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常連の女

●◯●


時間にはまだ早いが、番頭は二つ返事であろう。

寺社のような風格が漂う建築。唐破風屋根をくぐり、下足箱へ向かう。

開放的な入り口の中から、群れから飛び立つ藤の花弁が風に散らされている。

建物の奥からは独特の生ぬるい尖った香りがあたりを包み、鼻奥に響く。


端正な顔立ちは、異国からもたらされた彫刻を思わせる。

腰下まで伸びる絹糸のような長い髪が印象的だ。

後ろ姿を見かけるだけでも、美しさのオーラが色めき立つ。


形の良い鼻先に意識を留め、加賀地(かがち)はこの瞬間(とき)を味わっていた。


人間として馴染む生活を始めて、ざっと200年弱。

半妖(はんよう)とはなんとも半端で、どこに身を置いたとして

やりにくいことこの上ない。

加賀地は身も心もいつの間にか、ただの食材としか思えなかった|《人間》《ヒト》に限りなく近づいていた。


(ねぶ)るような愛着を抱く対象は、入浴と頑固ジジィだった。


番台の上にどっかりと座り、色褪せた法被を適当に肩に引っ掛ける番頭(ジジィ)

入浴客はまだいないためか、己の気の向くままに煙管をふかしている。


「今日は茶挽きか?」

「まぁそんなとこ。薬湯が入りたくて、さ」


軽く背伸びをしながら、スラリと伸びた指先で口元を隠す。

動作が半テンポが遅く、まあるく開いた口の中が丸見えだ。

ほんのり赤みを帯び、すべっとした質感の生肌がぬらぬらと艶かしい。


与一は深く刻まれ始めた顔の皺を動かさず、微動だにしない。


「青慈は?」

「道場だ」

「用心棒さんだもんね」

「今日はやってもらわねぇとならねぇ野暮用があんのよな。

 ったく鈍間な木偶の坊はこれだからならねぇよ」

「ねぇ、」

「あん?」

「そろそろ...素直になったら?」

「何のこと言ってやがる」

「ふふっ」

しっとりとした妖艶な笑みが、透明な膜のように与一を捉える。

「こんなジジイに構ってるお前は大うつけもんだ」

与一は無表情のまま、口がへらない。


狭い番台の上に、加賀地が足を掛け上がる。

「うぉい!ガタが来てんだよ!降りろ!」

「大丈夫よ。あたし、痩せたし...」

「俺あ豊満が好きだ!」


大の大人が狭いところで騒いでいる。


はたから見る光景は、男女の睦ごとだが

立場が逆転しているのがやや滑稽である。


二人の世界を邪魔せぬよう

湯屋の男衆たちが羨望の眼差しを隠しきれないまま、固唾を飲みながら物陰から見守っている。


番台に仁王立ちする形で、はしたない格好が春画のそれを思わせる。

加賀地は高級妓女である。

お忍びでこうして与一の湯屋を訪れては、毎度のごとく茶番を披露する。


与一が客として遊郭に出向くことは、ほぼ無いに等しかった。

それであるのに、加賀地は羽振りの良い太客には見向きもせず

男盛(ピーク)を過ぎた初老の店主に入れ込んでいる。


ここの湯屋の七不思議の一つと語られる名物だ。


こんな男性陣憧れの現象も、もしかすると下町の銭湯ならではなのかもしれない。

この世でこの国の人間は、生まれながらにして身分を決められてしまう。


そのためか、与一は湯屋を興す以前の話を避ける。


基本ミーハーな町人が客として多い。

大きい噂から小さい噂まで出回るが、本人はどこ吹く風だ。


湯屋、それ自体も重要な公私に渡る情報源となる。

つまり、社交場として重要な機能を有しているのだ。


裸の付き合いは様々な身分が入り混ざる。

武士からゴロツキ、商人たちの腹の探り合いから、なもなき町人たちの憩いの場

やんごとなき身分を隠し視察に利用する者。


生まれたままの姿で浸かる湯では隠し事をするには不向きなのだ。


犯罪歴や嗜好、職業に応じて、彫り物を全身に入れているものを除いたとしても

お釣りがくるほどに、人を開放的にさせる力が湯にはある。


また、男の春を好むものたちは、同志との出逢いの場ともなる。


経営方針について、与一は細かいことを気にしない。

気にしたところで、野暮だと考えている。


とはいえ、半世紀ほど生きて辛酸を舐め尽くした与一だとしても

妖艶な瞳を潤わせて迫る妓女、加賀地にだけは敵わなかった。


「おいっ!お前ら!見てないで助けろ!!!!!」

掠れ、懇願する声が悲しく響き渡る。

男衆たちは、いつか自分もああなりたいと願いながら

丁寧に二人を引き剥がすのであった。

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