手刻み(てきざみ)
よろしくお願いいたします。
古池の苔色の縁取りで個人情報記入欄が区切られた、A3サイズの一枚の用紙。
世界地図のように堂々と、私たちを挟むテーブルの上に置かれている。
二人の将来を決めるその紙の存在は、とても軽くてとても重い。
「あとはキミが、署名と捺印をすれば終わりだよ」
離婚届の縦の線と平行をなすように、修二さんは黒ペンの位置を微調整して言った。
こんな場面でも、ううん、こんな場面だからこそ、その人の習性が出るのかもしれない。
「……」
「キミにこんな思いをさせて、本当に申し訳ない」
修二さんが頭を下げたせいか、いつもより声がくぐもって聞こえた。
今日の曇り空の気圧のせいか、私の耳の聞こえも気分も冴えない。
「他はボクの方で全部書いておいた。ボクの捺印も、ね」
ね、の響きは柔らかい。中には強固な意志が含まれているのに。
「さっきから黙っているけど、何を考えているんだい?」
コーヒーカップの取っ手をつかむと、視線を私に移して修二さんが言った。
男らしい節の太い指4本が、密林のバナナのように綺麗な曲線を描いている。
「二人きりで話し合うのも、今日が最後になるだろう。キミも思ったことを言っていいのさ」
無意識に私の注意を引きつける、黒い関節と日焼け色の指の配色。
気がつけば耳朶にまとわりつく、時計の秒針の音調を私は思い出した。
「……デジタル時計だと」
「え?」
「秒針の音がね、聞こえないのね。この家のデジタル時計だと」
宙に浮いた言葉を、つかみ損ねた顔をしている修二さん。のいる、二人だけの空間がずっと好きだった。
「作業場のあの古い時計がね、よく響いていたなと思ったの」
DIYの好きな修二さんが材料となる木の板を仕入れに行く先は、彼の知人の所有する作業場だった。
◇ ◇
隣県の高速道路を降りて車を少し走らせると見えてくる、錆びたトタン屋根の工務店。同じ敷地内にある作業場に、縦横の長さも大きさも様々な木材がところ狭しと積み上げられて、ゲームオーバー寸前の「テトリス」を思わせた。
訪れるのはいつも工務店が休みの日で、修二さんが個人で使う分には、持ち出す量も大きさも問わないとのことだった。
ホームセンターにある木の板とは、天然魚と養殖魚くらい雲泥の差があると修二さんは力説したが、「ペイズリー柄はミドリムシにしか見えない」と言って怒られるような大雑把な私にとって、修二さんが悩み迷う対象は、どれもこれも同じ「板」だった。
「こっちの木の目は、笑っている気がする。こっちはオスマシさんかな」
ペットを選ぶような観察と愛情のこもった目で、彼は片手で木材をつかみ、もう片方の手で表面を優しく撫でた。
「選ぶの難しそうだね」
「難しいよ。だけど、これも醍醐味の一つさ」
「ふうん」
軽く相づちを打って、私も表面に触れてみる。ざらつきと滑らかさがランダムに指の腹を通過した。
偶然を装って触れた小指の先にも、彼の体温の熱がちゃんと通っていた。
熟考する彼と私の間には、気づくと秒針の音が鳴り響いていた。
私には緩やかなBGMに聞こえたが、彼には耳にも入らない存在だったのだろう。私と秒針音は、いつも影となって彼について回った。
あちこちに落ちている木くずを踏んづけて、私たちは作業場を歩き回った。彼が選び終わる頃には、二人の靴は藁ぐつと見間違うほど茶色いモヤモヤで覆われていた。
木材の素朴な匂いは、いつしか彼の手の匂いになった。
◇ ◇
コーヒーカップを口に運ぶ修二さんの左手の薬指から、結婚指輪はとっくの昔に外されていた。
「手刻みをしていた修二さんの姿が、とても好きだった」
「手刻み? ああ、ボクのは素人だよ。白柿も毛引きも使わない墨付けだし」
コーヒーの香りの向こうに木の匂いを見出すように、修二さんが目を細めた。
「道具の問題じゃなくて。修二さんの、あの手つきが、すごく好きだった」
最後に見た時の記憶を手繰り寄せようと、私は白目になりそうなほど視界の隅をにらんだ。
◇ ◇
手刻みとは、大工仕事の際に一つ一つの工程を手作業で仕上げる加工方法のことだ。
あの時の作業内容は、小さなコーヒーテーブルのベースとなる十字部分の組み立てだった。「十字相欠き継ぎ」と呼ばれ、細長い長方形の木の板二枚を各々半分ずつ切り欠き、できた隙間部分を十字に組み合わせて継ぐという手法だ。
選んだ木材を作業場のテーブルソーとカンナ盤で平面図の断面寸法に整えた後、修二さんは、木の板に加工する目印をつける「墨付け」の作業に入った。
鈍い黄金色の端がね二本で板の両端を固定すると、左利きの修二さんは、右手で直角定規のスコヤを器用に当てて、シャーペンを持つ左手を細かく動かし始めた。
シャーペンを握る親指の爪が、日焼けした指と対照的に白い。一筆書きのように迷いなくスッと線を引いては、板の向きを変えて四面を線でつないでいった。
板の色はブラックチェリーで、赤味のある色のところどころに、薄い唇のような黒い筋状の模様が入っている。
彼の指がその上をなぞると、体の敏感な部位をなぞられたように、私の後頭部がぞわぞわとした。
「うらやましいな」
「なにが?」
顔を上げずに修二さんが聞いた。
黙って後ろから抱きついたら、やっぱり、優しい木の匂いがした。
「十字相欠き継ぎ」の工程の間、修二さんはずっと前のめりの姿勢を崩さなかった。
切りすぎていないか、刃の細かい導付ノコギリで横挽きに少し切っては手元をのぞきこみ、またおそるおそる切る、を繰り返す。
「フッ」
ときおり修二さんがさらにかがみこんで、息を吹きかけた。
ミニチュアのダイヤモンドダストのような細かい木くずが、宙を舞う。
木の板の黒い筋は、彼の愛撫に目を細めているようにも見えた。
墨付けした部分をノミと金槌で粗どりをして、ポロッと木片が取れた瞬間、修二さんの頬がホッと緩んだ。ここで失敗すると取り返しがつかないだけに、一番の山場を越えて安堵の表情を隠せなかった。
「ああ、もうこんな時間だ」
「修二さん、いったんお昼休憩にしない?」
作業場の時計の針は午後一時を指していて、木材を選び始めてからすでに三時間以上の経過に二人とも驚いた。
「夢中になっていると、あっという間に時が過ぎるんだな」
「そうね……私も、夢中になってた」
時計の秒針の音が、また耳元で復活し始めた。
◇ ◇
コーヒーカップを飲み終えた修二さんが、あさっての方角を見ながら口を開いた。
「最後にハンマーで叩いて、十字に組み合わさった時がボクは一番好きだな」
彼のカップに二杯目を注ごうと、私はティーポットに手を伸ばした。
その手を、修二さんのてのひらが包んで押しとどめた。
熱のような苦しい温かさに、手元がしびれた。
「……触らないで」
火傷したかのように、私は素早く手を引っ込めた。
コーヒーの苦味が、思い出したように舌を刺激する。
「自分勝手で、本当にすまないのだけれど」
修二さんが左手で黒ペンを指さした。
「……」
私は胸を両手で押さえて、細く長くため息をついた。
「どうしたんだい?」
やっぱり声が、ぼやけて聞こえる。
私はさっきから、修二さんの手しか見ていない。
あの日の秒針の音が、いろんな工具の音とともに耳の中を支配し始める。
目に焼き付けた手刻みの光景が、彼の太い指から次々と連想されていく。
スコヤで測ってくれたのは、元々、情緒不安定だった私の機嫌。
ノコギリで切られたのは、信頼していた私の心。
ノミで打ち砕かれたのは、愛人に負けた私のプライド。
十字にかっちり組み合わさった二枚の板。
そんな風に、隙間もないほど手をつないでくれたこともあったのに。
頭を撫でてくれた手、荒々しく愛してくれた手、笑顔で振ってくれた手。
脳裏に満開の桜のように広がる、無数の彼の手が、いま思い出になろうとしている。
「……だって、失いたくないんだもの」
「なにを?」
他の誰かが愛でるくらいなら。
秒針が時を刻むように、いっそ無限に刻んで葬り去りたい。
「あなたの手」
修二さんと私の視線が、向き合ってから初めて絡んだ。
(了)
最後までお読みくださり、誠にありがとうございます。