第一話 全ての始まり
ばっ、と男の上体が起き上がった。その頭は混雑としており、例えるなら思考を匙でかき回されたかのような感覚。
(なんだ!?どうした、どうなっている。)
男の眼前には、赤茶色の落ち葉が盛り付けられた自身の足が投げ出されている。
(今のは、夢……か?)
土で汚れた手の平を指で包んでみれば、確かな感覚が肌に伝わる。更に夢ならば薄れゆくはずの光景が頭から離れない。
(いや……おそらく、記憶だ。)
男は惚けた頭を上げ、周囲に目を移した。地面の青々とした草は所々落ち葉と木漏れ日によって色を加えられており、男のすぐ左側には裏返った盾が一つ、木の葉の盃になっている。投げ出された足の先には苔の繁茂する木の幹がまばらに立ち並んでいる。
(森、だな。あの後、私はどうなったのだ?)
森の暖かく透き通った香りが覚醒を妨げようとするが、徐々に男の全てを手繰り寄せ、思い出してゆく。
「そうだ!思い出したぞ!」
男は目を見開き、俄かに立ち上がった。しかしすぐに自制し、挙動不審なまでに辺りを窺う。
(やばっ、見られてないよな、今の。)
胸を張り、顎を引き、過剰な程に自身を取り繕う。
(……しかし、誰もいないというのも逆に困るな。)
男は右手で左肘を支持し、顎髭をさする。そのまま目を落とし、左腰の鞘に納められた剣を確認する。
(さて、どうしたものか……。)
指針を定めるためにも、器として機能していた盾を拾い上げ、辺りに目を遣った。
(この辺りに人為的に切られた木や枝はないな。あまり人は来ないのかもしれない。水場を探すか、森から出るか……いずれにしてもここに届まる選択はないな。)
あてもなく、ただただ足を前に出す。
この方向で正しいのかさえわかるはずも無い。
(神よ―――。)
あれから男はどれほど歩いただろうか、歩けども歩けども同じ景色と同じ音。自然を嗜む者であれば感嘆の一つでも漏らしていたのかもしれないが、男は初めから色彩豊かな森の本性にも情緒豊かな鳥の囀りにも興味はない。命脈を保つ為か、その目や耳には常に変化を求めさせる。しかし退屈さ故か自然と頭は違うことを考え始めた。
(ここに来る直前に見たあれはまごうこと無き天使様であろうか?)
何度も何度も直前の記憶を反駁する。惨状を見た後、駆けた後、そして槍を投げた後……。しかし頭がどれ程働こうが足は鈍くなり、口からは吐息が漏れる。
(山歩きの指南書を読んだことがなかったことを後悔するのは初めてだな。まぁそもそも読んだことがあるなら後悔などしないだろうが……。……果たして、いつまでそんなことを考える余裕があるだろうか……)
一歩進むたびに諦観が身体を重くする。
(ここがどこかもわからないし、そもそも助かったとしても私の居場所は、もうないだろう……)
しかし、耳に入る音が憂愁を頭から追い出した。しゃらしゃらと静かで涼やかな音、おそらく小川のせせらぎであろう響きに、安堵が心を満たす。
(これは……水の音! やった、ひとまずは助かったな)
男の足は自然と軽くなり、多少の汗すら心地い良く感じる。その音色には近づけば近づくほど川が愛しい恋人のように思えたが、違う音が耳に入るように感じるたび失恋の可能性が頭を駆け巡る。
(……声、だな。確実に川のほうだろう)
男の腰は下がり、足運びは慎重になる。割りに近づいた、そう感ずる頃には、聞こえてくる言語は男に不安を催すのみであった。
(ギリシャ語でもラテン語でも無い……それどころか、耳にしたことすら無い。あり得ない話ではないが、もはやここは都の近くですらないのか?)
男の思考に考えられるのは、言葉の聞き間違い、自身の知識不足、そして……完全なる異国。
最後の可能性を否定するためか、一縷の望みにかけてか、男はそろりと歩を進め、音源のすぐ近く、草木の影に身をやつした。その存在を感づかれないためにも静々と草をかき分け、音の鳴る方を覗き見る、いや、覗き見てしまった、と言う方が正しい。
男の目に映るのは二種類の化け物、それが計5匹。色は区別無く翡翠のような色彩、違いはその体躯だ。
手前の4匹は男の腰ほどの高さしかない、その胴には皮鎧をつけ、腰からナイフ程度の刃渡りを持つ刃物を下げている。尖った耳や鼻、ざらざらとした肌、特徴からして男にも名前を察せられる。彼にとっての西方、その民話に出てくるゴブリンだ。
それに対し奥の巨体はゆうに2mはあるだろうか、その身体に比べれば人間の平均より高い男の体躯でさえ女子供と変わらない。腰巻のみを身に纏うその肉体は、まるで巨木の丸太から古代ギリシャの英傑の筋肉を形どったかのようである。
「ひっ……!!」
男の口から声が漏れ、どさっ、という音と同時に腰が草の上に落ち込んだ。
(やばい、頼む! 神よ、ばれないでくれっ!)
男の目が大きく見開き、その手は咄嗟に口を覆った。
しかし、そのような行動が無駄なのは男も本当は分かっている、ただ認めたくなかったのだ、視線が男に降り注いでいる、ということを。