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プロローグにすらならない一幕『×××は学園の前で■■■と出会う』

 入学式は誰にとっても特別な感情が沸き起こる神聖な儀式だと思います。


 新しい環境に身を置くための大切な儀式。新しい学問を教授して頂くための重要な儀式。これからできる新しい友達や、新しい部活に励むための慣例の儀式。


 クラスメイトの誰かと恋に落ち、恋愛を楽しむこともあるでしょう。信頼し合った仲間たちと一致団結して、困難な目標に立ち向かうこともあるかもでしょう。そんな風に、これからのことを思うと若人は期待に胸を膨らませずにはいられなくなるのです。


 美しい青春を謳歌できる日を心待ちにするのが、入学式の心の準備だと定義します。


 故に私の心臓が跳ね上がるほど鼓動を打ち続けているのも、至極当然の現象と言えるでしょう。緊張のあまりきつく唇を強く結ぶのも、それもまた至極至極、当然と言えるでしょう。


 私はなで肩にかけたカバンの紐を強く握っていた右手を離しました。掌を開いてみると汗でぐっしょりと濡れており、深く握ったことで爪の跡が食い込んでいます。どうやら自分でも気づかないぐらい力を入れて握り締めていたようです。


 私はポケットからハンカチを取り出して掌の汗を拭うことにしました。ですが、手が震えていてうまくポケットから取り出すことができず、ハンカチは地面に落ちてしまいました。白い敷石でできた石畳の道に落ちた赤いハンカチは、まるで血溜まりのように目立ちます。

 私はしゃがんでハンカチを拾って、しかし、膝が震えて立てませんでした。



「わ、私は一体なにを緊張してるんですか。まだ何も始まってないのにこんな有様、無様じゃないですか」



 体が緊張で強張って、言うことを聞きません。明らかに“この先”に進むことを体が拒んでいます。この正門の先へ進入するのを、学校の領域内に身体と魂を捕縛されるのを拒否しています。


 そう、私の緊張は普通ではありません。

 入学式が始まるからだとか、新しい人生の幕開けだからとか、そんなありきたりなイベントに緊張しているわけではないのです。


 今私が感じているのは、恐怖。それも圧倒的な恐怖。この門を潜れば、私はもう引き返せなくなるという過去との決別からくる恐怖。私にとってのポイント・オブ・ノー・リターン(引き戻し不能地点)は、まさに今、私が存在しているここ、学校正門前なのです。



「関係ありませんよ。私は、せ、世界に選ばれた子供なんですよ。この先の世界にビビる必要なんて、ないんですから」



 声に出して、言い聞かせて、弱音を抑え込もうと必死でした。不安という黒い絵の具に心が塗りたくられそうになるのを、明るい未来を想像して阻止しようとしました。

 それでも恐怖や不安は晴れず、心を絶えず攻撃してきます。

 昨日から。一昨日から。一昨昨日から。いえ、もっと前から。



「私の背中には、人類の未来がかかっているのですから……」



 登校拒否する虐められっ子のように羽ばたくのを怖がってはいけない人種なんです、私は。

 だって、世界に選ばれた人間なんですから。だって、世界をよい方向に導く役目を負っているのですから。だって、だって私は……。



「――ねえ。あなたも、新入生なの?」

「ひゃあっ!?」

「わあっ!?」



 その時、後ろから声を掛けられたことに仰天して、膝の震えも忘れて、飛び跳ねるように立ち上がりました。



「ご、ごめんなさい。まさかそんなに驚くとは思ってなかったわ。別に驚かせるつもりは無かったんだけれど」



 おっとりとした声に導かれて背後を振り返ると、そこにはいつの間にか女の子が立っていました。

 いつからそこに居たのか……全く気づきませんでした。おそらく茫然自失としている間に近寄ってきたのでしょう。でなければ、足音で気づいたはずです。



「す、すみません! こんなところに座り込んで、邪魔でしたよねっ。い、いい今どきますからっ」

「邪魔なんてことはないよ。……ハンカチ落ちてるけど、これはあなたの?」

「へ? ――あ、あれ?」



 自分の右手を見ると、手には何も持っておらず、赤いハンカチは石畳に再び落ちていました。どうやら、立ち上がったときに手からハンカチが零れてしまったようです。

 目前の女の子は腰を折って私の足元のそれを拾うと、私に差し出してくれました。私は慌てて、表彰状を貰う時のように頭を下げながら、私は受け取ります。



「ど、どうも……」



 みっともない所を出会ったばかりの人にお見せしてしまっています。なんとも恥ずかしい……。



「緊張してるの?」

「え……」

「だって、顔色がアオミドロ色なんだもん」

「あ、アオミドロ色って何色!?」

「それに額に汗を浮かべてるし、目を右往左往させて挙動不審だし、生まれたての小鹿のように足を震わせてるし、寝癖で後ろ髪がぼさぼさなんだもん」

「え、嘘っ、寝癖ついてる!?」



 私は慌てて髪を触って確認します。ちゃんと今朝鏡の前で百回も確認したのに!

 でも、いくら触ってもそれらしい寝癖は見つけられませんでした。不思議に思って女の子を見ると、口に手を当ててくすくすと忍び笑いしていました。



「な、なにを笑ってるんですか? 寝癖は……」

「ウソウソ、冗談だよ! 寝癖なんかついてないよ! 可愛い髪形だよ、大丈夫」

「へ、嘘、冗談? ……な、なーんだ。焦りました……」



 私は比喩表現ではなく本当に胸を撫で下ろしました。寝癖がついたまま宿を出て街を通り過ぎてここまで歩いてきたなんて、恥ずかしくて耐えられません。



「あははっ、ごめんごめん。でも緊張は解けたんじゃない?」

「へ、緊張って……。あ、そう言えばそうかも……」



 あれだけ未来が不安だったのに、憑き物でも落ちたように清々しい気分でした。ここ数ヶ月の間悩ませていた問題が、まるで些細なことだったように感じられます。

 女の子を見つめる私の顔は、きっと鳩が豆鉄砲食らったみたいにきょとんとしていたのでしょう。私に見つめられた女の子がまた愉快そうに笑い出しました。



「うん、顔色も戻ったね。それなら大勢の前に出ても安心だよ」

「あ、ありがとうございます。このところ不安で、夜も眠れなかったものですから……」

「熟睡できてなかったんだ。そりゃ大変だね。私なんか夜に八時間、お昼も八時間眠ってるから、毎日快眠だよ」

「そ、それはそれでどうなのでしょう。一日十六時間寝るのはさすがに寝過ぎじゃないですか?」



 起きている時間の方が短いのは驚異です。それだけ日中寝ているとなると色々障害もありそうな気がするのですが。



「大丈夫! 確かに寝る時間はちょっと人より多いけど、その分悪夢を見てるから、むしろ寝れば寝るほど精神値はガリガリ削られてるんだよ。だからそれでプラマイゼロなんだ」

「それって、清算……されてるんでしょうか?」



 でも、悪夢しか見ないのに快眠と言い切れる精神は凄いです。少し話しただけだけど、この子がとてもタフだということは分かりました。

 この子はなんだか不思議な子ですね。この子と友達になれば、私も何か変われるかもしれません。

 世界中の人が聞いただけで羨む学校に入学するのに、明るい未来を創造することができない私のへっぴり腰を治せるかもしれません。



「あ、あの!」

「ん、なあに?」

「お、お名前教えていただいてもよろしいでちゅかっ!?」



 ……か、噛んでしまいました。

 最悪で最低の結果です。言葉を噛んだ結果、なぜか赤ちゃん言葉になってしまいました。これでは相手のことを馬鹿にしてると思われてしまっても仕方がありません。



「いや、あの、“でちゅか”って言ったのには深い理由がありまして! いえ、嘘ですっ! そうじゃなくて今のは噛んだだけでして決してあなたのことを下に見てるとかそんな理由じゃあ――」

「お、落ち着いてよ。何となくわかるからさ」



 女の子は私の肩に手を置いて、ぽんぽんと叩きました。すると不思議な事に、焦る気持ちが消えました。



「私の名前は■■■・■■■■だよ」



 あまり聞き覚えのない名前ですが、すんなりと脳内に音の響きが刻み込まれました。

 


「■■■さん……ですか」

「そっちの名前は? なんて言うの?」

「あ、すみません。本来名前を聞くときはまず自分から名乗らなければならないのに、あなたから名乗らせてしまって」

「あはは、いいってそんなの。で、名前は?」



 私は■■■さんに自分の名前を告げました。■■■さんは私の名前を咀嚼するようにうんうんと頷くと、にかっと笑って答えました。



「お互い新入生同士、これからよろしくね!」

「は、はい! こちらこそよろしく、■■■さん」



 五分前まで私の心は、不安と恐怖に苛まれていました。

 新しい出会いなんて自分にあるのだろうか、いやないでしょう。なんて反語を用いて希望を否定しようとしていました。


 私は間違っていました。どんな人にも転機は訪れる。そのことを、■■■さんとの出会いから学びました。

 きっとこの屈託のない笑顔の傍にいれば、私の性格の暗さなんか吹き飛んでくれるでしょう。この純真な目に見つめられたら、私は努力する気になるでしょう。


 私の、初めての友達。



「■■■さん……か」

「ん、何か言った?」

「……いいえ、なんでもありませんよ。それよりもロビーに急ぎましょう。入学生が集まってくる頃ですよ」

「立ち止まってたのはそっちでしょー。ま、いいや。急ぐか!」



 出会ったばかりなので手を繋いだりはしなかったけど。

 それでも絆は確かに私たちの間に生まれました。

 もう私は後ろを向いたりなんかしません。前だけを向き続けて歩いて行きます。


 ■■■さんと一緒ならそれが叶うはずだから!

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