第十七話 ステティアを目指して➂
振り下ろされた斧が地面を抉り、乾いた衝撃とともに土煙が噴き上がった。
一瞬で視界が白に塗り潰され、クリスの姿が消える。
「クリーーーース!」
ロランの喉から声が飛び出した。
盗賊とクリスがいた辺りは、粉塵の膜に覆われて何も見えない。
“まさか、クリスはあの巨大な斧に潰されたんじゃ……!”
踏み出そうとして、足が止まる。
土と鉄の匂いに混じって、鼻の奥を刺すような焦げ臭さがあった。
「……な、なんだ……この匂い?」
一歩、前へ――
その瞬間、“ドスン”という鈍い音が地面を叩いた。
「ケホッ……コホッ……!」
誰かがむせる声が聞こえる。
聞き慣れた声だった。
煙の切れ目から、クリスが出てくる。
手にはダガー。刃は、妙なほどきれいだった。
「クリス……!」
「ああ、もちろん死ぬ気はねぇ。ゼリクの脳天に銀玉ぶち込むまではね」
そう言って、クリスは口の端を上げた。
ダガーを肘の裏に挟み、ローブの袖で額を拭う。
息は荒いが、足取りは確かだった。
♢
「さっきの、何をやったんだ?」
馬車へ向かいながらロランが聞く。
「煙幕。煤を詰めて、爆竹で一気に吐き出す。見えなくなったところを――こうだ」
クリスが、ダガーの柄で殴る仕草をする。
掌には、黒く煤けた球が転がっていた。
「爆弾?」
「うーん……まがい物だけどな。フサルトにあった鉱山のを少し拝借した」
「……すごいな」
「たまたまうまくいっただけだよ」
二人で歩き出した、その先に運転手がいた。
馬車の前で松明を振り、必死に何か叫んでいる。
無事そうだ。
だが、様子がおかしい。
「……し、ろ……う、し……」
距離が詰まる。
「うしろ!」
声がはっきりと届いた。
その時、最初に反応したのはロランだった。
♦♦
人間よりも早く、直ちに危険を察知し、その強靭な肉体をしならせる。
これが、彼固有の“獣人能力”
――第六感
だった。
獣人種にはそれぞれ種族特性があり、それぞれの個性を活かして生きてきた。
その種類は何百種もあると言われており、超視力のアラビア種、超獣化力のハイイロ種……挙げていけばキリがない。
ロランはまだ何の獣人に該当するか分からないが、彼の第六感はその特性の中でも、特に珍しい能力だった。
♦♦
振り返る。
倒したはずの盗賊が、立っていた。
血に塗れた鉈を振り上げ、焦点の合わない目で突っ込んでくる。
避けられない。
考える前に、身体が動いた。
「――っ!」
マチェットを振り抜く。
刃が交差し、手応えが返る。
盗賊の身体が、十字に裂けた。
次の瞬間、血が噴き上がった。
雨のように降りかかる生暖かさ。
ロランの頭は、それを出来事として処理できなかった。
ただ、頬を打つ感触だけが――
今起きたことが現実だと、教えていた。
♢
翌日。
「お、おはようさん。いやぁ、昨日は助かったよ。ありがとな。峠を越えりゃ、もう砂漠だ。朝飯食ってから、水浴びでもしてくるといい」
朝日を背に、運転手の男が笑った。
夜の冷えを追い払うように、光が一気に周囲へ満ちていく。
クリスとロランが起きたとき、男はすでに鉄鍋に火をかけていた。
干し肉と野草が煮え、ピリピリと鼻を刺すような香辛料の匂いが漂っている。
「先に行ってくる」
ロランが靴を履きながら言う。
「早く帰ってこないと、全部俺が食うぞ~」
クリスが茶化すと、ロランは小さく肩をすくめて沢の方へ向かった。
道を少し外れれば、岩の合間を縫うように水が流れている。
澄んだ流れで、底の小石まで見えた。
服を脱ぎ、ロランは水を掬って肩にかける。
冷たさに息が詰まるが、何度か繰り返すうちに感覚が鈍くなった。
頭から水を被り、汗を流す。
右腕に残った血を洗い落とす。
首元も同じように。
その瞬間、胃の奥がひっくり返った。
昨日の夜。
刃が入ったときの手応えが、指に戻る。
筋が断たれ、骨に当たった感触。
手に震えが広がり、背筋に悪寒が走った。
「ぅああぁ」
声にならない叫び声が出る。
呼吸が乱れ、視界がぼやけた。
「落ち着けロラン……落ち着け自分……落ち着け!」
何度も顔を洗いながら、かすれた声で自分に言い聞かせる。
ロランが水浴びを終え、服を着てしばらく川のほとりでうつむいていると、道の方から運転手の男が歩いてきた。
「どうした。飯、食えんか?」
運転手の男だった。
「いや、そうじゃないです……」
「殺しは初めてか?」
ロランは答えなかったが、否定もしなかった。
「あの方に比べりゃ、お前は優しすぎる」
男は隣に座り、タバコに火をつけた。
煙が、朝の空に薄く溶けていく。
川面を、二人で眺める。
流れに逆らう魚の背が、一瞬、銀色に光った。
「ここで引き返すって手もある」
男が言った。
「それは……違います。帰りません」
ロランは即答した。
「相棒のためにも、自分のためにも、ここを乗り越えます」
ロランがそう言うと、男は意外そうにそちらの方を見る。
だが、男は目を細め、再び問う。
「本当か?ここから先は闇だ。昨日の夜と同じ世界が毎日続くぞ。それでも、行くんか?」
「ええ。行きます。……情けないところを見せてしまいました。そろそろ戻りましょう」
ロランは立ち上がろうとしたが、男の手がそれを止めた。
「待て」
渡されたのは、小さな布切れだった。
中央に、金色の三角が描かれている。
「これをやる。……ま、お守り代わりと思っとけ」
ロランは軽く頭を下げ、ポケットにしまった。
「暴力に正義はない」
男は続ける。
「暴力に正当性や正義はない。どんな理由があろうとな。だが――襲い来る獣を、傷つけずに、しかもただ眠らせることなんざ、不可能だ」
ロランは布を握りしめ、男の話に耳を傾けた。
「殺意を向けられた時点で、お前の命と相手の命はもう天秤に乗っている。つまり……“選ぶしかない瞬間”ってのは、どうしても来るんだよ」
「……ありがとうございます」
「いいさ、いいさ。ワシの若い頃を思い出しただけじゃ。お前を見てると、どうも口が軽くなる。ワシャ説教臭いジジイでな!」
ロランは躊躇いながらも尋ねた。
「失礼ですが……運転手さん。あなたは、何者なんです?」
男は一瞬だけ目を細めた。
笑ったようにも、警戒したようにも見えない、不可思議な表情。
しかし次の瞬間には、いつもの調子に――。
「さあっ、飯食うぞ。行った行ったァ!」
タバコを地面にねじ潰し、男は馬車へと戻っていった。
♢
「オラオラァ!待てやガキィ!!」
鉄パイプを持ち、目の下にクマを携えた短髪の男が一人の獣人を追いかけている。
「獣人とかいう下等種族が、俺ら人族吸血族様にたてつくんじゃネェ!」
獣人の方はまだ10歳前後だろうか。
栗毛色の耳をぴくぴくと動かしながら走り回っていた。
だが、誰もが彼を見て見ぬふりをする。
獣人の少年は手枷を付け、服はボロボロに破れている。
それでも、誰もが彼を存在しないものとして扱う。
それがステティアという冷たい街なのだ。
「だ、だれか、助けて下さぁあああい!!」
彼が鉄パイプ男から逃げ、街角を曲がったその時――。




