今日でお別れ6
ドロドロして来てしまいました。
律子は慌て者でお調子者で、思い込みが激しくて涙もろくて怒りんぼのOLである。
要するに喜怒哀楽が激しい女なのだ。
昨日は、電車の乗り間違えに気づいて降りた駅で、偶然とんでもないモノを見てしまった。
不倫? 平井課長と、同僚の真弓が連れ立って改札を出て行くのを目撃ドキュンしてしまったのだ。
本当に「ドキュン」だった。心臓がバクバクして、階段を昇るのに一苦労だった。
その上、あまりにもその事が衝撃的で、何度も降りる駅を乗り過ごし、とうとう終電まで乗り続けたほどだ。動揺し過ぎである。
(どうしよう? どんな顔して真弓に会えばいいんだろう?)
香に相談してみようか? でも、それだとあの話もしないといけないし、どうして電車を乗り間違えたのかを尋ねられると、藤崎君のところに行こうとしていた事がばれそうだし。
律子はパニックになりかけていた。そして結局一睡もしないままで、翌朝を迎えてしまった。
「ううう」
彼女の一つだけ良いところを挙げるとしたら、そんな状態でも会社には行こうとする心構えである。
「ねぶい……」
瞼がくっつきそうになるのを必死に堪えながら、律子は電車に乗った。その必死な顔に周囲の乗客が引き捲っていたのを知らない律子である。
「おはよう」
律子は香に声をかけた。昨日はどうしたのだろうと考える余裕すらない。すでにヘロヘロである。
「どうしたの、律子? 飲み過ぎ?」
優しい香は、心配してくれた。
「あはは、違うの。眠れなかっただけ……」
「その方が大変だよ。何があったの?」
まずい、と思ったが、すでに遅かった。
「彼とうまくいってないの?」
香が小声で尋ねる。律子は目を半開きにして、
「そうじゃないの。でも、大丈夫だから……」
と言いながら、自分の席ではなく、新入社員の須坂君の席に着き、眠ってしまう。
「先輩、困りますよ! ここ、僕の机ですから!」
須坂君が必死に律子を揺り起こすが、律子はまさに泥のように眠っていて起きない。
「香先輩、助けて下さいよお」
須坂君は、香に救いを求めた。
「仕方ないわね、律子は!」
香は腕組みをして傍観していたが、須坂君の「母性本能攻撃」によって動き出した。
「ほら、律子、起きなさいよ。須坂君が困ってるでしょ!」
「うーん……」
律子はムクッと起きた。
「須坂君、私の事、好きなの?」
「はあ?」
突然おかしな事を言い出す。香も呆気に取られて何も言えない。
「先輩、しっかりして下さい。ここ、会社ですよ!」
須坂君は多少動揺しているようで、顔を赤らめている。
「わかった、会社終わったら、ゆっくり話そうね」
律子はニヘラーッとして、フラフラしながら自分の席に向かって歩き出した。
「大丈夫なんですかね、律子先輩は?」
須坂君は不安そうだ。香は肩を竦めて、
「そのうち復活すると思う」
「そうですかあ?」
香は自分の席に行った。須坂君は溜息を吐いて椅子に座る。
(律子先輩の座った後だから、温かい)
何故かドキドキしてしまう須坂君である。
律子はお昼休みになる頃には半分意識がしっかりして来て、仕事をこなしていた。
(そう言えば、課長はどうしたのかな? 真弓もいないぞ)
それは律子にはありがたかったが、二人揃っていないのはちょっと怖い。
(もしかして、別れ話がこじれて……)
妄想タイムだ。その手の小説の読み過ぎである。
「係長」
近くを通りかかった梶部係長に声をかける。
「どうした、律子君?」
係長は酒乱の律子に宴会で「襲われた」事があるので、ちょっと彼女が苦手だ。
「課長はお休みですか?」
「ああ、風邪だとか言ってたな。藤崎もそうらしいし」
「そうですか」
ホッとする律子。あれ? もう一人いなかったな。
「真弓はどうしたんですか?」
「真弓君は連絡がないよ。何度か携帯にかけてるんだが、出ないんだ」
係長は律子が考え込んだのを幸いと、サッと逃げてしまった。よほどトラウマなのだろう。
(平井課長が風邪? あの課長が?)
真冬にパン一で寝ているとか豪語していた課長が、風邪? あり得ない。
それから、真弓。心配だ。何かあったのだろうか? 気になる。
「律子」
香が後ろから声をかける。
「キャッ!」
思わず叫んでしまう。
「何よ、失礼な。どうしたの?」
「な、何が?」
先走って余計な事を喋らないように、香の訊きたい事を確認する。
「課長がいない事を気にするなんて、おかしいなって思ったのよ」
「どうして?」
焦る律子。香はニッとして、
「宴会で、係長と部長にはキスを迫ったのに、課長には迫らなかったでしょ? ああ、律子、心の底から課長が嫌いなんだって思ったの」
「えええ?」
律子には、その件についての記憶は一切ない。衝撃の事実であった。
「まあ、後は署の方で伺いましょうか」
鬼刑事香の復活だった。
社員食堂に「連行」された律子は、香捜査官の厳しい尋問を受けていた。
「課長が休みなのを気にするのは何故?」
いきなり核心に迫る尋問である。容疑者律子は顔を強張らせた。
「それは、そのお……」
先日のお惚け作戦は通用しない。律子は諦めて自白する事にした。香を藤崎君のアパートの前で見た事や、自分が藤崎君に会いに行った事は隠して。
「……」
香は驚愕していた。しばらく二人共何も言わない状態が続いた。
やがて香が口を開く。
「間違いないの、それ?」
「うん。只、二人が一緒だっただけで、ホテルに入るのを見た訳じゃないから」
「そうよね。そこまで決めつけるのは良くないけど、でも状況がねえ」
香はアゴに手を当てて考え込む。
確かに、昨日の二人の様子を思い出すと、それが正解の気がしてしまう。
藤崎君は課長に休みの連絡を入れた。課長は何故かそれを課のみんなに話すのを忘れた。
それなのにどういう訳か、真弓は藤崎君が風邪で休んだのを知っていた。
そして、香が課長に藤崎君の事を尋ねると、課長は酷く動揺した。
同じく、真弓も藤崎君の休みを何故知っているのか問い詰めた時、動揺していた。
課長が藤崎君からの連絡を受けた時、そばに真弓がいたとしてもそれほど動揺するのは妙だ。
受けた場所が問題? それとも、時間?
どちらにしても、平井課長と真弓の関係は、限りなく黒に近いグレーである。
但し、律子は香に、真弓が藤崎君のアパートに行った事は話していない。全てを知っているのは、律子だけだ。
「とにかく、この事は誰にも話さないでね。私ももう忘れるから」
「うん」
律子は香に話した事で気が緩んだのか、食事をした事でそうなったのか、午後はまた睡魔との闘いになった。
「先輩!」
隣の新人女子が、船を漕いでいる律子を揺すった。
「ああ、ごめん」
律子はハッとして目を開ける。係長が睨んでいた。でも律子が見ると、スッと視線を外す。
(何よ、文句があるなら、面と向かって言えってえの!)
ムカムカしたので、睡魔が消えた。律子は席を立ち、コーヒーを入れに行く。
「はい、先輩」
どうした事か、須坂君がコーヒーを入れてくれた。
「あ、ありがとう、須坂君」
ニコッとして礼を言うと、須坂君は照れたように笑い、自分の席に戻って行く。
(ああん、何か可愛い、今日の須坂君てば)
朝の出来事を全く覚えていない律子である。
そして。
「真弓、連絡とれた?」
香に尋ねる。香は首を横に振り、
「留守電にもならない。メッセがいっぱいなのかも」
「ふーん」
律子と香は、真弓のアパートに行ってみることにした。
「何か怖いんだけど」
律子の推理小説好きに呆れる香であった。
「何もないわよ。きっと寝込んでて、連絡できないのよ。そんな小説を読んだ事あるから」
「どんな小説?」
妙な事に関心が向く律子。香はムッとして、
「それはどうでもいいから!」
「はーい」
こうして二人は真弓のアパートへと旅立った。というのは大袈裟だが。
「鍵がかかってたら、入れないわね」
律子が言うと、
「真弓は合鍵をプランターの下に入れてあるから、大丈夫よ」
香は抜け目がない。さすがである。
「でも、どうしてそんなところに鍵を入れておくの?」
「鍵を落とした時困らないようによ」
「なるほど」
あ! もしかして、真弓の奴、藤崎君のアパートの鍵の在り処を知っていて、部屋に入れたのかな?
真弓のアパートは、律子のアパートとは逆方向の電車に乗る。会社の最寄り駅から三つ先だ。
「寂しいところね」
律子は真弓のアパートには行った事がない。香が行こうと言い出さなければ、検索サイトで探そうと思っていた。
「あの派手な真弓からはイメージできないようなアパートよ」
「そうなの?」
何か楽しみになって来た。律子のアパートもそれほどお洒落ではないが、いつもキラキラしている真弓のアパートが風呂なし共同トイレなら、何となく嬉しい自分がいる。
「ここ」
到着した。でも、アパートは律子のアパートより新しい。確かに真弓のイメージとは違って、地味な建物だが、風呂なしではなさそうだ。
「二階よ」
香が外階段を昇る。律子も慌てて続いた。
「一番奥の二〇五号室」
外廊下の終点に、小さめの白いプランターが見えた。
「まずはこっちよ」
いきなりプランターを覗こうとして、香に窘められた。香がドアフォンを押す。
しばらく待つが、案の定、返事がない。
「はい」
嬉しそうにプランターの下から鍵を取り出して差し出す律子。
「ありがとう」
その素早さに呆気に取られながらも、鍵を受け取る香。
ガチャっと鍵が開く。香はゆっくりとドアノブを回し、引いた。
キーッと小さい音がして、ドアが開く。思わずゴクリと唾を飲む律子。
「真弓? いるの? 大丈夫?」
玄関に真弓の仕事用の靴があった。どうやらいるようだ。香は手探りで明かりのスイッチを押した。途端に「現場の惨状」が明らかになった。シンクには汚れたままの皿が積み上げられている。律子は自分の部屋にいるような気がして来た。
「上がるわよ」
香、律子の順で、キッチンに上がる。ガラス戸で仕切られた向こうに真弓は寝ているのだろうか?
「真弓?」
香がガラス戸を開いた。キッチンの明かりが中を照らし出す。
「おお」
そこには洗濯物らしきものの山があり、部屋の隅から隅へと渡されたロープに数えきれないほどのハンガーが下げられていた。そして部屋の中央に、まるで芋虫のように布団を被って寝ている真弓がいた。中は空気が澱んでいて、病気になりそうだ。香はカーテンを引き、窓を開いて空気を入れ替えた。
「真弓、大丈夫?」
「フゴ?」
ようやく真弓は目を覚ましたようだ。
「香? 律子?」
彼女はビックリして飛び起きた。上下スウェットで、髪がボサボサの上、化粧をしていない真弓は、別人のようだった。
「ど、どうしたの、一体?」
「どうしたのって、貴女が無断欠勤したから」
「え?」
真弓はキョトンとしている。そしてようやく記憶の混濁が収まった。
「わああ!」
枕元の目覚まし時計を見る。
「全然目が覚めなかった……」
真弓は落ち込んでしまった。香は呆気に取られていた。
「今までずっと寝てただけなの、貴女?」
香の質問に、項垂れたままで頷く真弓。何だ、病気じゃなかったんだ。ホッとする。
「何かあったの、昨日?」
香は他意がある訳ではなく、そう尋ねた。
「な、何で?」
今、ビクッとした。やっぱり何かあったんだ。律子は興味津々で真弓を見た。
「真弓が寝過ごすなんて、今までなかったから」
「ああ」
真弓はボサボサの髪を手で梳かしながら、
「ちょっと昔の知り合いに会って、遅くまで飲んでたのよ。それで起きられなかったの」
と明らかに嘘とわかる事を言った。酒の匂いなんて、この部屋には全くしていない。
「そうなの」
香も、真弓が嘘を吐いているのをわかっているから、視線が冷たい。
「病気じゃなくて良かったわ」
香は窓を閉めてカーテンを引くと、
「帰るわね」
と律子に目配せした。律子はオタオタしながら、
「あ、うん」
真弓は、いきなり現れて、サッサと帰って行く二人を、呆然としたまま見ていた。
「黒ね」
アパートの階段を降り切ったところで、香が呟いた。
「そうね」
律子も同意した。
「でも、何があったんだろう?」
香は歩き出して言った。律子はそれを追いかけて、
「こうなって来ると、課長が風邪で休みっていうのも、怪しいわね」
「そうね。もしかして、奥さんにばれたのかしら?」
それは怖い。怖過ぎて考えたくない。今頃平井課長は……。
「何を妄想してるの、律子?」
震え出す律子に、香の冷静な突込みが入る。
「とにかく、真弓が病気じゃなくて良かった。それだけにしときましょう」
香捜査官は事件の終結を宣言した。律子は不服申し立てをしたかったが、できなかった。
「次の現場に向かいましょうか」
香捜査官は、律子を見て言った。律子は恐る恐る、
「え? 次の現場?」
「ええ。次の現場よ」
殺される? ついそう思ってしまった律子である。
私の嫌な予感は良く当たる。
律子はそう思って溜息を吐いた。
二人が向かったのは、何と藤崎君のアパート。
律子は心臓が口から出そうなくらいドキドキしている。
「あ、あのさ」
「質問は後で受けます」
前を歩く香は、何者も寄せつけないようなオーラを漂わせていた。
(やっぱり殺される?)
またそう思ってしまう律子。
「知ってるのよね、この先に藤崎君のアパートがあるのを?」
香は前を向いたままで尋ねる。律子は一瞬惚けようと思ったが、それは死を意味するかも知れないと思い、
「うん」
「やっぱり」
やっぱり? どういう事? 昨日何があったのよ? もしかして、香はここに来るのが本当の旅の目的だったの? 嫌な汗が背中を伝う。
そしてとうとう藤崎君のアパートの前に着いてしまった。足が震え出す。
「さ、入りましょう」
香は徐にバッグから鍵を取り出した。
(合鍵!)
ショックだった。藤崎君は、私には渡してくれていないのに……。
「冬矢君、起きてる?」
香が部屋の奥に呼びかける。うわ、冬矢君だって。名前で呼んでるんだ。更にショックの律子。
「あ、香さん?」
奥から掠れた藤崎君の声がした。香は躊躇なく靴を脱いで奥へと行く。律子も慌ててそれを追う。
「あ!」
布団から起き出した藤崎君は、律子が一緒なのに気づき、仰天していた。律子は気まずくて、藤崎君を見られない。
「りったん、どうして……」
そう言ってしまってから、藤崎君は香がいるのを思い出し、ギクッとした。
「ふーん、りったんて呼んでるの」
香の冷たい声がグサッと胸に突き刺さる。
「香さん、これは一体どういう事?」
藤崎君は香に問い質した。香は藤崎君を見て、
「昨日もそうだったわ。私が来たのに、『律子さん?』って言ったわ」
藤崎君は蒼ざめている。
「いや、その、一昨日看病しに来てくれたから、律子先輩だと思って……」
「看病?」
香と律子は異口同音に叫んだ。香が律子を睨む。
「どういう事、律子?」
それは私が訊きたい。藤崎君、真弓と私を間違えてる。でも、それを言ったら真弓を巻き込んじゃうし。
「僕が寝込んでいるのを聞いて、見舞いに来てくれたんだよ。それだけだよ」
どうしよう? このままじゃ、大変な事になりそう。藤崎君のその言葉に、香は気づいてしまったようだ。
「冬矢君、それ、律子じゃなくて、真弓よ」
「え?」
うわあ。参った。真弓も当事者の仲間入り。
「『りったん』ていう呼び名を聞くまでは、律子が貴方に遊ばれていると思ってた。律子をこれ以上騙さないでと言うつもりだったわ」
香はまるで雪女のように冷たい目で律子と藤崎君を交互に見た。
「遊ばれていたのは、私の方だったのね」
香の目から、大粒の涙がポロポロと零れた。
「香さん」
藤崎君が何かを言おうとした時、香は、
「さよなら!」
と叫び、部屋を飛び出してしまった。
「香!」
律子はすぐに香を追いかけた。誤解。誤解よ! 私は藤崎君に合い鍵も渡してもらっていないんだから!
律子は香を追いかけたが、香は信じられないくらい速くて、全然追いつけず、駅に辿り着いた時は、すでに電車に乗って去って行くところだった。
「どうしよう?」
律子は途方に暮れた。
そして、今相談できるのは一人しかいないと思い、藤崎君のアパートへと歩き出した。