第七二話 元・《魔王》様と、人間の煌めき 前編
宗教国家・メガトリウムでは月に一度、教民集会なる催しがあるという。
中央広場に建設された舞台にライザーが立ち、集まった民衆に説法を行うという内容だ。
この教民集会には毎回、メガトリウムに住まう民の大半が参加するらしい。
まさに、宗教国家の名を冠する土地ならではの催しである。
教民集会はメガトリウムの民にとって、己の信仰と道徳感情を再確認するための、神聖な行事として扱われているようだが……
果たして、教民集会を大切に思う民の感情は、真の自己意思と言えるだろうか?
俺はこの催しに関して、裏があるのではないかと思っている。
具体的には、民の洗脳。
集った民衆を対象に精神干渉系の魔法をかけて、意思をある程度コント―ルする。
……それはかつて、俺が行った統治法の一つだ。
メガトリウムはライザーの手によって再現された、古代末期の世界と言える。ならば当時、俺が実行していた統治法のおおよそもまた、再現しているのではなかろうか。
といっても、完全再現は出来ていないだろうし、今後も不可能だと思われる。
精神干渉系の魔法は極めて難易度が高いのだ。特にこちらの意を相手に押し付け、コントロールするようなものは、古代でも使い手がほとんどいなかった。
また、使用可能であったとしても、相手方のメンタルが強すぎたり、こちらが押し付けたい考えを相手方が強烈に忌避した場合、完全な洗脳は不可能。
それはこの俺であっても例外ではなく、ゆえに古代末期では、洗脳以外にも暴力を用いた恐怖政治などを以て民衆を操っていた。
そうした過去の過ちを思い返し、自己嫌悪に浸りながら。
俺は式典の参加者の一人として、イリーナやローザ、ヴァルドルと共に、舞台へと上がっていく。
中央広場に設けられたそれは、此度の式典がいかに壮大なものであるかを知らしめるべく、過度な装飾が施されていた。
民衆を見下ろすことの出来る巨大な台形状の舞台は当然のこと、そこに繋がる道や階段に至るまで、豪奢さを演出する要素がちりばめられている。
俺とイリーナは他の護衛役と同様、自国の首脳陣を守るようにして囲み、前方を行く他国の者達から一定の距離を置きながら、ゆっくりと進む。
「移動経路に高級絨毯を敷くなんて、ちょっと考えれないぐらい豪華ね」
「まぁ、歴史に名を残すような催しですから。これぐらいは当然でしょう」
絨毯を踏みしめつつ移動し、階段を経由した末に。
俺達は他国の者達と同様、舞台の壇上へと到着した。
「うっわぁ……すごい景色……」
眼下の様相を眺めながら、イリーナが圧倒された様子で呟いた。
集った民衆は、メガトリウムの総人口のおよそ九割。数十万人規模である。
広大な中央広場を埋め尽くす人、人、人。
彼等の注目を、我々は今、一身に浴びていた。
「わらわも時には、民衆の前で演説を打つときがあるが……これほどの数を前にするのは、初のことやもしれぬ」
やや緊張気味に表情を強張らせるローザだが、すぐに元通りの微笑を浮かべ、
「まぁ、どうとでもなるじゃろ。……ここにはアードもおるしのう」
「そうね! なんか失敗があったとしても、アードがきっとフォローしてくれるわ!」
「……えぇ、お任せください」
会話を交わしつつ、俺達は壇上の只中を歩く。その先には、来賓用の椅子がある。
五人分、ズラリと並べられたそれは、玉座に似た造りをしており……五大国の主が手を結ぶという此度の式典のテーマに則った、小道具とも言える。
まず他の首脳と同様に、ローザが椅子へと腰を下ろす。そうしてから宰相ヴァルドルが彼女の背後に付き、両隣を俺とイリーナが固める。
そうした我々を囲むようにして、多くの聖堂騎士が肩を並べた。
まさに盤石の守りといったところか。
五大国全ての首脳陣が席についたことを確認すると、ライザーは壇上に設けられた演説台の前へと赴き、拡声の魔導装置を用いて、民衆に式典の開始を告げた。
「皆も知っての通り、この大陸では歴史上、三度の大戦があった。小競り合いを含めれば、戦の数は千や二千では済むまい。《魔王》陛下亡き後、我等は人類同士、醜い戦を繰り返しながら歴史を紡いできたのである。だが、今日、このときを以て。大陸に再び、平和が訪れるだろう。《魔王》陛下が形成した理想郷が今ここに、再現されるのである」
ライザーの演説に、民衆が大いに沸き立つ。
数十万人規模の歓声。誰もが熱狂し、歴史的偉業を成し遂げたライザー達を称賛する。
鼓膜が破れんばかりの声援を受けながらも、ライザーは粛々と、厳かに、式典を進行していった。
「あ~、どうも。オイラ、バッファ。ぶっちゃけこういうの苦手なんだけど――」
各国首脳によるスピーチ。
それを終えた後、ライザーが改めて平和条約の内容を発表し、締めの言葉を述べて終幕。
……というのが、式典の流れである。
一人、また一人と、スピーチを終えていく。
そうした様相をしばし、俺はなんの気なしに眺めていたが……
ふと、椅子に座るローザの顔に目を向けた。
……随分と緊張しているのだろうか。朝方と同様、顔が青い。
額には脂汗が浮かび、唇はわなわなと震えている。
何か声をかけようかと思ったのだが、それよりも前に、彼女の出番が回ってきた。
「頑張って、ローちゃん!」
まるで、学芸会に赴く友を応援するような気安さ。
イリーナの顔にはそんな、穏やかな笑みが浮かんでいる。
「………………」
ローザは椅子から離れてより数秒間、無言のまま、イリーナの顔をジッと見つめ続けた。
そして彼女は、「ふっ」と緊張を崩し、満面に優しげな笑みを宿すと、
「……イリーナよ、そなたは己の幸福のみを優先せよ」
前後の繋がりがまったくない、意図不明の言葉を受けて、イリーナの顔に当惑が浮かぶ
しかしローザは背中を向けて、振り返ることなく、演説台の前へと移動した。
「……ふぅ」
一息吐きながら民衆を見下ろし、それから彼女は、ライザーの顔を見やる。
その瞳に在るのは――翻意の情。
ローザは再び民衆へと向き直り、拡声の魔導装置に口元を近づけ、言葉を紡ぎ始めた。
「この数日、わらわは常に迷い続けてきた。目前に置かれた天秤は常に均衡を保ち、どちらにも傾いてはくれぬ。ゆえにわらわは、今このときに至るまで、決断を下せずにいた」
迷いも淀みもない語調。
だが、民衆にとってローザのスピーチは、意図の掴めぬものだったに違いない。
「ラーヴィルの女王様、なに言ってんだ……?」
「天秤? 決断?」
ざわめく民衆。彼等だけでなく、他国の首脳陣やイリーナにしても、首を傾げるばかり。
彼女の考えを正確に掴んでいる者は、この場において、おそらく三名のみであろう。
宰相ヴァルドル、教皇ライザー、そして――
この俺、アード・メテオールを入れて、三名。
……やはり、こういうことになるのか。
想定した未来の到達を感じ取りながら、俺は次なる展開へと備え始めた。
そうする一方で、ローザのスピーチが続く。
「わらわが下した決断は、為政者としては間違っておろう。しかし、わらわは女王であると同時に、一人の人間じゃ。ゆえに…………」
ここで一度、彼女は背後を振り向いた。
視線が向かう先に立つのは、宰相ヴァルドル。老いた忠臣は今、目を大きく見開いて、大量の汗を流している。彼は小さく首を振り、自己意思を表明するのだが……
女王は切なげに微笑んで、再び前を向き、そして。
「このローザは、友の幸福を選択するッ! 教皇に賛同する気は微塵もないッ!」
決然とした声が、彼女の口から放たれた。
この式典に参加する者、それを観覧する者。ほとんどが唖然とした顔をしている。
理解がおいつかなかったのだろう。民衆は誰もが口を閉ざし、静寂を保っていたのだが……しかし、やがて彼等は、当惑を叫び始めた。
「なんだよ? 友の幸福って?」
「教皇様に賛同しない? どういうことだ?」
「まさか……この期に及んで、平和条約に反対するつもりか?」
当惑や不審を口々に出し合う。
一種のパニックが、民衆に伝播していく。
そのときだった。
「教皇猊下ッ! 申し上げたき議がございますッッ!」
血を吐くように、老いた宰相ヴァルドルが叫び声をあげた。
凄まじい形相、だが……どこか芝居じみたところがある
まるで予定調和。事前に取り決めていた言動を実行しているかのように。
ヴァルドルだけでなく、ライザーもまた、動き始めた。
「……申してみよ」
短く一言、ライザーが返答してからすぐ、ヴァルドルは演説台へと向かった。
ローザとすれ違う際、彼は拳を強く握り締めたが、何事も発さず。
そしてヴァルドルは、皆の注目を一身に受けながら、演説台を前に大声を張り上げる。
「我が国、ラーヴィル魔導帝国はッ! これまでずっと、ある真実を隠し続けてきたッ! それは――」
このまま捨て置けば、どういうことになるのか、わからぬわけもない。
だが……
やはりこの場には、反魔法術式が展開されていた。
ゆえに今、俺はいかなる魔法も使えない。
ゆえに今――
俺は、ヴァルドルの口を塞ぎ、最悪の未来を防ぐことが、出来なかった。
「《邪神》の末裔を放置するばかりかッ! 英雄男爵などと呼び、その親子を政治的に利用しているッ! これはまさに! 《魔王》様と、その信徒達に対する裏切りに他ならないッ! ゆえにこの宰相ヴァルドルは、教皇猊下にお願い申し上げるッ! 卑しくも女王を僭称する裏切り者ローザに、正義の鉄槌をッッ!」
絶叫するヴァルドルの瞳からは、滂沱の涙が流れていた。
だが、その感情を慮る余裕は、もはやない。
俺は盛大なため息を漏らしつつ、目線を隣へやった。
「……イリーナさん、お気を確かに」
声をかけても、反応はない。
彼女はまだ、現実を受け止め切れていないらしい。
茫然自失といった顔をしたまま、微動だにしなかった。
……その一方で、状況は容赦なく進行していく。
俺の想定通り。
最悪の未来へと、突入する。
「よくぞ告白してくれた。あぁ、しかし……なんとおぞましい真実であろうか。かの憎むべき《邪神》の血を引き継ぐ者がこの世に存在するだけでなく……五大国に数えられし帝国がそれを匿い、政治利用しているとは」
ライザーの言動はあまりにも芝居がかっていて、俺からすると不審感しかない。
だが、民衆は違った。教皇猊下を絶対正義とする彼等は、あまりにも流されやすい。
ローザの意図不明な宣言。ヴァルドルによる、唐突な話題変化。
それらに対する不審や疑念など、もはや彼等の頭にはないのだろう。
「ラーヴィルの野郎……! なんて、おぞましいことを……!」
「絶対に許せねぇ……! 許しちゃおけねぇ……!」
彼等の頭は、憎悪に囚われていた。
邪悪と決めつけた存在への怒りや憎しみだけが、心に広がっている。
民衆達に遅れて、ここでようやっと、各国首脳陣が反応を見せた。
「おい、マジかよ……!?」
「なんとも、まぁ……」
「うっふふふふ! 素敵なサプライズだねぇ!」
「………………」
ある者は驚愕し、ある者は嫌悪し、ある者は笑い、ある者は沈黙を保つ。
そうした中。
教皇ライザーが、こちらを向く。
まず俺に目をやり……何かを問うような視線を投げかけた。
俺はただただ奴を睥睨するのみ。
そうしていると、奴はイリーナへと視線を移した。
「……っ!」
鋭い目を向けられて、彼女の華奢な体が小さく跳ねた。
まさしくか弱き乙女の反応を受けてなお、ライザーはその瞳に冷酷な意思を宿し……
声高らかに、民衆へと告げた。
「我輩は、ラーヴィルを赦そうと思う。この責任は個人が背負うべきものであり、国ごと罰するものではない。よって我輩はここに、異端審問の開始と、その結論を宣言する」
静けさが場を支配する中。
ライザーは、判決文を読み上げるかの如く、淡々と言葉を紡ぎ出した。
「ラーヴィル魔導帝国女王、ローザ・フォン・ヴォルグ・ド・ラーヴィルを、死罪とする。そして――英雄男爵として知られるヴァイス・リッツ・ド・オールハイド並びに、その娘、イリーナ・リッツ・ド・オールハイドもまた、死罪とする。この三名の極刑を以てしか、ラーヴィル魔導帝国の罪が赦されることはない」
教皇猊下の断言を受けて、静寂を保ってきた民衆が、一斉に声を上げ始めた。
「殺せぇッ! 今すぐ、そいつらを殺せぇッ!」
「あぁ、なんておぞましい……!」
「穢れた血筋を絶やせッ! 《邪神》の末裔を八つ裂きにしろッ!」
荒れ狂う民衆の悪意が、イリーナの華奢な体を襲う。
「ひっ……!?」
ぶわりと立ち上った、悪感情のオーラ。それを一身に浴びたイリーナの心情たるや……まさに、筆舌につくしがたいものであろう。
されど現在、その心を慮り、激励するだけの猶予は、ない。
「我が騎士達よ。《邪神》の娘を捕らえよ」
ライザーの命を受け、聖堂騎士達が一斉にやってくる。
「あ、あぁ……!」
迫り来る連中に、イリーナは怯え惑うことしか出来ない。
だからこそ。
「ご安心を。貴女には、私が付いています」
このアード・メテオールが、彼女を守らねばならぬ。
接近してくる騎士のうち、もっとも突出した者に向かって、俺は鋭く踏み込んだ。
「魔法が使えぬ魔導士などッ! 雑魚も同然よッッ!」
「……さて、どうですかね」
受け応えつつ、振り下ろされた両刃剣を躱す。
相手方の身のこなしは、てんでなっちゃいなかった。
心身に、油断と嘲りが満ちている。
魔法が使えぬ者が、重装備の騎士隊に敵うわけがない。
そうした情が、ヘルムから覗く相手方の目から伝わってくる。
「やれやれ」
確かに、フルプレートを纏った騎士を相手に魔法なしは辛い。
だがフルプレートの鎧といえど、隙間はあるものだ。
例えば――覗き穴。
俺は相手方の第二撃を躱しつつ、自らの懐へ手を差し込み、万年筆を取り出した。
そうして、力強く地面の蹴ると、
「ご無礼」
相手のヘルムの覗き穴へ、ペン先を突き刺した。
「ぎゃっ!?」
こちらの思惑通り、ペン先は目を貫いたのだろう。
激痛に悶えながら、騎士が両刃剣を落とす。
「得物を拝借」
落下する剣の柄を握ると、俺は目前にて呻く騎士へ、無造作に刀身を振るった。
フルプレートの弱点はもう一つ。関節部である。
無論のこと、鎖帷子を着込むことで切断を防いではいるが……
衝撃は、殺しきれない。
「ぐがぁッ!?」
各関節部を強かに打ち据え、骨を砕く。
まず一人。
「チィッ! 猪口才なッ!」
真横から剣を突き出してくる騎士。
その一撃を悠々回避し、先刻と同様に関節を打つ。
これで二人目。
「再び、得物を拝借」
今し方仕留めた相手の剣を奪い、両手に得物握る。
手数はこれで倍となった。
「囲めッ! 囲んで押し潰せッ!」
もはや敵方に慢心はなく、必死の攻勢が展開される。
よく訓練されているのだろうが……
連中の戦闘機動など、俺からしてみればお遊戯ごとも同然であった。
小さな猫がいくら群れたところで、巨大な獅子には敵わぬ。
この身に刻み付けた剣技の数々を披露する度、騎士が一人、また一人と倒れていく。
とはいえ、調子づいて殲滅を狙うような愚は犯さない。
そうしたなら今度は、ライザー自らが出張ってくるだろう。
ゆえに。
「……ここいらが、潮時ですかね」
また一人、騎士を討ち取った後、俺は片手に持った剣をライザーへと投げ放った。
当然、掠ることもない。
だが一瞬、気を逸らすことは出来た。
「イリーナさん、とりあえずここは、身を隠しますよ」
「アー、ド……?」
未だ茫然自失としたイリーナの腰を抱いて、俺はもう片方の剣を向かい来る騎士の一人へ投擲。それから再び、自らの懐へと手をやった。
「イリーナさん、目を閉じてください。私がよしと言うまで、決して開けぬように」
備えあれば憂いなし。
このときのために用意しておいたアイテムを、速やかに取り出す。
掌サイズの、白い球体状のそれは、名をフラッシュ・ボムという。
「それでは皆様、ごきげんよう」
言うや否や、俺はフラッシュ・ボムを地面へと投げつけた。
衝撃に反応して、白い球体状のそれが破裂し――
強烈な閃光が、広範囲に広がる。
「うおッ!?」
「ま、眩しっ……!」
「うっふふふふ! 用意周到だねぇ!」
元来、このフラッシュ・ボムは冒険者が魔物に使うもの。
しかし、こうした対人戦においても、効果は覿面であった。
「揺れますが、辛抱してくださいませ」
「……っ!」
広場に集いし民衆の罵声を浴びながら。
俺はイリーナの細い体を抱きかかえ、脱兎の如く、駆け出すのだった。
…………
……呼吸が少し、乱れている。
だが決して、大きく息を吸ったり、吐いたりは出来ない。
音を立てて見つかるようなヘマは、ごめんである。
「くそっ! 探せっ! まだ遠くには行ってないはずだっ!」
騎士達の怒号が、遠くへと離れていく。
まずは一安心といったところか。
……イリーナを抱え、舞台から降りた後。
俺は荒れ狂う民衆を制しながら、街中へと逃げ込んだ。
そして今、ある区画の路地裏にて息を潜めている。
ここは件の連続殺人事件を調査する最中、偶然見つけたスポットで、周囲一帯が迷路のように入り組んでいる。身を隠すにはうってつけの場所だ。
「ふぅ。なんとか、撒きましたかね」
息を整えっつ、空を見上げる。
本日もまた清々しい晴れ模様だ。
燦々と輝く太陽が、どうにも憎らしくて仕方がなかった。
「……助けなきゃ」
この身のすぐ隣。
地面に座りこんだイリーナが、俯きつつ、小さな声で呟いた。
「ローちゃんを、助けなきゃっ……!」
血走った眼で、こちらを見る。
その瞬間のことだった。
「アード・メテオール殿。並びに、イリーナ・リッツ・ド・オールハイド殿」
前触れなく飛んできた声へ、我々は弾かれたように反応する。
即座に声の主を睨み、戦闘態勢を整えた。
相手は、年端もいかぬ少女。しかしその佇まいは、素人のそれではない。
「とうとう本腰を入れてきたようですね。ここからは、タフな逃亡劇になりそうだ」
戦闘意思を発露させつつ、微笑を浮かべてみせる。
そんな俺に対し……相手方の少女は、首を横に振った。
「わたしは、貴方達の敵じゃない。《女王の影》の、一人」
「《女王の影》」
それは名が示す通り、女王お抱えの秘密組織である。
汚れ仕事を中心とした高難度クエストを、女王の命のもとこなす者達。
一応、俺やイリーナもその組織に属しているので……この少女の言葉が本当であれば、彼女は我々の同胞ということになる。
もっとも、本当であればの話だが。
「……貴女の発言が、嘘でないという証拠は?」
「ない。けれど、信用してほしい」
どこか虚ろな目で俺とイリーナを見つめながら、少女はこう言った。
「貴方達を逃がす。わたしは、そのために来た」
◇◆◇
宗教は心の拠り所とされている。
実際のところ、信仰が救いとなっている人間も多く、治安維持という面でも宗教は有用であった。
けれども……信仰は時として、狂気を生む。
「まったく、宗教の功罪は半端ないのう」
薄暗く、狭い、大聖堂地下牢にて。
ラーヴィル魔導帝国女王、ローザは、倦怠感たっぷりに呟いた。
「宗教の存在ゆえに人は一定の道徳を有しておるが……反面、信仰という概念があるゆえに、異物への忌避感が高まってしまう。……宗教なんぞなかったなら、イリーナも気苦労せずにいられただろうに」
冷たい石造りの地面に座り込んで、壁に背を預けつつ、天井を見上げる。
「……あの二人は、ちゃんとわらわの言うことを聞いてくれるかのう」
麗しい瞳を憂鬱げに細めながら、ローザは彼等の現在を想像する。
アード・メテオールが付いている以上、イリーナの安全は間違いない。
きっと今頃、二人は事前に手配しておいた人員と合流しているだろう。
問題なのは、その後だ。
「……あの二人は、良くも悪くも自分を優先してくれぬからのう。わらわが必死こいて準備したアレコレを無碍にする可能性が高い。まったく、厄介な友を持ったものじゃ」
一つ、嘆息を漏らす。
と――
コツリ、コツリ。
地下牢に足音が響き渡った。
「来客、か」
鉄格子へと目をやる。
果たして、その先に立っていた人物は。
「……おう、ヴァルドル。随分とやつれたのう」
老齢の忠臣、ヴァルドルの容貌は今、まるで枯れ木の如く萎びていた。
ローザが聖堂騎士によって捕縛され、この地下牢に叩き込まれてから、まだ一時間と経ってはいない。にも関わらず、この変わりようである。
「現時点でそれとはのう。いささか不安になってきたぞ。わらわが処刑されてすぐに老衰して死去、などという無様な最期は迎えてくれるなよ? わらわ亡き後、国家安寧はそなたの手腕にかかっておるのじゃからのう」
ケラケラと笑いながら、普段と変わりなく、まるで祖父に接するかのように語りかける。
だが、ヴァルドルは何も答えなかった。
幽鬼の如く落ちくぼんだ目で、ジッとローザを見つめ続けるのみだった。
しかし、やがて。
口元をわなわなと震わせながら、ヴァルドルは言葉を紡ぎ出す。
「なぜ……! なぜ、手筈通りにしてくださらなかったのか……!」
太い涙が、彼の両目から流れ落ちる。
そんな忠臣の姿に、ローザは一抹の罪悪感を覚えたが……それでも、堂々と断言した。
「臣下の心を思えば……胸が押し潰されそうになる。されどこのローザ、後悔の念は微塵もない。教皇の脅しに屈して友を裏切るなど、わらわには出来ぬ。例えその結果……無辜の民が、犠牲になろうとも」
ローザの脳裏に、過去の映像がフラッシュバックする。
それは、アード達が修学旅行を楽しんでいる最中の出来事であった。
教皇たるライザーが前触れなく、お忍びで、王室へ訪れたのである。
そして彼はこう言った。
「其処許等の隠し事、暴かれたくなくば、我輩に協力せよ」
五大国会議の開催と、平和条約の締結……それらを隠し蓑とした、なんらかの計画。
その詳細は知らぬ。ライザーはただローザを脅迫し、己が駒にせんと働きかけるのみだった。
彼の要求はただ一つ。
条約締結の式典の際、イリーナの正体を民衆に明かし、その排除を約束せよ。
「さすれば、其処許等の罪をこの教皇が赦そう。ラーヴィル魔導帝国の安寧を、我輩が保証しよう。もしこれを受け入れぬのであれば――――」
以降、彼は何も言わず、立ち去った。
それからの日々は、まるで生き地獄。
為政者としての選択と、一人の少女としての選択。それらを天秤にかけ、しかし、どちらも選べぬ日々。
その末に出した結論は、ローザの現状を見れば明らかであろう。
「まぁ、王家の真実まで明かせと言われなかったのが、せめてもの救いじゃな。そこまで暴露してしまったなら、もはや完全なる詰みじゃもの」
真の王家は自分でなく、イリーナ達である。
《邪神》の末裔たる彼女等が、ラーヴィル魔導帝国の真なる支配者だ。
そうした真実まで公開しようものなら、下手をすれば国から人がいなくなってしまうだろう。これも、宗教の功罪の一つだった。誰も、邪悪な怪物の子孫が治める土地になど、住みたくはあるまい。
「それを思えば、現状は不幸中の幸いといったところよ。何せわらわは単なる影武者。代わりなどはいくらでも――」
「馬鹿なことを申すなッ!」
放たれた怒声に、ローザは目を丸くした。
目尻を吊り上げ、激しい怒りを表す老臣。
その姿はまるで……孫を叱りつけんとする、祖父のようだった。
「確かに、貴女様は影武者。しかし……このヴァルドルからすれば! 貴女様こそが真の王ッ! 決して、代わりの効くものではないッ!」
老臣は鉄格子に手を掛けながら、歯を食いしばって、ローザを睨む。
その血走った目は恐ろしくも……温かみを感じさせるものだった。
「……ふふ。そなたにこれほどこっぴどく叱られたのは、いつ以来かのう」
影としての人生。しかしながら、不平不満は一切なかった。
それも全ては、この忠臣が居てくれたおかげだった。
だが……
「わらわは、そなたを裏切ってしまったな。そなたの期待に、最後まで応えては、やれなんだな。……それでもなお、わがままを言うわらわを、許してくりゃれ」
ヴァルドルをまっすぐ見つめながら、ローザは生涯最後の願いを口にした。
「わらわ亡き後、ラーヴィルの秘境には誰も近づけさせるな。そこは我が友のために用意した、安寧の地じゃ。……どうか、よろしく頼む」
老臣は、何も答えなかった。
無言のまま、しばし血走った眼を見開き……やがて全身を震わせながら、目を瞑る。
そうして彼は、ローザの懇願に対して何事も言わぬまま、地下牢から去って行った。
「……さぁて。わらわの願い通りになるか、否か」
全ては、ただ一人の存在によって決まるだろう。
そう……
ありとあらゆる命運は、アード・メテオールの選択によって、決まる。
「間違ってくれるなよ」
彼の姿を思い浮かべながら、囚われの女王はまた一つ、ため息を漏らすのだった。
◇◆◇
我々を逃がすためにやって来た。
そう話す《女王の影》の構成員に、俺達は懐疑の目を向ける。
「……どうする、アード?」
「そうですね」
顎に手を当て、思考を巡らせ、その末に。
「隠れ家は、ご用意されていますか?」
「当然。まずはそこで身を隠し、計画について話す」
「なるほど。ではそちらへ参りましょう」
この路地裏は身を潜めるにうってつけであるが、しかしそれでも、あと半日もすればこちらの居所を掴まれよう。
色々と情報の確認もしたいところである。ゆえに俺は相手の言い分を信用し、ついて行くことにした。
そして。
時には裏道で息を潜め、時には下水道を経由し、ようやっと隠れ家へ到着。
《女王の影》の構成員が用意したそれは、メガトリウムの隅っこにある、極めて地味な住宅だった。
そちらへ入り、リビングへと移動するや否や、構成員たる少女が口を開く。
「脱出の日時は本日深夜。まず門番を――」
「脱出計画の説明は結構。我々はすべきことを達成するまで、このメガトリウムから離れるつもりはありません。そうでしょう? イリーナさん」
「そのとぉ~りよっ!」
「……すべきこと、とは?」
「言わずもがな。女王陛下の救助にございます」
「こっから逃げるにしても、それはローちゃんを助けたあとっ! それまでは絶対に逃げたりしないんだからっ!」
我々の決然とした態度に、相手方は感情を見せることなく、無機質に受け応えた。
「それは困る。わたしは命令を受けた。だから、命令を遂行しなければならない」
「もうっ! 融通が利かないわねっ!」
ぷりぷりと怒るイリーナに、《女王の影》たる少女は虚ろな瞳を向けるのみだった。
そうした彼女に、俺は少し冷ややかな目線を送りながら、
「己が意を通すなら、貴女はもはや暴力を用いるほかありませんよ。けれども……我々の制圧は容易なことではありません」
「そこは理解している。力尽くで言うことを聞かせようとしても、時間と体力を無駄にするばかりか、計画にも支障を来す恐れがある。……だからわたしは、何も出来ない」
「いいえ。貴女には出来ることがある。それは情報提供です」
「情報提供?」
「えぇ。裏方として、色々と探っていたのでしょう? 貴女が持つ情報の中には、私が求めているものがきっとあるはず。それを与えてくだされば……私が良きようにいたします」
少女は懐疑的な目をこちらに向けてきた。
「良きように、とは?」
「女王陛下をお救いし、そして堂々とこの国を出て行く。これが現状、我々が目指すべき理想かと」
「……出来るわけがない。夢物語にもほどがある」
どこか呆れた様子で呟いてから、彼女は深々と嘆息した。
「メガトリウムには今、全域に反魔法術式が展開されている。よってわたし達も相手方も、魔法が使えない。となると戦況を決定づけるのは物量ということになる」
「然り。こちらは私とイリーナさん二人に対し……相手の戦力は数万単位でしょうね」
「そう。いくら貴方でも、この差は――」
「覆るわっ!」
横から口を挟みながら、イリーナはまるで、威嚇するかのように目を吊り上げた。
「あたしのアードを舐めんじゃないわよっ! たかだか数万の聖堂騎士なんて、アードからしてみればアリんこも同然なんだからっ! そんなのこう……ちょいっ、てやるだけで片付くのよ! こう、ちょいっと!」
足払いのような仕草をみせるイリーナに、少女は再びため息を吐いた。
信用がないようだが、まぁ、それでもいい。
欲する情報さえ得られれば、それでいいのだ。
「とりあえず……捕らえられたであろう女王陛下の処刑日時。その場所。これらをお聞かせ願いたい。さすれば、このアード・メテオールが現状を打破いたしましょう」
やはり少女の態度は懐疑的なままだったが……
とりあえず、情報は聞き出すことが出来た。
ローザは明日の朝方、中央広場にて公開処刑されるとのこと。
「ふむ。朝方ですか。なるほどなるほど」
「ど、どうにかなるわよねっ!?」
「えぇ、なにも問題はありません」
……やはりライザーは、俺の想定した通りに動いたか。
奴の目的はわかっている。
全てはこのアード・メテオール……いや、《魔王》・ヴァルヴァトスを狙ってのもの。
ゆえに奴は、こちらに時間的猶予を与えたのだろう。
決断を下すための、時間的猶予を。
……きっとそれは俺にとってだけでなく、イリーナにとっても、辛い時間になるだろう。
……さて。
それからというもの、《女王の影》の構成員たる少女はしばらく、説得の言葉を積み重ねてきた。けれども我々は彼女の言葉を頑として聞き入れず……
結果、彼女の脱出計画は破綻。
ゴウンゴウンと街中に鳴り響く鐘の音が、その証になっていた。
少女の計画では、夜の到来を指し示すその音と共に、まずは下水道へ向かう手筈だった。
しかし今、俺とイリーナは住宅の一室にて閉じこもり、朝を待ちわびている。
「……イリーナさん、少しは眠られた方がよろしいかと」
「それは、わかってるんだけどね。でもなんというか……緊張して、眠れないの」
ベッドに横たわるイリーナの全身は、先程からカタカタと小刻みに揺れていた。
「ていうか、アードはどうなの? 寝なくていいの?」
「私は大丈夫です。三日三晩程度であれば、飲まず食わず、眠らずの状態でも万全に動けますので。それに……つい先ほど申し上げた通り、やらねばならぬことがありますから」
それは今まさに、実行中であった。表向きはただ会話しているだけに見えるだろうが、我が脳内ではある仕事が着々と進行している。
これはおそらく、徹夜作業になろう。
しかし、イリーナがそれに付き合う義理はない。むしろしっかりと休眠を取らねば、明日の決戦に差し支えるやもしれぬ。
……とはいえ。
きっとイリーナは今夜、一睡も出来ぬだろうな。
依然として、彼女は全身をカタカタと震わせている。
本人はそれを武者震いだと言っているが……
実際は、違う。
彼女は今、不安や恐怖に押し潰されそうになっているのだ。
……しばし、室内に沈黙の広がる。
実に静かな時間だった。
世界が静止したように、なんの音も生まれない。
永遠に続くような静寂と……平穏な時間は、しかし次の瞬間、崩壊を迎えた。
イリーナの、一声によって。
「パパは、どうしてるかな」
ポツリと、彼女の唇から不安の種が一つ、吐き出された。
「ヴァイスさんは英雄男爵の異名をとる御方。その傍には私の両親も付いております。心配はご無用かと」
「……うん、そうよね」
肯定の言葉を口にするイリーナだが、その大きな瞳に宿る不安は消えるどころか、増加する一方だった。
静かで、穏やかな一時を迎えたことが逆に、彼女の精神的平穏を崩すきっかけになったのだろう。
否が応でも、彼女は現実を直視せざるを得くなった。
だから、考えてしまう。
未来のことを。
「……これから、どうなるんだろう。どうすれば、いいんだろう」
唇の隙間から漏れ出た言葉は、彼女が抱えた心情の全てを表すものだった。
女王を救助し、ここから脱出したとして……
そこから先は?
ラーヴィル魔導帝国へ帰るのか?
王都ディサイアスへ。そして、学園へ。我々は、帰るのか?
だが、帰ったとして……
「皆、あたしの顔、なんか」
そこに居場所が残っているとは、思えない。
イリーナの正体は、メガトリウムの民だけでなく、既に大陸全土へ知れ渡っているという。その伝達速度から考えるに……ライザーが事前に、それこそ我々が王都を発ってからすぐ、情報を伝播させたのだろう。
奴の働きによって秘密は暴かれ、広がり、だからこそ。
「シルフィーにとって……《邪神》は、憎むべき敵だった……ジニーにとっても、《邪神》の末裔なんて、気持ち悪いバケモノ、よね……」
後ろ向きな考えを吹き飛ばす材料が、イリーナにはなかった。
この俺もまた、同様である。
何か声をかけてやりたい。だが、何も言えない。
自分のことが、不甲斐なくてしょうがなかった。
「みんな……みんな……あたしのこと、なんか……」
とうとう、感情の堰が切れたのだろう。
イリーナの瞳から、小さな涙がポロポロと零れ、シーツを濡らす。
築き上げた信頼。積み重ねた友情。何もかもが、壊れてしまった。
ヒトは異物を恐れるがゆえに。《邪神》の末裔であるという秘密が知られた今、かつての友はもはや、自分を忌み嫌うようになっているだろう。
イリーナは、そう確信している。
……俺はその考えを、否定出来なかった。
だから、こんな未来を選んだ(、、、、、、)のだ。
「ボルドーさんは……こんな気持ちを抱えながら……死んだのかな……」
かつてヒトを信じ、ヒトを愛し、ヒトの中に居場所を見つけようとした男。
しかし、彼はヒトに裏切られ、絶望し、自ら死を選択した。
ヒトは決して、異物の存在を許さない。
ヒトは決して、異物を愛することはない。
ヒトは……
きっとライザーの持論通り、ただひたすら醜く、おぞましいだけの生き物に過ぎないのだろう。
「うっ、うぅ……!」
こちらに泣き顔を見せまいと、イリーナは壁の方を向いて、声を押し殺した。
……心が、張り裂けそうだった。
「イリーナさん、私が」
噎び泣く親友を前に、俺はいても経ってもいられず、口を開くのだが。
途中で、投げかけようとしたそれを、止めた。
イリーナさん、私が付いていますよ。どんなことになろうと、私は味方ですよ。
……そんなふうに、予定通りの言葉(、、、、、、、)をかけようとする自分が、あまりにも醜く思えた。
自分が付いているだと? だから安心してくれだと?
そもそも、こうなったのは誰のせいだと思ってる?
……俺だ。全部、俺が悪いのだ。
俺が、我が身可愛さに、イリーナの居場所を奪ったのだ。
「私、は」
わかっていた。
ボルドーが死んだ時点で、俺はライザーの思惑を理解した。
だから、やろうと思えば、奴の計画を事前に潰すことも出来たのだ。
この事態を、未然に防ぐことが出来たのだ。
なのに、あえてそうしなかった。
なぜなら……怖かったから。
今の俺が、あのライザーを完全に打ちのめし、悲劇を未然に防ぐには、全力を出すほかない。
もしそうしたなら、今、イリーナの泣き顔を見ることはなかったろう。
だがその代わり。
俺はイリーナに畏怖され、拒絶されていただろう。
……かつて俺は、狂龍王と称されし白龍、エルザードからイリーナを救い出すため、己が力を振るったことがある。
そのとき見せた力は、俺にとって三割にも満たないものだった。
それでも。
それでもイリーナはあのとき、ほんの一瞬、俺を恐れたのだ。
その際はなんとか、彼女の中に在る友情が勝ったのだろう。
だから俺達はまだ、友として接し合えている。
けれども。
全力を見せてしまったならきっと、イリーナは俺を恐れるに違いない。
この俺は。
アード・メテオールを自称するこの俺は。
その実、《魔王》・ヴァルヴァトスという、規格外の異物なのだから。
例えイリーナであろうとも、ヒトは、ヒトなのだ。
異物を許容出来ぬ、ヒトという種に違いはない。
……当然、信じたいという気持ちはある。だが、俺にはそれが出来ない。
だから俺は……イリーナに拒絶されたくないがために、俺は……
彼女に割りを食らわせ、自分だけが利を得る。そんな選択をした。
結果、イリーナは友を失い、居場所を失い、悲嘆に暮れている。
一方で、俺はどうだ?
何も失ってはいない。
誰も俺の正体を知らぬ以上、皆との関係は、ほとんど今まで通りに続くだろう。
ローザを救った後、俺はどこぞの秘境などにイリーナとその父ヴァイスを隠し、時には学園へ足を運んで友人と過ごし、時にはイリーナ達のもとへ行って談笑する。
そうした、自分だけが得をする生活を続け、なんとかイリーナを受け入れてくれるような社会を創っていく。時間をかけてでも、確実に。
そんな、自分にとって甘すぎる選択を、俺は選んだのだ。それが正しいと信じて。
……以前、ライザーと交わした会話を、思い出す。
「己のためだけに他者を利用し、人生を狂わせる。そんな身勝手な者こそ、もっとも弾劾されるべき存在だ」
「然り。我輩も同意見である。だが……その言葉、其処許にも返ってくるものと心得よ」
……あぁ、まさにその通りだ。
今の今まで、俺は自分の選択を、正当化していた。
最終的には全員が笑顔になれるようなものだと。これが最善なのだと。
……何が最善だ。
これが。こんな、イリーナの姿が。最善の結果だというのか。
違う。ありえない。こんなもの、最善であるわけがない。
……こんな、自分勝手なことを続けてきたから、俺はリディアになれなかったんじゃないか。彼女のように、愛される存在になれなかったんじゃないか。
「これから、あたし……どうやって……」
全身を戦慄かせ、嗚咽を漏らすイリーナの姿を見て、ようやく、俺は自分の間違いを悟った。
俺がすべきだった選択は、自己愛を貫くことじゃ、なかったのだ。
俺が、すべきだった選択は……
自己を犠牲にして、友を救う。
それこそ、かつてリディアがしてきたように。
……時間は戻らない。誤った選択は、覆らない。
だが、しかし。
まだ間に合うはずだ。
全てをやり直し、目前にて涙を流す友を、救うことが出来るはずだ。
「……イリーナさん。ご安心ください。私が全て解決いたします。貴女の居場所は必ず、私が取り戻してみせる」
たとえその結果、自らの居場所が消えようとも。
俺は、やり遂げねばならない。
決意を胸に抱き、俺は、拳を握り締めるのだった。