第九話 帝都
その後ドラガセスはいくつかの事をニールとサイーダに問い尋ね、二人との翌日の約束を胸に別れた。
それからのドラガセスの行動は決まっていた、空腹感に支配された身体を解放することだ。
(よく考えてみれば腹に物を入れていないからな)
少し目を遣るだけでも食料を扱う店などごまんと見受けられる。しかし彼にとって不幸な事に軒先に並ぶ品はどれも食材ばかりである。
そんな中、一際大きな喧騒を有する店が彼の心を掴んだ。鍛冶屋と書房に挟まれた……おそらくは食事処。その玄関上部に備え付けられた鉄棒から吊下げられる木板に、読み取れない文字と食卓用金物の絵が並び、建物内部を憶測することはさほど難しくない。
ドラガセスはそこへすきっ腹を抱えつつも歩を進め、恐る恐る扉を押し遣った。
「いらっしゃい!」
すると快活な声がドラガセスへと飛ぶ。声の主はジョッキで左拳を覆い、皿の階段で右掌を隠しつつ厨房へと向かっている。
店内では鼻孔を奥から溶かしていくような濃い肉の匂いに、爽やかな果実臭溢れるエールの香りが加わり、嗅覚に濃淡を与えて離さない。
ドラガセスには席に腰掛け発するお勧めという言葉すら、舌鼓を鳴らす為の魔法の言葉にさえ感じる。料理が運ばれてくるのが余りにも待ち遠しい。
だからこそ、それが運ばれて来た時に彼は破顔してしまったのだ。
机に並んだのは簡素に肉と野菜を炒めただけのものに黒パン。
しかしよく焼かれた肉の弾力に、柔らかい野菜を伴うことによって2種類の触感が混在し、噛めば噛むほど溢れ出す肉汁が舌に沁み渡っていく。更に野菜のやんわりとした甘味に程よい苦み、それに塩が塗されることによって全ての味が際立つ。
この場合簡素というのは誉め言葉としての効用のみしか有していなかった。
そうして再び扉を開いた際、ドラガセスは自身の立場を理解した。それは――未来の常連。
とはいえドラガセスにとって収穫は店の味だけで無い。推察され得る大まかな物価と金銭の種類を窺い知れた。
あの一食が鉄貨5枚弱。肉を除けば更に安価となり、野菜も省けば一層安く済む。
鉄貨の下には鉛貨が存在し、大小2種類。小鉛貨10枚で大鉛貨、大鉛貨10枚で鉄貨、おそらくこれより上位の貨幣であっても10進法が適応され得るだろう。
斯様な、帝都にて生活を営むのに必要最低限の知識を彼の頭の書架へ収めていく。
(それと、しなければいけないのが……)
次に当然、足は隣家の鍛冶屋へと向けられた。
「すまぬ、盾を見に来たのだが」
口と共に重厚な扉を開く。
店内には武具や雑貨が壁には所狭しと掛けられており、その直近の机にもこれでもかと言うほど置かれている。その量に見合う程に種類は豊富であり、粗方の顧客の要望に応えることが出来そうだ、唯一つ……弓使いを除いて。
「いらっしゃいませ、盾でしたらあちらに」
年若い店番が左手を仰ぐ。他の武具と変わらずそこでも多種多様の盾が犇めき合っていた。ドラガセスは促されるそうに足を進め、その双眸を向ける。
円形の小盾、長方形の大盾、五角形の中盾。千差万別の盾の中でも、彼が選定するとすればこのいずれかだろう。
「この盾を頂こう」
「かしこまりました。カイトシールドになりますね」
選んだのは五角形の中盾、理由は単純明白、現在の盾に最も類似的であるからだ。
若い店番は備え付けられたカイトシールドを精算台へと外し置く。
「ついでにこの盾の修繕を加え、これで足りるであろうか?」
ドラガセスは所々窪んだ盾と光輝を放つ金貨を並べる。
「うーん……まぁいいでしょう」
「有難い」
十中八九金銭的に超過した要望であったが、承認の範囲内であったのか不満気な承諾が返される。
「そういえば、貴店には弓の類が見当たらないのだが、何か理由はあるのだろうか?」
顎を上げ、疑問を口に出す。深い意味を含蓄している訳でなく、それは事情を知らないドラガセスにとっては素朴な疑問。
「あぁ、流れの人なんですね」
ドラガセスは流れという表現が気に障る。その目が細くなるが、そう長くは続かなかった。
「この国、カイザリア帝国ってロングボウを重要視している国なんですよ。ほら、ロングボウ背負った人よくいたでしょ」
「あぁ」
(ニールもそうであったな)
「農民から商人まで皆ロングボウ持ってたりするから専門店が多いんですよ」
「ふむ、その産業の隙間の狙っている、ということであるのか?」
「いや、それが……親方がこの状況に不満を持ってて、それで意地でも置いてないだけですね」
意外な否定に目が点になる。しかし、彼にとってもそのような職人の事例が初耳な訳では無い。
「……そうか、難儀な方であるな」
(いつの世もいるのだな、そういった者は)
「そうですね……」
「すまぬな、付かぬ事を聞き」
「いいんですよ、事実ですから」
「では、また盾を取りに来る。宜しく頼むぞ」
「あっはい、ありがとうございました」
ドラガセスは感謝と申し訳無さを胸に店を出た。
彼が最後に向かったのは宿屋だった。
現在は帝都第6区画、方角にして南西方向。冒険者ギルドでニール、サイーダと別れる際に宿屋については聞き及んでいた。第6区画には最も冒険者が多く、宿はギルドのお目付けがある為治安は悪くないという。
しかし適当な宿屋を探し出す前に、彼は飲食物を買い込む事を忘れてはおらず、通りのパン屋へと一度向かった。
そして目に入ったパン屋の木扉を開扉し、堂々と中に入る。
中の様相は大変質素だった。パンは奥の棚に幾つも陳列され、その手前には主人が肘を着くカウンター。横壁には面白味の無い絵が一枚づつ飾られているだけで、漆喰を剥き出しにしている。
カウンターにいる主人は人族。鉤のような鷲鼻に禿げた前頭部、一見すればかなりの強面だ。
「低廉なパンを一日分頼みたい」
パン自体は全てカウンターの向こう側にあり、主人に要望しなければいけない、という事は容易に察せれる。己の目を頼っても良かったが、彼には庶民的感覚の幾つかが欠如しており、自身もそれを自覚している。騙される可能性も思量はしたが、信じるより他無いと結論付けた。
「……これでいいか?」
不愛想な主人は、茶がかったいかにも固そうなドーム状の大きなパン一つ、棚から取り出す。白パンは高額で手が出ない事など端から分かっていたが、異世界という存在に微かな期待を抱いていた。
「それで良い。幾らなのだ?」
「鉄貨5枚だ」
ドラガセスは腰の巾着袋から鉄貨を取り出しパンと取り替えた。そしてパンを手にした所で一つの見落としに初めて気が付く。
「あっ。袋が無い、な」
「お前そんな武装している癖に手ぶらなのか?」
「あぁ、だがそこのまま持って帰る事とする。気にするな」
「……チッ、少し待て」
主人は席を立ち、陳列棚下に備えられた引き出しを開ける。そして彼は中から大きな麻袋を取り出し、気恥ずかしそうにドラガセスへと突き出した。
「穀物の運搬用に余った物だ、持ってけ」
(これからこの帝都に住まうのだ。袋の一つも無ければ不便この上ないな)
「……すまない、有難く頂戴する。それと一つ尋ねても良いか?」
「ん、何だ? 袋なら一つしかやらねぇぞ」
「いや、違うのだ。水売りの位置を知りたくてな」
水売り――それは人口過密な都市には欠かせない職だ。広い都市の中、井戸や川の様な水源から水を汲み上げ運ぶのは大変な重労働であり、そもそも水源自体が彼らに抑えられていてもおかしく無い。毎日酒場に入り浸る訳にもいかず、井戸が近くに無い限り安価な飲料水を手に入れるには水売りの力が必要不可欠だった。
「生活用水が欲しいなら宿屋に聞きな。……だが、飲料用のエールでいいならうちも取り扱ってる」
そう言うなり主人はカウンターの下から1.5L程の小さな樽を取り出し、机の上に置いた。
(樽か、しかもかなり小さい。おぉ、確かにこうして小売りできるなら便利極まりないな)
「小樽一つ分で鉄貨1枚だ、代わりに樽は返しに来い」
「分かった払おう、二つ頼む」
ドラガセスは鉄貨を二枚、再度主人に渡す。
「かなり割ってるから、晩酌には向かねぇぞ。後で文句を言われても俺は知らねぇからな」
口ではそう言いつつも、主人は大人しく二つの小樽を渡した。
「我も渇きを癒す為に求めたのだ。決して酔い痴れる為では無い」
「……真面目だな」
その時、初めて主人の強面が緩んだような気がした。しかしその面持ちは喜びよりも悲しみの色が強く、過去に何かがあった事を窺わせる。
「……よく言われる」
しかし不用意な詮索はせず、ドラガセスは宿屋を探し始めた。
それから程無く、宿屋は近場で見つかった。大通りの路地、その奥まった場所に建つ古い家屋がそうだった。そして彼はパンと小樽が入れられた麻袋の口を窄ませ肩に担ぎ、ようやく宿屋の扉を開いた。
「いらっしゃい。一晩で鉄貨1枚よ」
ドワーフ、そう呼称されれる種族の壮年女性が、受付で裁縫をしつつ皴がれた声を落とす。左肘までと右手首までを机に託すその堪能な手捌きは、それが道楽の範疇を既に放棄していることを示唆している。
「という事は空室があるのだな」
「えぇ、最近2つほど空きましてね」
(件の魔王軍の影響か……?)
「……取り合えず一泊分だ」
机に置い鉄貨は老婆の手によって、言葉へと変換される。
「あいよ。厠はあの扉の向こう、部屋は204をもう綺麗にしてあるからそちらを使いなされ」
(綺麗……か。差し詰め遺品の整理といった所だろうな)
「承知した。……それと、水売りが何処にいるかお聞きしても?」
「それなら神殿に行きな。水は神官さんの専売だよ」
(水を専売とはがめついな。水を得るのにも金が掛かりそうだし……まぁ、多少は我慢するか)
「分かった。では、良い夜を」
「あいよ」
ドラガセスはドワーフの女性を横目に受付左方の階段を登り始めた。そして一度だけ振り向き見る階下は、階段の軋む音だけがその場を支配していた。
(冒険者も酷な職なのだろうな……)
しかし疲労もあり、他者に気を掛ける余裕は少ない。二階へと踵を踏み入れた彼は早々に204と彫られた扉を開いた。
彼が入り見る部屋はとても貧相であった。ぱっと見は所々黒色を帯びた木の床に木組みの寝台が据え置かれただけ。右奥、色ずんだ漆喰の入隅に小棚が一つあるのだが、それらだけでも部屋は狭い。
(一応用心しておくか)
閂を落とし鎧を棚に備え、念の為剣を枕元に置き寝台へと横たわる。
遮光幕から漏れ出す光は既に色褪せている。
(疲れ……たな……)
毛布すら掛けず、身体も意識も寝台に溶け入った。
不安や疑問を胸中に、明日のことさえ定かではない。
しかし新鮮味溢れる日常に彼の心は高鳴っていた。