第一一六話 元・《魔王》様と、究極の試練 中編
離脱後の展開は、なかなかに騒々しいものだった。
メフィストの手によるものか、民間人に隠匿の魔法が通用しなくなった結果、我々は行く先々で襲撃に遭い――
「殺してはなりませんッ!」
「あぁ!? どうせ蘇生出来るからいいだろ!」
「……いや。メフィストの悪辣さを思えば、一度殺したら蘇生出来ないよう改変されていてもおかしくはないな」
「チッ! 見ず知らずの人間なんか、どうなっても――」
「僕もそう思う。が、この一件を片付けた後、イリーナがその行いを知ったなら」
彼女の存在が歯止めを掛けたか、エルザードは誰一人として殺害することはなかった。
そして、現在。
「ここなら、落ち着いて話が出来そうですね」
人気のない路地裏にて、俺は今後の方針を提案すべく、言葉を紡がんとするが……
それよりも前に、アルヴァートが口を開いた。
「ここに至るまでの道中において、僕は誰一人として殺傷しなかった。事件の解決に要した犠牲は、必要最小限であるべきだと考えているからだ。もし多大な犠牲を払ってしまったなら、全てが元に戻った後、イリーナが苦しむ」
このように前置いてから、アルヴァートは自らの真意を伝えてきた。
「今し方述べた通り、犠牲は必要最小限でなければならない。そして僕は……オリヴィア・ヴェル・ヴァインが、その中の一人に入っていると考えている」
頭に血が昇るような発言だった。が、俺はすぐさま熱を消し去り、エルザードへ視線を送る。彼女は意見を求められていることに気付いたのだろう。僅かに悩むような素振りを見せてから、腕を組み、
「……あいつを殺したとしても、イリーナはきっと、ボク達を恨むようなことはしないだろうけど……でも、むしろそっちの方が問題というか」
「えぇ。もしもオリヴィア様を犠牲にしたのなら、彼女はそのことを自分の責任であると感じ、一生悔やむでしょうね」
だが、たとえそうであったとしても。
「……出来ることなら、イリーナを苦しめたくはないけれど。でも、仕方がないことだと思う。あの獣人族を殺さない限り、ボク達の目的は達成出来ないだろうから」
《破邪吸奪の腕輪》を、なんとしてでも回収する。そのために我々はここまで来たのだ。
けれども、その道をオリヴィアが阻んでいる。
彼女を避けつつ腕輪を回収出来るのなら、それが最上であろう。
しかし、メフィストがそれを許さない。
「奴は僕達に二つの選択を迫っている。オリヴィアを殺して腕輪を回収するか。あるいは、腕輪の回収を諦めるか。……後者は即ち、事件解決を放棄するという選択でもある。当然ながら、そんなことはありえない」
ゆえにオリヴィアを犠牲とし、腕輪を回収すべきだと。
そうした考えに対し……俺は、真っ向から反論する。
「私はオリヴィア様をお救いし、そのうえで腕輪を回収すべきだと、そう考えています」
エルザードが眉間に皺を寄せ、アルヴァートが小さく息を吐く。
だが、彼等は俺のことを少しは信用しているのだろう。
下らぬ理想論と詰るようなことはせず、こちらの言葉を待ち構えていた。
「奴の二者択一に乗じた時点で、我々の敗北は確定したも同然。第三の択を作り、それを掴み取らねば、勝利したとはいえません」
これが、合理性を否定する第一の理由。
そして。
「オリヴィア様を犠牲にしたとして。奴がそれで終わらせるとお思いですか?」
第二の理由。
それは、犠牲者の増加だ。
二者択一に乗る限り、我々は近縁者を殺し続けることになるだろう。
そうしてメフィストのもとに辿り着いたなら……
奴は最後に、イリーナを壇上へと上げてくるに違いない。
結果として、あの悪魔に勝利出来たとしても。
我々はその時点で、何もかもを失うというわけだ。
「最後に。三つ目の反対理由、ですが。そもそもの問題、私が見出したメフィスト打倒の策には、仲間の力が必要不可欠。ゆえに――」
「その仲間を犠牲にしていったなら、本末転倒である、と?」
アルヴァートの言葉に、俺は首肯を返した。
それからすぐ、沈黙を保っていたエルザードが口を開き、
「どうやって、実現するというのかな?」
改変された人格を元に戻す方法などあるのか。
それが出来ないから、お前は学園にて、無様を晒したのではないのか。
エルザードの言葉には、そんな意図も含まれていた。
「学園での一幕に関して言えば……大失態であったと言わざるを得ません。あまりの想定外と過去のトラウマにより、私は冷静な判断力を失っていた。そのせいで、仲間を信じることが出来なくなっていた」
しかし、今は。
あのとき抱いた諦観など、どこにもない。
改変された者全員を、元に戻せると信じている。
無論、その自信は明確な根拠に基づいたものだ。
「覚えておられますか? オリヴィア様が一時、動きを止めたときのことを。そのとき、彼女は――――」
希望の所以を語る。
それはこの二人を、完璧に納得させられるようなものではないだろう。
結局のところ、全てがメフィストの手によるものでしかないと、そう言われたならお終いだ。
しかし、それでも。
「……私は、信じたいのです。これまで育んできた絆は、たとえ神であろうとも、壊すことは出来ないのだと」
最終的には理想論。
どこまでいっても、理想論。
さりとて。
アルヴァートは。エルザードは。互いに肩を竦め、息を吐きながら、
「……で?」
「具体的には、どうするのかな?」
この言葉はまさに、信頼の証。
二人に感謝の思いを抱きながら、俺はオリヴィアの奪還作戦を語り――
最後に。
決意の言葉で、締めくくった。
「――あの悪魔に、目に物を見せてやりましょう」
◇◆◇
追撃可能なタイミングで、動かない。
それはオリヴィア・ヴェル・ヴァインからすれば、ありえぬ選択であった。
隣に立つ弟分(、、)も、同じ考えを抱いていたのだろう。
「ねぇ、お姉ちゃん。どうしてチャンスをフイにしたのかな?」
責めた調子ではない。
その声音には、強い好奇心が宿っていた。
そんな彼の問いに対して、オリヴィアは眉根を寄せながら、
「…………わからん」
そうとしか、言いようがなかった。
エルザードの雷撃をゼタ=オルキス(同胞の盾)で吸収。それを数倍にして叩き返し、追撃を……というところで。
オリヴィアの心に、小さな波紋が生じた。
「……オーヴァン、リスケル、ファルコ」
吸収した雷撃の解放によって破壊された、十傑の彫像達。
それを目にして、ちくりと胸が痛んだ。
「なぜ、わたしは……」
馬鹿げている。
彫像など所詮、作り物だ。そんなものが壊れたところで、どうということもないだろう。
なのになぜ、こうも胸がざわつくのか。
これではまるで……
したくもないことをやらされて、壊したくない物を、壊したかのような。
「………………」
オリヴィアはゆっくりと、破壊された彫像を見回し、そして。
最後に足下へと目をやった。
そこには、彫像の首が転がっている。
十傑のそれと同様に、自分と弟分の姿を彫ったそれもまた、バラバラに砕けていて。
偶然にも、弟分の頭がここまで飛んで来たのだ。
それを目にした瞬間。
心に広がっていた小さな波紋が、大きな波へと変わった。
「………………」
足下にある頭は、隣に立つ彼と同じ形をしている。
当然だ。
この彫像は、弟分であるメフィスト(、、、、、、、、、、)を模しているのだから。
そこに違和感など、あろうはずもない。
……にもかかわらず。
ほんの一瞬、その頭が。
まったく違う人間のそれと、ダブって見えた。
「…………わたしの、弟分、は」
ズキリと頭が痛む。
あのときもそうだった。
壊れた弟分の彫像、その頭部を目にした瞬間、それが別人の顔と重なって……
なぜだか動揺したオリヴィアは、その場から一歩も動けなくなったのだ。
「なかなか、興味深い状態だねぇ」
隣接する弟分から放たれた声は、オリヴィアの耳に届いていなかった。
――その代わりに。
獣人族の耳は、別の音を漏らすことなく捉えていた。
「……敵襲か」
音の発生源は、上空。
歩行音を嫌い、空から襲撃してくるあたり、敵方は場慣れしているのだろう。
しかし、他種族からすれば無音の襲撃でも、獣人族の聴覚は騙せない。
空気の振動を察知してからすぐ、オリヴィアは空を見上げた。
その脳裏に、何百もの戦術を浮かべながら。
「まずは――」
と、呟く最中。
敵方の姿を捉えた瞬間、思考の全てが消し飛んだ。
なぜならば。
「目を覚ませ、オリヴィアッ!」
その声が。
その顔が。
その体が。
弟分の姿にダブった何者かと、あまりにも似ていたから。
「どうしたの、お姉ちゃん。僕を守ってよ」
「――――ッ!」
そうだ。弟分を、守らねば。
心の中から当惑を撥ね除けて、オリヴィアは戦闘態勢に入る。
腰元の剣を抜く己が動作に、奇妙な重さを感じながら――
◇◆◇
《固有魔法》。
特定個人しか持ち得ぬ、再現不能の奇蹟をそのように呼ぶ。
一般的な魔法とは違い、これはいかなる訓練を積もうとも会得出来ない。
特殊な才を持って生まれた者だけが扱うことを許される、文字通りの特技なのだ。
ゆえにその力は絶大であり、《固有魔法》を発動出来る者とそうでない者とでは、力量に天と地ほどの開きがある。
さりとて。現代においては究極の能力として扱われている《固有魔法》だが、古代世界においては少しばかり別の見方がなされていた。
即ち――発動に難がある、と。
《固有魔法》を用いるには特殊な詠唱が必要となるうえ、それを紡ぐ間、全神経を発動に集中せねばならなくなる。
魔法文明が全盛であった古代において、それは大きな欠点として扱われていた。
何せ当時は、魔法の大半が無詠唱で発動するものとして考えられていたのだ。
こちらが《固有魔法》という一手を打つ間、相手方は最低でも一〇手近くを打ってくる。
それを捌きながらの詠唱は困難であるため、《固有魔法》は戦前の段階で発動しておくのが大前提となっていた。
――そうした古代の常識に則る形で。
俺はオリヴィアに奇襲を仕掛けるべく、天空の只中にて、準備を整えていた。
重力に身を任せ、一直線に落下しつつ、我が《固有魔法》、孤独なりし王の物語を事前発動し、さらには勇魔合身第三形態へとフェイズ・シフト。
そこまで完了したと同時に――地上にて待ち構えていたオリヴィアへと、肉薄する。
「目を覚ませ、オリヴィアッ!」
黒剣を振り上げながらの叫びに、彼女は大きな反応を見せた。
効いている。間違いなく。
勇魔合身の第三形態へと移行した理由は、現時点のオリヴィアと対等に戦うため……というのもあるが、それ以上に、副次的な作用を必須の要素と捉えたからだ。
この形態へと移行したなら、俺はアード・メテオールの姿ではなくなる。
前世の自分、つまりはヴァルヴァトスの姿へと変化するのだ。
「どうしたの、お姉ちゃん。僕を守ってよ」
「――――ッ!」
悪魔の言葉を耳に入れたことで、揺れ動いていたオリヴィアの心が平静を取り戻したのか。
彼女は腰元に提げていた魔剣を抜き放ち、受けの構えを取った。
そして――激突。
剣と剣とがぶつかり合い、轟音と衝撃を生み出す。
「おわぁっ」
生じた突風に吹き飛ばされる形で、メフィストが宙を舞った。
弱体化した自分は何も出来ないと、アピールしたつもりか。
当然、こちらがそんなことを信じるはずもなく。
「行くぞ、白トカゲ」
「ふん、足引っ張ったら殺すよ、女男」
メフィストが着地するよりも前に。
身を隠していた彼等が広場へと侵入する。
《固有魔法》を事前発動し、漆黒の炎翼を展開した状態のアルヴァート。
竜骨剣を携え、全力全開の闘気を放つエルザード。
両者はすぐさまメフィストへと肉薄し、
「「くたばれ」」
同じ台詞を、同じタイミングで叩き付けながら。
アルヴァートは黒炎の剣を。
エルザードは竜骨剣を。
悪魔に対して、容赦なく振り放った。
「うわっとぉ!」
またもやわざとらしい悲鳴を上げて、地面へと伏せるメフィスト。
「あわわわわ! に、二対一なんて卑怯だぞう!」
「「うるさい死ね」」
メフィストの弱者アピールなど、この二人に通じるはずもない。
……実際のところ、弱体化した分身とはいえ、悪魔は悪魔だ。土壇場で何をしでかすかわかったものではない。
だから俺は、二人に足止めを頼んだのだ。
オリヴィアが元に戻る、そのときまで。
「くッ……!」
鍔迫り合う中、彼女が苦悶を見せた。
それは、こちらの力に押されているから……ではない。
彼我の力量差はこの時点において、こちらがやや優勢といった程度。
よって、我が対面にある、姉貴分の歪んだ美貌は。
「元に戻ろうとしている。そうだろう? オリヴィア」
言葉を投げた瞬間、ほんの僅かに、彼女の力が緩んだ。
――押し込む。
あえて力任せに。素人めいた雑な所作で以て。
もしオリヴィアが平常であったなら、こちらの力を利用し、体勢を崩したうえで、斬り伏せていただろう。
だが、実際に取った行動は、
「ぬぅッ……!」
後退。
なんの返し手も打つことなく、オリヴィアは後方へと跳躍し、刃圏から離脱した。
下がるべき場面ではないのに、それをしたということは、つまり。
俺から逃げたと見て、間違いない。
「やはりお前は、覚えているのだな」
それを再確認すべく、踏み込んだ。
あまりにも不用意な接近。
俺が彼女の立場だったなら、メフィストに与えられた力を行使して、十傑の魔装具を召喚し、迎撃にあたるところだが……
しかし、オリヴィアは何もしなかった。
苦悶しながら、俺の姿を見つめることしか、しなかった。
やがて肉薄し、再び剣と剣が交じり合う。
今一度鍔迫り合いながら、俺は口を開いた。
「弟分の名を、言ってみろ」
「ッッ……!」
剣の向こうにある姉貴分の顔が、さらなる苦悶を宿した。
おそらくは、混濁しているのだろう。
今、オリヴィアの脳内には、二つの情報が鬩ぎ合っているのだ。
真実と虚偽。
本物の絆と、偽りの絆。
それらが彼女の中で、激しく争っている。
「どうした、オリヴィア。答えられないのか」
「う、ぐ……!」
行ける。
俺はそんな確信を抱いた。
いかに改変されようとも、心の繋がりを断つことは出来ない。
それを今から、あの悪魔に証明してやる。
「思い出してくれ、オリヴィア。俺のことを。本当の、弟分を」
「う、うぅ……!」
背中を押す。ただ、それだけでいい。
そうしたなら、必ず――
必ず、相手は応えてくれる。
「わたし、の……弟分、は……!」
近付いてきた。
遠く離れていた心が、こちらへと、近付いてきた。
もう少しだ。もう少しで呪縛が解ける。
オリヴィアの心が、元の形へと――――
「うん。ここまでは想定通りだね」
――元の形へと戻る、寸前。
アルヴァートとエルザード、両者の手によって食い止められていた悪魔が、ぐにゃりと頬を歪めながら。
瘴気を吐くように、言葉を紡ぎ出した。
「今回は手心一切ナシの最終決戦。これまでのようにステージを一つ攻略しただけじゃあ、クリアにはならないぜ」
刹那。
「わたし、の……弟分、は……」
すぐ間近までやって来ていたはずの心が。
遙か彼方へと、離れてしまった。
「……メフィスト=ユー=フェゴール、ただ一人」
そして。
最悪の展開が、やって来る。
我が目前。
鍔迫り合うオリヴィアの右手首に、異変が生じた。
雲のような純白のオーラが突如として出現し、彼女の手首を覆い尽くす。
円形状のそれは、次第に質量を伴い始め――
腕輪(、、)が、創り出された。
それを見た瞬間。
俺は、呆然とせざるを得なかった。
「そんな、馬鹿な……!」
基調色は、黒と金。
随所に施された、荘厳なる装飾。
中心部を走るラインに刻まれし、魔の討滅を意味する超古代言語。
そして、等間隔に並ぶ、七つの穴。
見まごうはずもない。
それはかつて、この俺が手ずから拵えたもの。
――――《破邪吸奪の腕輪》が、オリヴィアの手首に装着されていた。
このとき。
俺は、自分の愚かさを悔いた。
メフィスト=ユー=フェゴール。あの悪魔を誰よりも知り尽くしているのだと、そんな自負を抱いた自分が、今は呪わしくて仕方がない。
俺は、奴の力を過小評価していたのだ。
「ルールや常識とは、破るためにある。口酸っぱく言ってきたつもりだけれど、どうやら君にはその真意が伝わってなかったようだねぇ」
悪魔の声が、脳の内側に響いた。
「封印されてる腕輪を、どうして僕が使わないと思ったんだい?」
「封印されてる腕輪を、どうして僕が使えないと思ったんだい?」
嘲弄の音色は、まさに。
我が心を、絶望させるものだった。
「君が作ったルール(常識)を、僕が一度でも守ったことがあったかな?」
瞬間。
その言葉を証明するかの如く。
《破邪吸奪の腕輪》を囲むように、七色の宝玉が現れ――それぞれが七つの穴に収まった。
奪われぬはずの方法で、管理していたはずなのに。
メフィストはそのルール(思い込み)さえも破って、宝玉を強奪したのだろう。
悪魔を討つための切り札は今、姉貴分の手にあり……
その姉貴分は、悪魔の手中へと落ちていた。
となれば、もはや。
「オリ、ヴィア……」
「わたしは、一振りの剣。弟分の敵を、斬るためだけに存在する」
終わりだ。
どうすることも出来ない。
全身の虚脱感。それは、現状に対する絶望がもたらしたものであると同時に……
腕輪の効果によるものでもあったのだろう。
気付けば、俺は。
「……あっ」
斬られていた。
顔面を。
斜めに。深々と。
頽れる。立っていられない。
ただの一撃で、決着が付いた。
「あと、二つ」
オリヴィアの呟き声を、倒れ伏しながら聞く。
――地面に我が身が横たわった頃には、何もかも終わっていた。
音もなく、声もなく。
アルヴァートと、エルザードが、胴を両断され、絶命した。
「…………………………いや、嘘だろ?」
目前の最悪は、俺だけでなく、悪魔にとっても同じことだったのか。
ここで終わるだなんて。
そんな顔をしながら、奴はしばし沈黙し――
「あぁ、がっかりだ」
美貌から感情を消し去り、そして。
八つ当たりするかのように、オリヴィアの首を刎ねた。
宙を舞うそれと一瞬、目が合う。
そこに何もなかったのなら。全てが無駄だったと思えたなら。
きっと俺は、諦観と共に終わることが出来たのだろう。
だが、しかし。
「………………ヴァ、ル」
姉貴分は。オリヴィアは。
その瞳から、涙を零していた。
今際の際に、自己を取り戻したのか。
彼女の悔恨が、俺の胸中を灼き始めた。
けれども、逆転の一手など皆無。
指一本さえ、まともに動かすことが出来なかった。
「ゲームオーバーだよ、ハニー。…………君には本当に、心の底から、失望した」
なんの情も宿さぬ、白き美貌。
されどその黄金色の瞳からは、涙が止めどなく流れ落ち、
「この世界を破壊する」
奴の頭上に闇色の球体が生じた。
次の瞬間、周囲の物体が呑み込まれていく。
人も、物も、亡骸も。
まるで全てが、最初から存在しなかったかのように、消えていく。
そんな中で。
「ハニー、君には罰を受けてもらう」
悪魔は淡々と、言葉を紡ぎ続けた。
俺を、地獄へ落とすための言葉を、紡ぎ続けた。
「僕は君を殺さない。君だけを残して、この世界に存在する全ての生命を消し去る。君は物語が終わった世界で永劫に生き続けるんだ。孤独という名の苦痛を味わいながら、ね」
そんな。
嫌だ。
そんな、結末など。
「――僕もそろそろ、お暇させてもらおうかな」
頭上の球体を見上げながら、メフィストが呟く。
俺は必死に、手を伸ばした。
「や、め」
絞り出された声に対して、奴は。
「さようなら」
拒絶の意思を、返してから。
メフィスト=ユー=フェゴールは。
最大の宿敵は。
漆黒の球体へと飛び込んで、自らの命を絶った――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
あれから。
あれから、どれほどの年月が経ったのだろう。
世界から全てが消えた後。
俺は、皆の存在を探し続けた。
在るはずもない希望を、求め続けた。
ジニー、シルフィー、オリヴィア、エラルド、数多くの学友達。
ライザー、ヴェーダ、アルヴァート、エルザード、世界中に存在する友人達。
そして――最愛の親友、イリーナ。
皆がどこかで、生きているのではないかと。
何か、想像もつかぬような奇跡が起きていて、俺の預かり知らぬところで、皆、寄り集まっているのではないかと。
そんな妄想を抱きながら、世界中を巡った。
何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も。
そして。
九七三億、四八二五万、二八五四周目の巡行を終えたとき。
ついに、心が折れた。
現実を、受け入れてしまった。
――その場にて、倒れ込む。
土を握り締めながら、俺は嗚咽を漏らした。
最初は涙も流れ、声も出たが、しかしそれも、いつしか枯れ果てて。
胸の内には、死への渇望だけが残った。
けれど、死ぬことが出来ない。
自ら命を絶っても、すぐさま復活する。
俺の不死性は、俺自身でさえ、どうにもならぬものだった。
……いつになったら、終わるのか。
そればかりを考えるようになった。
胸の内には、後悔の思いだけがあった。
自分という存在が、何よりも不快なものへと変わっていた。
今の俺は、もはやアード・メテオールではない。
完全欠落の失敗者。
俺の人生は、前世も、今世も、無為なものだった。
消えてなくなりたい。
誰か。
誰か、俺を。
「殺して(助けて)、くれ……」
叶わぬ願いが、口から漏れ出た、そのとき。
俺の中から、何かが抜け出てくる。
煌めく粒子。それはやがて、人型を形成し――
彼女の姿が、目前に現れる。
「リディ、ア」
かつての親友。
この世の何よりも、誰よりも、愛した人。
彼女の姿に俺は、涙した。
「あぁ、リディア……」
縋り付いても、彼女は何も応えない。
これは、孤独感が無意識のうちに創り出した、幻影に過ぎないのだから。
しかし、それでも。
「叶うなら……償いたい」
過去の過ちを。
そのうえで、俺は。
「お前の手で、消えることが、出来たなら」
狂った思考かもしれない。だが、その狂気こそが、今の俺にとっては正気そのもので。
そんな意思に応ずるかの如く。
次の瞬間。
新たな煌めきが、発生し――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
気付けば。
目前の光景が、激変していた。
今、俺の目に映るものは、滅びきった世界ではなく。
サフィリア合衆国首都・ヴェルクラット、その広場で。
そして。
「わたしは、一振りの剣。弟分の敵を、斬るためだけに存在する」
オリヴィアが。
死んだはずの彼女が、剣を構えていた。
…………時が、巻き戻ったというのか?
いや。
違う。
これはおそらく、そういうことではない。
そもそも、終わってなどいなかったのだ。
これから起こりうる未来を、俺は――
「予知(、、)ではない。貴様は、俺が辿った結末を追体験(、、、)したのだ」
どこからともなく声が響いた、その直後。
一陣の風が、吹き荒れて。
いつの間にか。
まるで、最初からそこに存在していたかのように。
奴が、立っていた。
「……あぁ、まったく。何もかもが懐かしい」
鍔迫り合う俺と、オリヴィアのすぐ傍に。
あいつが。
完全欠落の失敗者が。
もう一人の、俺が。
――――ディザスター・ローグが、立っていた。