第十七話 腐れ
「……ん? ここは、どこだ?」
芯が鉛で出来たかのように重たげな身体、ドラガセスは腹の奥底に力を入れ壁に預けた背を離す。その反動か両肩は力無く垂れ、両眼には投げ出された自身の足が目に入る。
伸ばされた足の下からは鼠色の石畳が暗鬱とした厭な表情を見せ、身体から温もりを奪い去っていく。
そして瞼を軽くさせる薄暗さに、思考を醒ます湿り気。その環境に、締め付けられたかのような痛みが彼の頭に襲い掛かった。
「……っ!」
(この感覚っ……二日酔いか……! ……確かあの商人を送った後……持ち物を一度宿に置き……そのまま飲んでいた、のだろうか?)
その身体に鎧は無く、剣だけが佩かれている事からも一度宿に足を運んだのは事実であろう。
しかし、だからと言って宿にいる訳では無く、彼は小鹿のような足に力を入れ、壁を支えに立ち上がる。
向かいの壁に距離は無く、胸を開き両腕を伸ばせば両の手の平は共に冷たい感覚を得ることが出来得る距離だ。明らかに道幅は狭く、そこが路地の中でも一際奥まった場所である事が窺える。
(とりあえず大通りに出なければな)
足はふらりと揺蕩する。暗澹たる路地ではその足捌きさえ判然としない。
人気は無く足を動かすしかないと分かっていても、進めば進む程明確になりつつある思考が不安や恐怖を募らせる。蛮勇さ、悪しき事物への無知、今ではそれさえ愛おしい。故に彼の思考は異なる回路へと繋がれる。
(しかしながら一度宿に戻る、という行いが私らしいな……。いっそ全てを投げ捨てれる程の勇気があれば……いや何も変わらない。あの状況で私は正しい事をしたはずだ)
一度選択した結末は誰であろうと変える事能わない。しかし確信はその煩わしさを和らげるに足り得る。
(知を得れば仲間を失い、知を持たなければ命を失う。……真なる知とは何なのだろうな)
泥酔により思考は泥濘に嵌まり、後悔と喪失感が陰りを見せる。そして十字路に指しかかる手前、ドラガセスは湿り気故か右手を滑らせ石畳に崩れ落ちてしまった。
「ぐおっ! ったた……っ!」
肘や膝に殴打の痛みが襲い掛かるが、ドラガセスは倦怠感故か中々に立ち上がれない。
(はぁ……。疲れた、な……)
落ち込んだ心身に丁度良い冷たさを身に、その場に暫く伏すが、十字路右の通路から声が耳に届き始めた。
「……くっそ。どこなんだ?」
「これだけ探しても見つからないんだ。もうこの辺りにはいないかもな」
(こんな場所にも人が通るのか。誰かを探しているようだが……路地を出る道を聞くとしよう)
湧き上がった希望を膝に、彼は再度立ち上がった。そして目の前の十字路を右に進み、声の主へと出口を尋ねる。
「すまぬが大通りへの道を尋ねたい」
「はぁ?」「急になんだ?」
ドラガセスの前には二人の男。恰幅の良い人間に目に傷のある犬人族、どちらも短めの剣を下げ、彼等はドラガセスを見た瞬間にその顔を厳つい悪人のそれへと変貌させる。
「……こんなとこにいやがったのか!」
「こいつか! おいお前、その場で動くな!」
人間と犬人族の二人は腰の剣を引き抜く。
「何だ!? 貴様等何をしている!?」
ドラガセスは驚愕に負けじと咄嗟に左足を引き、、半身となる。更に腰を落とし間合いを形成し、剣の柄に右手を添える。
「てめぇが金も払わず逃げたんだろうが!」
恰幅の良い男は怒鳴る。その右手の剣は更に強く握られる。
(まさか私は飲み逃げをしたのか……?)
「待て! 記憶に無い。説明をしろ!」
ドラガセスは声を張る度に頭痛が頭を締め付ける。しかし彼我の距離を保つ為にも弱みは見せない。
「お前は酒は飲むが金を払わず、更に注意した警備の者を殴ってそのまま逃げたんだ」
犬人族の男は厳しい目つきのまま、落ち着いた様子でドラガセスに説明する。
「なっ!? 真か……」
(俄かには信じがたいが、演技にしては彼等の面持ち……出来過ぎているな。)
「嘘な訳ねぇだろ! 今ここで金を払うか、それとも俺達に斬られるか、選べ!!」
人間の男はドラガセスに選択を迫る。しかしドラガセスは金銭を有さず、選択肢の一つは選び得ない。
「ならば正当な場で告発すべきであろう」
「こんなので頼れる訳ねぇだろ馬鹿が!」
(帝国の事情は知らんが、司法が遅れているのか?)
「馬鹿故に法には無知なのだ。斯様な場合、どうするのが当然か教授願おう」
「ってんめぇ! ふざ……」
「落ち着け」
怒りに身を任せようとする人間を犬人族は制止する。その瞳には荒事を生業とする者には珍しい聡明さが窺える。
「殺人と強姦、謀反以外では都市議会は動かない。だからこそ我々のような者達が私刑を下すのだ」
「左様か。しかし償いが死、とは些か重た過ぎはせぬか?」
「だから金を払えば許すと言っているのだ」
「申し訳ないが、生憎と金の持ち合わせは無く、此処にて斬られようとは毛程も思わん。何か他の手立ては無かろうか」
(足はまだふらつくが、逃げるか? 私が犯した罪とは言え死ぬのは御免被りたい)
「……無いな」
犬人族はきっぱりと答える。
「……そうか、では……」
ドラガセスの顔は険しい。それが何を考えてのものなのか判然とはしない。永遠にも思われる一瞬、ドラガセスの膠着に緊迫を重ねた表情、それは眼前の荒くれ者達にも伝播する。身体が強張りのっそりと剣に指先が伸びる。しかし敢えてそれを狙ったのか、
「……すまぬな!」
ドラガセスは走り出した、二人の男性を背に。
「はぁ……はぁ……」
ドラガセスは人混みの手前、一度足を止める。息を切らし、背中で呼吸をしつつ両手を両膝に置く。重い息を肺から出す度に加齢の実感をひしひしと感じるが、暫く走り得る体力があっただけでも申し分ない。
「はぁ……ここまで来れば追ってこれまい」
既にドラガセスの身体は陰鬱な路地には無い。二人の荒くれ者から逃げる為路地を走り回り、結果として大通りまで出て来れていた。
そして、それによって太陽が南に高く昇った昼であることを始めて知る。
(ははは、道を聞く必要は無かったようだ。……しかし飲み逃げとは、私も落ちぶれたものだな)
念の為ドラガセスは路地の入口から離れ、大通りを足早に歩く。
(さてここからどうしたものか)
走り回ったおかげかドラガセスの思考は既に冴えており、指針として帝都中央の宮殿に向かうという選択は無意識に足へと流れ込んでいた。
(まずは金だ。……やはり冒険者、か?)
異世界と言えど無為徒食為出来る程社会は生温くない。いずれ金を得、生活を営まければならぬが、余所者が働ける職には限りがあり、その事を彼も重々承知している。定められた農奴や職人等の身分は生まれに左右され、その生まれに沿った一生を送る。彼はカイザリア帝国の実情を知らぬが、幾ら都市とは言え、知識や権利を十分に持たぬ者が自由に生きていける程甘くない事は分かっている、そしてその例外がいる事も。
(ニールやサイーダには本当に申し訳無い。しかし労働でしか人は生きられない)
彼とて二人に罪悪感を感じない訳では無い。しかしその亡骸を目しておらず実感は薄く、更に彼は死に対して初心では無い。
(……しかし向かおうにもここがどこなのかは分からない。冒険者ギルドは第7区画だが、ここはそもそも第何区画なんだ?)
一度足を踏み入れた土地なら兎も角、酒のせいか見覚えの無い通りなど判然とするはずが無い。されど彼は大まかな帝都の構造をとあるドワーフから聞き及んでいたのだった。
(まぁ冒険者ギルドは宮殿の壁のすぐ近くであったし、壁の周囲を周ればいずれ着くだろう。なら話は早いな、この大通りから宮殿側に向かうとするか)
荒くれ者から逃れる為か、ニールとサイーダへの罪悪感を頭の隅へと押し遣る為か、彼は帝都中央へとその足を更に速めた。
そして目的地へと進めるドラガセスの両足、それが帝都中央の宮殿に差し掛かる手前、聞き慣れた声が彼の身体をその場に留める。
「ドラガセス殿、ドラガセス殿」
声の主は珍妙な白い折襟の服に、反りを持つ剣を佩いた黒髪黒目の男性。彼の良く知る、新左衛門だった。
「おぉ、シンザエモンか」
「応、そうじゃ。昨日ぶりじゃな」
新左衛門はドラガセスのすぐ傍へと歩み寄る。
「またもや奇遇であるな」
「わしらには縁が有るんかもな」
「えにし……か。そうやも知れぬな」
(こちらに来てからよく会うしな。これも何かの導きかもな)
「にしても何故第一区画におるんじゃ?」
「それが……我も分からぬ。何分、酔っていたのでな」
その言葉で何かを悟ったのか、新左衛門の口の端がきつく結ばれる。
「そうか。……仕損じたんじゃな」
新左衛門は真剣な面持ちで、重々しく口を開く。
商人を護衛する、という依頼は必然的に周囲の村や都市へと向かわざるを得ない。その距離が如何程にもよるが、記憶が飛ぶ量を一人で飲み翌日の昼に街をふらつく、なんて事はまず有り得ない。
「……左様だ、はは」
ドラガセスは薄っすらと笑う。それが否定的な笑みであり、彼の失敗がただの失敗では無いとこを窺わせる。
「ふぅ……」
新左衛門はそれに対して息を吐き、一度肩の力を抜いた。そして、ドラガセスの顔をしっかりと見据え――
派手な音と共にその顔を殴った。
「っぐあぁ!」
ドラガセスは右頬の衝撃を受け、左後ろへと崩れ落ちる。腰の鞘が石畳と共に甲高い音を上げ、周囲の目が彼等へと集中する。しかし新左衛門はその視線を歯牙にもかけず、ただ一点、彼の顔だけを見つめる。
「腐っちょるな! 今んお主の顔は腐っちょる!」
新左衛門は大声で叱る。暴力からの恫喝、それを往来で行い無視して貰えるはずも無く、
「っちょっとお兄さん、あんた何してるんだ」
猫人族の男性が新左衛門の肩を掴む。既に周囲の人々の足は止まっており、彼等の瞳は新左衛門へと向けられている。
「おそらく仲間か商人を失ったのであろう。わしも此度の務めにて仲間に金創を負わせてしまった。されども……」
しかし新左衛門は視線どころか猫人族の言葉さえ無視する。
「おい、俺が話掛けてい……」
「静かにせい!」
「う、おぉ……」
新左衛門は一喝し、猫人族の手を振り払う。それによって自身もこれ以上踏み入ればドラガセスのように殴られると判断したのか、猫人族は無意識に数歩下がっていた。
「……ドラガセス殿。されども酒に浸り、不貞腐れる自身を恥じぬのか?」
ドラガセスにとって小童にも等しい若輩者の説教、彼はその言葉を耳に立ち上がる。
「私だって好きでこうなっている訳じゃない。……私にはわからないんだ、あの選択が正しかったかどうか……。なぁシンザエモン! 私はどうすればよかったんだ……っ!」
ドラガセスはすがる様に新左衛門の襟を掴む。
緊迫した表情に悲痛な叫び、彼の溜めこんだ苦悩が一気に噴出されたようであるが、新左衛門は眉一つ動かさず、
「知らん」
唯一言、言い放つ。
「……っ! そ、そんなっ」
「何が正しいかなぞ誰もわからぬ。だからこそ恥の無い一生を送るべきに決まっておろう。腐れるくらいなら、初めから何もせぬ方がましじゃ」
罪では無く恥の文化、その言葉は新左衛門の価値観を押し付けたに過ぎない。しかし、
(恥の無い一生、か……。私にはそれが正しい生き方なのかわからない。それでも……彼の瞳はこんなにも澄んでいる、それは事実だ)
「何もしない方が、ましなのか?」
「悔いが無いからな」
「何もしない事に対して悔いるのではないか?」
「なら行動すればよい」
新左衛門の返事は唯の子供じみた言い分に過ぎない。問いに都合の良い答えを導き、結果として議論は破綻する。しかしそこには一つの筋があり、それは決してその場凌ぎの子供が辿り着けるような境地では無い。
「はは、意味が分からんな……ははは。はははは!」
ドラガセスは襟から手を離し、大口を開けて笑い出す。
(意味の分からなさは、あいつら並みだな)
その脳裏に思い浮かぶのは、帝都にて最後を共にした彼の親衛隊。獰猛な笑みに鍛え抜かれた肉体、一見すれば野蛮人に過ぎないかもしれないが、そこには確かな誇りと矜持があり、彼等を武人たらしめていた。
そして今、そんな彼等と新左衛門が彼の瞳には重なり合っていた。
「シンザエモンは強いな。どっちが年長者かわからなくなるぞ」
新左衛門の言葉がどれだけ伝わったのかは分からない。それでもドラガセスの笑みは肯定的なものだ。
「ドラガセス殿も強いぞ。始めて話した時もそうじゃが、今も最高に良い顔をしておる」
「そう言って貰えると嬉しいが、既に私の人生なぞ恥じ塗れだ。もう恥の無い一生を送るのは不可能だと思うぞ」
言葉は自嘲的だが、ドラガセスの面持ちは所得顔であり、そこに先程の彼は存在しない。
「なら今より新たな一生を始めれば良い」
「ははは、そんなものか」
「応、そんなものじゃ。もう、気は済んだか?」
「あぁ、お陰様でな」
「そうか。なら……先程殴ったのはすまなかった」
新左衛門は唐突に頭を下げる。
「いやいいんだ。私の事を思ってくれての拳だろ」
「しかし唐突に殴るなど、道理に反する。どうかわしを殴ってくれぬか」
新左衛門は頭を上げない。彼の道理に即した行いであろう。
「……わかった、顔を上げてくれ」
「勿論じゃ」
新左衛門はようやく面を上げる。その漆黒の瞳は真っ直ぐとドラガセスの顔を捉えて離さない。
「では、行くぞ」
「あぁ」
ドラガセスは拳を握る。
そしてその拳は本気で振り被られ――ずに、優しく頬を撫でた。
「シンザエモン……今の私、いや我には貴殿のような英傑を本気では殴る事は出来ぬ。……それ程、貴殿は高潔なのだ。この拳は我と貴殿の差、どうか分かって欲しい」
「よく分からんが、分かった事にしておく」
「有難い。それで……我等の差を埋めるべく一つ尋ねたい事がある」
「わしらに差など無い……が、まぁ今は良い、問いとはなんじゃ?」
「今日明日、手空きであろうか?」
「あぁ」
「良かった。なら、共に依頼を受けてはくれぬか?」
ドラガセスは口角を上げ、篤実な両眼を新左衛門に向ける。
既に通りの人々は彼らに気を遣ってはいなかった。