第十三話 新左衛門の馬車
ドラガセス一行の轍が塗り替えられる頃、響き渡る鐘の音と共に帝都南門馬車待合所から一台の馬車が南門を過ぎ行く。
「オソビニウス殿はどこん出身なんじゃ?」
新左衛門は貨物車の床板と側面の木枠に身体を預けつつ、御者席に座する冒険者へと質問を投げ掛ける。
貨物車には新左衛門とイジシカが、御者席には髭を蓄えた柔和そうな中年の商人とオソビニウスと呼ばれた冒険者が相乗りする。
「俺は共和国の出身です、まぁ田舎の方ですけど……」
(共和国……確か帝国ん南東にある国じゃな)
オソビニウスは肩を落とし、薄ら笑いを落とす。その様態には出身地への誇りというものが存在しない。
「気にするな。土地ん良し悪し決めるんは街並みじゃ無い」
そう返すドラガセスは瞼を下ろし腕を組み、揺れるがままに身を任せている。刀はつっかえるのか佩いておらず、胡坐を組む大腿で支えられいる。
落ち着き払ったその様はまるで川のせせらぎを静聴しているかのようだ。
「そんなもんですか。……それよりシンザエモンさんこそどこの訛り方なんですか」
オソビニウスは枯れた瞳を右手側、帝都南西に広がる森へと流しつつ両脚前方を覆う円盾の位置を調整し、適当に言葉を交わす。
商人は手綱を手に彼らの会話を聞き流し、イジシカは本に意識を落としている。故に手隙な二人の会話に別段色が加えられることは無いが、その問いにイジシカは極僅かに顎を上げ、密かに耳朶を再起する。
「んー……日ノ本じゃ」
新左衛門は答えを思案し、オソビニウスに返すべき最適解を紡ぐ。それが何と比較され、導き出された答えなのかは、この場にいる誰も知り得ない。
「ヒノモト……? 悪いが知らないですね」
「別によい。誰も知らんからな」
「……は?」
些かな怒気がオソビニウスの肩を微かに上げ、彼は顔だけで振り返る。
「オ、オソビニウスさん怒らないでください……! そ、そのシンザエモンさん、い、いつもこう答えるんですよっ」
オソビニウスの憤りを抑えるべく、イジシカは本を脇に遣り新左衛門の発言について補足する。
「はぁ……。銀布帛の冒険者ともあろう御方がこんなイカレ野郎だったとはな……」
オソビニウスは声を落とし、附近の警戒を再び始める。呆れる彼の左腰のベルトには、銅色の布帛が巻き付けられていた。
「同郷ん者を探しちょるんじゃ。まぁそう言わんでくれオソビニウス殿」
「……そうですか」
オソビニウスは心底どうでもよさそうに流す。批判を口にしないのは、新左衛門に対して少なからず敬意を憶えているからかも知れない。
「しかし、私も長いこと商いをしておりますが、ヒノモトなんて聞いたことありませんね。どの辺りにあるんですか?」
オソビニウスの隣に腰掛ける商人が好奇心に突き動かされ、口を挟む。
「それが……わしも知らんのじゃ」
「え? どういうことですか?」
商人の眉が顰められ、その手は手綱を握り込む。
「自分でも妙な事を言ってるんは分かっちょるが……目が覚めたら何故か帝国にいたんじゃ」
「だから同じ国の人を探してるんですか?」
「そうじゃ。……わしは帰らねばならんからな……」
そう語る新左衛門の面差しは険しいものとなる。
「……や、やっぱり、シンザエモンさんは――」
深い憂慮を想うイジシカが、その事を吐露しようとした瞬間――
「3人とも、今から俺が言う事を落ち着いて聞いてください」
両眼が進路を捉えたまま、オーソンは声色を変えずに語り掛ける。それによって決して交わることの無かった視線がオソビニウスに降り注ぐ。
「キンバリーの森の中でゴブリンを乗せた狼が走っています。おそらくは俺達を襲う頃合いを図っているんでしょう」
その宣告によって各々に緊張が走った。新左衛門は腰の向きを変え刀を帯に差し込み、イジシカは本を肩掛け鞄へと仕舞う。
「数は如何程じゃ?」
「10前後かと」
「なんと。私達はどうすればよいのですか?」
「ヤイプールの街まではまだかなり距離があります。一度帝都に戻るべきでしょうね」
「馬首をめぐらせた途端に襲われるぞ」
「確かに、確実に襲われるでしょうね。しかも向こうの方が速いでしょうし……」
「なら迎え撃つべきじゃろ。一旦背を見せて釣るとしようか」
「わかりました」
新左衛門は天蓋の中で膝を起こし、矢先が入れられた四角い箱に枠が備えられた謎の矢具を紐で腰に取り付ける。
「こ、この前買ってた時に聞きそびれたんですけど、そ、それ西方諸島の矢筒ですよね?」
「あぁ、えびらって言うんじゃ。これがまた日ノ本の矢入れに瓜二つでな。……こういうんがあるから、帰れるんじゃないかと期待するんじゃろうな」
新左衛門は背丈を大きく超える大弓を左手に貨物車後方の木枠へと向かう。既に彼の面持ちは真剣そのものだ。
「では帝都に向かいますよ」
商人は左手を引き寄せ進路を変える、そして徐々に車輪は轍へと重なり始める。
これによって敵の位置は左方へ移り、キンバリーの森が騒めき始めた。
「はいやっ!」
商人は手綱を打ち、馬車の揺動を更に大きいものへとする。
「自分が指示したら馬車を止めてください」
オソビニウスは盾を上げ、右手で面倒そうに灰茶の髪を掻く。
「わかりました」
商人が返答した際、ゴブリン達は既に森から出始めていた。
「3人共、馬車をば止めたら台車ん後ろに隠れろ。そん後わしとオソビニウス殿が遠当てで出来るだけ削る。近づかれた後は各々に任せる!」
「あ、あのシンザエモンさん。わ、私、創造神様の御使いなので戦いは……」
「わかっちょる。イジシカ殿は生き延びる事に精進せい」
(本当、難儀な神に帰依しちょるな)
「わ、わかりました」
「商人さん! そろそろ馬車を止めてくれ!」
オソビニウスの声に導かれ商人は手綱を引く。2頭の馬は嘶きと共に足運びを遅々たるものへと変え、その動きが完全に静止した瞬間、4人は我勝ちに馬車より飛び出す。
新左衛門は右肩から上へ、では無く左腰から下へと矢を引き抜く、それは箙と呼ばれる矢入れ故の行いであった。
オソビニウスは木製の円盾の内側からウォーダーツ――投げ矢を抜き、右手で摘まむ。
ゴブリン共の猿叫を耳に、二人は各々矢を番え、右腕を引く。
「南無八幡大菩薩!」「っ!」
大小異なる矢が馬車の際より、命を裂きに続々と放たれる。しかし狼に乗る矮小な化物に対して放てば当たるというものでは無い。されども決して無駄では無く、幾匹かはその歩みを阻まれる。
「ひいぃ……っ!」
気弱なのか商人は頭を抱えその場にしゃがみ込む。
「太陽たる創造神様は大いなる恵みを我等に与えなさった……」
イジシカは聖句を唱え始める、その行為に別段意味がある訳では無いが、争いを禁止された聖職者の必然であった。畏れか罪悪感か、ゴブリン共の叫び声が大きくなる程その手は強く握り締められる。
「そろそろ来るぞ!」
「俺のプルムバタエ切れました! シンザエモンさん、先に前に出ます!」
オソビニウスは剣を抜き、御者席の上を飛び越す。
その様子に新左衛門は箙の紐を解き、弓をその場に置く。
「GRUUU!!」
「っと! そら!」
オソビニウスは飛び掛かる狼の牙を盾で受け、その上に跨るゴブリンの喉元を突き刺す。
オソビニウスの剣はそれ程長くないが、敵の体躯を考慮すれば彼我の距離は然程無い。
更にそこから手首を捻りつつ引き抜き傷口を拡げ、流れるように狼の背へと剣を突き立てる。
「そっちの敵は任せますよ!」
走れる狼達の内、半数は貨物車後方から新左衛門達の方へと回り込もうと駆けるが、貨物車を越えた瞬間――
「おらああぁぁ!!」
その内一匹は左腹を斬り裂かれ、無様にもそのはらわたを吹き出し、それに跨るゴブリンに至っては肩から股先までを縦から二つに分かたれる。
新左衛門は振り下ろした刀から飛び散る血を浴び、獰猛な笑みを浮かべていた。その様に狼達は恐れ戦き歩みを止める、本能故に仕方の無い事かも知れないが、それが意味の無い事と理解出来ずに。
「うおおぉぉ!!」
新左衛門は崩れ落ちる敵の血肉を踏み締め、その奥で委縮するゴブリンの首を横薙ぎに刎ねる。
主を堕とされた狼が新左衛門の腹に喰らいつくが、その牙では鉄の胴を貫き得ない。
「仇討ちじゃな!!」
噛砕しようとする甲高い音によって鎧が軋みゆく、しかし新左衛門は口角を吊り上げ、打刀から離した左肘で狼の頭蓋を殴り、その離れない様を見ると素早く右手の柄で目を潰す。
狼は顎を外し情けない声を漏らし、尻尾を巻いて逃げるがそう甘くは無く、その間に残り2対の狼とゴブリンが襲い掛かる、一対はイジシカの方へと。
「イジシカ!!」
新左衛門は左へ横跳び、その左手でイジシカへと向かうゴブリンの左上腕を掴み、引き摺り下ろす。しかしその下の狼は止まらず前へと進み続ける。
新左衛門は刀を投げようとするが――
「がは……っ!」
背中を棍棒で殴られた。
それによって肺の空気が一気に口腔へと流れ、膝が崩れる。刀は手からこぼれ、ゴブリンを掴む手は緩められる。
「ま、待って……っ!」
イジシカは牙を剥く狼に相対し慌て、後ろに体勢を崩すが、それによって一噛み目を偶発的に躱す。
「っうおぉ!! やめろ! おらっ!」
馬車の向こうにいるオソビニウスから怒声が上がる。その声は救援の可能性を否定する。
頭を抱える商人は決して頭を上げず、イジシカを助け得る唯一の男はその双眸でイジシカを捉えたまま地に伏す。
当然――
「あああぁぁ!!」
狼はイジシカの大腿の骨肉を剥き出しにさせる。イジシカの純白の祭服は一瞬で紅に染められ、叫喚が響き渡る。
「や、やめてっ!」
左手で地を這い、右手で懸命に引き離そうとするがその小さな体躯ではそれは叶わない。動く度に血が撒き散らされ段々と動作は遅くなる。
(こんな状況、久しぶりじゃな……)
イジシカの亜麻色の髪には血が、表情は痛苦が張り付く。
(……しかし、いやだからこそ滾るっ!!)
「うおおおぉぉぉ!!」
新左衛門は膝を立て、咆える。その肉体は、背を押されたかのような勢いでイジシカを噛み込む狼へと突き動かされる。
左腰に差した脇差を引き抜き、大地を蹴る。
それに反するように身体を大地に打ち付けられたゴブリンは目を潰された狼の背を追い遁走、しかし最後の一対は新左衛門の背中に襲い掛かる。
鋭牙に軋む背、振り下ろされる棍棒に血潮を撒く頭。それすら新左衛門は歯牙にもかけず、唯一点のみを見据え踵を踏む。
「おらああぁぁ!!」
新左衛門はイジシカに噛み付く狼の被毛を握し、頭部を左手で引き寄せ、一息にその首元に脇差を突き立てる。その刃は喉骨を貫き、新左衛門は狼の身体から力と脇差を抜く。
背からは血がこぼれ、背後から何度も何度も頭を殴られるその様は、戦場でさえそうそう見聞することは能わない。
「UGA! UGAA!」
しかし異様な様も長くは続かず、仲間を救おうとしたゴブリンは突如棍棒を振り下ろせなくなる、新左衛門に左手によって。
「おらああぁぁ!!」
新左衛門は左肩を振り、掴んだ棍棒を前に投げ、その勢いを活かし脇差を背後の狼へと突き刺す。
棍棒の主は体躯の軽さか握り締めた握力か、はたまたその両方か、その身体は棍棒と共に弧を描き宙を舞った。狼の顎は弛むが執念故か離れず、引き摺る形で新左衛門は投げたゴブリンの元へと歩み寄る。
「終いじゃ」
新左衛門の手には既に打刀も脇差も無く、ただ有るのは握り締めた拳。
それれらを復讐と言わんばかりに新左衛門は幾度も振り下ろす。まず長い鼻をへし曲げ醜い歯を砕き折る、数度もすれば瞼は開かなくなり棍棒は手から滑り落ちる、それはゴブリンには決して抗うことの出来ない体格差。そうして新左衛門の血と返り血が混じり合う頃には背の狼も息途絶えていた。
「……3人共生きちょるか?」
勝利の美酒に酔い痴れる余裕は無く、額の血を拭いつつ新左衛門は声を投げ掛ける。
「俺はなんとか生きてます、動けませんけど」
オソビニウスは馬車向こうで座り込んだまま天に口を開く。
彼はその左脚を腰鞄から取り出した包帯によって止血し、転がる槍からも彼が槍疵を負った事を見て取ることは容易だ。
「……もう、終わりましたか?」
商人は手を下ろし憂懼の表情のまま顔を上げる。
新左衛門の上げた声に対し2人しか顔は上がらず、イジシカの意識があるかは怪しい。
「おう、終わったとも。お主はオソビニウス殿を助けてやってくれ」
「はい……っ!」
商人への言葉と共に新左衛門は怪我人とは思えない軽やかな足取りで馬車へ飛び乗る。
彼の手に取る品は細長く包まれ、持ち運ぶ為に輪形に結ばれた風呂敷。それを拡げ瓢箪と包帯を取り出し、そのまま矢継ぎ早にイジシカの元へと駆け寄る。
「イジシカ殿! 起きちょるか?」
新左衛門は話し掛けつつ脛を抑え、大腿の患部に水を掛ける。
祭服は狼によって引き裂かれ、瑞々しい大腿が露わになってはいるが、その様に妖艶さを微塵も感じる事は出来ない。瑞々しい、というよりは鮮血によって瑞々し過ぎる大腿は大きく捲れ上がり、薄紅色の筋が姿を現す。
(出血が酷いな……。)
「……シンザエモン、さん……?」
新左衛門の問いにイジシカは最後の余力を尽くし瞼をこじ開ける。今はその長い睫毛でさえ重く、鬱陶しい。
「そうじゃ。よく頑張ったな」
新左衛門はイジシカの右脚の下に自身の足を差し込み、両腕で包帯を巻きつつ、ちらと笑みを遣る。
「……ありがとう、ございます……」
「気にせんでいい」
「……ごめん、なさい。……私、足手まといに……なっちゃいました、ね……」
イジシカは必死に笑みを作ろうとするが、その口は然程開かれ無い。口だけで無く、大きな瞳は普段の半分程、吃音に関しては一切出ていない。
「そんな事は無い。っと、もう寝るべきじゃ、休め。」
止血を終えた新左衛門は小さな体躯を抱え、貨物車へと優しく運ぶ。既にそこにはやつれ顔のオソビニウスが座し、彼はイジシカを受け取り横にさせる。
「帝都まで、出来るだけ早く」
「はいっ」
新左衛門は御者席に乗り込み、既に手綱を握る商人を催促、ここにきてようやく自身の傷の手当てを始めた。
不幸な事に敵の襲撃に会い、幸運な事に4人は誰一人として欠ける事無く、帝都へと引き返した。