第四話 異世界
男の目が開く、映るのは一面のベージュとそれを区切るように伸びた細長い焦茶色。
(……漆喰と、梁か? ……天井だな。私は助かった、のか……?)
疑問か確認か、熟考する間もなく寝台に横たわるその身体に声を掛けられた。
「おう。起きたか」
(ギリシャ語……か?)
男は錆びた金具を取り外すかのように遅々たる動きで、ぎこちなく顔を横に向けた。その声からも察する事は出来たが、声の主は男。
その男は扉手前の椅子に背を預け、後ろを結んだ長めの黒髪に髪色と同じくする漆黒の黒目、襟元の折れ曲がった珍妙な白い上着に黒のズボンをはき、腰の帯革からは曲剣を下げている。
横の机には2冊の本が重ね置かれており、その噛み合わない方向から先程まで読んでいたことを窺わせる。
「おーい、イジシカ殿ーー。起きたぞーー。水を持ってきてくれーー」
腰掛ける男は閉ざされた扉の向こうへと声を送る。顔もそうではあるが、声は若々しく、張りのある声、普段から声を出す機会があるのだろうか。
(彼、いや彼らに助けられたのか?)
寝台に横たわっていた男は必死に瞼をこじ開け身体の重さに逆らう。
「お主、もう起きて大丈夫なんか?」
その声を無視するように体を立て、ベッドから足を投げ出た。
「ど、どうしたんじゃ?」
背に品の柱を入れ胸を張り、優雅な美声を出そうと息を吸い――
「げほっ、っげっほげほ」
情けない悪声が漏れ出す。口を覆い丸くなる男に対し、黒髪の男はすぐに肩を掴み、心配を向けた。
「おい、無理はするもんじゃないぞ。安静にせい」
「…ぃ…みぃ…ずぅ……」
「一日も寝てたんじゃ、仕方なかろう」
「ッ!!」
一日という響きに驚嘆する、がその驚きは音にならない。
(一日、だと!!)
代わりに目が縦に大きく見開かれた。
しかし男が驚くのも束の間、奥の木製ドアが横に開かれた。
「あ、あの…大丈夫でしょうか?」
ドアの隙間からイジシカと思われる水差しとコップを手に持った少女が半身を覗かせた。
男は始め、この黒髪の娘かと思ったが、受け取る容貌の差異からそれは考え難いと悟る。
雲のようにふわっとした亜麻色の髪に大きな蒼い瞳、この男との血縁的関係を否定するにはそれだけで十分足るものだ。
なら何故、という疑問は残るが。
しかし疑問だけで干ばつは止められない。男は極重な体を持ち上げ、牛歩のような足取りで潤いを求める。
「あ、少し待ってください」
イジシカは半透明のコップに透き通った水を注ぎ始めた。
(今すぐにでも飲みたい……っ!)
小さい両手から水を奪い取り口へ流し込む、という欲が心に魔を射し込むが、男の尊厳がその両手を抑え込む。
(あと少し、我慢だ……)
とくとくとく、と水が滝となり滑らかに流れる。極稀響くぽっちゃ、という高音がコップの中へと精神を引き摺り込みつつ音色にアクセントを加え、注がれる度に水面の波紋は様々な顔色を現す。
(ここまで水の音色に耳を傾ける事もそうそうあるまい)
水が満たされ、差し出されるイジシカの左手に男は畏敬の念さえ覚えていた。だがそれらの雑念は口内に浸み込む湿り気と、喉への心地よい痛みによってその頭から解き放たれる。
「……っはぁ! 感謝する、幼き童よ」
(本っ当に、ありがたい! 身体が生き返るぅ!)
「あ、は、はい。……まぁ、童じゃないですけど……」
イジシカは顔を俯け、言葉が尻すぼみなったためか、最後の言葉は男の耳には届かない。
「そうじゃぞ感謝せい。大怪我しちょったお主を治したんもイジシカ殿じゃぞ」
「真であるか、重ね重ね苦労を掛け申し訳ない」
余裕が出たのか男はコップを左手に右手を仰ぎ、声高に謝辞を述べる。
「あ、は、はい」
イジシカは男が大仰に振る舞ったのに対し頭を軽く下げた。
「ところで、」
話が切り替えられる、どういった質問が来るかは男にも概ね見当がつく。
「お主の名は何と申すんじゃ?」
「……それは……」
一瞬の内に男は最善の回答を勘案する。
「あぁ、名乗った方がよかったか。こっちがイジシカでわしは新左衛門じゃ」
しかしその返事を待たずして発せられるふと思い出したかのような名乗り、新左衛門と名乗る黒髪の男は手を少女に向け、少女はそれを受けお辞儀を男へ送る。
「……わた、っ! 余はドラガセスじゃ」
新左衛門のペースに危うく素が現れそうになったが、男はその場で問題の無い解答を導き出した。
(ドラガセスとは母方の姓、これを知りえているのはほぼ自国内の者しかいないはずだ。もし知っていたとしてそれは高官、だが彼らはどうだ……)
確かに服装について、シンザエモンは奇抜、イジシカの服は上等だ、しかし決して華美ではなく二人の振舞いも高官とは程遠い。
「はー、かっこいい名じゃな」
「そ、そうですね」
(やはり、大丈夫だ。疑ってしまったが本当に助けてくれただけだろう。姓である事さえ咎められないのは意外だが)
しかしドラガセスの気は抜けない。
「ふふふ、当然である。……ところでここは何処なのであろうか? 見たところ家内のようであるが」
「あぁ、ここは帝都ん第六区画のわしらん拠点じゃ。今他ん者は出払っちょるがな」
(ん?ここは帝都なのか?……にしても第六区画? とはなんだ?)
「だ、第六区画……か。……そうであるか」
ドラガセスは疑問を手にするが発する事は無い。
「そ、それよりあんな森で、何をしていたんですか?」
最も口の詰まる質問がイジシカからドラガセスへと投げかけられた。
「そ、それは……」
(目覚めたら化け物と戦う羽目なりました、とか頭がおかしいと思われるだけだろう。何と言えば良いのか……)
「森ん中に戦さ装束、まさかドラガセス殿……」
(まさかこいつ……私の素性に気付いたのか!? 帝都は既に敵の手に落ちているはず、なら敵に売り渡されるかもしれない……ッ!)
ドラガセスは自身の腰を見遣る、が剣は無い。鎧は外され、彼の服も新左衛門の珍妙な服装に近い、もし戦うとすれば勝算は高く見積もれない。
「冒険者か!」
「……は?」
不可解な単語にドラガセスの顎が落ちる。
(冒険者!? こいつは何を言っている、なんだ冒険者とは? 探検家のことか?)
「違うんか?」
「……まぁ、そんなところ、だな」
ドラガセスは顔を逸らし、小さな同意を曖昧に返すしかない。
「おう!同業者か。あん魍魎どもを一人で相手取るんは大変じゃったろうに」
確かな違和感にドラガセスは眉をひそめる。
(ん? こいつも化け物を見ているのか? なら何故当然のように振る舞える?)
「おい……この辺りでは、あのような者どもがうろつくのは当然であるのか?」
「も、元々帝都の辺りにはそれほど魔物はいなかったんですけど、さ、最近近くに一匹の魔王が現れたって……」
新左衛門の初めからいた、と言わんばかりの発言、魔王という響き、その全てがドラガセスの知る帝都からかけ離れていた。
(確信した。ここは、私の知る帝都ではない)
「すまぬ、もう一度聞くがここはどこだ?」
確信に身体が突き動かされる、間違いという望みにかけて。
「は?じゃから帝都の……」
「聞き方が悪かった、ここは何帝国の何という都市名なのだ?」
「か、カイザリア帝国の帝都ジンクトンです」
言葉の重みがドラガセスの両肩に圧し掛かる、指は小刻みに震え、頭を知識が駆け巡る。
(神よ、これは私への試練なのでしょうか?)
しかしどれだけその記憶の底を漁ろうと耳にした名前が見つかることは無い。
(化け物自体も見たことも、そんな国や都市の名も聞いたことは無い。もはやここは私の知らない世界……。自身の知識が世界の全てでは無いことなど分かり切っている、しかしこの世界は根本からして作りが違う)
素朴な農民達は悪魔の存在を心から信じている、先人たちはモンゴルの火薬兵器をドラゴンと呼んだ、だがそんなものは存在しえない、そのことはドラガセスも理解している。道徳を守らせるための寓話的存在、理解出来ないものへのこじつけ、そう捉えられるはず、いやべきである。
されども現に存在し、彼らはそれをさも当然のことかのように振る舞う、そんなことがありえるとすれば西方教会の地獄、煉獄に近い。しかしそういったものはドラガセスにとって他派の考えに過ぎず、自然とその頭は一つの結果に帰結する――
(間違いない、異世界だ)