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騎士と王冠<The Knight and the Crown>Ⅰ  作者: けもこ


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15/30

15:帝都で過ごす夏休み 1

 夏休みに入るとすぐ、レオノーラは帝都へ帰ってきた。


 日中は訓練場で稽古を手伝い、厩舎では馬の世話に励んだ。夜になると自室にこもり、タリク語の原語であるタネール語を研究し、共通する文法についてのレポートをまとめた。


 冬の休暇で帝都に戻った時、レオノーラの心は様々な感情に押し潰されそうになっていた。自分の出自や置かれた環境、与えられた恩恵——これからどう生きていくべきなのか、アビエルへの想いをどう整理すればいいのか、いくら考えても、納得のいく答えは見つからなかった。


 そんな煩悶を、思いがけない人物の言葉がそっと払ってくれたのだった。


 ***


「こんばんは、ヘバンテスさん。こんな時間まで研究ですか?」


 神聖祭の休暇が明け、学院に戻って間もないある夕方のこと。図書室の前で、学院長と顔を合わせた。


「こんばんは、エンリエル学院長様。つい夢中になってしまいまして。閉館時間ぎりぎりまで滞在してしまいました。司書様にはご迷惑をおかけして……」


 本来ならば、今頃は大広間で夕食を取っている時間のはずだった。言い訳じみた自分の言葉に、少しだけ頬が熱くなる。


「なるほど、時間を忘れるほど熱心に取り組んでいたのですね。あなたは、噂どおり真面目で勉強熱心な生徒のようですね」


 声に笑いを含ませてそう言っていた学院長は、ふと何かを思い出したように目を細めた。


「そうだ、ヘバンテスさん。少しお話ししたいことがあるのです。お時間をいただけますか?」


 学院長が秘書に何かを伝えると、秘書はその場に留まったまま頷いた。


「あちらの噴水まで歩きながら話しましょう」


 学院長は静かに回廊を抜け、テラスの先にある噴水の方へと歩き出した。


「あなたはアビエルに付き添って、帝都からいらしたのですね。彼は、あなたを深く信頼しているようです。全幅の信頼を置いていると、私は聞いています」


「もったいないお言葉です。本当に、光栄なことです」


「アビエルは、生まれた瞬間から次の皇帝になることが定められていました。兄であるグレイエル皇帝には、皇后ジュヌビエーヌの他に正妻はおらず、子もアビエル一人だけですから」


 その言葉に、一瞬身構えた。もしかして——皇太子に対して不用意な振る舞いをしないよう、釘を刺されているのではないか。


「……皇帝になるということは、多くの人が思い描くほど、幸福なものではありません。自らの意思で掴み取った権力ならまだしも、兄やアビエルのように、生まれた時からその道を歩む者は、自分の未来を選ぶことすら許されない。国が傾けば、その責任を一身に負うことにもなる」


 学院長は噴水のそばの四阿に辿り着くと、腰を下ろすよう促した。


「私と兄は、仲の良い兄弟だったと思いますよ。しかし、年の近い皇位継承者がいることは、周囲の大人たちに謀略を生みます。兄が苦しむ姿を目の当たりにしながら、私は何もできず。ただ、恐れていたのです。兄にもし何かあれば、いずれ自分がその重責を背負うことになるかもしれないと——それが、私をここへと閉じ込めた」


 遠くを見つめる学院長の瞳には、若き日の苦悩が滲んでいた。


「アビエルがここで同年代の生徒たちと過ごす姿を見るたびに、微笑ましさと同時に、彼が必死で今を生きようとしていることが伝わってきます。彼は——この先の人生を生き抜くために、今という瞬間を懸命に掴もうとしているのです」


 学院長はこちらを見つめて、静かに言った。


「ヘバンテスさん。彼がこの先を歩んでいくためには、心の支えとなる存在が必要です。もし、あなたが彼を信頼できる人物だと感じているなら……どうか、生涯、彼の傍にいてあげて欲しい。仲間としてでも、友としてでも、臣下としてでも構いません。ただの“アビエル=ランドルフ”として、彼を見守ってほしいのです」


 そう言って学院長がほんの僅かに頭を下げた瞬間、レオノーラは思わず慌てた。


「学院長様、そんなことはなさらないでください」


 言葉を慎重に選びながら、レオノーラはゆっくりと口を開いた。


「私は、アビエル様を、心から尊敬しています。素晴らしい皇帝になられると信じています」


 手を膝の上で握りしめ、視線を雪の残る石畳へと落とす。


「正直に申し上げますと……私は、アビエル様のような立派な方が、まるで幼馴染のように接してくださることが恐れ多くて、どうすればよいのか悩んでいました。この距離のままでいいのだろうかと。でも、学院長様のお話を伺って、ようやく気付きました。アビエル様を助けたいと願うなら、私自身が心に壁を作っていては駄目なのですね。身分にとらわれていたのは、私自身でした」


 学院長を真っ直ぐに見つめ、決意を込めた口調で言葉を続ける。


「これからは、彼の“在りのまま”を信じ、私に寄せてくださる信頼に応えていきたいと思います。学院長様……ありがとうございます。心の(もや)が晴れたような気持ちです。もしアビエル様が望んでくださるのなら、私はこれからも彼の傍にいて、ずっと彼を支え続けたい」


 学院長は、安堵したように優しく微笑んだ。


「ありがとう、ヘバンテスさん。私の心の(もや)も、晴れました。……すっかり時間を取らせてしまいましたね。大広間にまだ夕食が残っているでしょうか。さあ、急いでお行きなさい」


 学院長に急かされながら回廊へ戻ったところで、ふと彼は立ち止まった。


「アビエルにとって、あなたはきっと、何ものにも代えがたい存在になっていることでしょう。……人生でそのような相手に出会えることは、まさに奇跡ですよ」


 そう言うと、学院長は、レオノーラの肩に軽く触れ、トンっと前へ押し出すように、食堂へと続く廊下へと促した。


 食堂に着くと、人は随分と少なくなっており、入り口近くで、アビエルがルートリヒトと話をしている姿が見えた。


「どうしたんだ、レオニー。部屋にもいないし、何かあったのかと心配していたんだぞ 」


 レオノーラの姿を認めると、アビエルが、席を立って近づいてくる。その姿に、あぁ、そうか、自分自身がそう望むのなら、私はこの人の為に生きていれば良いのだ。いつか、たとえ、(そば)にいることが叶わなくなったとしても、彼の為に生き続け、支え続けていればいい。内側から沸々とその思いが染み渡り、ずっとわだかまっていた心がほぐれていき、思わず笑顔がこぼれた。


 それを見たアビエルが、つられて笑って、「なんだ、何かいいことでもあったのか?」と聞いた。


「学院長様に図書室の前で出会って、あなたは実に優秀ですね、と盛大にお()め頂いてました 」


笑いながら、アビエルが取っておいてくれたトレーを前に席に着く。


「レオのその嫌味のない自慢が嫌味だよ 」


 座っていたルートリヒトがからかうように言うので、『結局それは嫌味だということでしょうか?』と聞き返しながら、笑うアビエルの隣で幸せな気持ちで夕飯を平らげた。


 ***


この出来事をきっかけに、レオノーラはアビエルへの想いに悩むことは無くなった。越えられないものや避けられない問題はある。それでも、私はただ彼の傍で彼を支えて生きるのみだ。そう、心に誓ったのだ。


◇◇◇


 宮廷では夏の間、毎晩のように夜会が開かれる。外国からの賓客(ひんきゃく)をもてなし、寵臣(ちょうしん)を労い、権威(けんい)を示す場であり、夜会には強い政治的な意味合いが込められている。

 

 アビエルは父である皇帝の(かたわ)らで、客たちの挨拶を順番に受け、丁寧に対応していく。些細(ささい)な扱いの差でさえ、人は不公平を感じ、猜疑心(さいぎしん)を抱く。一度心に生じた疑念は、簡単には拭えない。


 挨拶が一段落すると、フロアで演奏が始まる。最初のダンスは最も高位の者から始まるため、アビエルはフロレンティアの手を取り、ホールの中央へ進む。皇帝と皇后が一緒にダンスを踊ることはもう長い間なかった。


 フロレンティアが美しく着飾り、優雅に踊る姿を見ながら、アビエルは「レオノーラはこんなフロレンティアを知らないだろう」と思う。どこか遠くを見つめるような眼差(まなざ)しで踊る彼女の姿は、まさに公爵令嬢そのものであった。


 アビエルがフロレンティアと初めて会ったのは、十歳の時だった。グレゴール宰相が「近い年齢同士、良い遊び相手になります」と連れてきた少女は、アビエルと茶を飲んだが、その間の会話はほとんど侍女とのものに終わった。その後しばらくしてから、彼女が自分の婚約者であると知った。


 十三歳の時、正式に婚約を発表するための儀式が行われた。司祭の前で誓いを交わすその儀式は、結婚式の予行のようなもので、当時のアビエルは、ただ「そういうものなのだ」としか思わなかった。


 婚約後、フロレンティアは后妃教育(こうひきょういく)のために毎日皇宮を訪れるようになったが、皇宮内で彼女と顔を合わせることはほとんどなかった。そんな時、侍女が二人の距離を縮めようとフロレンティアを訓練場に連れてきた。


 彼女がレオノーラと初めて出会った時、今まで何も映さなかったフロレンティアの瞳に輝きが宿り、頬が紅潮するのをアビエルは見逃さなかった。


「この娘は、もう一人の私なのだ」とアビエルは感じた。


 フロレンティアはグレゴールの三人目の妻の娘だった。アビエルが生まれた時、グレゴールは躍起(やっき)になって娘を得ようとした。現皇后がラモラック家の出身であることから、次の皇后は自分の血筋であるバスケス家から選ばれ、自らは次代の皇帝の外祖父になるべきだと考えたのだ。


 フロレンティアの母は、彼女を出産後に公爵家の正妻として認められた。生まれた時から皇太子妃となることが決まっていたフロレンティアは、何一つ自分の意志で未来を選べない娘だった。だからこそ、アビエルは彼女と結婚することが運命なのかもしれないと感じていた。


 レオノーラに会うために訓練場に頻繁(ひんぱん)に通うフロレンティアの姿は、まるで自分を見ているようで、アビエルの胸に切なさと哀れみを感じさせた。


 フロレンティアは、公式の場では、レオノーラの前で見せるような無邪気な笑みを浮かべない。焦点の定まらない瞳で、いつも薄く微笑んでいる。


 曲が終わり、フロレンティアと共にフロアから退くと、次々に来賓たちがダンスを始めた。アビエルは賓客(ひんきゃく)の妻や娘にダンスを申し込み、フロアで踊る。その間、フロレンティアは焦点の定まらない瞳で微笑んだまま、玉座近くの椅子に座っていた。


 一通り踊り終えた後、アビエルはフロレンティアに近づき、「もう下がっても大丈夫だ」と声をかける。彼女はホッとした表情を見せ、侍女と共に扉の向こうに退いていった。


 アビエルはグラスを手に、時折客と会話を交わしながら、涼を求めてベランダへ出た。闇の向こうに広がる木立の奥に、見えない小さな家がある。この時間なら、ロウソクを(とも)して本を読んでいるのだろうか。それとも何かを作っているのかもしれない。アビエルは、その姿を見たいと願いながら、暗闇に視線を注ぎ続けた。

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