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第一話 クリストファー・ブレイブハート➀




「君は、殴られないためにはどうする?――自分が先に殴るか、それとも逃げるか」

――ロラン・アエノキア




 獣人種、吸血種、そして普通種。

 三つの種族は、ずっと昔から同じ土地に根を張り、同じ空の下で生きてきた。


 いつ現れ、どんな道筋を辿って今に至ったのか。

 その答えを知る者はいない。

 もっとも、知ろうとする者もほとんどいなかった。


 人々が目を向けるのは、今日を生き延びるための糧と、叶う見込みのない望みだけだ。

 過去や由来に思いを馳せる余裕などない。


 この世界の秩序は、単純だった。

 吸血種が支配し、他の二種族は従う。


 ここ、極寒の国モスカも例外ではない。

 凍りついた大地の上で、吸血種は静かに、そして当然のように頂点に立っていた。





「山脈の向こう側ではクーデターが成功して、身分制が廃止されたって話知ってっか?」


「いや、すまない。知らないよ。――そんなことより、山間(やまあい)の国々と交易するための街は……ここで合ってるか?」


「おうよ。ったく、新入りは何もしらねんだなァ」


 上裸の獣人の親方は、鉄骨の梁に片足をかけ、腕の汗を拭った。


 白い耳が風に揺れる。

 ふさふさの尾には静かに雪が積もっていく。


 彼は“ツンドラオオカミ種”――大陸の場所によっては滅多に見られない、全身を毛に覆われた狼型の獣人だった。

 こうした完全獣化に近い種族は極めて稀だ。


 彼の背後では、クレーンの鎖が軋み、蒸気式のリフトが唸りを上げる。

 湿った風に、油と焼けた鉄の匂いが混じっていた。


「ここ、ドルトンの街は“動く都市”だ。止まってるもんなんか一つもねぇ。馬車は広場に、列車は駅に、商人どもは市場に――みんな金の匂いを追って走り回ってる。まるで街そのものが生きてるみてぇだろ?……ま、俺らにゃ関係ないがな」


 厚く着込み、フードを深く被った新人は、手帳に必死で書き込む。


 足元では小型の自動搬送機がギギィと音を立てて資材を運び、蒸気犬がそれを追いかけては跳ねた。

 遠く、塔の上に取り付けられた巨大な時計が、白い蒸気を吐きながら時を告げる。


「助かる。情報はあるだけありがたい」


「おいおい、そんなメモせんでも――」


 親方が鉄骨を下ろし、メモに必死な新人へと、何かを言いかけた時だった。


「コラァ!! そこの獣人ども!!」


 怒鳴り声が風を裂き、現場の喧騒が一瞬止まる。

 その声には、怒りというより――汚物に触れたような冷たい侮蔑があった。


「貴様らは何をして金を貰っている? 下等種族が、思い上がるなよ」


 軍服の男が近づいてくる。瞳は血のように赤く、口元からのぞく犬歯が鋭く光っていた。

 吸血種――支配階級の象徴。


「す、すみません……!」


 親方の逞しい体も、吸血種の前では意味をなさない。

 彼らは常人を超える運動神経と驚異的な回復力を持っている。敵うわけがないのだ。


 獣人はその体力や防寒性を活かして、労働力として。そして人族も労働力――ひいては食料として扱われていた。


「見ない顔だな。新入り、働けよォ。働いて、働いて、――我等が食ってやるからな!!」


 吸血種は新人の前で立ち止まり、鼻を鳴らした。

 瞬時に、彼が人間だと見抜いたのだ。


 すると、新人はゆっくりと顔を上げ、手にしたペンを天に掲げた。

 そのまま立ち去ろうとする吸血種へ、淡々とした声を投げる。


「ニール。君の右足、ズボンの下に古傷。恐らく十歳前後に負ったもので、回復力の低い時期の傷だ。以来、歩き方が左に傾き、まっすぐ歩けない。君は隠しているつもりだが、それが逆に目立っている」


 吸血種――ニールは、突如名を呼ばれ、目を見開いた。


「貴様……どこで我が名を聞いた!」


 怒声と共に、彼の腰から振り抜かれた剣が閃く。

 新人の首、白い肌に刃が触れ、赤い血が滲む。


 だが新人は臆することなく、その口を止めなかった。


「年は……三十から三十五、だな」


 その視線がゆっくりとニールの足元に落ちる。

 膝下、ズボンの裾に乾いた暗赤色。


「理由は簡単だ」


 淡々とした声が、風の中に吸い込まれていく。


「これは子どものものだ。動物なら己の舌で口を拭くが、血の付いた口をそのままにするのは吸血種の赤子だけ。恐らく食後、君の足に抱きついたのだろう」


 ニールの喉がごくりと鳴った。


「つまり、君の家には幼い子がいる。吸血種が生殖できるのは二十代後半まで――その後も()()()はするらしいが」


 唖然として口を開ける親方の尾から雪がずり落ち、足元で弾ける。


「とまぁ、これらの理由から、足元に縋る子の年齢を考えれば……君は三十二歳でどうだ」


 刃の間を、白い息がすり抜けた。


 彼のまくしたてるような口調と、鋭い推理に一度身じろぎしたニール。

 しかし、彼は薄笑いを浮かべて反論する。


「いいや、ズボンに汚れを付けた幼な子は親戚の子かもしれないだろう?」


 だが新人は一歩も退かず、静かに言い返した。


「いや、こんな奴隷まみれの現場に顔を出す吸血種なんて、よっぽどの能無しか、若造くらいだ。まさか――自分は前者だと言うのか?」


「貴様ッ!!」


 ニールは挑発に乗り、顔を真っ赤にして片手剣に力を込めた――だが、刃が動かない。

 まるで見えない岩に剣を押しつけたような、ぞっとする抵抗感が腕を這った。


 ただの人間が、こんな芸当をやってのけるはずがない。


 その時、新人の男は静かに言った。


「推理は――当たりか?」


「あ……当たりだ。歳まですべて、完璧に」


 ニールは自覚こそないものの、既にこの謎の男の支配下にあった。

 なぜなら、その眼差しには、逆らえば命を奪われると本能で理解させる何かがあったからだ。


「じゃあ、一つだけ聞こう。この街は吸血種優遇が特に酷いと聞く。元締めは誰だ?」


「そんなこと、言うわけが――!」


「それでいいのか? ニール君。俺は一言で、君の一族を消すことができる」


 荒唐無稽な脅しのはずだった。


 だが、その声色に宿る覇気――それは“国を丸々一つ滅ぼした狂戦士”のような覇気――は何か大きな敵を相手取る者だけが持つ、常軌を逸した恐ろしさを帯びていた。


 親方もニールも、息を呑んだまま動けない。

 真っ赤だったニールの顔も、気づけば雪のように白くなっていた。


 新人はゆっくりと、もう一度だけ言った。


「答えろ」


「……こ、この街の支配者は、ベミリア。ベミリア蒸気機関カルテルの首領(ドン)で、全ての交易を仕切っている……」


 ニールはついに情報を吐いた。


 それを聞いた新入りは満足げに頷くと、厚手のファー付きコートを脱ぎ捨てた。


 現れたのは、後ろで金髪を束ね、腰に二丁の拳銃(リボルバー)を帯びた若い青年。

 年の頃は二十歳そこらだろうか。


 薄手の黒いトレンチコートの下、右手の薬指には金の指輪が光っていた――それは何かの印のようにも見える。

 その異様な気配を放つ男が若者だったことに、親方とニールは言葉を失った。


 さらに驚くことに、彼が二度手を叩くと、どこからともなく一人の獣人が姿を現す。


 赤毛の髭をたくわえた屈強な男。左右白黒のオオカミ耳に灰色の尾――獣人は“スコル種”。

 今では滅多に見られぬ種族だ。


「大体分かったな。ベミリアか……いい情報を聞いた。てなわけで、行くか――スワン」


「そうですな、旦那。行きますか」




 二人が現場を去ろうとした、その時――。


「お、お、おおおおい! 貴様、名は何という! いや、そもそも何者だ!」


 ニールの叫びに、金髪の青年は振り向きもせず、肩越しに答えた。


「俺はクリス。クリストファー・ブレイブハートだ。――王様だよ」


 その背を見送ることしかできない親方とニール。

 現場に残された二人の間を、蒸気の風が通り抜ける。




 やがて、沈黙を破るようにニールが呟いた。


「な、なぜ我の名が分かったのだ……」


 すると、親方は恐る恐るそちらを向き、真剣な眼差しで答えた。


「ニール様の軍服の背中の金具に、“母はいつでも愛してる、我が子ニール”と刻まれております……」


 その言葉に、ニールの顔が真っ赤に染まった。


「……そ、そうか」


 しょぼくれた彼は、口をパクパクとさせたまま何も言い返せず、雪の中へと姿を消した。




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