閑話 崩壊のプレリュード
アード・メテオールが活躍する、その一方で……
彼の計画は着々と進んでいた。
ラーヴィル魔導帝国には複数の秘境が存在する。
その多くは万人に知られており、観光名所のような扱いを受けていた。
しかし中には文字通り、誰も知らぬような秘められた場所もある。
日々、異常気象が起き続けている不可思議な土地、イシュワルダ地方。
その只中には、特殊な手段を以てしか立ち入り出来ぬ隠れ里がある。
いや、それはもはや里というよりも、迷宮と称するべきか。
棲まう者達は例外なく異形であり、その全てが尋常でない戦力を有している。
この世のあらゆる存在を拒絶し、人が立ち入ろうものなら、総力を上げて殺す。
――彼はそんな場所から、生還を果たしたのだった。
雷鳴轟く砂漠地帯といった異様な環境にて、虚空が歪み、次の瞬間、穴が開く。
そこから悠々とした足取りで出てきた彼の姿は、まるで――
おぞましい拷問を受けた後であるかのごとく、惨憺たる有様であった。
一歩、二歩と刻む毎に、大地を埋め尽くす砂の一部が真っ赤に染まっていく。
彼の肉体は、深く傷付いていた。
スラリとした全身を覆う燕尾服は今、ボロ布の寄せ集めみたく、ズタズタにされて。
その面貌を隠す仮面にも、一部、亀裂が入っていた。
しかし。
それでもなお、彼は笑う。
嬉しそうに。可笑しそうに。
常人であれば発狂してもおかしくはない痛みを味わいながら、喉を鳴らす。
「ふ。ふふ……! ふふふふふ……! さすが、吾の元《、》・主人といったところか……! かの者が《魔王》の手によって滅せられてより数千年……! よもや再び、その悪辣さを実感する日が来ようとは……!」
隠れ里を形成したのは、今は《邪神》と呼ばれし存在の一柱。
古代において、《外なる者達》と呼称された超越者達の頂点に立つ存在。
そして……
《勇者》・リディアの父であり、イリーナの先祖であり、ヴァルヴァトスだった頃のアードが生涯憎み続けた怨敵。
そんな一柱が遺したものを回収すべく、仮面の某はその身に絶大なダメージを負ったのだが……現代生まれは当然のこと、古代生まれであっても死は免れぬであろう深手にもかかわらず、仮面の某が絶命に至る瞬間はいつまで経っても訪れない。
むしろ、その身に受けた手ひどい傷が、時を巻き戻したかのように癒えていく。
「嗚々、元・主人よ。やはり貴公ではなかった。貴公でさえも、吾の不死性を塗りつぶし、この身を死滅させることは叶わない。やはり、あの男でなければならんのだ。愛しき我が《魔王》でなければ、この身を滅することなど出来はしない」
クツクツと笑いながら、雷鳴轟く天空を仰ぎ見る。
そうして、仮面の某は回収したそれを、頭上へと突き上げた。
それは、半分に割れた立方体。
外見だけで判断したなら、なんの役にも立たぬゴミでしかない。
だが……この小汚い、灰色の破損品には、おそるべき力が秘められている。
「さて。あとは我が相棒の働き次第だが」
半分に割れた立方体を天に突き上げつつ、片足立ちとなってクルクルと回る。
そんな仮面の某の傍に、突如、一人の少女が顕現した。
若く、見目麗しいが、しかし絶世の美貌というわけではない。
そんな彼女の名は――
「目的を達したのだな、カルミア」
そう、《女王の影》を自称し、アードやイリーナに接触した少女、カルミア。
その真実は、仮面の某の相棒であり、彼がもっとも信頼する配下でもあった。
「……回収、出来たよ。アル」
なんの情も宿さぬ顔で、無機質な声音を紡ぎながら、カルミアはそれを差し出した。
割れた立方体、その片割れである。
仮面の某はそれを受け取ると、自らが入手したものと接着してみせた。
「さぁ、どうなるかな?」
その声は未知を前にした幼子のように、昂揚としたものだった。
そして。
仮面の某の手により、一つに合わさった半割れの立方体は白光を放ち――
かつての姿を、取り戻していった。
小汚い灰色の表面が、まるで錆を落とすように剥がれていく。
現れたのは、純白の筺。
随所に黄金色のラインが走り、明滅するそのさまは、美しくもどこか不気味であった。
「ククク……! 童心に返るとはこのことか……!」
「楽しそうだね、アル」
「嗚々、楽しいとも!」
「嬉しそうだね、アル」
「嗚々、嬉しいとも!」
白い筺を手に、クルクルと踊る仮面の某。
彼は歌うように言葉を紡いだ。
「三千七百、飛んで四年二ヶ月と三日。それだけの時間、吾は待ち詫びたのだ。これでようやく続きが出来る。嗚々、なんと愉快で喜ばしいことだろう!」
うっとりとした声には、確かな狂気が宿っていた。
そんな彼に言葉を投げる者がまた一人、顕現する。
「……それが件の神具、《ストレンジ・キューブ》であるか」
転移の魔法を用いてやって来たのは、元・《四天王》にして教皇。
ライザー・ベルフェニックスであった。
彼は仮面の某が手にしているそれをジッと見据えながら、再び口を開く。
「《魔王》の目を逸らすのは尋常でない大仕事であったが。その甲斐あって、第一段階はクリアといったところであるな」
「然り然り。彼は今世においてアード・メテオールとなり、多くの友を得た。それは彼にとってこの上ない幸福であろう。しかしその幸福感こそが、彼を蒙昧にさせている。孤独な怪物だった頃の彼であれば、我々の思惑を神がかった感性で察していただろうに」
今のアード・メテオールは、ただただ友を守ることばかりを考えている。
だから、スペンサーとサルヴァンが治めし領土に釘付けとなってしまう。
仮面の某や、ライザーの思惑通りに。
「アサイラスを動かし、彼奴めの友人縁の地を襲わせる。さすれば彼奴の視線はそこに釘付けとなり、回収作業が失敗することはない、と……そのように提案したのは我輩であるが、よもやこうもアッサリと成功するとは」
かの国による宣戦布告は、全てこのときのため。
アード・メテオールの意識を国境へと拘束し、筺を回収するためだった。
「……して、今後どうする?」
「彼女……いや、今は彼か。ややこしいのでアレと呼ばせてもらおうかな。まぁ、とにかく、アレはけっこうなやる気を見せている。吾としても面白い見世物になりそうなので、手伝ってやろうと思うよ」
どこか不満げな顔をするライザーに、仮面の某はクツクツと笑いながら、言葉を積み重ねた。
「無論、それもまた計画の一環だ。最初に説明しただろう? この《ストレンジ・キューブ》、獲得しただけではなんの意味もない、と」
筺を見せつけながら、仮面の某は言う。
「扱うに相応しき存在でなければ、これを操ることは出来ない。ゆえに、資格を得ねばならん。そう――」
「イリーナ、であるな」
紡がれた名前に、仮面の某は小さく頷いて笑みを零した。
「クク。我が《魔王》も、終ぞ気付くまいな。この世界が無数に存在する物語の一つであったとして。その主役は自分でなく……常に、かの少女であったことなど」
暗雲漂う天空を見上げ、両手を広げる仮面の某。
そんな彼を見据えながら、ライザーは口を開く。
「アレを利用し、かの娘を覚醒させる、と。そういうことであるな?」
「然り。もはや彼女は羽化寸前のさなぎ。あと一押しすれば、美しい姿を見せてくれるに違いない。そのときこそが――」
「念願成就の瞬間、であるか」
無数の皺が刻まれた老将の顔に、熱が帯びた。
「……子細は後ほど聞こう。我輩は急用を済ませねばならぬ」
「うむ。気張りたまえよ、教皇猊下」
からかうような声が、仮面の某の口から放たれてからすぐ、ライザーの足下に魔法陣が顕現する。
そして、彼は転移する直前。
仮面の某を睨み据えながら、底冷えするような声を放った。
「裏切りは許さぬ。肝に銘じておくがいい」
脅し文句にも似た言葉をぶつけてから、ライザーはその姿を消失させた。
「ククッ。ここまで信用がないとは。なんだか悲しくなってしまうよ」
「……でも、結局は裏切るんでしょ?」
小首を傾げるカルミアに、仮面の某は肩を竦めた。
「まだわからんさ。状況次第では、最後まで共謀者となるだろう。しかし、状況次第では……敵対していた者達が手を結び、吾を滅するという展開もあるだろう。そして、そんな展開を望む吾がいるというのもまた事実」
「やっぱり、裏切る気まんまんだね」
どこか冷めた目で見てくるカルミア。その頭を撫でてから、仮面の某は彼女の小さな手を取って、踊り始めた。
軽やかにステップを踏み、情熱的に身をよじらせながら。
仮面の某は、愛しき宿敵を思う。
「過激なプレリュードを味わわせてやる。覚悟するがいい、我が《魔王》よ」