第六九話 元・《魔王》様と、人間の闇 後編
「この事件は、本日中に解決いたします。必ず」
第一の目的地たる図書館への道中、俺は虚空を睨みながら、宣言した。
誰に向けての宣言か。
イリーナではない。
強いて言うならば……運命という概念に対する、宣言であった。
足早に図書館へと赴いた我々は、まず連続殺人の被害者達を特定。
彼等の名前や身元を知ってすぐ、その関係者へ接触した。
そして……一通りの調査を終えた頃。
ゴウンゴウン、と鐘の音が街中に鳴り響く。
夜の到来を告げるその音を耳にしながら、俺はイリーナの顔を見て、言った。
「さぁ、大詰めと参りましょうか」
「うん……!」
頷き合い、それから、隣並んで歩き出す。
向かった先は――
裕福層が住まう、高級住宅街の一角であった。
そこに居を構えた豪邸の主こそが、我々の目的たる人物である。
まず俺達は、巨大な門前へと向かい、番兵に声をかけた。
「こちらのお屋敷のご主人は、ラズベリー商会の長、コールド・ラズベリー様で間違いないでしょうか?」
「いかにも、その通りだが……主人に何用か?」
「さる国の、やんごとなき方の側仕えが、商談の話に参ったと。そうお伝え願いたい」
平常時であれば、一笑に付すような言葉であろう。
けれども、数日後に五大国会議が行われるという現状において、俺が発した内容には一定レベルの現実味がある。
「……しばし待たれよ」
門の向こうへと番兵が消えてから、およそ一〇分後のことだった。
「面会の許可が下り申した。しかし中へ入られる前に、持ち物を検めさせてもらう」
全身を隅々までチェックされ、問題なしと判断された我々は、遠慮なく門を潜る。
それからすぐ、案内役と思しき男の出迎えを受けた。
彼の指図に従って中庭を進み、屋敷へと入る。
豪邸の内観は、想像した通りのものだった。無駄に煌びやかで、高価な壺だの絵画だのが、これみよがしに置かれている。
家の内装を見れば主人の性格がわかると言うが……なるほど、まさしくである。
「こちらの部屋にて、主がお待ちになっております。僅かでも脈なしと察せられましたなら、即座に手を引かれることをお勧めいたします」
事務的に、淡々と述べてから、男は俺達の前から去って行った。
「……では、ご対面といきましょうか」
ノブを掴み、ゆっくりとドアを開ける。
室内もやはり無駄に広く、過度な豪奢さが目立つものだった。
そんな部屋のド真ん中に置かれた、高級ソファーに座る中年男性……彼が件の人物、コールド・ラズベリーである。
人生の成功者が醸し出す独特なオーラを纏う、その男は、我々を見ると同時に華やかな笑みを浮かべ、
「やぁ、お客人。聞いた通り、随分と若いね」
気さくな調子で、声をかけてくる。
「まぁ、とりあえず座ってくれよ。何か、飲み物でも用意――」
「いいえ、どちらも結構。お話はすぐに済みますので」
ぴしゃりと言い放ってから、俺は間髪入れることなく、言葉を紡ぎ続けた。
「まず、謝罪させていただきましょう。我々は貴方に嘘をついた。我々はこの場に、商談を持ちかけに来たわけではありません。我々は……貴方を、断罪(、、)しに参ったのです」
こちらの発言があまりにも意外だったのか、コールドは目を丸くして、ぽかんと口を開けた。
「は? 断罪?」
「左様にございます。ここ最近、市井を騒がしている連続殺人については、ご存じですね?」
「そりゃあもちろん。わたしの身内も一人やられているからねぇ」
「えぇ、そのようで。……結果、貴方の立場は盤石となった。我が身を脅かす優秀な身内が、この世から消え去ったことによって、ね」
つらつらと淀みなく、言葉を並べ立てていく。
そうする中、相手方の表情が次第に、悠然としたものへと変わっていった。
「なるほどね。わたしが事件の犯人だと、そう言いたいわけか。……そんな君達は、さて、何者かな? 門番に告げた内容は全て、嘘なんだろう?」
「ある方に事件解決を任された者、とだけ言っておきましょう」
「ある方、ね。……まぁいい。それで、なぜわたしが犯人だと?」
依然として余裕の笑みを浮かべながら、問い尋ねてくる。
そんな相手に、俺は持論を述べた。
「当初、私はこの事件を《魔族》による犯行だと考えておりました。現場近くの住民から得られた証言、現場検証によって得られた情報、それらを加味すると、犯人は《魔族》で間違いないと、そう判断したのです。しかし――」
「なんやかんやあって、この事件っ! 《魔族》でなくても実行出来るってことがわかったっ! そうよね、アード!?」
割り込んできたイリーナに、俺は小さく頷いた。
「あるレストランに入り、そして、このメガトリウムの法や統治システムを知ったことで、私の脳内にある仮説が浮かびました。それは――」
「この事件はっ! 《魔族》の犯行に見せかけた、人間の仕業じゃないかって! そう思ったのよね、アードっ!?」
美味しいところを全部持って行くイリーナだが、そういうところも可愛らしく思えた。
「そう。私はこの事件、人間が起こしたものではないかと考えたのです。その後、我々は被害者達について徹底的に調べ上げました。それこそ……表の顔から裏の顔に至るまで、隅々まで、ね」
「……ふぅん」
「調査の結果、被害者は表向き一般的かつ善良な市民のようでしたが……その実、裏では麻薬の売買を生業とする、ギャング組織の一員でした」
「そいつらが死んで得するのは、あんたよっ! ラズベリー商会のボス、コールド・ラズベリー!」
「あるいは……麻薬王殿と、お呼びすべきでしょうか?」
そう告げた瞬間、奴の顔に変化が現れる。
貼り付けられた笑みの中に、黒いものが充満し始めた。
「貴方には表と裏、二つの顔がある。表向きではまっとうな商会の代表。しかし……裏ではギャング組織のボスとして君臨している。そして今回の連続殺人によって死亡した者達は皆、貴方に敵対する組織の幹部ばかりだった」
「皆が死んで一番得するのは誰か! そう、あんたよっ! あんたは邪魔者を殺して、その罪を全部ボルドーさんになすりつけようとしたっ! お婆さんの頭に植木鉢が落ちてきたのも、あんたの仕業でしょっ! あの手この手でボルドーさんの正体を世間に晒して、事件の犯人に仕立て上げようとしたっ! アードには全部、お見通しなんだからっ!」
ここで一度、イリーナは言葉を区切り、相手の出方を窺った。
……どうやら、奴は白を切るつもりらしい。
「面白い妄想だな。このわたしがギャングのボスで、連続殺人の首謀者だと。ふん、なんとも馬鹿馬鹿しい話だ。わたしはカネにならないことと、リスクが高すぎる商売はしない主義でね。……えぇっと。アード君、でいいのかな? 君はついさっき、この国の法や統治システムを知ったと、そう言ったね?」
首肯を返すと、奴はこちらを嘲笑うように、鼻を鳴らしてみせた。
「ならば理解できるだろう? この宗教国家・メガトリウムにて、ギャング組織を営み、利益を上げるという行為が、いかにリスクの高い行いであるか。このメガトリウムでは、国民一人一人の収入は当然のこと、買い物の履歴まで徹底的に把握されている。そんな国家において、例えば麻薬で利益を上げたとしよう。これは――」
「まっとうな商売で得たものではないがために、隠し通さねばならないカネとなる。もしそれを使おうものなら、出本不明のカネを使ったとして、すぐさま逮捕されてしまう、と」
「そうだとも。メガトリムのような徹底的に過ぎる管理社会において、ギャングというのはハイリスク・ノーリターンな商売なのだよ。何せいくら売り上げても、使うことが出来ないのだから」
肩を竦めながら、コールドは言葉を積み重ねていく。
「ひとたび使えば、即座にお縄を頂戴する。そんなカネをいくら稼いだところで、無駄もいいところではないかね? 国外にそれを持ち出せるのなら、まだやる価値はあるかもしれんが。残念なことに、そうしたことが出来ぬ仕組みとなっているのだよ。このメガトリウムはギャング組織にとって、地獄もいいところ――」
「というのは、裏社会の創意工夫を知らぬ、無知な人間の考えだと、私はそう思いますが」
沈黙するコールドの目を見据えながら、俺は続きの言葉を口にした。
「確かに、メガトリウムでは出本不明なカネを使うことが出来ない。外へ持ち出すことも不可。しかしながら……使用出来ぬ汚いカネも、綺麗さっぱり洗ってやれば、使用可能なものへと変化する。これ即ち」
「マネー! マネー…………そうっ! マネーロンダリングっ!」
「左様にございます、イリーナさん。さすが、素晴らしい記憶力ですね」
「ふふんっ!」
得意げに胸を張る姿が、森羅万象、全てをブッチギリで超越して可愛らしい。
そんなイリーナちゃんに、俺の頬が自然と緩む――――反面。
コールドの表情が、やや険しいものになった。
笑みが萎み、目つきが僅かに鋭くなる。
そうした反応に微笑を送りながら、俺はさらに語り続けた。
「あるレストランに訪れた際、ギャング風の男達を見ましてね。そこでピンと来たのですよ。このレストランは、資金洗浄に使われているものではないか、と。そこから考えを飛躍させていき……結果、貴方に辿り着いたというわけです」
この宗教国家・メガトリウムは、俺が古代末期にて形成した社会を、ライザーなりに再現したものである。
ゆえに、メガトリウムにて裏の連中が働いている狼藉は、古代末期における同類共がやっていたことと、まったく同じなのだ。
……もっとも、古代末期の統治者たるこの俺は、反社会的組織がのさばることを良しとせず、ギャングの類いは最終的に撲滅されたわけだが。
しかし、この国の統治者たるライザーは、ギャング組織に無関心だ。
子供にさえ麻薬を売らなければ、どうでもいい。
子供を脅してカネを取らなければ、どうでもいい。
整備された法の数々が、ライザーの歪んだ性根を表している。
それゆえに。
「子供にさえ手を出さぬよう気をつけていれば、この国はギャングにとって、まさに楽園のような場所でしょうね。貴方もそう思うでしょう? 麻薬王殿?」
そして俺は、目前の男……メガトリウムにおける、最大のギャング組織のボスを指差しながら、断言した。
「今回の連続殺人は、《魔族》の仕業に見せかけた人間の仕業だった。それを配下に指図したのは……コールド・ラズベリー、貴方だ」
相手方はしばし無言を貫いたが、やがて口元を緩め、くつくつと笑い始めた。
そのうえで、パチパチと拍手までしてみせる。
「いや、お見事。君の言う通りだとも。全てはわたしの指図によるものだ」
あっさりと犯行を認めたコールドだが、その目に諦観の色はない。
むしろ……邪魔者を排除せんという、強烈な悪意が宿っている。
「それにしても。やれやれ、かの御方(、、、、)もたいした悪党だな。利益にしかならぬ取引だのと言っておいて、飼い犬を差し向けてくるとは。もっとも……こんなこともあろうかと、準備は済ませておいたわけだが」
言い終えるや否や、コールドは床を二回、踏み鳴らした。
ゴン、ゴン、と硬質な音が鳴り響いてからすぐ。
ドアが静かに開かれ、ぞろぞろと多くの人間がなだれ込んでくる。
「皆、裏仕事を専門とする魔導士だ。特に殺人の技量に関しては、表のプロ連中よりもずっと上だと断言しよう。中には某国の主力魔導士を暗殺した者もいる。……さて、この状況がどういったものか、君達にわかるかね?」
「ふむ。イリーナさん、どう思われます?」
「ふっふん! そんなの決まってんじゃないのっ!」
余裕綽々といった様子で鼻息を鳴らし、そして、俺の顔をジッと見つめてくる。
親友の麗しい瞳には、確かな期待が込められていた。
「やっちゃえ、アードっ!」
「了解いたしました」
我が友の思いに応えるべく、俺は微笑を浮かべ――ぱちりと、指を鳴らす。
刹那。
我々を取り囲んでいた全ての魔導士が、バタバタと倒れ込む。
まるで糸が切れた操り人形のような有様であった。
「………………は?」
ついさっきまで浮かべていた笑みは、いったいどこへいったのか。
コールドは唖然とした様子で、あんぐりと口を開くのみだった。
「な、なんだ、これは……!? いったい、なにが、どうなって……!?」
「それほど驚くようなことはしておりませんよ。ただ指を鳴らし、その音響を何千倍にも高め、彼等の脳に直接送り込んだだけのこと」
「……は?」
「まぁ、取るに足らぬ手品のようなものです。……もっとも、貴方にとっては世紀のイリュージョンに感じられるやもしれませんがね」
依然として、何が起きたのか、何が起きているのか、まったく理解出来ていない様子のコールド。その一方で、我等がイリーナちゃんは得意満面に胸を張って、
「ふふんっ! これがあたしのアードよっ! なにしたのか正直さっぱりわかんないけど、とにかくすごいっ! 世界一すごいっ! あたしの親友、超絶すっごいっ!」
まるで我がことのように誇示する彼女の様相は、まさしくマジ可愛いの塊であった。
この可愛らしさに比べれば、俺の戦闘能力などカスも同然。
真の世界一はイリーナちゃんである。
「き、貴様、何者…………はっ!? そ、そういえば、アード・メテオールという名には聞き覚えが……! ラーヴィル魔導帝国を騒がす神童と、同じ名前……! き、貴様があの、アード・メテオールか……!」
「ふふふんのふんっ! さっすがアードねっ! 国外にも名前が轟いてるだなんてっ!」
ここ最近、色々とやらかしまくったせいか、どうやら望まぬ名声が大陸中に広がりつつあるらしい。この場にオリヴィアがいなくてよかったと、心の底から思う。
やれやれと肩を竦めつつ、俺はコールドに問いを投げた。
「さて麻薬王殿。貴方に一つ質問があります。…………黒幕は、誰ですか?」
「く、黒幕?」
「えぇ。此度の一件、その真相は《魔族》の犯行に見せかけた人間の仕業であったわけですが……貴方が一から一〇まで差配したわけではない。そうでしょう?」
コールドは脂汗を流すのみで、何も答えなかった。
彼を追及すべく、俺はさらに言葉を重ねていく。
「貴方は随分と優秀な人材を抱えてらっしゃる。ゆえにおおよそのことは出来ましょう。けれど一点、今回の事件において、貴方にも不可能なことがある。それは……被害者を霊体ごと抹殺するという行為。これだけは決して、貴方には出来ないことだ」
我々の周囲に転がっている、コールドお抱えの精鋭部隊。
その力量は、現代生まれからしてみれば驚異的の一言であろう。しかしそれでも、人間を霊体ごと消し去るような力は、誰も有していないと見た。
「それとも、まだ切り札となる用心棒を隠しておいでか? ……いいや、それはないでしょうね。もしそうであったなら、とっくに呼んでいるはずだ」
鋭い視線を送ると、その途端、コールドは怯えたように取り乱し始めた。
「し、知らないッ! こ、この一件は、わたしが一人で――」
「おや。ご自分の発言をお忘れですか? つい先程、貴方はこうおっしゃいましたね? かの御方もたいした悪党だな、と。……さて、かの御方とは何者か。是非とも教えていただきたいのですが」
「そ、それ、は……!」
脂汗を大量に流し、目をこれでもかと泳がせまくるコールド。
……まぁ、おおよその見当は付いている。
けれども、確証がなかった。
それをこの男の口から得ようと、そう考えていたのだが。
「うっ……!? ぐぐ、ぐぐぐぐぐ……!?」
なんの前触れもなく、コールドが胸を抑え、苦しみ始めた。
「ア、アード……!? これって……!?」
「あぁ、やはり、対策されていたようですね」
可能であれば、苦しむこの男を治癒し、なんとしてでも情報を吐かせるのだが……
どうやら、無理そうだな。
コールドを裏で操っていた何者かは、完璧な口封じの手段を用いていた。
特定の状況になったとき、対象を霊体ごと抹殺する。
誓約の魔法に、そういったものがある。
並大抵の使い手によるものならば、効果発動中に術式を解析し、無力化出来るのだが……どうやら思った通り、相手は強大な力量を持っているらしい。構築された術式は極めて難解なもので、これを制限時間内に解析するのは、この俺を以てしても難しい。
ゆえに。コールドにかけられた魔法は、その役目を十全に果たした。
「し、死んじゃった、の?」
「えぇ。残念ながら」
奴の口から確証を得たかったが、まぁ、仕方あるまい。
黒幕に関しては、おおよその当たりがついている。
また、相手方も、すぐさまこちらをどうこうしようというわけではあるまい。
そちらについては、今のところ静観してもよかろう。
「なんにせよ、事件はこれにて終了。教皇様から授かった任務も、完了ということになりましょう。……もはやこの場に用はありません。退出させていただきましょう」
「う、うん。それはいいんだけど……死体とか、どうしよう?」
「問題はありません。後始末などは教皇猊下が行ってくださるでしょう」
きっと今も、見ているだろうしな。
「我々が考えるべきは一つ。ボルドーさんをどうしたものか。現時点ではそれだけです」
「そう、ね。とりあえず、事件の解決を報告しに行きましょ」
彼女の意見に頷いてから、探知魔法でボルドーの居場所を探る。
……どうやら彼は、診療所にいるらしい。
身を隠せという忠告は、やはり聞き入れなかったか。
一つため息を漏らしてから、俺はイリーナを伴って部屋を出た。
使用人などはまだ、家主の状態を知らないようだ。わざわざ教える必要もないので、俺達は無言のまま通路を歩き、中庭を経由して、門を抜ける。
「……ところでイリーナさん。このメガトリウムに住まう国民のほとんどは、鐘の音に従って行動しますよね?」
「え? うん、そうね。敬虔な統一教の信徒が多いからね」
教会が鳴らす鐘は、この国の民にとって行動方針であり、絶対的な命令である。
例えば昼の鐘が鳴ったなら、ほとんどの人間が休憩して昼食を摂るなど、このメガトリウムの民は、生活のほとんどを教会の指示通りに行っているのだ。
「それがどうかしたの?」
「……少々、不審な点がありましてね」
無意識のうちに、歩調が早くなる。そうしながら、俺は胸騒ぎの原因を口にした。
「既に夜の到来を告げる鐘は鳴り響き……それに従って、民の多くは自宅へ戻っています。にもかかわらず、ボルドーさんの診療所の近くにはなぜか、未だ多くの人間で溢れている」
「えっ? ど、どういうこと?」
「わかりません。探知の魔法では、状況の把握までは出来ませんからね。診療時間を延長しているだけなのか、それとも……」
なんらかの問題が起きているのか。
そう考えた、矢先のことだった。
「――ッ! ア、アード!」
俺の肩を叩きながら、イリーナが遠方の空を指差す。
彼女の震える指が指し示す先には……灰色の煙が、もうもうと立ち上っていた。
「あの方角って、ボルドーさんの……!」
最悪。
そんな単語が脳裏に浮かぶと同時に、俺は転移の魔法を発動した。
普段ならば、決して使うことはない。この魔法は現代において規格外のものゆえ。
しかし、今は緊急事態だ。
発動の瞬間、視界が暗転する。
前後して、瞳に映る景観が変化した。
大通りのそれから、ボルドーの診療所前の様子へ。
その結果――
俺とイリーナは、まったく同じタイミングで、目を見開いた。
「うそ、でしょ?」
自分の目に映るそれが、幻覚であってほしいと、心の底から思う。
だが、我々の目前にある光景は、両者共同じものだろう。
即ち――
燃え盛る、ボルドーの診療所。
それを見て、快哉を叫ぶ民衆達。
「ざまぁみろ、バケモノめッ!」
「よくもこれまで、俺達を騙してくれたな!」
「地獄へ落ちろ、汚らわしい《魔族》がッ!」
いったい、どこから漏れたのか。
ボルドーの正体を知った者は、総じて記憶を改竄したはず。
……いや、今はそんなことよりも。
「ね、ねぇ、アード。ボルドーさんは? ボルドーさんは、無事よね?」
「…………」
「だって、ほら、《魔族》だもの。人間よりもずっと強いんだから。火にかけられようが、そんなのへっちゃらよね?」
「…………」
「ねぇ。アード」
「…………」
「ねぇ。なんとか、言ってよ」
彼がどういう状態にあるのか、イリーナもまた、なんとなしに勘付いているのだろう。
だが、確証があるわけではない。
俺の口からそれが、出されるまでは。
イリーナの中ではまだ、都合の良い妄想が、真実となっている。
だから。
「……えぇ、何も問題はありませんよ。ボルドーさんはどうやら、こうなることを見越していたようですね。あえて診療所で待機し、民衆に火を放たせ、自らの死を偽装する。これは、そう、新たな土地へ移り住むための前準備といったところでしょうか」
「うん、そうよね。《魔族》だってバレちゃったんだもの。経歴をなんとかして、抹消しなきゃいけないものね。自分をここで死んだことにして、これから心機一転、また新しい場所で、頑張ろうって。きっと、そういうことよね」
「……おっしゃる通りかと」
彼女もうすうす、気付いてはいるのだろう。
その瞳が、涙で濡れている。
……そうだ。俺が語った内容は、何もかも虚言だ。
確かに、《魔族》の肉体は頑強である。防御魔法を用いずとも、この程度の火で焼け死ぬようなことはない。
だがそれは、半人半獣の姿になった場合の話。
平常時の、ヒューマンの姿を維持して、防御魔法も使わなかった場合……
その耐久力は、一般的な人間と何も変わらない。
「ボルドーさんは今、傷心されているでしょうから。しばらく放っておいてあげましょう」
「そうよね。一人になりたいよね、きっと。でも……いつか、また……」
その先を、イリーナが紡ぐことはなかった。
焼け落ちる診療所。
その様相を見て笑う者達。
人間の闇が凝縮されたような、おぞましい光景を前にして――
俺はただただ、拳を握ることしか出来なかった。