後を追った。
孤児院から溜め池までは少し距離があった。
でもむしろ、クリスとロランはその長い帰り道で、互いの将来について語り合うのが楽しかった。
「それでクリス、そのカガクシャってのは何をするんだ?」
「科学者ってのはさ、新しい技術を作る……すごい人だよ! たとえば――火を灯さずに光を出したり、遠くの人同士で話したり!」
ロランは目を丸くした。
「……そんなこと、本当にできるのか?」
この世界では、蒸気機関こそが文明の象徴。
電気も化学も、まだ“想像の産物”にすぎない。
だがクリスは――知っていた。
前の世界で、それがすべて“現実”だったことを。
特に今日はクリスの夢について盛り上がった。
「――でさ、――でさ、それがすげーんだ」
冷たくて心地よい夜風がクリスの金髪をなびかせた。黄昏時のこの時間はクリスにとって一番幸せな時間。
何の変哲もない小道を歩く時間が、ロランと夢について語り合うだけで特別な時間になった。
しばらく歩くと孤児院の明かりが見えてくる。
今日は何故か、いつもより眩しく見える気がした。
するとロランが、クリスの前に躍り出て言った。
「今から孤児院まで走って先についた方が勝ちな。よーいどん!」
ロランはクリスを置いて走っていく。
「おいっ、ずるいぞ!」
クリスも負けじと走り始める。しかしロランは人狼という特性上運動能力が高く、只の人間であるクリスよりも、はるかに足が速かった。
だが、クリスが先を行くロランを追いかけていると、急に少し先で彼が止まった。
すぐにクリスが追いつき、息を整えていると、ロランが急に彼の肩を叩いた。
そして震える声でロランが言う。
「孤児院、燃えてない?」
それを聞いて見上げたクリスの瞳には、街はずれにある孤児院が炎をまとう様が映された。
二人の首筋に冷や汗が伝った。
互いに顔を見合わせると、二人は一目散に孤児院へ向けて走り出した。
二人は足がちぎれそうになるくらい無我夢中で足を動かす。
間もなくして孤児院へ着くと、木材が焦げる匂いと、そこらを埋め尽くす煙にクリスの肺が拒絶反応を起こした。
それでも二人はむせながら孤児院の中へ入るが、どうやら孤児院の皆は逃げた後のようで、そこには燃え盛る廊下だけが残っていた。
しかし、奥から何か声が聞こえてくる。誰かが逃げ遅れているのかもしれない。
クリスとロランはその誰かを助けるべく奥へと進んだ。
声は院長室から聞こえてきていた。二人は互いに見合わせ、焦げた木製のドアを開けて部屋へ入った。
煙で痛む目を抑えながら、ロランが叫ぶ。
「大丈夫ですかー?」
ロランは助けを求める返事を予想していたが、その返答は思っていた声と違っていた。
「おやおや、何も知らないガキが爺さんを助けに来たようだ」
クリスとロランが声の方へ目を向けると、そこには三人の男がいた。三人ともスーツで、まるで今ここが火事でないかのように平然と立っている。
そしてその足元には、いつものセーターを着たハンスがうずくまっていた。




