第一一三話 元・《魔王》様と、狂龍王の真実
差し出された手を掴み、立ち上がってから、すぐ。
俺はエルザードに問いを投げた。
「メフィスト=ユー=フェゴールを純粋な暴力で以て打倒する。古代世界に生まれた者であれば、誰もが不可能と断言するような目標ですが……何か策はお有りですか?」
エルザードは腕を組み、眉間に皺を寄せながら答えた。
「そんなものがあったなら、こうして君と手を組んだりはしないよ」
だろうな、と心の中で呟く。
彼女からしてみれば、俺と協同するという行為自体が苦肉の策そのものであろう。
それを選択した理由は、やはり。
「……君は古代において、奴との最終決戦に勝利したんだろ? 伝え聞いた話によると、そのときも今回みたく単純な暴力のぶつけ合いだったとか」
当時と同じように立ち回れば、僅かながらも勝機はあるのではないか、と。
エルザードはそのように言いたいのだろう。
しかし……かの決戦がいかなる顛末であったか、それを知る身としては、後ろ向きにならざるを得ない話だった。
「まず結論から申し上げると。我々はメフィストを封印することに成功しただけで、勝利したとは認識していません。むしろアレは……敗北に等しい結末でした」
忌まわしき記憶を掘り起こす。
当時、俺達は世界の大半を手中に収めていた。
《邪神》……当時は《外なる者達》と呼ばれていた彼等は、もはやメフィストを残すのみという状況。
そこで俺は、選択を迫られたのだ。
「生き残った唯一の《邪神》、メフィスト=ユー=フェゴールを討伐するか。それとも……奴が提示した和平条約を締結し、問題を先送りにするか。悩みに悩んだうえで、私は」
後者を選択した。
理由は様々あるが、中でも取り分け大きかったのは、
「……貴女もご存じやもしれませんが。私は《勇者》・リディアに強い友情、だけでなく、恋慕の情をも抱いていました。メフィストとの決戦に臨めば、誰が命を落としてもおかしくはない。無論それはリディアとて同じこと。そのリスクを取ってまで、私はメフィストを討とうとは思えなかった」
だから俺は、現状維持を選択したのだ。
……その思いを素直に伝えることが出来ていたなら、結果は違っていたかもしれない。
「私の決定にリディアは猛然と反発した。彼女にとってメフィストは自らの父であると同時に、母の仇でもある。奴を討ち取ることを最大の目的として活動していた彼女は、私のもとへ詰め寄り……」
「こじれた、か」
溜息交じりの言葉に、俺は首肯を返した。
この後悔はきっと永遠に消えることはないだろう。
素直に気持ちを伝えることが出来なかった。
お前を失いたくないのだと、ただ一言口にするだけでよかったのに。
実際、口に出された言葉は。
「そんなに死にたいのなら勝手にしろ。……そんな私の言葉に応ずる形で、彼女は軍を動かしてしまった。結果、リディアの軍勢は壊滅的な被害を受け……彼女は、メフィストの操り人形へと改変された」
そして、残虐非道の限りを尽くさんとする彼女を、俺は。
「……《勇者》・リディアの名誉を守るために、私は、自らの手で」
心を灼き尽くさんとする後悔の念と喪失感は、やがて復讐心へと変わり……
そして俺は、メフィストの討伐を決定した。
「あの時代において、奴を憎まないような者は居なかった。特に我が軍は上層部のことごとくが奴への復讐に燃える者ばかりで。そうだからこそ、突然の趣旨替えに対する反発は、一切なかった」
生き延びたリディアの手勢を加え、我々は総力を以て奴に挑んだ。
「我が軍の面々は良くも悪くも個性的で、それゆえに連携とは程遠いような連中だった。しかしそんな彼等でさえ、メフィストを討たんとしたあの一戦においては足並みを揃え、協調性を見せていた」
我が軍の仕上がり方は、まさしく最高潮。
そのうえ、敵方のもとへ向かう道すがら、味方の数は増えに増え続けていった。
「メフィスト討伐。その意思に同調したのは人間だけではなかった。人とは決して交わろうとしなかった異種族さえも我が軍に合流し、同胞として戦う意思を見せた。中には、エルザードさん、貴女の同族も混ざっていましたよ」
「……あぁ、知ってる」
どこか複雑げな表情を浮かべたエルザード。
その内情にはあえて触れることなく、俺は語り続けた。
「世界そのものが、奴の存在を拒絶しているのだと。かの大軍勢はそれを証明するような有様となっていました。生きとし生ける者、全てがあの悪魔を否定し、この世から除かんとする。ゆえにこの一戦は間違いなく我々の勝利になるだろうと、私はそう考えていました。いかにメフィストとて、世界の全てを敵にして勝てるわけがない。きっと私だけでなく、皆、そのように確信していたでしょう。しかし――」
俺達は、勝てなかった。
メフィスト=ユー=フェゴールは単独で我々を迎え撃ち、そして。
「なにゆえ、奴がそれまで単純な暴力を用いた勝負をしてこなかったのか。その所以を、我々は思い知ることになった」
あの戦に参加し、生き残った者からすれば、開幕から終幕に至るまで、全ての記憶がトラウマであろう。
俺も例外ではない。
「……世界の全てを相手取ってなお、奴は余裕を崩さなかった。まるで赤子の手を捻るかのように、奴は我々を蹂躙し……」
ただ一手のみ、俺が放った奇策が奴にとっては想定外だったらしい。
メフィストは喜悦を以てそれを受け入れ……
「私は、奴を封印することに成功しました。しかし抹殺を目的にしていた我々からすれば、それは敗北に等しいもので……そもそも封印という結果自体、奴の手心によるものでしかなかった。メフィストが本気になっていたなら、きっと我々は」
今、こうして大地に立ってはいないだろう。
「…………つまり、君もボクと同様に、無策だと?」
エルザードの言葉を否定することは出来なかった。
奴に対し、真正面からぶつかって勝てる可能性は皆無。
かつての一戦における表面的な勝利は、メフィストの気まぐれが招いたものに過ぎない。
もし今回の勝負が奴にとって、普段の遊戯となんら変わりないものだったなら。
僅かながらも、勝ち目はあったろう。
だが今回、奴は初めて、本気を出すと宣言した。
勝つために動くと、断言して見せた。
「……正直に申し上げれば、策らしい策はありません。しかし」
俺達が成そうとすることは、蟻の群れが巨竜を打倒せんとする姿に等しい。
ハッキリ言って絶望的。
だがそれでも。
諦めるという選択は、彼方へと投げ捨てている。
「策もなければ、勝算も皆無。さりとて……打つ手はあります」
現段階において、希望の光など寸毫も見えない。
けれどもまだ、足掻くことは出来る。
その積み重ねが勝機に繋がることを信じて。
……エルザードも同じ気持ちだったらしい。
「具体的に、どうするというのかな?」
「ある《魔王外装》を、回収しようかと」
この返答に、彼女は考え込むような仕草をして、
「……《魔王外装》。確か、転生前の君が創造したという、六六六種の強力な魔装具、だったかな。以前ボクとやり合ったときも、それをいくつか用いていたね」
「えぇ。そのうちの一つに《破邪吸奪の腕輪》というものがあります。まずはこれを回収すべきかと。何せかの腕輪はメフィスト討伐戦における切り札として創られたもの。今の我々には必須の品であると断言できます」
《破邪吸奪の腕輪》。これに秘められし力は名が示す通り、力の吸奪である。
周囲に存在する生命体から魔力を始めとする様々な力を奪うことで、装着した者を際限なく強化。逆に、敵方は腕輪の力によって弱体化していくため、いずれ確実に彼我の力量差が逆転する。
よってこの外装を装着した者は理論上、無敵の存在になるわけだが……
これを用いてもなお、あの悪魔を討つには至らなかった。
無敵をも超える最強。それこそがメフィスト=ユー=フェゴールという怪物だ。
ゆえに腕輪を得たとしても、現状が打破出来るわけではない。
さりとて持ち得なかった場合、そもそもスタートラインに立つことさえ不可能。
腕輪の獲得は勝利条件ではなく、前提条件である。
「じゃあ早速、その《破邪吸奪の腕輪》とやらを回収しに行こうか」
「……そうしたいのは山々ですが。その前に、いくつかの過程を踏まねばなりません」
「過程?」
「えぇ。かの外装はあまりにも強力であるがゆえに、悪用されぬよう厳重な封印が施されています。それを解除するためのアイテムが七種。これを集めねば、腕輪を得たところで意味がありません」
《魔王外装》は総じて、俺だけが操作出来るよう設定されてある。が、万一、術式を改竄され、誰にでも扱えるようになってしまった場合……《破邪吸奪の腕輪》は史上最悪の外装へと変化を遂げるだろう。
何せ装着した時点で、それがいかなる弱者であろうとも無敵の存在へと変えてしまうのだ。もしも悪辣な者がこれを用いてしまったなら、それこそ世界の破滅もありうる。
そうした事態を防ぐために、俺はかの腕輪に対して過剰なまでの封印措置を取ったのだ。
「……まぁ、当然といえば当然だけれど」
面倒臭げに息を吐きつつも、エルザードは納得したらしい。
「で? そのアイテムとやらはどこにあるのさ?」
腕輪の封印を解くためのそれは世界各地に分散する形で、秘匿の封を施してある。
その中でここからもっとも近いのは――
「ヴィラムド山脈。エルザードさん、貴女の住処にて一つ、保管されています」
この言葉を受けて、彼女は一瞬、目を大きく見開くと、
「……ウンザリするね、まったく」
何か思うところがあるのか。エルザードは俯きながら、深い溜息を吐いた。
「山の中に入るのは心底不愉快だけれど…………仕方がない、か」
そう呟くと、彼女はおそらく、転移の魔法を発動しようとしたのだろう。
しかし。
「……チッ。どうやら妨害術式が展開されているようだね」
「ふむ。ただの嫌がらせか、それとも、時間を稼いでいるのか。いずれにせよ、転移の魔法が使えないとなると」
「………………なんだよ。ジロジロ見てんじゃねぇよ、気持ち悪いな」
きっと彼女は、俺と同じ対応策を思い浮かべているのだろう。
だからこそ拒否感を示しているわけだが。
「エルザードさん」
「……別の手があるだろ、たぶん」
「エルザードさん」
「……そもそも、焦る必要なんか」
「エルザードさん」
「…………」
「エ ル ザ ー ド さ ん」
笑顔を浮かべながら、追い詰めていく。
やがて彼女は白金色の髪を掻き毟り、
「あぁもうッ! わかったよッ! やればいいんだろ、ド畜生ッ!」
どうやら折れてくれたらしい。
「では早速、参りましょうか」
かくして。
俺とエルザードは、逆襲の一歩を踏み出すのだった――
◇◆◇
竜族はもっとも古い種族の一つとして認知されている。
その存在は天地開闢の頃より確認されており、一説によると超古代よりもさらに以前の時代において、彼等は世界の支配者として君臨していたという。
そうした歴史もあってか、竜族は極めてプライドが高く、実に排他的な種族であった。
彼等は総じて森や洞窟、あるいは地下世界などを自らの領域として、生涯をそこで過ごす。外部へと出るようなことは滅多になく、その排他性ゆえに決して他の種族に心を開くことがない。
ヴィラムド山脈を支配領域としていた白竜族も、例外ではなかった。
とはいえ他の竜族に比べ、僅かばかりの協調性があったのか、それとも打算的な意図があったのか。
古代におけるメフィストとの最終決戦において唯一、ヴィラムド山脈の白竜族は参戦を表明。我々と共に肩を並べ、命懸けで戦ってくれた。
戦後、彼等の協力に対して俺は感謝の意を示すべく、いくつかの特権を付与し、さらには彼等が好むであろう宝物の類いをも贈呈。
そのうちの一つが、《破邪吸奪の腕輪》を起動させるのに必要な、封印解除のアイテムであった。
竜族は宝物に対する執着心が異常に高い。
自分にとってのそれと認識したモノに対して、彼等は平然と命を懸ける。
そうした精神性を利用し、俺は彼等に件のアイテムの保護を任せたのだ。
「……ふん。さすが、《魔王》と呼ばれるだけのことはあるね。ずいぶんと腹が黒いじゃないか」
轟然と唸る大気の叫びに、彼女の太い声(、、、)が混ざり合う。
エルザードは今、人の姿をしていなかった。
三対の翼を有する巨大な白竜。
真なる姿を晒しながら、彼女は天空の只中を猛然と突き進んでいた。
「その底意地の悪さ、ボクも見倣わなくちゃいけないなぁぁぁぁ。狂龍王だなんて呼ばれてはいるけれど、ボクはただ暴力的なだけで、腹の中は白いからねぇぇぇぇ」
とてつもなく不機嫌な声音。
彼女が臍を曲げているのはきっと、自らの背に人間を乗せているからだろう。
誇り高い竜族の彼女にとってそれは、屈辱以外のなにものでもない。
そんなエルザードに対し、俺は苦笑しながら、
「仕方がないでしょう? 転移が叶わぬ以上、貴女の背に乗せていただくのが、もっとも合理的な――」
「仕方がない? それはつまり、ボクの背中になんか乗りたくないけれど、仕方ないから我慢して乗ってやってると、そういう意味の言葉かなぁ?」
「――エルザードさん。貴女はどうにも、悪い方へと発想を飛ばす癖がお有りのようですね」
「ふん。実際、君は我慢してるんだろ? なぁ? 君にとっちゃボクなんか、デカいトカゲだもんねぇ? そんな奴の背中なんて、ごつごつしてて居心地が悪いだろぉ?」
「……一戦交えたときのこと、まだ根に持っておられるようですね」
手を取り合ったとはいえ、我々の関係は良好とは言い難いようだ。
「はぁぁぁぁぁ……背中に人間なんか乗せる羽目になるわ、二度と入らないと決めてた場所に行くことになるわ。判断を誤ったかな、これは」
ぼやく彼女に対し、俺は怪訝を覚えた。
「二度と入らない? それはヴィラムド山脈のことですか?」
「……そうだよ」
「それはなんとも、異な事を申されますね。かの領域は貴女の住処でしょうに」
常々身を置き続けた場所に対して、二度と入りたくないとは、これ如何に?
そうした疑問に、エルザードは苛立ったような口調で受け応えた。
「……好きで居座ってたわけじゃない。あそこはもっとも効率的に体を癒やせる場所だったから、仕方なく身を置いてたんだ」
体を癒やす。
その言葉を耳にして、俺は彼女の過去に思い至った。
「そういえば貴女は一度、この世界を滅ぼす直前まで暴れ狂ったとか。そのときの傷を、数千年かけて癒やしていたというわけですか」
「……正確には、その前(、、、)から、だけどね」
「? その前、とは?」
問いかけに対し、返ってきたのは沈黙であった。
どうやら言いたくないらしい。
であれば、無理に聞こうとは思わない。
まず間違いなく、それは彼女にとって、触れられたくない過去の一つだろうから。
その代わりに、俺は、
「……ふむ。見えてきましたね」
天を衝かんとする巨大な山々。
中でも取り分け標高の高いそれを見つめながら、俺は呟いた。
「よもや貴女と共に再訪することになろうとは」
あの山頂にて、以前、俺とエルザードは一戦交えている。
因縁深き舞台を目にしながら、感慨を覚える俺に、彼女は忌々しげな調子で反応した。
「ふん。勝ち誇りたきゃ、勝手にするがいいさ」
「いえ、決してそういうわけでは。……あ、エルザードさん、そろそろ下降してください。我々の目的地は山脈の内部であって、山頂ではありませんから」
「……チッ。乗り物扱いしやがって、クソが」
毒を吐きつつも、エルザードは俺の指示に従い、眼下に広がる濃緑の中へと降りていく。
やがて彼女は人の姿へと戻り……
俺達は地上へと降り立った。
土と草花の香り広がる、森林の只中。
エルザードは眉根を寄せながら、小さく呟いた。
「……大したもんだね、自然の生命力ってやつは。当時の痕跡(、、、、、)なんてどこにもありゃしない」
薄暗さを感じさせる声音はおそらく、周囲の静寂に由来するものだろう。
このヴィラムド山脈は古来より白竜族の住処であった。彼等はその排他性ゆえに侵入者を決して許すことはなく、この俺もまた前世にて彼等の手荒い歓迎を受けた覚えがある。
だが、今。
白き竜族の姿は確認出来ず、襲来の気配もない。
それも当然であろう。
ヴィラムド山脈を領地としていた白竜族は、既に滅び去っているのだから。
伝聞が真実であったことを自らの目で確かめつつ……俺は口を開いた。
「ここに棲まう白竜族は、エルザードさん、貴女が滅ぼしたと聞きましたが」
彼女は何も返さなかった。
その沈黙こそが、答えであった。
……なにゆえ同族を手に掛けたのか。
好奇心はあるが、これもまた、あえて聞くまい。
俺は一つ咳払いをしてから、
「彼等は自分達の宝物を自作の迷宮にて保管していました。我々が求むる物もおそらくはそこにあるのではないかと」
件の迷宮は、ここからほど近い場所にある。
探知の魔法を用いて目的地へのルートを算出しながら、俺は歩き出した。
迷宮までの道中、エルザードは口を閉ざし、沈黙を保ち続けていたが……
どうやら冷静ではないらしい。
時折、攻撃魔法を放ち、その光線で以て森を灼いた。
ずいぶんと大きなストレスを抱えているようだが……慮っても、彼女は何一つ反応しなかった。
ギスギスした空気に滅入りながらも、俺は歩き続け、その末に。
目的地へと到着。
この白竜族の迷宮は山を刳り抜いて造られたもので、外見的には洞窟のそれと変わりないが……しかし、巨大な出入り口から漂う瘴気は、尋常のものではない。
「……禁足地と言われるだけのことはあるね」
「禁足地?」
「あぁ。この迷宮は立ち入りを禁じられた聖域として扱われていたんだ。だからボクも入ったことがない」
「ということは」
「そうだね。何が待ち受けているのか、ボクでさえ見当が付かないってことだ」
「……どうやら此度の冒険も、刺激的なものになりそうですね」
竜が創造せし魔窟。
それを前にしながら、俺は言葉を紡ぎ出した。
「入りますよエルザードさん。よろしいですね?」
「…………あぁ」
俺達は同時に、迷宮の内側へと足を踏み入れた。
ここは白竜族にとって宝物の保管庫であると同時に、それを奪わんとする不届き者に罰を与える場でもある。
ゆえに探索者への配慮など皆無。
迷宮の内部には濃密な闇が広がっており、一寸先はおろか足下さえ確認出来ない。
「この暗さ……自然のものではありませんね」
迷宮の内にある暗闇は魔導仕掛けによるものであろう。
ランプなどの照明具だけでなく、一般的な光源の魔法さえも、この闇を晴らすには至らない。
さらに、この暗黒は探索者を弱体化させる効果も併せ持っているようだ。
「ふむ。エルザードさん。この仕掛けを解除する方法に心当たりは?」
「……言っただろ。内部事情は何も知らないって」
嘘を吐く理由もないので、彼女の言葉は本音であろう。
それならば。
「我が異能の面目躍如といったところでしょうか」
人類種にはごく希に、説明が付かない異質な能力を持って生まれた者が居る。
俺もそのうちの一人で、有する異能は解析と支配。
それを用いることで、迷宮に仕掛けられた魔導を解析し――
暗闇に宿りし負の要素を解除。
続いて、光源の魔法を発動し、明瞭な視界を確保した。
「……相も変わらず出鱈目だな、君は」
「恐悦の至り」
「褒めてねぇよ、ばぁか」
魔法によって創造されし煌めく球体が、周囲を明るく照らす。
そこに加え、探知の魔法を用いることでトラップを看過。
迷宮内部の仕掛けはこれで、おおよそ完封出来たと言っても良い。
とはいえ。
迷宮探索というのは、ギミックを攻略すれば終わりというわけではない。
もっとも恐ろしいのは、やはり。
「……広々とした内観から、もしやと思ってはいましたが」
目前に現れたそれを睨みながら、俺は小さく息を吐いた。
探索者を苦しめる最大の要素。それは住人(、、)の存在である。
自然発生した迷宮の場合、ダンジョン・コアがランダムに魔物を生成し、それが住人となって探索者を迎撃する。
迷宮内の魔物は野生の個体と比較して凶暴性が高く、そして何より、強い。
だがもっとも厄介なのは、人工の迷宮にて発生する魔物達だ。
人工迷宮は、生成される魔物を制作者が意図的に決めることが出来る。
創り出したダンジョン・コアの質によって、限界もあるが……理論上、神話レベルの魔物で迷宮内を満たす、といったことも可能だ。
今回のそれも、人工迷宮ならではの脅威であった。
「どうやら彼等は、コアに土地の記憶を接続したようですね。そうすることで、自分達の複製を生成するよう設定した、と」
当然といえば当然か。
何せ彼等は超高等生物たる竜族の一種だ。
もっとも信頼出来る守護者とは、即ち自分達そのものであると。そのような考えに行き着いたのだろう。
ゆえに我々の目前に現れたのは、巨大な白竜であった、が……
「土地の記憶は常に、もっとも強烈なものだけが残る。その法則に沿った結果……エルザードさん、貴女が一暴れした当時の記憶が、コアに反映されたようですね」
出現した白竜は、ボロボロの状態だった。
翼をもがれ、鱗を剥がされ……まるで、ドラゴン・ゾンビといった様相。
見るに堪えぬ姿に対し、俺は眉をひそめるのみであったが、しかし。
エルザードには、特別な思いがあったらしい。
「…………久しぶりだねぇ、ファルシオン」
口元に、笑みが浮かぶ。
だがそれは友好的なものでは断じてなく。
むしろ――野獣が獲物を前にして、牙を剥いたかのような、恐ろしい貌だった。
「すごく嬉しいよ。二度(、、)もお前を、殺せるだなんて」
その後の行動は、何もかもが理知的だった。
こちらを敵と認識した白竜が動作する直前。
エルザードが攻撃魔法を発動。
彼女がファルシオンと呼んだ敵方の周囲に、そのとき、多数の魔法陣が現れ――
青白い光線が、放たれた。
取り囲まれた時点で、もはや躱す術はなく。
ゆえに敵方は防壁を展開し、防ごうと考えたようだが。
「ははっ、学習能力ねぇんだな、お前」
嘲弄が吐き出されると同時に、光線が防壁をあっさりと貫通。
現れし白竜はやがて、無数の光線に覆われ、跡形もなく消失した。
「……死んでもなおボクを不愉快にさせるだなんて。まったく、たいしたもんだよ」
静かな呟きに宿りし情は、あまりにも冷ややかで。
その後も行動もまた、冷徹の極み。
探索の最中、我々は幾度となく白竜の襲撃を受けたが……
それらことごとくをエルザードが葬った。
その動作は実に鮮やかで、なおかつ、思慮を尽くしている。
全力全開で暴れようものなら迷宮が崩壊し生き埋めになりかねない。
また、二次被害でコアを壊せば、あるいは欲するアイテムが破壊される可能性もある。
そこを配慮して、エルザードは周囲の被害を最小限に抑え込みつつ……えげつないほど残酷に、平然と、同族の複製達を虐殺した。
激烈な怒気に満ちながらも、放つ空気は凍り付くほど冷ややか。
完璧な理性を保ちつつ怒り狂うその姿は、まさしく狂龍王と称すべきもので。
だからこそ俺は、彼女の心を案じた。
「……エルザードさん。ここらで少し、休みを取りましょう」
彼女はこちらを一瞥すらせず……
つい今し方、素手で全身をぐしゃぐしゃに潰した同族の頭を踏みつけながら、笑った。
「ハッ! 君はボクと友達にでもなったつもりでいるのかなぁ? だったらそれは勘違いだよ。ボクにとっちゃ君もこいつらも変わらない。……だから、その顔をやめろ。その目でボクを見るな。殺されたいのか、アード・メテオール」
危うい。
元々、エルザードの精神性は不安定なものだった。
イリーナとの激突を経て未来に対する希望を持ったようだが、それでも本質的な部分はまだ変わってない。
この場での出方を間違えれば、彼女との協力関係に修正不能な亀裂が入るやもしれぬ。
さりとて……こうした相手とのコミュニケーションは経験希薄。どのように接すればよいのかまったくわからん。
……リディアやイリーナだったなら、上手く相手の心に入り込むのだろうな。
と、自らの人間力のなさを嘆く中。
「…………チッ」
足蹴にし続けていた同族の頭部が、原型を失ったからか。
エルザードは舌打ちを零し、天井を見上げながら、口を開いた。
「……この迷宮は、ボクに嫌がらせをするために造られたのかな?」
この一言に対して生じた疑問を投げるか否か、迷いどころではあるが……沈黙を続けたなら、それはそれで不快感を与える可能性がある。
俺は緊張を覚えながら、エルザードへ問うた。
「我々の前に姿を現した白竜達は、貴女の顔見知り、だったのですか?」
質問に対し、エルザードはしばらく天井を見上げたまま、沈黙。
判断を誤ったか?
ジクリとした胃痛を感じた、その矢先。
「……竜族は自分達以外の種族全てを見下し、何者も認めることがない。特に人類への侮蔑は極めて強いものだ。数が多いだけの猿が地上の覇者気取ってんじゃねぇよ、ってね」
そのとき、彼女の白い美貌に浮かんだ笑みは、果たして自嘲のそれか。
あるいは……種族そのものへの、嘲弄か。
「笑えるよ、本当に。どいつもこいつも自分達の醜さを自覚していないのだから。ボク達も所詮、猿と見下してる連中と何も変わらないというのに」
深々と息を吐いてから、彼女は歩き出した。
その後ろに付く形で、俺もまた一定の歩調を刻む。
そうした道すがら、エルザードが不意に言葉を紡ぎ始めた。
「高度な知性を有する生物は例外なく群れを作る。それは竜族も変わりがない。この山脈を住処としていた連中もまた群れで生活し……必然的に、縦社会が形成されていた」
ここで一度区切ると、エルザードはいくらかの間を置いて、
「……ボクの生家は人間でいうところの王族でね。そんなところに生まれたものだから」
特別であるがゆえの差別。
エルザードは常に、それを受け続けてきたという。
「親しい相手なんて一人も出来なかった。けれど、辛くはなかったよ。こんなボクにも愛情を注いでくれる相手が居たから。……あの頃のボクにとっては、母だけが心の支えだった。母だけが居れば、それでよかったんだ」
最後にエルザードはか細い声でこう言った。
友情なんか求めるべきじゃなかった、と。
その瞬間――
「今度はお前かよ、ゼスフィリア」
新たに現れた傷塗れの白竜を前にして、エルザードは無機質な表情のまま、
「お前のことなんか、信じなければよかった」
冷然とした殺意を瞳に宿し……踏み込む。
それは極めて感情的な動作であった。
今に至るまで、彼女は単調な作業をこなすかのように、冷然と同族を処理し続けてきたのだが……
今回のそれは実に荒々しい。
殴打。殴打。殴打。
見上げるほど巨大な竜を相手に、一方的な展開を見せるエルザード。
鱗を砕き、肉を打ち、骨を断つ。
素手によって実行された生々しい暴力は、万の言葉よりもなお、彼女の心理を物語っているように思えた。
やがて敵方は沈黙し……絶命。
撲殺した相手の亡骸を見上げながら、エルザードは一言。
「……馬鹿みたいだな、本当に」
誰に向けての言葉なのか、俺にはわからない。
全身を返り血で真っ赤に染めたまま、彼女は再び歩き始めた。
それから、しばらくして。
エルザードの口から言葉が漏れ出す。
「……さっき殺した奴、さ。初めて出来た友達だったんだよ」
意外な台詞に、俺は思わず目を見開いた。
この狂龍王にも、友と呼べる相手が居たのか……と、胸の内で呟いた直後。
「まぁ、本当は友達じゃなかったんだけどね」
「……どういう、意味ですか?」
「ハッ! 皆まで言わずともわかるだろ? 王様として生きてきた君になら、さ」
「………………友のフリをした造反者、ですか」
小さな首肯が返ってくる。
その表情は無機質なままだが、内側に秘めた情は筆舌に尽くしがたいものだろう。
「……王、あるいは王族の宿命、ですね」
「あぁ、そうとも。だからボクは、誰のことをも信じるべきではなかったのさ。けれど」
「孤独感は、いかんともしがたかった」
似ている。
俺とエルザードの境遇は、似通ったものがある。
「規格から外れているがゆえに孤立し……そうだからこそ、愛を注いでくれる存在に依存した。さりとて、依存は行き過ぎれば一体化を招く。やがて相手と自分の区別がなくなり……孤独感が、襲ってくる」
エルザードは母に。俺は姉貴分に。それぞれが依存していた。
そうすることで孤独を癒やしていたが、しかし……やがて相手の存在と感情を、当然のものとして認識するようになった結果、寂寞が常に心を苛むようになった。
「誰でも良かったんだ。母さんと同じように、ボクを愛してくれるのなら。この苦しみから、解放してくれるなら。本当に誰でも良かった」
その相手こそが、先程手に掛けた同胞であったのだろう。
魔法を用いた瞬殺ではなく殴打による撲殺を実行したのは、それが原因か。
「特別なんだ。初めて出来た友達っていうのは、さ」
「えぇ、そうですね。しかし、そうだからこそ」
「あぁ。そうだからこそ――」
「裏切られたなら、その怒りは表現出来ぬほど強いものとなる」
微笑するエルザード。
その表情が意味するところは、理解者を得たことによる喜悦……ではなかろう。
むしろ、逆だ。
我々は互いを理解し合えるが、そうだからこそ。
鏡写しのような存在に、エルザードは同族嫌悪を抱いているのだろう。
「……王族を殲滅し、自分とその一族が、空いた椅子に座る。あいつはそのために近付いてきたのさ。ボクから身内の情報を聞き出して。用が済んだと判断すると同時に……毒を盛ってきた。わけもわからず頽れたボクに、あいつはこう言ったよ。――お前みたいなバケモノを、誰が愛するものか、ってね」
そして彼女は、全てを失ったのだろう。
「ボクが毒でくたばらなかったのは、奴等にとって最大の誤算だったろうね。その場をなんとか脱して、ボクは母のもとへ向かった。でも……間に合わなかったよ。到着した頃には、もう」
彼女がなにゆえ、同胞を皆殺しにしたのか。
それは決して、望んだことではなかったのだ。
声音に宿る悲哀がその本心を伝えてくる。
「……当時はまぁ、本当にしんどくてさ。自殺も試してみたんだけど、ダメだったよ。ボクの体はあんまりにも頑丈なもんだから。自分で自分を殺すことさえ出来なかった。……君もそうだろ? アード・メテオール」
「えぇ。恥ずかしながら、まったく同じ経験をしたことがあります」
だからこそ俺は、自害ではなく転生を選んだ。
いや、選ばざるを得なかったと言うべきか。
どれほど望んでも、死という名の救いは得られない。そのように悟った俺は、何もかもをリセットしようと思った。別の誰かになりさえすれば、別の人生を送ることが出来る。その末に、絶望が希望に変わってくれるのではないかと、そう願って。
しかしエルザードはもはや、その気概さえなかったのだろう。
「ボクは眠りに就いた。二度と目覚めないことを祈って、ね。けれどダメだったよ。当然っちゃ当然だけどさ。なんせその眠りは、傷を癒やすためのものでしかなかったんだから。……で、目覚めて早々、またもや不愉快な経験をする羽目になった」
嘆息してから、エルザードは続きを語る。
しかし……彼女にとってその出来事は、同胞殺しよりもなお辛い記憶だったのだろう。
追憶を防ぐためか、口から出た情報は実に断片的なものだった。
「ボクの眠りを妨げた奴が居てね。そいつは亡国の王女だった。そいつは言ったよ。ボクに魂を捧げるから、国を奪い返してくれって。……それからまぁ色々あってね。二人目の友達が出来た。同族共はきっと、地獄で嘲笑っていただろうね。竜が人間を好きになるだなんて、ボク達の常識からすると、ありえないことだから」
エルザードは、そうした同族達のことを否定しなかった。
それは即ち。
非常識な関係性が、彼女に二度目の痛みを与えたことを意味している。
「……貴女が抱えていた世界への憎悪は、それが原因ですか」
やはり答えは返ってこなかった。
何も言うことなく、エルザードは淡々と歩き続けるのみだった。
……彼女と一戦交えた際の記憶が、脳裏に蘇る。
あの凄まじい負のオーラを当時は不可解に感じたものだが、しかし全てを知った今、何もかもが理解出来た。
二度の裏切り。二度の失望。
本気で愛したからこそ、その痛みは凄絶であったに違いない。
世界を灼き尽くしてなお癒えぬほどの傷を、エルザードは負っていたのだ。
しかし――
「それでも、貴女は」
言葉の途中。
それを最後まで紡ぎ終えるよりも前に。
我々は、迷宮の最奥へと辿り着いた。
荘厳なる彫刻が施された巨大な門を、エルザードが片手で押し開く。
果たしてその向こうには、開けた空間が広がっていて。
我々を待ち構えるように、一人の女性が立っていた。
床にまで届くほど長い白金の美髪。
白磁のような肌と随所に見られる竜の鱗。
華奢な体を包む純白のドレスは、まるで誂えたように、エルザードが纏うそれと同一で。
よく見れば。
その美貌もまた、彼女のそれと瓜二つだった。
「……この迷宮には自己意思があるんじゃないかと、そう思える程度には悪辣だな」
エルザードの顔に宿った悲哀が、対面に立つ女の正体を物語っていた。
ダンジョン・コアが土地の記憶を読み取り、最奥の間の守護者として創り出した存在。
それは――
「こんな形で再会するとは思わなかったよ、母さん(、、、)」
悪辣。
彼女が今し方口にした単語が、これほど相応しい状況もあるまい。
かつて心から愛し、そして失った、己が命よりも尊き存在。
それを目前にしたエルザードの胸中は、いかなるものか。
「あ、あ、あ……ああああああ…………」
守護者の口から異音めいた声が漏れる。
その顔に表情はない。
娘との再会に対する感慨など、どこにもない。
当然だ。
アレはエルザードの母を模した、一体の魔物に過ぎないのだから。
彼女とて理解してはいるだろう。
だが、しかし。
「……アード・メテオール」
我が名を呼ぶ彼女の声はまさに。
芽生えし諦観を、表するものだった。
「……ボクには出来ない」
幻聴が耳に響く。
亀裂が走ったようなその音は、彼女の心の有様を伝えるもので。
されど敵方にとっては、いかなる心境も関係はなく。
守護者はただ、己が存在の役割を全うするのみだった。
「あ、あ、あ……ああああああああああああああああああああああッッ!」
けたたましい金切り声が放たれた次の瞬間、守護者の周囲に無数の魔法陣が顕現する。
幾何学模様の形状、黄金色に煌めく様相、全てがエルザードのそれと同一。
きっと彼女は幼い頃より、母から魔法の手ほどきを受けてきたのだろう。
無関係な俺でさえ感傷を覚えてしまう光景。
エルザードにとっては、特に堪えるものだったろう。
それを証明するかのように――
魔法陣から射出された膨大な光線が、我が身を貫かんと殺到してもなお、彼女は身動き一つ取れなかった。
「くッ……!」
体は動かずとも、心は別であったか。
生物としての防衛本能が働いたのだろう。俺が光線を躱す最中、エルザードは自らを覆うように、半球状の防壁を展開。迫り来る熱源の群れから我が身を守らんとする、が。
狂龍王の母は、伊達ではなかった。
エルザードが展開した防壁は、俺でさえ簡単には砕けぬほど頑強性を誇っている。
だが敵方の光線はそれを平然と打ち破り――エルザードの全身を貫いた。
「ぐぁッ……!」
小さな悲鳴を上げながら、エルザードが地面へと落ちた(、、、)。
数多の光線によって貫かれた彼女は、肉体の大半を喪失し、今や胴の一部と頭しか残されてはいない。
石造りの床に衝突し、鮮血を撒き散らすエルザード。
常人であれば絶命必至の状態だが……竜の不死性は尋常のそれではない。
失われた部位が急速に再生していく。
その頃には敵方の攻撃が一時的な終了を見せ、ほんの一瞬だけではあるが、思考の時間が訪れた。
……表面的には二対一の状況。我々の有利と見えるが、しかし実態は別物だ。
先刻の発言通り、エルザードは戦闘の続行が困難な状態にある。
言い方は悪いが……今の彼女は足手纏いでしかない。
ゆえに数的有利はこちらになんの益も与えることはなく、むしろ味方に気を配らねばならぬため、戦力のダウンに繋がってしまう。
「ここは短期決戦しかない、か」
《固有魔法》の発動。
最強の切り札を初手で使用し、一気呵成に決着を付ける。
もはやそれ以外に手立てはない。
俺は意を決して、《固有魔法》発動の詠唱を――――
「きぃいいいいいいいいいいいいいいいッッ!」
詠唱を紡ぎ出す、直前。
守護者の口から奇声が放たれた。
それは攻勢の第二波を告げる合図、ではなく。
こちらの想定を覆すような、最悪の事態を引き起こすための呼び声であった。
「これは……」
我が目前にて。
壁面と床、そして天井、空間を形成する六つの面に、巨大な魔法陣が浮かび上がる。
それがいかなる脅威をもたらすものなのか、俺は直感的に理解した。
「誓約の魔法と、因果率操作の合わせ技か……!」
特定の空間に干渉し、因果を書き換え、自分のルールを相手に押し付ける。
かような超高等魔法の使い手は極少数。
しかも、特殊な儀式を用いることもなく、こんな短時間で発動出来るとなれば……
魔法の才は、あのメフィストと同格やもしれぬ。
「なぜ、エルザードではなく、その母が守護者として選ばれたのか。それが頭の中で引っかかっていた」
敵方の魔法は既に発動済み。いまさら慌てたところでもう遅い。
俺は冷や汗を流しながらも平静を保ちつつ、現状を受け入れた。
「土地の記憶を基に生成される守護者は、その土地に存在した最強の個体を模したものとなる。即ち――」
母は強し。
それこそ、狂龍王よりも遙かに。
「きぃやぁああああああああああああああああああッッ!」
絶叫と共に、守護者が踏み込んでくる。
疾い。
気付いた頃には肉薄し、そして。
拳を繰り出してくる。
「チィッ……!」
紙一重のタイミングで回避。
そうしつつ、先刻妨害された詠唱を口にしようとするが。
「……ッ! やはり、か……!」
感覚がない。
《固有魔法》を用いようとする際に生ずる、あの独特の感覚が、我が内側より完全に消え失せている。
これは先程、守護者が発動した魔法によるものだろう。
エルザードの母は、《固有魔法》の封じ手を持っていたのだ。
いや、正確には。
「《固有魔法》だけでなく、異能まで……!」
五体を用いての攻勢を躱しながら、俺は苦悶を吐いた。
解析と支配(生まれ持った異能力)。それを究極の領域へと押し上げ、一つの技とした《固有魔法》。
今の俺は、その二つの発動権を奪われている。
翼をもがれた鳥は、きっとこんな気分になるのだろう。
「久方ぶりの、感覚だな……! まったく以て忌々しい……!」
実のところ、現状は初の体験というわけではない。
前世にて二回、俺は同じ状況に陥ったことがある。
それらを乗り越えたがゆえに、今の俺が在るわけだが……
しかしその経験は、現状を打破するためのヒントにはならない。
二度の窮地を脱することが出来た最大の要因は、背中を預け合うような味方が居てくれたからだ。
一度目はオリヴィア。二度目はリディア。
彼女等の存在がなかったら、俺はそこで終わっていただろう。
翻って。
過去と現在を比較してみると、そこには大きな差異があると言わざるを得なかった。
「う、ぐ……」
エルザードは今もなお再生の最中にある。
遅い。治癒の速度が、あまりにも。
それは彼女の意思を反映した結果であろう。
戦いに臨む気構えがない。
過去に屈服し、未来への希望を手放しつつある。
その姿が、俺にとっては――
「う、が、あぁああああああああああああああああッッ!」
思考の最中、守護者が吼えた。
それを皮切りに、繰り出される五体の速度が急上昇。
回避が、困難となった。
「ぬぅッ……!」
もはや目で追うことさえ不可能。
俺は歯を食いしばり、魔法を用いて全身の硬度を――
倍加した矢先、顔面に凄まじい衝撃が走った。
皮膚、骨、肉だけでなく、魂さえも打ち砕かんとする一撃。
浮遊感と同時に視界が暗転し、意識の喪失を自覚した頃には既に、我が全身は壁面へと叩き付けられていた。
「ただの、打撃ではない、な……!」
竜族には独自の魔法技術がある。
それを用いたのか。あるいはこちらの常識を覆す何かを持っているのか。
脳震盪を始めとしたダメージを回復すべく魔法を発動せんとするが、上手く術式を構築出来ない。
幸か不幸か、相手方は追撃をしてこなかったが……
代わりに、標的を変えたらしい。
「エル、ザード、さん……!」
再生が完了しつつある彼女へと、守護者が踏み込んだ。
「ひっ……!」
エルザードの口から小さな悲鳴が漏れる。
その様子はまさしく、怯えた子共のそれ。
狂龍王の威容など欠片も残ってはいなかった。
「母、さん……!」
縋るような声は、きっと奇跡を期待してのものだろう。
守護者に自己意思が芽生え、その形通りの存在へと変わる。そんなありえない未来を願うことしか、今の彼女には出来なかった。
しかし当然、そのような展開が訪れるはずもなく。
「きぃやぁああああああああああああああああああッッ!」
叫び声と共に、拳の一撃が放たれる。
脚を竦ませたエルザードが対処出来るものではない。
守護者は一切の躊躇いなく、彼女の鳩尾を貫いた。
「が、ぁ……!」
無意識のうちに防御の魔法を用いたか、守護者の拳はエルザードの腹部を貫通するには至らなかった。
しかし俺と同じように壁面へと吹き飛んで――
石造りのそれに衝突し、亀裂を走らせたと同時に。
「あああああああああああああッッ!」
負傷したエルザードを追撃せんと、守護者が地面を蹴った。
それは相手方を与し易しと捉えた、守護者としての本能によるものでしかなく、決して我が子への執着が原因ではない。
けれどもエルザードの瞳には、そのようにしか映ってはいなかったのだろう。
「どう、して……! 母、さん……!」
一方的であった。
されるがままであった。
鈍い音が、絶え間なく鳴り響く。
「う、うぅ……!」
頭を抱え、蹲り、暴力に耐える。
まるで無力な子共といった姿に、俺は哀れみを覚える一方で――
強い苛立ちを、感じていた。
「何を、しているの、ですか……!」
ようやっと先刻のダメージが抜け始めたか。
困難であった術式の構築が可能となるや否や、俺は自らの負傷を回復するよりも前に。
「《スピア・ライトニング》ッ!」
属性魔法の遠隔起動。
刹那、守護者の真横に魔法陣が現れ……雷撃が放たれる。
不意を打ったはずのそれは、しかし、掠ることさえなかった。
脊髄反射的な超反応によって、守護者は我が一撃を平然と回避。けれどもその動作は、
「織り込み済みだ……!」
先刻の返礼とばかりに、大攻勢を仕掛ける。
属性攻撃の雨あられ。
秒間にして千を超える、超高速連射。
激烈な暴力の嵐に呑まれ、相手方は否応なく防戦一方となった。
が、たとえ直撃を与えたとしても、有効なダメージを刻むことは出来まい。
早業を重視した場合、一撃の威力は低下する。
ゆえにこれはせいぜい、目くらまし程度の効果しかなかろう。
――だが、それでいい。
俺は魔法の高速連射を続行しつつ、自らの肉体を硬化させ、そして。
嵐の中へと、吶喊する。
完全なる自爆行為。
自らが生み出した、膨大な属性魔法が織り成す暴力の渦へと、俺はあえて踏み入った。
それは相手方にとって予想外の事態だったのだろう。
己が魔法によって傷付きながら急接近するこちらの姿に、守護者はなんの反応も出来す、
「――ご無礼」
握り締めた拳を、顔面へと叩き込む。
先刻の意趣返しを受け、吹っ飛んでいく守護者。
その姿を目にしながら、俺は息を吐いた。
「ようやくの直撃、だが……致命傷にはなるまい」
あまりにも硬すぎる。
《固有魔法》が使えぬ以上、守護者の肉体を断つことは不可能、か。
「奴を討ち取るには、やはり」
呟きつつ、属性攻撃を中断。
代わりに敵方の着地に合わせて、封印の魔法を発動。
守護者の周囲に幾何学模様が展開され……次の瞬間、その全身が煌めく球体に覆われた。
これで少しばかりの時は稼げるだろう。
俺は相手から視線を外し……エルザードへと目をやった。
蹲り、頭を抱え、全身を震わせている。
桁外れの治癒能力を有していても、心に負ったそれだけはいかんともしがたい。
俺はそんな彼女へと歩み寄ると、
「かつて一戦交えた時の記憶が蘇るような、酷い有様ですね、エルザードさん」
一拍の間を空けつつ、口元を嘲弄の形に歪め、
「当時も脳裏に浮かんだ感想、ですが――」
ゆっくりと顔を上げる彼女を、肉体的にも精神的にも見下しながら。
俺は、露悪的な言葉を投げ付けた。
「貴女はやはり、強い暴力を持っているだけの糞餓鬼だ。メンタルはお子様のまま、一切成長していない。数千年も生きたうえでそのザマとは。いやはや、私なら恥ずかしくて自害するでしょうねぇ」
エルザードの反応は、一瞬の瞠目と……激しい憤怒。
歯噛みし、こちらを睨む彼女の姿を前にして、俺は嘲弄を微笑へと変えた。
やはり効果覿面だな。
俺とエルザードは似た者同士だ。ゆえにこうした状況において、いかにすれば相手を立ち直らせることが出来るのか、誰よりも理解している。
「いい歳をして親離れも出来ていないとは。何が狂龍王ですか。幼稚王の間違いでは?」
優しさではなく、厳しさを。
愛ではなく、侮辱を。
即ち、エルザードが俺を立ち直らせたときに行った言動を、そのまま返してやればいい、
「ッッ……!」
こちらの意趣返しに、彼女は怒りのボルテージを上げていく。
その姿に微笑を深めながら、俺は口を開いた。
「困難に立ち向かおうとするとき、誰もが必ず抱く情念。それこそが怒りであると、私は考えています。この信条に当てはめて考えると……エルザードさん、貴女にはまだ、前進するだけの意欲が残されている」
先程、俺が見せた言動の真実を悟ったか、彼女は眉間に皺を寄せて、
「……やっぱりボクは、君のことが嫌いだよ」
吐き捨てたその言葉には、確かなエネルギーが宿っていた。
そんな彼女に向けて、俺は嘘偽りない心情を口にする。
「私は意外と、貴女のことを好きになれるかもしれません」
「は?」
何言ってんだ、気持ち悪い。
エルザードの表情が、そんな思いを物語っている。
けれども俺は、彼女に笑いかけたまま、
「争った際には微塵の可能性も感じなかった未来が、もしかしたなら訪れるかもしれない。友になどなれるはずがないと、勝手に思い込んでいたそれが、否定された瞬間……私の中で、前へと進む勇気が芽生えたのです」
エルザードという存在は俺にとって、イリーナを誘拐した狼藉者でしかなかった。
そんな相手と友好的な関係を築くことなど、想像も出来なかった。
だが……
「エルザードさん。貴女には怒りを覚えたこともありますが、憎しみを感じたことは一度もありません。むしろ、不思議な親近感があった。ゆえに心のどこかで、貴女との友好関係を望む自分も居たのです。……もっとも、当時は左様な未来が訪れることなど永劫にないと決めつけ、貴女との生活を夢想することさえしなかった」
けれど、今は違うのだと。
俺は目で訴えかけながら、言葉を紡ぎ続けた。
「私は、貴女と築く未来に強い興味があります。そして何より……貴女がイリーナさんを始めとする、多くの人々を相手にして、いかなる未来を築くのか。私はそれを見届けたいと心から願っています」
貴女自身も、ここで立ち止まる気など、さらさらないでしょう?
言葉の内に潜む問いかけに、エルザードは一瞬、唇を震わせ――
それから。
「……ボクが、友達一〇〇人欲しいと言ったら、君は笑うか?」
「いいえ。むしろ親近感が強まりますね。何せ私も、同じ夢を抱いておりますから」
「……イリーナとの間を」
「えぇ。取り持って差し上げましょう」
「……約束破ったら、殺すからな」
「どうぞご自由に。私は、いや、私達は決して、貴女を裏切りませんから」
そして俺は、少しばかり前、彼女がこちらへしてくれたように。
自らの手を、差し出した。
「私は貴女を立たせるだけでなく、親離れや友達作りの手伝いをもするつもりですが……そんな私に、何か言うことは?」
冗談めかした言葉を受けて。
エルザードは、こちらの顔をジッと見つめながら。
「ありがとう…………なんて、言うわけねぇだろ、ばぁ~か」
笑った。
それはかつて見せた、好戦的なものではなく。
純粋で、穏やかな、少女の笑顔だった。
そしてエルザードは、こちらの手を掴む。
弱気は完全に消し飛んだ。
繋がれた白い手から、前へ進もうとする力強い意思が伝わってくる。
「さて。共に参りましょうか、エルザードさん」
「……今回だけは、合わせてやるよ、アード・メテオール」
並び立ちながら、俺とエルザードは眼前の状況を見据えた。
守護者に掛けた封印の魔法。煌めく球体状のそれがヒビ割れ――
「う、が、あぁあああああああああああああああッ!」
封じられていた敵が、姿を現した。
「今の私に彼女の肉体を断つだけの力はない。しかし」
「……あぁ。それはボクの役割だ」
重々しい声を吐き出すと同時に。
エルザードは己が手元へ、一振りの剣を召喚した。
身の丈以上の刀身を有するそれは、竜の骨を削り出して製造されたもの。
その刃は触れた物体、概念、ことごとくを両断し、ただの一撃で以て敵を葬る。
エルザードが手にしたそれは、絶対的な硬度を有する守護者の肉体をも斬り裂くだろう。
……無論、彼女がその決断を下せなければ、出来ぬことだが。
しかし、俺の心に不安はない。
「来ますよ」
「言われなくてもわかってる」
互いに身構えながら、敵方を睥睨し、そして。
「ご、がぁああああああああああああああああッッ!」
放たれし極大の光線を、回避する。
守護者はコミュニケーションを行う能力こそないが、闘争に関する知能は極めて高い。
その頭脳が接近戦を拒んだのだろう。
飛び道具を以て、こちらを近づけさせぬよう立ち回っている。
「エルザードさん、私が道を拓きます」
「……あぁ」
目を合わせ、言外の意思を伝える。
凡庸な相手であれば読み取れぬほどの情報量だが、そこはさすが狂龍王といったところか。視線を交わせただけで彼女はこちらの意思を十全に把握したらしい。
後方へと下がり、エルザードは俺の出方を伺う。
形式的には一対一の状況へと変化。
守護者は待機中のエルザードを警戒しつつも、その攻勢をこちらへと集中させた。
「ぎぃいいいいいいいいいいいいいいッッ!」
光線の乱射。
馬鹿の一つ覚えではあるが、なかなかに厄介だ。
「回避と防御に集中せざるを得ない、か」
返礼を行う隙間さえ守護者は与えてくれなかった。
圧倒的な物量で以て、奴はこちらを押し潰さんとしている。
だが、それこそが皮肉にも。
エルザードを守護者のもとへ運ぶ、最大の要素となるのだ。
「もうあと七秒といったところだな……」
防壁を用いて光線を反射しつつ、俺はある場所へと目をやった。
それは……天井。
そこにはまるで設えたように、巨大な岩柱が垂れ下がっていて。
先程からずっと、俺は反射の魔法で以て、その根元へとさりげなく光線を飛ばし続けていた。
迷宮の内部は魔法によって頑強性を増しているものの、決して不壊ではない。
それを証するように、次の瞬間。
光線によって岩柱の根元が折れ――落下。
その先には、守護者が立っている。
「ッッッ!?」
頭上より襲来した突然の気配は、奴にとって予想だにしないものだったのだろう。
一瞬、目を見開き、意識がそちらへと逸れた。
そして必然的に。
攻勢が、停止する。
「後は任せましたよ、エルザードさん」
刹那。
我が背後にて控えていた彼女が、力強く踏み込んだ。
敵方の静止はおよそ一瞬にさえ満たぬものだったろう。しかしながら、神話に名を刻むほどの猛者にとっては十分に過ぎる。
守護者が落下する岩柱を粉砕し、再びの攻勢に出ようとした頃には、既に。
エルザードは敵の懐へと入っていた。
「るぅあッッ!」
裂帛の気合いと共に、竜骨剣が虚空の只中を奔る。
回避は不可能。
防御したとしても、かの刀身はその手段もろとも敵を両断するだろう。
勝利の二文字が脳裏に浮かぶ。
これにて決着――と、そう考えた次の瞬間。
「るがぁッッ!」
守護者が、吼えた。
目前にて迫る刃に対し、避けるでもなく、防ぐでもなく。
奴は、第三の選択を見せた。
――竜骨剣の召喚である。
「きぃあッッ!」
手元へ呼び寄せたそれを、守護者は猛然と繰り出した。
激烈な斬速。
それはエルザードが執った剣に倍する疾さで彼女のもとへと殺到し……
後出しにもかかわらず、その刃が狂龍王の胴を斬り裂いた。
おそらくは守護者にとって、ここまでが想定の範疇であったのだろう。
岩柱の襲来時に見せた吃驚は、こちらを油断させるためのフェイク。
果たして、奴は頼みの綱を切断し、勝利を自らのものにしたと――
そのように考えているのだろうが。
「それこそが、貴女の敗因ですよ」
宣言すると同時に。
守護者の眼前にて倒れ行く、二分割にされた亡骸が消失し、そして。
「もう、迷うことはない」
敵方の背後より、声が響く。
竜骨剣を構えたエルザードの声が、響く。
「ッッッ!?」
守護者の吃驚は、今度こそ真実のそれであろう。
ここに至り、奴はようやっと気付いたのだ。
自分が一手、読み負けたということを。
俺は守護者の策略を看破していた。
岩柱の落下と、それに伴うエルザードの接近は、ある現実(、、、、)を証明するための過程に過ぎない。
守護者が気を逸らした瞬間、俺はエルザードの分身を創り、本物には隠匿の魔法を掛けて、敵方の背後へと回らせた。
そして、守護者が分身を両断し、勝利を確信したことで。
証明が、完了したのだ。
即ち――
「お前は母さんじゃない」
もしも仮に、守護者が完全なる複製であったなら。
その肉体のみならず、心さえも同一であるというのなら。
きっと分身を斬ったそのとき、違和感を覚えていただろう。
我が子がこの程度で終わるはずはないと、そのように考え、警戒心を抱いたろう。
だが奴は、そうしなかった。
それこそが確証である。
所詮、奴は心なき器。
技と頭脳を複製しただけの人形に過ぎぬ。
であれば。
これを砕くのに、躊躇いは不要。
「ギッ――」
「遅い」
振り向き、剣を繰り出すよりも前に。
エルザードの手によって、決着が付けられた。
迷いなき刃が狙い過つことなく守護者の首を捉え――切断。
微塵の苦痛も与えることなく葬ったのは、彼女の内心にある愛ゆえか。
たとえ無心の器といえども、母と同一の形を持ったそれを苦悶させたくはなかったのだろう。
――ともあれ。
「お見事です、エルザードさん」
拍手と共に、俺は彼女の勝利と進歩を祝福した。
「…………ふん」
そっぽを向くエルザード。
冷めた態度だが、その頬は僅かに赤らんでいて、
「……今回は、君が居なかったら、もっと苦戦していたかもしれない」
小さく、か細い声で、ぶつぶつと呟く。
そうして彼女は、
「だから、その……………………………………感謝してなくも、ない」
ほとんど聞き取れないほどの音量だが、こちらの耳には十分届いている。
エルザードもまたそれはわかっていよう。だからこそ彼女は唇を噛んで、恥じらうように顔を俯けていた。
そんな狂龍王の姿に、俺は苦笑を浮かべながら、
「貴女には素直さが足りませんねぇ」
「……は?」
「お礼の言葉を述べる際は、朗らかな顔を作り、相手の目を見つめつつ、大きな声で。以上の三点を意識しつつ、もう一度やってみましょうか」
「……調子に乗ってんじゃねぇぞ、糞虫が。このボクが人間風情に礼なんか口にするのは」
「素直でない者を、イリーナさんが好むとは思えませんが」
「っ……!」
「さらに言わせていただきますと。貴女は見目麗しい反面、性格は不細工です。それを直しませんと、友達一〇〇人など、とてもとても」
「っっ…………!」
ぐぬぬぬぬ、と唸り声を漏らし、こちらを睨むエルザード。
凡人であれば失神してもおかしくないほどの殺気だが、俺には通じない。
「気に食わぬ相手に殺気を飛ばすのも禁止です。むしろそういった手合いにこそ慈愛を向けるような度量を――」
「うっさい馬鹿! 誰がお前の言うことなんか聞くか馬鹿!」
顔を真っ赤にして怒鳴る彼女に、俺は嘆息を返した。
まぁ、今は緊急時だ。エルザードの人格矯正は、これを乗り越えた後でもよかろう。
「……ともあれ。守護者も仕留めたことですし、件のアイテムを」
回収しようと提案する、直前。
「《来たれ》《終焉》」
短い詠唱が、なんの脈絡もなく響き――
ほとんど無意識のうちに、俺とエルザードは飛び退っていた。
そして数瞬後。
今し方まで俺達が立っていた場所を、漆黒の炎(、、、、)が通過する。
「……見た顔だねぇ」
どこか忌々しげな調子で吐き出された、エルザードの言葉。
果たして奴の耳には、それが入っているのだろうか。
「終わらせに来た。お前達の抵抗を。お前達の、命運を」
虚ろな瞳でそう宣言してみせたのは。
かつての我が配下であると同時に、宿敵でもあった、あの男。
――アルヴァート・エグゼクスが、我々の眼前に立ち塞がっていた。