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定刻を知らせる音が鳴った。夜が死んだ。僕は音を止め、のそのそと歯を磨きに洗面台へと足を運ぶ。鏡に映る寝癖が、僕の意識を覚醒させた。
歯を磨き、顔を洗い、朝ごはんを食す。トーストにはピーナッツバター、そうしてバナナ。気が向いた時にはコーヒーもつけて。新聞だって忘れてはいけない。そういう、やるべきことを消費する毎日を、今日も送るはずだった。
日常に辟易しながらも安住していた僕は、日常が崩壊して初めて、そもそも変わらないものなどないと自覚する。犯人は、新聞の間に申し訳程度に挟まっていた手紙だった。宛名もなければ消印もない。紙にはただこう書いてあるだけだった。
ーー明日、精霊流しが終わったら流し場で待ってて
僕は訝しみ、一体誰のいたずらだと差出人を確認する。
ーー斎藤夕
僕は急いで携帯を確認した。2021年 8月14日 午前7時17分。僕が思っている日付と同じだった。視認と同時に写真のアプリを開き、スクロールする。写真を撮る方ではない僕は、すぐに探していたものを見つけることができた。
2020年 8月13日 9時21分 斎藤夕と共に写った最後の写真。
僕は座り込み、携帯をベットへ放り投げた。今までの一年は全て夢であるかと、バカなことを考えた自分に嫌気がさす。そんなはずない。何度も何度も、僕は墓参りに行ったのだから。
斎藤夕は、亡くなった。
窓を開けてベランダへ出る。世界新三大夜景に数えられるこの街の景色が、彼女は好きだった。朝だと言うのに人々の声が街に木霊していて、僕はなんだか虚しくなった。この時期の町は、僕と同じく空元気だった。
「ああ、明日は精霊流しか」
僕は独りごちた。精霊流しは初盆を迎えた故人の家族が、精霊船と呼ばれる船に故人の霊を乗せて、流し場という終着点まで運ぶ、地域の行事だ。久しぶりに会う故人が寂しくないようにと、この日はみんな笑ってド派手に爆竹を鳴らす。大丈夫、私たちは元気だよ、あなたも幸せで。そんなことを思って行うのだと昔誰かが言っていた。
「夕、初盆だな」
天を仰ぐ。原色の青をそのまま貼ったような空だった。今日はさぞかし星が綺麗だろう。昨日のニュースでペルセウス座流星群が15日に極大だと言っていた。彼女も、喜んでいるだろう。僕はいてもたってもいられず、適当な服をきて街の外に出た。
ーー明日、精霊流しが終わったら、流し場で待ってて
探さなければいけないと思った。誰かが、僕に伝えようとしていることがある。
***
公民館へ行くと、10人くらいの人が精霊船の制作に取り掛かっていた。夕が乗る、精霊船だ。大まかに形が作られている所だった。
「こんにちは」
僕より2回り上の人たちがほとんどだったが、知っている人ばかりである。僕の声に振り向いた駄菓子屋のお婆ちゃんは目を見開いた。
「あんたはもしやしゅー坊か、大きくなってぇ、え?」
「はい、お久しぶりです」
長年の苦労の分だけ厚くなった手のひらが僕の肩を叩く。
「そがんかしこまらんちゃよか!夕ちゃんに会いに来たったい、精霊流し参加するとね?」
「いいんですか」
「ああ、人数の足りとらんけんね、手伝うてくれたら助かる助かる」
あれよあれよと言う間に僕は輪の中にいた。明るく振る舞う人ばかりだった。彼らは昔よりも着実に歳を重ねていて、何だか悲しくなった。
造花を飾り終え、盆提灯を飾っていると、不意に視線を感じた。顔を上げると夕の父親がこっちを見ていた。目には深い悲しみと、憤りがある。僕は口を開こうとして、Tシャツの裾を引かれた。
「今は話しかけなさんな」
「……」
「奥さんば亡くして、その翌年に子供ば亡くして、あいはちぃっとまいっとるけん、あんまり聞かんが良か」
「……はい」
小声の会話が終わる頃には、彼はそっぽを向いていた。
***
夕暮れ時が近づくと、帰る人もいれば来る人もいた。
「しゅーや!」
「千鶴!来たのか!」
「そりゃーね、大親友の初盆ですよっと」
千鶴はそのポニーテールを揺らしながらかけてきた。周囲の空気もどこか明るくなる。
「あら、千鶴ちゃん!」
「どうもー!」
千鶴は輪の中に溶け込んでいった。この町は、本当にいい町だ。心からそう思う。空が高くて、人が暖かくて、海が近くて、景色が綺麗で。完璧な町に、ただ彼女だけが欠けている。ため息を飲み込み、鼻から息を吐くと、その音が重なった。
驚いて横を見ると、夕のお父さんがいた。
「葬式以来か」
「はい」
夕のお父さんは近くで見ると小さく見えた。幼い頃、夕のお母さんが病気になってから塞ぎ込み、外にあまり姿を見せなかった彼と、僕は会ったことがほとんどない。彼が覚えていることが意外だった。
「夕が言ってたんだ」
「……え?」
「去年、精霊流しの後、人と会う約束をしたいから遅くなるって」
僕は黙り込んだ。
「君だろう」
幸運なことに、彼は僕が口を開くまで待ってくれた。
「……何を、伝えたかったか、言ってましたか」
彼は目を伏せ、その後ゆっくりと空を見上げた。
「思い出話をしようか」
断る理由はなかった。
「夕の母親の亡くなった後、一番側で夕を支えたのは恥ずかしながら俺ではない。君と、千鶴ちゃんだ。俺は自分で一杯一杯だった。不甲斐ないよ、全く」
僕は首を振る。
「あの子は星が好きだったろう」
「はい」
「事故にあった1年前の今日、最後に会った時もペルセウス座流星群を楽しみにしていてね」
容易に想像がつく。僕にあった時もはしゃいでいた。
「精霊流しが終わったら見ようって言ってたよ。あれはお母さんなんだって」
そこまで言って、彼は目を覆った。今度は僕が目を伏せた。
今日の夜も、星が降る。
僕はそれが、たまらなく悲しかった。
***
翌日の朝は流石に新しく手紙が入っていることなどなかった。僕はあの手紙をそっと撫でた。なんの変哲もない紙なのに、ずっしりとした質量が確かにあった。
「しゅーや!!!」
窓の外から千鶴の声がする。大方、僕を呼びにきたのだろう。外に出ると満面の笑みの彼女がいた。法被のサイズを確認するらしい。僕たちは足早に公民館へと向かった。
机の上に並ぶ皿うどんは太麺も細麺も揃っていた。近所のお弁当屋さんのお弁当も揃っている。表面上は、お祭りのようだった。僕たちは太麺が好きか細麺が好きかと言ったくだらない話をしながら準備を進める。
「そういや、しゅー坊は彼女とかおるとね」
「え、いや、いないですよ」
「あら、良か男とにもったいなか!」
地元特有の面倒で、そして温かいやり取りも次第に始まった。
「じゃあ、好きな人とかは?おばちゃんだいにも言わんけん言ってみんね!」
「いないですよ」
僕は苦笑した。千鶴が心配そうにこちらを見ていた。その顔を見て、彼女は僕が好きな女の子を、知っているのだと悟る。
「…………いないです」
「あらまぁ、これからたいね!」
その言葉に、これからがあるのかと思考して、そんなふうに考えた自分が悲しくなった。
***
始まりの花火が夕がいる空へと上がる。船に飾られた夕の写真が直視できなかった。
「しゅーや?」
千鶴が顔を覗き込む。
「ああ、わりぃ」
僕は首を振って爆竹を手に取った。一箱一気に火をつける。出来るだけド派手に、彼女が、寂しくないように。
「あはっ、すっごい音!」
「耳栓しててこれかぁ!」
爆竹には、魔除けの意味があると言う。じゃあもっと、たくさん鳴らそう。段ボール3箱分の爆竹は、終わりがないように思えた。
「ねぇ、しゅーやー!!」
「なんだー!!」
近くでも大声で話さなければ聞こえないほど、爆音で爆竹が鳴る。
「せっかくだしさー!!」
「おう!」
「夕の話!しようよ!」
それは僕たちがずっと避けてきた話であり、僕たちが封じ込めていた記憶であった。
『ねね、しゅーやー』
『んー』
『お母さん、もう長くないんだって』
『ん』
『私、何もできないなぁ』
彼女の声が、温度が、思い出せなくなっている。僕は怖かった。
『しゅーやー!』
『んー?』
『今日の宿題見せてー!』
『絶対やだ』
見せてやればよかった。
『しゅーやー!千鶴ー!』
『なんだよ』
『何?』
『3人でさ、夏休みの最後に科学館いこーよ!』
『ああ、展示来るんだっけ』
『そう!約束!!』
『ああ、約束な』
約束、したままだ。
『修也!』
『千鶴!夕は!!』
『交差点でバイクに轢かれてから、意識が戻ってない!!』
『夕!!!!』
僕は爆竹を鳴らした。たくさん鳴らした。心の雑音を吹き飛ばすほど、大きな音を立てた。
「色々あったな」
「ね」
「私、夕、大好きだなぁ」
千鶴は話の終わりにそう言った。
現在進行形なのが、妙に嬉しかった。
船が流れていく。船は自治会の人たちが処分する。若者はもう戻っとれと言われて、僕と千鶴は2人で流し場に立っていた。
最後の爆竹が燃える。
赤く、熱く、美しかった。
***
船が流れた後も、僕は流し場にいた。きっと、来ると思っていたからだ。夕ではない。手紙を出したのが夕かと、本気で考えた。お盆になって帰ってきた夕が、僕に何かを伝えるために手紙を出したと思いたかった。だけどそれはありえない。
やがて、コツコツと音がした。夜の海は暗く深かった。振り返らずに僕は言った。
「千鶴だろ?」
「そうよ」
千鶴が僕の横に並んだ。
「あの手紙、私が出したの」
午後10時32分。空気が冷たい。海の近くだからか、誰かの涙のせいか、塩の匂いがした。
「去年、頼まれてたの。あなたに渡してって」
夕の親友は、悲しそうに笑った。
「夕が言いたかったこと、気づいてるんでしょう?」
夕が、言いたかったこと。それは、僕が言いたいことでもあった。呆然としている僕を横目に、彼女は去っていった。僕はそれが嬉しかった。1人になりたかった。
『ねぇ、しゅーちゃん』
記憶が、溢れる。
『1つの流星が輝いている間に願い事を3回唱えると、願いが叶うんだよ』
『無理だよ、だって1秒くらいしかないだろ?』
『んーん、たまに数秒くらいのもあるよ』
『本当に?』
『うん』
『だから、できるんだよ』
『……そっか』
『もし、願い事言えたらさぁ』
記憶の中の少女は頼りなく笑った。
『お母さん、帰ってくるかなぁ』
世の中には、嫌な奴なんて腐るほどいる。いい奴なんて一握りだ。それなのにどうして、あいつが、あんなに優しい奴が、死んでいったんだろう。
何時間、ここに座っていただろうか。
僕は空を仰いだ。
今日は、ペルセウス座流星群の極大。
そして、亡くなった人々が、帰ってくる日。
「僕を、あの日に」
降ってくる星に泣きながら願った。
あの日に戻れたら、必ず救う。だからどうか、一度だけ、僕に救いをください。
肩に温かい何かが触れた。夕とよく似た、けれど異なる匂いがした。
「夕の、お母さん?」
僕は揺らいでいく意識の中でそう呟いた。
***
定刻を知らせる音が鳴った。夜が死んだ。
「はぁ、はぁ、はぁ」
起きるなり、僕は携帯を掴んだ。
2020年 8月 13日 7時17
朝が、生まれた。




