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閑話 いじけ虫は子孫と対話する


 ラーヴィル国立魔法学園の校庭には、巨大な樹木が存在する。

 通称・剣王樹。

 かつて《勇者》・リディアが用いた聖剣、ヴァルト=ガリギュラスを宿す曰く付きの大木は、しかし何も知らぬ者からすると見事な自然物にしか映らない。

 昼の陽光を浴びて煌めくその様相は、まるで心が洗われるような美しさに満ち溢れ――

 ゆえにメフィストは、ここを茶会の場として選んだ。

 小さな純白のテーブルと座椅子。

 卓上に置かれた陶磁器には菓子類が盛られており、その中でも苺を使ったフルーツタルトは、メフィストの大好物であった。

 彼はカップを右手に持ち、中に充ちた紅茶を一口啜ると、

「いいねぇ。実にいい。想定外が次々と積み重なっていくこの状況こそが、まさしく勝負の醍醐味ってやつだよ」

 剣王樹を背景にして立つ、大鏡。

 そこにはアード・メテオールと二人の仲間が映し出されていた。

 彼等の姿を見つめるメフィストの口元には、穏やかな笑みがある。

 動揺など絶無。

 されど彼の微笑は、余裕を証するものではなかった。

 エルザードの来訪。アルヴァートの不変。

 それらはメフィストにとっての想定外であり、戦況を覆す切っ掛けになるやもしれぬ要素でもある。

 だが、それがいい。

「これまでで一番の想定外を味わわせておくれよ、ハニー」

 愛すべき宿敵にして、唯一の友と認める男を見つめる彼の表情は、やはりどこまでも穏やかなままだった。

 そして――

「うん。彼も一段落したようだし。僕達も雑談に興じるとしようか」

 メフィストは、その微笑を彼女(、、)の方へと向けた。

 メフィストを相手にテーブルを囲む、一人の少女。

 それはイリーナ・オールハイドで間違いない、が、平常の様子とは懸け離れている。

 両目は薄ぼんやりと開かれ、どこを見ているのかわからない。

 顔に覇気はなく、まるで肉人形のようだった。

「さて。彼等のやり取りの中には、実に興味深い場面があった。そう、エルザードちゃんのお母さんだね。彼女との一戦において、エルザードちゃんはしばらく使い物にならなかったわけだけど。それはなぜだか、わかるかい?」

 問われてすぐ、イリーナは答えた。

「……ママと同じ見た目をしてたから」

「う~ん、七五点。外見と内面の不一致に気付かなかった、というところまで言えてたら一〇〇点満点だったんだけどなぁ。ま、それはさておいて」

 一拍の間を空け、紅茶を再び啜ってから、メフィストは語り続けた。

「守護者の外見は確かに、彼女の母と同一だった。戦闘能力に直結する経験もまた再現されていたのだろうね。けれども、記憶や人格までは再現されていなかった。だからあの守護者はエルザードちゃんの母親と同じ姿、同じ力を持つ別人ということになる。……さて、ちょっとばかり前置きが長くなってしまったけれど、ここで本題に入ろう」

 身を乗り出し、イリーナへと顔を近寄せて。

 メフィストは、口元の笑みを深めながら問い尋ねた。

「イリーナちゃん。今の君は外見と内面が一致した状態にある。姿形はまさにイリーナ・オールハイドのそれであり、脳漿に刻まれた記憶もまた君が君であることの証明だ。けれどね、イリーナちゃん。それでも、だ。外見と内面が一致してもなお、君は君ではないし、何より、今の君は人でさえない。……なぜだか、わかるかな?」

 二度目の問いに、イリーナは首を横へ振った。

「わからない。あたしはあたしよ。それ以外のなんだっていうの?」

「はは。想定通りの答えをありがとう。今の君はそのようにしか言えないのだから、当然ではあるのだけどね。しかし、その当然を自力で覆して欲しいと、そのように願っていたわけだけど。まぁ、さすがに無理か。君は自分ではなく、誰かのためにしか限界を超えられない。そこは本当に瓜二つ(、、、)だな」

 黄金色の瞳が、すぅっと細くなる。

 メフィストは少しばかりの落胆を覗かせながらも、口元の笑みは保ったまま、新たな言葉を紡ぎ出した。

「外見と内面が一致していながらも、なぜ君が君でないのか。その答えはひとえに、君の状態にある。イリーナちゃん、今の君は正常ではない。僕の手によって、そのようになっている。けれど君は、自分が自分でなくなっているということを自覚することさえない。その心の在り様は人のそれではなく、人形のそれだ」

 イリーナは何も答えなかった。

 メフィストに許可されていないからだ。

 ゆえに彼女の思考は完全に停止している。

 相手の声は聞こえているが、それを受け止める力はない。

 そんな姿を晒すような者は総じて、メフィストからすれば肉人形でしかないのだが。

「……イリーナちゃん。君には可能性がある。だからこそこうして、ハニーの様子なんかそっちのけで、君に注目しているのさ」

 そしてメフィストは、右手を顔の前へと挙げて、

「ここからが、対話の本番だ」

 パチンと指を鳴らした、その瞬間。

 肉人形が、人間へと戻る。

 イリーナの中に、彼女を構成するための何かが帰ってきた。

 それはきっと心と呼ぶべきもので。

 奪われていたそれを返還されたことにより、イリーナは瞬時に状況を把握する。

 その結果――

「ッッ!」

 血相を変えて、彼女は後方へと跳ね飛んだ。

 それから椅子が倒れ、地面にぶつかった頃には、既に。

「メフィスト=ユー=フェゴール……!」

 戦闘に臨む姿勢を取りながら、イリーナは対面の悪魔を睥睨する。

「皆を元に戻しなさいッ! さもないと――」

「君は本当に愚かだな。けれど、そこが愛おしく思えるよ。本当に娘(、)とそっくりだ。状況の良し悪しなど度外視して、感情論を最優先とする。その馬鹿さ加減が実に素晴らしい」

 皮肉、ではなかった。

 メフィストの言葉は本心を口にしたものであり、事実、彼の美貌に浮かぶ微笑には嫌味の色など微塵もない。

「まぁ、とにかく、さ。座りなよイリーナちゃん」

 言葉が終わった、そのとき。

 敵から距離を取って、身構えていたイリーナが。

 気付けば、椅子に座っていた。

「ッッ!?」

 目を見開き、吃驚(きっきょう)を表しながら、イリーナは弾かれたように動作する。

 再び後方へと跳ね飛び、間合いを空け――

 そして。

 気付けば、椅子に座っていた。

「ッッ!?」

 気付けば、椅子に座っていた。

「ッッ!?」

 気付けば、椅子に座っていた。

「ッッ!?」

 気付けば、椅子に、座っていた。

「時間は有限、などと言うけれどね。安心しなよイリーナちゃん。君と僕の間に、時間制限などという野暮なものはない。だから好きなだけ繰り返すといいさ。椅子に座って、僕とお喋りがしたくなるまで、ね」

 ニッコリと微笑む姿は、天使のように愛らしく。

 それと同時に、悪魔のような恐ろしさを秘めていた。

「くッ……!」

 何をされているのか、その片鱗さえも理解出来ない。

 わかるのは、この男がアードと同格か……あるいは、それ以上の怪物であるということだけ。

 どのように抗おうとも、次の瞬間には何事もなかったように椅子へと座らされているのだろう。

「おや? 諦めるのかい?」

「……何よ、話って」

 ケラケラと笑うメフィストに怒りを覚えながらも、イリーナは努めて平静に、言葉を投げた。

「うん、まぁ、特に大きな思惑みたいなものはないんだけどね。でも、君の頑張り次第では、ともすればハニーに代わって、この一件が解決出来るかもしれないぜ?」

「っ……! どういう、こと……!?」

 ニコニコと笑いかけながら、メフィストは受け応えた。

「僕はね、イリーナちゃん。別に君達が憎いわけでもなければ、心の底から滅ぼしたいとも思っちゃいないんだよ」

「だったら、どうして……!」

「そうだね。ハニーにはあえて明かさなかったのだけど、君になら話してもいいかな。君との遊戯(ゲーム)は、ハニーのそれとは別物であった方が面白いだろうし」

 そして、悪魔は語り始めた。

 自分が、現在に至るまでの答えを。

 その、真実を。

「さて、どこから説明しようかな。事の発端は、そう……君とハニーが宗教国家・メガトリウムにてライザー君と一戦交えていた、その最中に起きた。僕は当時、ハニーによって施された封印が解けず、悩んでいたままだったのだけど――」

 次の瞬間、悪魔の口から放たれた言葉は。

 イリーナの想像と理解を、遙かに超えたものだった。

「………………」

 全ての事情説明を聞き終えた後。

 イリーナは呆然と目を見開いて、無言のままメフィストを見つめ続けることしか、出来なくなっていた。

「まぁ、そうなるよねぇ。当然」

 紅茶を啜るメフィストの瞳に宿ったほんの僅かな諦観(、、)は、先程の説明によるものだろう。

 なぜ、解けぬはずの封印が破られたのか?

 なぜ、此度の一件を最終決戦(ラスト・ゲーム)と銘打ったのか?

 なぜ、メフィストはいつになく、本気で勝負に臨んでいるのか?

 その答えを知ったことによる精神的な衝撃は、あまりにも大きかった。

 しかし、時が経つにつれて、イリーナの頭に思考力が戻り――

「それが、本当だったなら……! こんなことしてる場合じゃ、ないでしょ……!」

 動揺する彼女に反して、メフィストは徹頭徹尾、平静であったが……

 その黄金色の瞳には、強い諦観が宿っている。

「本当だからこそ、こうしているのさ。もはや未来は確定している(、、、、、、、、、)のだから。……とはいえ、君が望む展開には決してならないとは、断言出来ないけれど、ね」

 含みを持たせた言い方をしてから、メフィストは対面の少女をジッと見据え、

「ハニーとの最終決戦(ラスト・ゲーム)を始めた当初、僕は全てを諦めていた。けれど、今は少しだけ違う。運命に抗うのも悪くはないかもしれないと、そんなふうに考えてる。……全てはイリーナちゃん、君の存在が原因だ」

 意図がわからない。

 その執着心と、特別視の所以が、まるで思い当たらなかった。

 いったい、自分のどこに、そのような価値を見出しているのか。

 ……そんな怪訝を、メフィストは見抜いたのだろう。

「執着するのは当然のことだよ。特別に思うのもまた、なんら不自然なことじゃない」

 次の瞬間。

 メフィストの口から放たれた情報は。

 イリーナの心に、激震を奔らせるものだった。


「君は我が娘、リディア・ビギンズゲートの子孫なのだから」


 ズグン、と。

 重しを肩に乗せられたような感覚。

「リディア様の、子孫……? あたしが……?」

 嘘と断ずることは、出来なかった。

 脳裏に過去の記憶が蘇る。

 以前、神を自称する少年に古代世界へ飛ばされたときのこと。イリーナはアード達と共に現代への帰還を目指し……その過程において、リディアと出会った。

 彼女と過ごす時間はまるで、母と触れ合っているような温かさに満ちていて。

 当時はそれが、リディアの母性や優しさによるものだと、そう思っていたのだが。

 あのとき感じた思いが血縁によるものであったと言われても、それを否定することは出来ない。むしろ強い得心を感じる。

 メフィストの言う通り、自分は《勇者》・リディアの子孫なのだ。

 そのことについては、すんなりと受け入れることが出来た。

 しかし……

「あんたが、リディア様の、父親……?」

「そうだよ。そして同時に、君の祖先(ルーツ)でもある」

 こともなげに明言するメフィストを睨みながら、イリーナは唇を噛んだ。

 否定したい。

 こんな、邪悪の化身めいた男の血が、ほんの僅かでも自分に混ざっているだなんて。

 しかし……これもまた、嘘と断ずることは出来なかった。

 イリーナの一族は表向き、低位貴族の血筋として知られている。しかしその実態は、ラーヴィル魔導帝国を裏で支配する真の王族だ。

 普段は男爵の家柄として貴族社会の片隅でひっそりと暮らし、影に潜みて国家の舵取りを行う。イリーナの一族がそうした二面性を持つに至った理由は、その血筋にあった。

《邪神》の子孫という現代においては最悪の出自。

 これが明るみに出れば、自分達はおろか帝国の存続さえ危うい。

 そんなあまりにも重い宿命の元凶が今、目の前に居ると思うと……

 憤らざるを、得なかった。

「あんたの、せいで……!」

「そうだね。確かに、君とその一族が被ってきた不利益は、僕が元凶ということになる。けれどイリーナちゃん。僕が居なかったらそもそも、君は生まれてないんだぜ?」

 過去の不幸が自分のせいであると同時に、今ある幸福は自分のおかげだと、そう言いたいのだろう。

 事実だからこそタチが悪い。

 幼少期から今に至るまで、ずっと味わい続けてきた孤独と不安。その心痛がどれほどのストレスをもたらしたか、常人には想像も出来まい。

 一方で。

 己が命よりも大切と思える人々に出会うことが出来たのも、この出自によるものだった。

 アード、ジニー、シルフィー……彼等を始めとした、数多くの仲間達。

 皆、イリーナの真実を知ってなお、友情を捨てずにいてくれた。

 彼等との絆は吹けば飛ぶような薄っぺらいものではない。

 それはまさしく真の友愛であり、かような情念を育めるような相手と出会えたことは、自らの生涯において最上の出来事であると断言出来る。

 が……その確信もまた、《邪神》・メフィストの存在あってこそ。

 この男は自分が抱えた最悪の要素をもたらした元凶であると同時に、最善の要素を形作ってくれた遠因でもあるのだ。

 しかし……たとえ、そうであったとしても。

「あんたさえ居なければ、皆が苦しむこともなかった……!」

「まぁ、そうだね。仮に僕が存在していなかったなら、きっとこの世界は今もまだ《旧き神》に統治されたまま、誰もが幸せに暮らしていたのだろうね。何せ《外なる者達(アウター・ワン)》……現代での呼び名だと、《邪神》か。それらは僕の手によってこの世界へと移動したのだから。僕が存在しなければ、現代に至るまでの歴史はありえない」

 淡々とした語り口調であった。

 そこには絶対悪としての自負もなければ、強者としての余裕もない。

 それどころか、むしろ。

「――お前なんか生まれてこなければよかった。大勢の人にそう言われてきたけれど、一番そう思っているのは他でもない。僕自身だよ」

 黄金色の瞳には、底無しの悲嘆が隠されている。

 そうした彼の姿が、イリーナには意外なものとして映った。

 メフィスト=ユー=フェゴールは《邪神》という呼び名を具現化したような存在である。

 現存する全ての歴史資料において、彼はそのように記されていた。

 およそ全ての悪徳に手を染め、そこになんの後悔も感じることはない、生きとし生けるもの全ての敵。イリーナはメフィストをそのように定義していたが――

「僕みたいな奴が幸せになれるわけがない。僕みたいな奴が、友達に囲まれて笑えるわけがない。そんなことはあってはならない。自分でもそう思うよ。でも……諦めが付かないんだ。それが許されざることだったとしても、僕は幸せになりたいし、友達に囲まれて笑いたいんだよ。でも、それは決して叶わないから、色々と理屈をこねくり回して、友情や愛情を否定している。……所詮僕は、いじけ虫さ。《邪神》なんて大層なものじゃない」

 己を知り尽くし、それを受け入れながらも、苦悩を捨て去ることが出来ない。

 そんな姿はどこか……自分に重なるところがあると、イリーナはそう思った。

「……子共の頃、あたしも似たような考えを抱いてた。誰もあたしのことを愛してはくれない。だったら他人は皆、敵だって。そう思ってた。この世界に友情だとか愛情だとか、そんなのどこにもないって、ずっと決めつけてた」

 そうしないと、心が壊れてしまうから。

 ……きっとメフィストも、そうなのだろう。

 理解不能な怪物という印象が、徐々に薄れていく。

「皆が言う通り、バケモノになりきれたなら、いっそ幸せだった。けれど……イリーナちゃん、君にならわかるだろう? そんなことは不可能だって。何せ僕達は、どこまでいっても所詮、人間でしかないのだから。人でなしになんて、なれやしないのさ」

 だから、いじけることしか出来ない。

 だから、友愛を否定するしかない。

 しかし――

「あたしは、アードと出会うことで変わることが出来た。でも、あんたは」

「そうだね。変われなかったんだよ。愛する人に出会ってもなお、僕は僕のままだった」

 何があったのだろうと、そう思う。

 自分もメフィストも、友愛を得られぬからこそ、いじけ続けていたのだ。

 さりとて、それは結局のところ思い込みに過ぎず。

 自分達を愛してくれる人は、どこかに必ず居るのだと。

 自分達が愛せる人は、どこかに必ず居るのだと。

 そのように思わせてくれる相手に、イリーナもメフィストも、出会うことが出来たのだ。

 それなのに、どうして。

「……愛する人に、裏切られたの?」

 イリーナの問いに対し、メフィストは顔を俯けて、

「いいや。妻も娘も、僕を裏切ったことなんて、一度さえなかったよ」

「だったら、どうして……!」

 出された問いかけは、好奇心によるものではない。

 この男を理解したいと、そう思っているからだ。

 ……確かに、メフィストとは敵対関係にある。友人達に手を出したことを、腹立たしく感じてもいる。だが、それでも。今のイリーナにとってメフィストは、滅するべき邪悪ではなかった。会話が成立するし、何より、自分と重なるところもある。それならば……

 この対話が始まった際にメフィストが言った通り、此度の一件は話し合うことで解決出来るのではないかと、イリーナはそう思っている。

 そのためには相互理解が不可欠だ。

「全部、話してちょうだい。そうすればきっと、わかり合える。手と手を取り合うことが出来る。あんたのことを理解して、その心に穴があるのなら、それを埋めてあげたい。そうすれば、あんただって」

 友達になれるはずだと、イリーナは確信している。

 傷付け合うことしか出来ぬような相手など、この世のどこにも居ないのだ。

 たとえば、ライザー・ベルフェニックスがそうだったように。

 たとえば、アルヴァート・エグゼクスがそうだったように。

 そして……これからきっと、エルザードもまた、自分達の輪に入るのだろう。

 ならばこのメフィストだって、不可能ではないはずだ。

 ……そんな思いが伝わったのか。

「君だけだよ、イリーナちゃん。僕に、そんなことを言ってくれたのは」

 黄金色の瞳から、涙が零れた。

 はらはらと泣くその姿は悪魔と呼ぶべきものではない。

 救いの手を求める、哀れな子共のそれだった。

「君は僕にとっての四人目になるかもしれないと、そう考えていた。妻や娘、そしてハニーのように、心から愛することが出来る相手になるかもしれないと、そんなふうに期待していた。でも……実際は、それ以上かもしれない」

 唇を震わせながら、言葉を紡ぐ。

 メフィストが見せている感動に偽りはなかった。言葉も想いも、全てが本心であった。

「イリーナちゃん。今、僕は敗北を認めてもいいかもしれないと、そう思っているよ。ハニーとの最終決戦(ラスト・ゲーム)を放棄して、手を取り合いたいと、心から思ってる」

 涙を流しながらも、メフィストは真っ直ぐな目を向けて、

「僕は君のためなら、運命を覆すことが出来るかもしれない」

 希望の光が、射し込んだような気分だった。

 もう争うことはない。この一件はこれで――

「――ふぅ~。やっぱりストレス発散には泣くのが一番だねぇ。頭がスッキリしたよ。ありがとうイリーナちゃん」

 これで解決と、確信した瞬間。

 まるでさっきまでの言動が嘘だったかのように。

 メフィストが、これから(、、、、)について語り出す。

「さてさて。ここで現状を再確認しておこうか。ハニー達は僕を倒せるだけの暴力を獲得すべく邁進中。このまま順調に進めば、七日以内にここへやって来るだろうけど……そう上手くはいかないだろうねぇ。何せ次の試練(、、、、)は抜群に難易度が高いもの」

 ニヤニヤと笑う姿に、イリーナは胸騒ぎを覚えた。

 だが、そんな彼女を慮ることなく、メフィストは言葉を羅列する。

「襲い来る彼女(、、)を制することが出来たとしても、すぐに第二、第三の試練がやってくる。全部クリアして、なおかつ――ハニーがここへ到達した時点で、僕にとってのイリーナちゃんが、死なせたくないという程度の存在(、、、、、、、、、、、、、、、)でなければ、彼は勝利出来ない。ともすればこの遊戯(ゲーム)、ハニーにとっては難易度が増してしまったのかもしれないねぇ」

 一人頷いて笑みを深める。

 その様子はまるで、自分の世界に閉じこもっているかのようだった。

「あんた、何を、言ってるの……?」

 自然と、口から当惑の言葉が漏れた。

 これに対し、メフィストは小首を傾げながら、

「んん? 何って君、現状の把握と今後に関するちょっとした考察を口にしただけだよ?」

 どこかおかしいところでもあった?

 そんな顔をするメフィストに、イリーナは当惑を深めた。

「いや、あんた……さっき、言ってたでしょ……?」

 敗北を認めてもいい。

 最終決戦(ラスト・ゲーム)を放棄して、手を取り合いたい。

 確かに、そう言ったではないか。

 なのに、どうして。

「まだ……続けるつもりで、いるの……?」

 問い尋ねると同時に。

 首が。

 メフィストの、首が。

 真横へ折れ曲がったように、傾げられて。

 彼は不思議なモノを見るような顔をしながら、口を開いた。

「逆に聞きたいんだけどさ。どうして終わったと思ったんだい?」

「……もうやめるって、言ったじゃないの」

「んん? あれは別に、終了の宣言とかではないよ?」

 おかしい。

 何か、決定的な要素が、噛み合っていないように思えて、ならない。

「……嘘、だったの? 運命を覆すって、言葉は」

「いいや? 紛れもない本心だよ?」

「……だから、あんたは、もう終わりにするって、そう決めたんじゃ、ないの?」

「う~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ん」

 首を傾げたまま、腕を組んで、唸る。

 何を言ってるんだ、この子は? ……そんな態度を前にして、イリーナはうっすらとだが、確実に、気付き始めていた。

 相手方への認識に、間違いがあったことを。

「あ! そうかそうか! わかったよ、イリーナちゃん! 君、わざと頭が悪いフリをして、僕に嫌われようとしているんだね!」

 メフィストの口元に、微笑が戻る。

 そして。

「ナイス・チャレンジ! 危うく騙されるところだったよ! 今後もその調子で、僕に嫌われるよう頑張ってね! さもなきゃ僕はどんどん君のことを好きになって――」

 次の瞬間、彼が口にした言葉は。

 イリーナに、ある種の確信を抱かせるものだった。


「――最終的に、僕は君を、壊してしまうからね」


 意味が、わからなかった。

 理解が、出来なかった。

「壊、す……?」

「うん。このままだとそういうことになるね」

「どう、して……?」

「好奇心が疼くから」

 ニッコリと。

 満面に、花が咲いたような笑みが宿る。

 その美貌は天使のように美しく――

 そして、悪魔のようにおぞましいものだった。

「知りたくなってしまったなら、もはやどうにも出来ないんだ。肉体は心に隷属するものであり、その逆はありえない。だから僕は好奇心に従う。自らの行動によって、自身にいかなる感情が芽生えるのか。その推測に僅かでも未知があるのなら、試さずにはいられない。そうだからこそ――――僕は、それを実行した(、、、、、、、)んだ」

 涙が、流れた。

 過去を悔やむように。過去を悲しむように。

 だが、その一方で――

 メフィストの口元には、笑みがあった。

 泣きながら、笑っていた。

 悲しみながら、楽しんでいた。

「僕にとって妻は、生まれて初めて愛おしいと感じた人だった。

 そんな相手を自分の手で惨殺したら、僕はどんな感情を味わうのか。

 それを知りたかったから、殺した。

 長い時間をかけて。

 想像しうる全ての苦痛を与え。

 悶える姿を娘に見せ付けながら。

 妻の人格が摩耗し、完全に消えて、無くなるまで。

 僕は手を止めなかった。

 止められなかった。

 知りたくて知りたくて知りたくて知りたくて、仕方がなかったから。

 本当に苦しかったよ。

 胸が張り裂けそうだった。

 妻は最後まで僕のことを愛してくれたのに。

 そんな彼女を、自分の手で拷問して、殺すだなんて。

 気が狂いそうだったよ。

 でも、狂い切ることは出来なかった。

 ――それから。

 妻を失った僕にとって、娘は最後に残された希望だった。

 彼女が居てくれれば、心は愛で満たされ、絶望を感じることはない。

 でも、そうだからこそ。

 そんな存在を苦しめて、消し去ってしまったなら、どんな思いをするのか。

 知りたいと思ったから、そうした。

 僕は娘を徹底的に追い詰めた。

 心も体も、壊し尽くそうとした。

 でも、ダメだったよ。

 自分の手では、最後の一線が越えられなかった。

 だから――人の手を借りたんだ。

 娘は親友の手によって、死を迎えた。

 その瞬間、理不尽ではあるのだけど。本当に、酷いことだと思うのだけど。

 僕は初めて、ヴァルヴァトスという人間に殺意を覚えた。

 よくも娘を殺したな、と。不条理な感情を抱いた。

 だから、彼と彼の軍勢を暴力で殲滅しようとして――――

 阿呆らしくなったから、やめた。

 特にそれは、好奇心が疼く行いでもなかったから。

 そして彼に封印されて数千年。

 何もかもが想定通りでつまらない時間を過ごす中。

 僕は、渇望し続けていたんだ。

 好奇心を刺激してくれる、想定外を。

 ハニーがそれを与えてくれるかと思っていたけれど、実際は違った。

 イリーナちゃん、君だよ。

 君が僕にそれを与えてくれた。

 だから僕は、君に期待しているんだ。

 君が、僕に新たな感情を芽生えさせてくれる、その瞬間を」

 ……一方的に叩き付けられた言葉と感情は、確実に。

 イリーナの心を、折っていた。

「なん、なのよ、あんたは…………」

 怖い。

 ただひたすらに、怖い。

 今まで味わったことのないような、桁外れの畏怖を覚えながら、イリーナは思う。

 自分が馬鹿だった、と。

 理解し合えるはずがなかったのだ。

 手を取り合えるはずがなかったのだ。

 この世界には、そういう相手が、必ず存在する。

 今、目の前で笑う悪魔が、まさしくそれだった。

「頑張ってね、イリーナちゃん。ここへハニーがやって来るまで、現状維持が出来たなら、君の勝ちだ。でも、もし。僕が君のことをあまりにも嫌いになるか、あるいは好きになり過ぎたなら、そのときは――――僕は君を、この世界もろとも破壊する」

 この瞬間、イリーナは。

 生まれて初めて、他人にレッテルを貼った。

 己が出自を呪うがために、決して、他者をそのようには扱わぬと、そんな考えを曲げて。

 畏れと共に、呟く。

「あんたは、人間じゃ、ない……!」

 理解したくない。

 手を取り合いたくない。

 こんなバケモノと、仲良く出来るはずがない。

 嫌悪と侮蔑が、吐き気をもたらす。

 愛する人のそんな姿が、悲しかったか。

 そのとき、メフィストの瞳から、一筋の涙が零れ落ちた。

 頬を伝い、流れていくそれは、果たして――

 口元に宿りし邪悪へと溶け込んで、消える。


 それが悪魔の本性であると、表するかのように。



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