第十五話 イジシカの怪我
「カイサ殿! おるか!」
新左衛門は閑散とした夕闇の下、扉を押し開ける。その建物は帝都南西第六区画、新左衛門等のクラン『偽りの女郎花』の拠点。
時間故に通りに人気は無く、周囲の建物の窓辺からは既に仄暗い灯りが輝きを通りに投げていた。
「はいはい、シンザエモンさんですね~。ちょっと待ってください」
入り口右手奥、厨房の方から声と共に慌てた音が発せられる。
その存在を耳にし、新左衛門は中腰になり手荷物をその場に置く。上体は曲げず膝も着かず、ぎこちない体勢と怪我に苦戦を強いられるが、鍛えられた体幹と配意が安定を保つ。
「今日は仕事じゃ……えっ!? どうしたんですか!?」
灰色の髪と犬耳を振り動かしつつ、ぱたぱたという音と共に現れるカイサと呼ばれた犬人の女性。捲られた袖や使い古された腰巻、厨房から姿を現したという事からも彼女がこの屋敷で如何な事をする立場かは考えるに及ばない。
しかし想定外か、彼女は新左衛門の様子に思わず驚きを口にする。
新左衛門は頭に包帯を巻き、その鎧には凹みが点在する。傷痍を負い帰還を強いられた事は容易に見て取れる。
しかし何よりカイサの目を惹くのはその背に背負われ眠るイジシカだった。
「狼にやられたんじゃ。イジシカ殿はわしが運ぶから水と手拭いと替えん晒を頼みたい」
「さらし? ……包帯の事ですね! わかりましたっ!」
新左衛門はイジシカを背に階段を軋ませ、カイサは厨房へと水を汲みに行く。
登り切った新左衛門はそのまま階上の一室に入り、窓際の寝台へとイジシカを横たえる。
そこは以前ドラガセスが養生していた部屋である。寝台の他には簡易な机と椅子が二人を見守るが、家具の有無はイジシカの容態に全く関係が無い。
「こういう時、呪いが使えればな……」
新左衛門は独り言ち、噛み裂かれた純白たる祭服の下に巻かれた包帯を、手際よく解きほどく。
深く広いとは言え傷口は膿んでおらず、彩りは赤黒く陰鬱だが新たに血は流れ出して来ない。
「新左衛門さん、持って来ました!」
後から部屋に入るカイサは水瓶と包帯に手拭い、そして気を利かせたのか桶を手にしている。
「ありがとう。……っと、桶を下に」
新左衛門は寝台のイジシカを抱きかかえ、身体は支えたままカイサが滑らせた桶の上に赤黒い大腿を据える。
すぐさまカイサは水を流し、空いた手で傷口に触れないように、手拭いへと汚れを移す。
「冷や水でも目を覚まさんのじゃから余程なのかもな」
「病気とかを貰ってなければいいんですけど……」
最後に手拭いで柔らかく水滴を落とし包帯を巻き直す、寝台に再度載せる際には大腿はかなり綺麗になっていた。
「その……縫合とかいいんですか?」
カイサは大きな翡翠色の瞳を新左衛門に向ける。流石に傷口を針で縫い付ける様子までは見たくないのか、その疑問には心配以外に微かな望みが込められていた。
「昔、越前守様に咬傷は縫うなと言われてな」
「えちぜん? の、かみさま?」
「かみ、っちゅうんは官位ん事じゃよ」
「官位ですか……。私にはよくわからない世界ですね」
カイサは官位という言葉へ自嘲気味に愛想笑いを浮かべ、小首を傾げる。
「それより着替えさせ、身体を綺麗にしてやってくれぬか」
「あっ、はいはい勿論ですよ」
カイサはその請いに突き動かされ、机に水瓶と手拭いを置く。
「一応わしも今日はこん屋敷で寝る。隣の部屋におるから何かあったら呼んでくれ」
「はい、わかりました」
新左衛門は扉を開き、弓や風呂敷を取る為に木床を軋ませ階下の玄関へと向かう。
(ドラガセス殿も無事じゃと良いが……)