第五四話 元・《魔王》様、苦悩の極致に至る
長く生きていれば、大抵のことには動じなくなる。あるいは、そうなったとしてもすぐに落ち着きが戻ってくるものだ。
しかし……今回のそれは、依然として俺の心身を固まらせ、身動きをとれなくしている。
打倒すべき対象たる《魔王》。それがよもや、俺自身であったとは……!
奴の外見は、このアード・メテオールと瓜二つ。
だが……細部には違いがあった。
まず、頭髪。白髪交じりのそれは俺よりもやや長く、ボサボサとしている。
そして面構え。鋭い眼光はまるで野獣のようで……額から顎にかけて斜めに走る傷跡が、そうした印象を強めていた。
この、僅かな容姿の違いは……
「そうだ。我等は確かに同一人物。されど、生まれた世界も違えば、今に至るまでの経緯も違う。……大ざっぱに見れば、似たようなものであろうがな。互いにヴァルヴァトスとして生き、アード・メテオールとして転生し……さまざまなものを得て、すぐさま失った」
痛々しい傷跡が走る口元に、自嘲が宿る。
そして。
「貴様はまだ、なんら失ってはいないのだろう。俺とは違い、なんの失敗も経験してはいないのだろう。……俺は、ダメだったよ。何もかも、ダメだった。ゆえに俺は……アード・メテオールという名前さえも捨てた。今はディザスター・ローグと名乗っている。貴様も、そのように呼ぶがいい」
奴は、もう一人の俺は、自らを嘲る笑みを一層深いものにした。
……こいつは確かに俺だが、しかし、ある意味では別人ともいえるのだろう。
どうやら、我等が歩んできた道程は、あまりにも違うらしい。
そこに一種の感傷を抱かずにはいられない。されど……今はそのことについて掘り下げるべき状況ではなかろう。
俺は奴が先刻述べたように、アード・メテオールとしての仮面を外して、口を開いた。
「……貴様は、どのようにしてこの時代へとやってきたのだ」
「その点については全く同じであろうよ。神を自称する者が唐突に現れ、奴が持ちかけた話に頷いたことで……次の瞬間には、この時代だ。その後は貴様も知っての通り、俺は《魔王》として活動した。……皮肉なものだ。目的を達成するには、かつて死ぬほど嫌った異名を自ら名乗らねばならんのだから」
嘆息と共に、首を横に振る。
奴の感情は痛いほど理解できるが、やはり今はどうだっていいことだ。
気にすべき事柄は、ただ一つ。
「目的、といったか? ……貴様はいったい何を目論んでいる? 《魔王》として活動した末に、いかなる結果を求めているのだ?」
問いに対し、もう一人の俺……ディザスター・ローグは俯きながら、ボソリと呟いた。
「リディアを救いたい。俺自身の罪を、贖いたい。それだけだ」
……この返答に、意外性はなかった。むしろ、あまりにもしっくりと来た。
それから奴は、得心する俺の目をジッと見据えて、
「貴様も、同じではないのか。リディアを救いたいと、考えているのではないか」
「……然り。その一点に関して、俺と貴様の意見は一致している」
「ならば、俺の手を取れ。我々の目的は同じだ。争う必要はない」
まさしく道理である。
しかしながら、胸に渦巻くいくつかの疑問が、奴との協調を拒んでいた。
「二つ、問わせてくれ。まず一つ。その話は、この時代の俺にも行ったのか?」
「否。俺は俺自身のことが何よりも嫌いだ。特に……この時代の俺はな」
拳を握り締め、面貌に怒気を孕ませながら、奴は言葉を重ねた。
「あまりの愚かさゆえ、俺達はリディアを失った。いや……殺したのだ。彼女の死は全て、我等にある。そうだろう?」
「……あぁ。その通りだ」
「ゆえに俺は、この時代の俺を特に憎んでいる。彼奴との協調など死んでもごめんだ。むしろ俺は……過去の自分を、殺してやりたいとさえ考えている」
この感情もまた理解はできるが、やはり気にすべき事柄ではない。
「自らを嫌うというなら、なぜ俺を誘う?」
「……貴様は少しばかり、わけが違うということだ。同じ罪を背負い、おそらくは同じ感情を共有している。ならば、手を取り合うのもよいかと考えたのだ。何より……俺は自分のことを誰よりも理解している。こう言えば、俺の考えは読めるだろう?」
俺は一つ、小さく頷いた。
我々の力量は、おそらく拮抗しているのだろう。ゆえに……この時代の俺には敵わない。
唯一の利点たる不死性も、初見戦闘にて当惑させることができるというだけで、今やその実態を見破られ、追い詰められていると言ってもよい。
だが、我等が手を組んだなら? ……あるいは、この時代の俺と互角になるやもしれぬ。
そうした思惑は理解可能、なのだが。
ここで俺は、二つ目の問いを投げかけた。
「そもそも、俺には貴様の行動が理解できぬ。なにゆえ、この時代の俺と争うような真似をしているのだ? リディアを救うという目的を叶えたいのであれば、この時代の俺と敵対するは愚の骨頂であろう。……よもや、嫌いだから、などと答えはすまいな?」
「無論。いくら嫌っているからといって、龍の逆鱗に触れるような真似などせぬ」
「ならばなぜ……」
「この問いについては、第一の問いの答えにも繋がるものがある。俺にはある事情により、どうあってもこの時代の俺と手が組めないのだよ。むしろ……戦う定めにある」
俺は何も言うことなく、目で続きを促した。
奴はこちらの意をくみ取ったか、静かに答えを述べた。
「貴様が神を自称する者に、なんらかの課題……おそらくは俺の討伐であろうな。それを与えられたのと同様に、この俺もまた、課題を与えられている。それは――」
その答えはまさに。
「世界を滅ぼせ。そのために動け。それを続けている限りは、この時代に留まらせてやる。……神を自称するあの男に与えられたのは、そんな課題だった」
言葉を失うのに、十分な内容。
その一方で、もう一人の俺、ディザスター・ローグは饒舌に語る。
「そうした事情もあって、俺は再び《魔王》になったのだ。いや、真に《魔王》となったのは初のことゆえ、再びというのは間違いか。いずれにせよ、俺はこの世界を滅ぼすために動いてる。これもまた、目的を叶えるために必要なことだ。ゆえに、迷いも当惑もハナからありはしなかった」
「……目的を叶えるため、だと? 貴様の目的は、リディアを救うことではなかったのか? 世界を滅ぼすということと、リディアの救済に、なんの関連性がある?」
やっとの思いで紡ぎ出した言葉に、ローグは笑みを浮かべた。
それはやはり、己を嘲るような、暗い笑みであった。
「先刻も言ったはずだ。俺の目的はリディアを救い……己が罪を、贖うことだとな」
「……罪を贖うというならば、ことさら貴様の思惑が読めぬ。世界の滅亡を目指すなど、一層罪を重ねるようなものではないか」
我が返答にローグは肩を落とし、あからさまな落胆を示した。
なにゆえ、そうした態度になるのか、理解ができぬ。
自然と眉間に皺が寄る、と――次の瞬間、奴の姿が目前に迫っていた。
目にもとまらぬとはこのことか。奴はこちらに急接近し、そして。
俺の胸倉を掴み、我が瞳を睨み据えながら、言葉を紡いだ。
「リディアの死に様を、覚えているか?」
「……当たり前だ。忘れるわけがない」
「ならばなぜ、俺の感情が理解できぬのだ。貴様、まことに俺と同一人物か?」
奴の表情に、強い苛立ちが混ざった。
わけもわからず、俺は黙りこくるしかない。
反面、奴の舌はよく回る。
「呪詛に精神をじわじわと犯され続けたこと。仲間を失ったこと。多くの事柄が彼女を蝕み……そして、あの日が訪れた。最後の《外なる者達》にして、最上の敵。奴との決着を、リディアは早急に決めよと提言したが、俺はそうしなかった」
「あぁ……奴を倒すには、多大なリスクを背負わねばならない。それこそ……リディアを失うことさえ、覚悟しなければならない」
そんなこと、当時の俺には耐えられなかった。
あの頃の俺は孤独を極め……リディアだけが、生きる意味だったのだ。
あいつだけが、友として在り続けてくれた。だから俺は……
何よりも、誰よりも、リディアを失いたくなかった。
「俺達はあのとき、頑として首を縦に振らなかったよな。それはなぜだ?」
「……リディアが、大切だった。死んでほしくなかった。そんなリスクを背負うぐらいなら、《外なる者達》の一柱ぐらい、捨て置いてもよいと、そう考えていた」
「ならば……!」
その瞬間――
ローグの瞳に宿る怒気が、まさに燃え盛る烈火の如く煌めいた。
「その思いを……! その思いをッ! そのまま伝えてやればッ! あんなことにはならなかったッ! 違うかッ!?」
叩き付けられた怒気に、俺は言葉を失った。
……それは今まで、決して考えぬよう、務めていたこと。
己が犯した、最大の罪だった。
「俺のせいだ! 奴が単身で敵地に乗り込んだのも! 戦いに敗れ、世界の敵へと仕立てられてしまったのも! 全て! 俺のせいだ! あのとき、正直に思いを伝えていれば、あんなことにはならなかったッ! バケモノになったリディアを、この手で殺すこともなかったのだッッ!」
その怒鳴り声が。その罪が。他人事であったなら、どれだけよかったか。
これは全て、俺自身の過去なのだ。
俺自身が語る、俺自身の罪なのだ。
「どれだけ後悔した? どれだけ、苦悩した? ……俺はな、罪悪感に耐えられなかったよ。だから、自害したのだ。しかし……世界は、俺を眠らせてはくれなかった。逃げさせては、くれなかった」
呟きながら、奴は掴んでいた胸倉を、突き飛ばすようにして放すと。
両手で白髪混ざりの頭を抱えるようにしながら、血反吐を吐くように述懐する。
「記憶を持ったまま、アード・メテオールとして転生させられ……その後も、さんざんだった。新たに得られた何もかもを、俺自身の失敗で失い続けた。リディアのときと、同じように。俺はもはや、どうあっても罪を重ねる人間なのだと確信したよ。だから、もう……終わりにしたかった。この罪をどうにか贖って、全てを終わりにしたかった。そんなときだ。あの、神を自称する男に出会ったのは」
俺はもう、ただただ、奴の言葉に耳を貸すことしかできなかった。
「過去に戻ることができる。そう聞いて、俺は一も二もなく飛びついた。これで、償うことができる。リディアを救い、そして……世界の敵として憎まれながら、彼女に殺してもらうのだ。かつて、自らの過ちによってバケモノへと変じさせてしまった友の手によって、憎き怪物として、討ち取られる。それはまさに、我が罪の意趣返しだ。かつてリディアが辿った末路を自らが迎えることで……ようやく、俺の全てが終わる」
そこまで言い切ると、ローグはこちらへ右手を差し出してきた。
「貴様もまた、あのときのことを罪に思うのなら。リディアを救い、そして、罪を贖うという気持ちがあるのなら。俺と共に、最後の罪を犯す覚悟を決めろ。人も魔も関係なく、平等に殺す。殺して殺して殺し続けて、その末に」
「救い出した親友の手で、討ち果たされる……」
なるほど、それはもう、このうえない悲劇だろう。
俺が迎えるべき、相応しい末路だろう。
……少し前、俺はシルフィーと再会したことで、再び罪と向き合った。
しかし、それはどうやら錯覚であったらしい。
俺は己の罪と、真に向き合ってはいなかったのだ。
我が分身を目前にして、ようやく、そのことに気付かされた。
「俺は……」
一瞬、脳裏にイリーナとジニーの顔がよぎる。
この決断は、彼女等を悲しませるものだろう。だが、それでも……
俺は、対面に立つ自分自身の手を、取ろうとする。
が――その直前。
『つまんねぇことは、すんじゃねぇぞ』
少し前に、リディアが口にした言葉が、脳内にて再生された。
途端、迷いが生じる。
それは自分でも、理解ができない迷いだった。
なぜ、相手の手が掴めなくなったのか、自分でもわからなかった。
……そんな俺の心中を察したのかは、わからないが。
「時間をくれてやる。三日後の昼一二刻、アラリア平野西部、滅亡の大地にて待つ」
そう述べてると、奴はすぐに転移魔法を発動したらしい。
「忘れるな。俺達が、許されざる罪を犯したことを」
最後に残された言葉が、重くのしかかってくる。
俺はいつまでも、いつまでも、虚空を見つめ続けることしか、できなかった――