第一話 クリストファー・ブレイブハート➀
「君は、殴られないためにはどうする?――自分が先に殴るか、それとも逃げるか」
――ロラン・アエノキア
獣人種、吸血種、そして普通種。
三つの種族は、ずっと昔から同じ土地に根を張り、同じ空の下で生きてきた。
いつ現れ、どんな道筋を辿って今に至ったのか。
その答えを知る者はいない。
もっとも、知ろうとする者もほとんどいなかった。
人々が目を向けるのは、今日を生き延びるための糧と、叶う見込みのない望みだけだ。
過去や由来に思いを馳せる余裕などない。
この世界の秩序は、単純だった。
吸血種が支配し、他の二種族は従う。
ここ、極寒の国モスカも例外ではない。
凍りついた大地の上で、吸血種は静かに、そして当然のように頂点に立っていた。
♢
「山脈の向こう側ではクーデターが成功して、身分制が廃止されたって話知ってっか?」
「いや、すまない。知らないよ。――そんなことより、山間の国々と交易するための街は……ここで合ってるか?」
「おうよ。ったく、新入りは何もしらねんだなァ」
上裸の獣人の親方は、鉄骨の梁に片足をかけ、腕の汗を拭った。
白い耳が風に揺れる。
ふさふさの尾には静かに雪が積もっていく。
彼は“ツンドラオオカミ種”――大陸の場所によっては滅多に見られない、全身を毛に覆われた狼型の獣人だった。
こうした完全獣化に近い種族は極めて稀だ。
彼の背後では、クレーンの鎖が軋み、蒸気式のリフトが唸りを上げる。
湿った風に、油と焼けた鉄の匂いが混じっていた。
「ここ、ドルトンの街は“動く都市”だ。止まってるもんなんか一つもねぇ。馬車は広場に、列車は駅に、商人どもは市場に――みんな金の匂いを追って走り回ってる。まるで街そのものが生きてるみてぇだろ?……ま、俺らにゃ関係ないがな」
厚く着込み、フードを深く被った新人は、手帳に必死で書き込む。
足元では小型の自動搬送機がギギィと音を立てて資材を運び、蒸気犬がそれを追いかけては跳ねた。
遠く、塔の上に取り付けられた巨大な時計が、白い蒸気を吐きながら時を告げる。
「助かる。情報はあるだけありがたい」
「おいおい、そんなメモせんでも――」
親方が鉄骨を下ろし、メモに必死な新人へと、何かを言いかけた時だった。
「コラァ!! そこの獣人ども!!」
怒鳴り声が風を裂き、現場の喧騒が一瞬止まる。
その声には、怒りというより――汚物に触れたような冷たい侮蔑があった。
「貴様らは何をして金を貰っている? 下等種族が、思い上がるなよ」
軍服の男が近づいてくる。瞳は血のように赤く、口元からのぞく犬歯が鋭く光っていた。
吸血種――支配階級の象徴。
「す、すみません……!」
親方の逞しい体も、吸血種の前では意味をなさない。
彼らは常人を超える運動神経と驚異的な回復力を持っている。敵うわけがないのだ。
獣人はその体力や防寒性を活かして、労働力として。そして人族も労働力――ひいては食料として扱われていた。
「見ない顔だな。新入り、働けよォ。働いて、働いて、――我等が食ってやるからな!!」
吸血種は新人の前で立ち止まり、鼻を鳴らした。
瞬時に、彼が人間だと見抜いたのだ。
すると、新人はゆっくりと顔を上げ、手にしたペンを天に掲げた。
そのまま立ち去ろうとする吸血種へ、淡々とした声を投げる。
「ニール。君の右足、ズボンの下に古傷。恐らく十歳前後に負ったもので、回復力の低い時期の傷だ。以来、歩き方が左に傾き、まっすぐ歩けない。君は隠しているつもりだが、それが逆に目立っている」
吸血種――ニールは、突如名を呼ばれ、目を見開いた。
「貴様……どこで我が名を聞いた!」
怒声と共に、彼の腰から振り抜かれた剣が閃く。
新人の首、白い肌に刃が触れ、赤い血が滲む。
だが新人は臆することなく、その口を止めなかった。
「年は……三十から三十五、だな」
その視線がゆっくりとニールの足元に落ちる。
膝下、ズボンの裾に乾いた暗赤色。
「理由は簡単だ」
淡々とした声が、風の中に吸い込まれていく。
「これは子どものものだ。動物なら己の舌で口を拭くが、血の付いた口をそのままにするのは吸血種の赤子だけ。恐らく食後、君の足に抱きついたのだろう」
ニールの喉がごくりと鳴った。
「つまり、君の家には幼い子がいる。吸血種が生殖できるのは二十代後半まで――その後も楽しみはするらしいが」
唖然として口を開ける親方の尾から雪がずり落ち、足元で弾ける。
「とまぁ、これらの理由から、足元に縋る子の年齢を考えれば……君は三十二歳でどうだ」
刃の間を、白い息がすり抜けた。
彼のまくしたてるような口調と、鋭い推理に一度身じろぎしたニール。
しかし、彼は薄笑いを浮かべて反論する。
「いいや、ズボンに汚れを付けた幼な子は親戚の子かもしれないだろう?」
だが新人は一歩も退かず、静かに言い返した。
「いや、こんな奴隷まみれの現場に顔を出す吸血種なんて、よっぽどの能無しか、若造くらいだ。まさか――自分は前者だと言うのか?」
「貴様ッ!!」
ニールは挑発に乗り、顔を真っ赤にして片手剣に力を込めた――だが、刃が動かない。
まるで見えない岩に剣を押しつけたような、ぞっとする抵抗感が腕を這った。
ただの人間が、こんな芸当をやってのけるはずがない。
その時、新人の男は静かに言った。
「推理は――当たりか?」
「あ……当たりだ。歳まですべて、完璧に」
ニールは自覚こそないものの、既にこの謎の男の支配下にあった。
なぜなら、その眼差しには、逆らえば命を奪われると本能で理解させる何かがあったからだ。
「じゃあ、一つだけ聞こう。この街は吸血種優遇が特に酷いと聞く。元締めは誰だ?」
「そんなこと、言うわけが――!」
「それでいいのか? ニール君。俺は一言で、君の一族を消すことができる」
荒唐無稽な脅しのはずだった。
だが、その声色に宿る覇気――それは“国を丸々一つ滅ぼした狂戦士”のような覇気――は何か大きな敵を相手取る者だけが持つ、常軌を逸した恐ろしさを帯びていた。
親方もニールも、息を呑んだまま動けない。
真っ赤だったニールの顔も、気づけば雪のように白くなっていた。
新人はゆっくりと、もう一度だけ言った。
「答えろ」
「……こ、この街の支配者は、ベミリア。ベミリア蒸気機関カルテルの首領で、全ての交易を仕切っている……」
ニールはついに情報を吐いた。
それを聞いた新入りは満足げに頷くと、厚手のファー付きコートを脱ぎ捨てた。
現れたのは、後ろで金髪を束ね、腰に二丁の拳銃を帯びた若い青年。
年の頃は二十歳そこらだろうか。
薄手の黒いトレンチコートの下、右手の薬指には金の指輪が光っていた――それは何かの印のようにも見える。
その異様な気配を放つ男が若者だったことに、親方とニールは言葉を失った。
さらに驚くことに、彼が二度手を叩くと、どこからともなく一人の獣人が姿を現す。
赤毛の髭をたくわえた屈強な男。左右白黒のオオカミ耳に灰色の尾――獣人は“スコル種”。
今では滅多に見られぬ種族だ。
「大体分かったな。ベミリアか……いい情報を聞いた。てなわけで、行くか――スワン」
「そうですな、旦那。行きますか」
二人が現場を去ろうとした、その時――。
「お、お、おおおおい! 貴様、名は何という! いや、そもそも何者だ!」
ニールの叫びに、金髪の青年は振り向きもせず、肩越しに答えた。
「俺はクリス。クリストファー・ブレイブハートだ。――王様だよ」
その背を見送ることしかできない親方とニール。
現場に残された二人の間を、蒸気の風が通り抜ける。
やがて、沈黙を破るようにニールが呟いた。
「な、なぜ我の名が分かったのだ……」
すると、親方は恐る恐るそちらを向き、真剣な眼差しで答えた。
「ニール様の軍服の背中の金具に、“母はいつでも愛してる、我が子ニール”と刻まれております……」
その言葉に、ニールの顔が真っ赤に染まった。
「……そ、そうか」
しょぼくれた彼は、口をパクパクとさせたまま何も言い返せず、雪の中へと姿を消した。




