第一〇八話 イリーナ・オールハイド、夜明けの戦場へ立つ
アード・メテオールと、アルヴァート・エグゼクス。
二人にとってそれは、あまりにも想定外の出来事だったのだろう。
己が身から飛び出てきた少女……イリーナに対し、アルヴァートは目を見開いて、驚愕の表情を晒している。
アードもまた似たような状態にあった。
彼は白剣を振り上げた体勢のまま、ぽかんと口を開いて、微動だにしない。
――そんな親友の体へと、飛び出た勢いのままに、イリーナは抱きついた。
再会を祝したハグ……というわけではない。これは二人を引き離すための処置であった。
「っ!?」
純白のドレスにも似た装束を纏うアード。別人も同然に変異した華奢な体が、イリーナ共々、遠方へと舞い飛んでいく。
やがて彼女はアードを抱いたまま、二人揃って雪面へと衝突。
それから彼の体を手放し、やや距離を置いて、その姿を見る。
「イ、イリーナ、さん……?」
未だ状況が把握し切れていないのか、当惑した様子のアード。
一方で、イリーナもまた、僅かながらも心が揺れていた。
(あぁ、やっぱり、そうなんだ)
(アードは、《魔王》様の転生体)
(嘘じゃ、なかったんだ)
彼の容姿は今、見知ったものとは別のそれへと変わっていた。
なにゆえかは知らない。とにかく重要なのは……その外見が、かつて古代世界に飛ばされた際に見た、《魔王》・ヴァルヴァトスのそれと同一であるということ。
情報は事前に得ていたし、納得もしていた。けれどもそこに強い実感が加わると、少しばかり複雑な思いが生まれる。
とはいえ。
そんな感情に重きを置くつもりはない。
アードはアードだ。この考えが変化することはない。だからイリーナは一息吐いて、
「ごめんね、アード。心配かけさせちゃって」
いつも通りの笑顔。いつも通りの声音。緊張も畏怖もない。目前で片膝をついている《魔王》に、むしろ、イリーナはどこか郷愁にも似た何かを感じていた。
「ゆっくりお喋りしたいところだけど……その前に、やるべきことを片付けないとね」
呟きつつ、イリーナは別の方向へと目をやった。アルヴァート・エグゼクス。先刻まで満身創痍だった肉体が今や完全に回復し、立ち上がった状態でこちらを見ている。
その美貌には強い困惑が浮かび上がっていた。
「なぜだ……どうして、こんな……」
融合状態からの分離。なにゆえそれが成されたか。アルヴァートの心を乱している原因は、そんな強い疑問であろう。
イリーナは彼の視線を堂々と受け止めながら、その答えを口にする。
「あそこから出たい。そう強く願ったら……なんか、出られちゃった」
ともすれば、ふざけているのかと思われかねない言葉。
これにアードはやや困惑気味に首を傾げたが……
一方で、アルヴァートは全ての事情に精通しているのだろう。
彼は自らの中で、納得のいく答えを見出したらしい。
「……そうだった。アレは、奴(、)の血を引いているんだった。だから、その力も受け継いでいて……しかし、これほど強く成長しているとは、思ってもみなかった……」
次第に落ち着きを取り戻していくアルヴァート。彼は静かに深呼吸を繰り返し、
「……確かに、想定外ではある。が、どうということはない。観客が一人現れた。それだけのことだ。気にするようなことじゃない」
彼にとってイリーナは、路傍に転がる石ころのようなものだった。アードに自分を殺してもらうための人質として誘拐したわけだが、もはやその役割は果たし終わっている。
であれば、己の内側から分離しようとも、なんら問題はないのだ。
イリーナ・オールハイドは所詮、現代生まれの脆弱な少女に過ぎないのだから。
徹底して蚊帳の外へ置けばよい。
……そんな思考を、イリーナは鋭く読み取っていた。
「観客? えぇ、そうね。これまではそうだった。それでもいいと思ってた。アードの影に隠れて、アードの活躍を見守って、最後に皆と一緒に笑う。そんな役回りでいいって、そう思ってたわ。でも――――今回は違う」
彼女は胸を張って、宣言する。
アルヴァートへ。そして、アードへ。
なんら臆することなく、己が意思を叩き付けた。
「あんたが起こした馬鹿騒ぎに決着を付けるのは、アードじゃない。このあたし、イリーナ・オールハイドが正しい結末へと導く。誰にも文句は言わせない。絶対に」
果たして、両者の反応は――
ぽかん。そんな擬音が聞こえてきそうな顔で、イリーナを見つめるのみだった。
されど、その視線が、彼等の心境を雄弁に物語っている。
“何を言っているんだ? こいつは”
アルヴァートはもとより、親しい間柄のアードでさえ……いや、親しいからこそ、か。
二人からしてみれば、イリーナは物語におけるヒロインであって主人公ではない。
助けを待つ姫君になることは出来ても、決して、救済者たる騎士になることなど出来はしないのだと。両者共にそう考えているのだろう。
二人の視線と、次の言葉が、その証であった。
「……君ごときに、何が出来るっていうんだ?」
「……イリーナさん、この場はまさに死地も同然。どうかここは、お下がりください」
引っ込んでいろ、と。場違いな人間が関わってくるな、と。
二人は暗に、そう述べている。
これに対するイリーナの返答は、実に短く、極めて明快なものだった。
「あたしを舐めるな」
そして彼女は、己が意思を行動にて表現する。
二人の視線を受け止めながら、雪雲に覆われし天空へと手を伸ばし――
「来なさいッ! ヴァルト=ガリギュラスッ!」
そのとき、振り上げたイリーナの手元にて、稲妻が走った。
大気が震撼し、虚空が鳴動する。
三大聖剣が一、ヴァルト=ガリギュラス。使い手の呼びかけに応え、ここに参上。
“やっちゃえ、イリーナ”
握り締めた柄から、そんな、剣の意思を感じる。
――えぇ、やってやるわよ。
我が心に一片の曇りなし。彼女は粛然と口を開き、詠唱の文言を放った。
「《アルステラ(煌めけ魂)》ッ! 《フォトブリス(我、聖なる光となりて)》……《テネブリック(闇を打ち払わん)》ッ!」
威風堂々たる声が大気を震わせ、そして次の瞬間、イリーナの全身が白銀色の煌めきに覆われた。やがてそれは鎧の形を作り……物質化。果たして、荘厳なる銀甲冑に身を包んだ彼女は、敵方の姿を睥睨し、
「あたしに勝てたなら、後は好きにすればいい。けれど負けたなら……くだらない自殺願望を捨ててもらう」
これにアルヴァートは顔を顰めて、どこか苛立ったような調子で受け応えた。
「お転婆もいい加減にしろよ、イリーナ・オールハイド。聖剣を手にしたところで――」
何かが出来るわけもない、と。そう言いたかったのだろうが。
聞いてやる道理など、どこにもない。
敵方が言葉を紡ぐ最中、イリーナは激烈な踏み込みを見せた。
これに対しアルヴァートはなんの反応も出来ず――
袈裟懸け一閃。左の肩から脇腹にかけて、その胴体に斜めの斬痕が刻まれた。
「ッッ!?」
驚嘆の声を発したのは、アルヴァートだけではない。
アードもまた、愕然とした顔で口を開いていた。
そんな二人へイリーナは改めて宣言する。
「――あたしを、舐めるな」
放たれし凄みにアルヴァートは瞠目し、数瞬後、弾かれたように後方へ跳んだ。
間合いを空ける。それは即ち、対面の少女を脅威として認定した証に他ならない。
「イ、イリーナさん……!」
今の彼女が貧弱な少女でないことは、アードとて感じ取っていよう。だがそれでも、保護者としての自覚がそうさせるのか、彼はイリーナを引き止めるべく、一歩を踏み出した。
が――どうやら、これまでの戦闘を経て蓄積された疲弊は、アードの自己認識を超えるほどのものとなっていたらしい。
二歩目を踏み出すよりも前に、彼は両膝を折り、地面へと崩れ落ちた。
「っ……!」
訪れた限界に顔を顰めさせながらも、なんとか立ち上がろうとするアード。
しかし、体は彼の意思に応えることなく……その姿が、平常時のそれへと戻る。
「くっ……! こんな、ときに……!」
己の不甲斐なさを恥じ入るような声音。
背後にて発露したそれへ、イリーナは対面の敵方を見据えつつ、
「ねぇ、アード。あたしね、これまでずっと、アードのすることは全部正しいって考えてた。そこに疑問を挟む余地なんかないって、そう信じてた。でも……今回だけは、言わせてもらうわ」
前置いてからすぐ、彼女は次の言葉を放った。
「アードは今、間違った道を歩いてる。だから、あたしが正さなきゃいけない」
それが自分の使命であり、誰がなんと言おうとも実行すべき事柄である、と。
そう述べてから、イリーナは肩越しにアードの顔を見やり、穏やかに微笑みながら、
「後は全部、あたしに任せときなさい」
一言。揺らぐ事なき意思を短い言葉に集約させて。イリーナは再び、敵の姿を睨んだ。
「さぁ。どっからでもかかってらっしゃい」
「……勝てるとでも、思ってるのか?」
両者共に、聖剣の柄を握り締めながら、
「ご託並べてないで、さっさと来なさいよ。泣き虫の坊や」
「粋がるなよ、現代生まれの三下風情が……!」
言葉を出し合い、そして――
激突する。
「邪魔をするなら、容赦はしないッッ!」
「あたしのゲンコツは痛いわよ、アルヴァート・エグゼクスッッ!」
果たして。
真なる最終決戦が今、猛烈な始まりを告げたのだった――
◇◆◇
……これほどの狼狽は、いつ以来であろうか。
あまりにも衝撃が大きすぎて、頭の中が周囲の白雪の如く真っ白になっている。
“アードは今、間違った道を歩いてる”
我が選択を否定する言葉。それが彼女の口から放たれたことなど、今まで一度さえなかった。そんな現実に心が乱れ、思考が停止し……気付けば既に、始まりを迎えていた。
「邪魔をするなら、容赦はしないッッ!」
「あたしのゲンコツは痛いわよ、アルヴァート・エグゼクスッッ!」
戦闘意思を放つと同時に、両者は一気呵成に踏み込んだ。
刹那、互いが互いを刃圏の只中に捉え、躊躇うことなく、握り締めた得物を繰り出す。
聖剣・ヴァルト=ガリギュラス。
聖剣・ディルガ=ゼルヴァディス。
三大聖剣に数えられし二振りが邂逅を果たし、大輪の火花を咲かせ、突風を生む。
四天王最強に対し、五分の剣戟を見せるイリーナ。
――それを前にして。
強烈な危機感が、我が胸中の狼狽を彼方へと消し飛ばし、新たな焦燥をもたらした。
「や、め……!」
早急に止めねば、イリーナが死ぬ。相手が只の一線級なら続けさせてもよい。だが、アルヴァートはダメだ。現代生まれの彼女が、古代を代表とする強者に敵うわけがない。
「く、う……!」
止めねば。止めねば。止めねば。
そんな思いだけが先行し、肉体が追いついてこない。
勇魔合身・最終形態を発動したことによる代償は、あまりにも大きかった。
指を動かすことさえ難しい。そんな俺を捨て置いて、状況は今もなお進展を見せている。
「なまっちょろいのよ、あんたはッ!」
「小娘がッ! 調子に乗るんじゃないッ!」
めまぐるしい剣戟を繰り広げる両者。
衝突音が轟き、火花が舞い飛び、闘争の余波が周囲の白雪を吹き飛ばす。
未だ以て、状況は五分と五分。
これに苛立ちを覚えたか、冷ややかだったアルヴァートの顔に、熱が帯び始めた。
「いい加減に、しろぉッ!」
剣の振りようが荒々しいものへと変わっていく。それは迫力こそ一級品だが……
あまりにも、隙だらけだった。
ゆえに。
「ふんッッ!」
殴打。アルヴァートの大振りをスルリと回避し、攻撃後の隙を見計らって、右の拳を顔面へと打ち込む。固く握られたそれが、奴の美貌を歪ませ……遙か遠方へとブッ飛ばした。
「ぐッ……! この、クソガキがぁッ!」
鼻血を大量に噴き出しながら、怒鳴り込んで、踏み込む。……らしくない。あまりにも、らしくない。頭に血が上った様子で、荒々しく剣を執る。その様はまるで、子供の喧嘩だ。
「おか、しい……」
熱量に振り回されている。そんなアルヴァートの姿が反面教師となったのか。俺は先刻まで抱えていた焦燥感と、それがもたらしていた心の熱を失い……
果たして。我が瞳はようやっと、真実を映し出すようになった。
「なぜだッ……! なぜだ、なぜだ、なぜだ、なぜだッ……! なぜ、僕がこんな……!」
先ほどから、一方的な展開が続いている。
荒い剣を執るアルヴァートに、イリーナが軽快な身のこなしを見せ……
「おらぁッ!」
ブン殴る。
頭蓋が軋むほどの打撃をモロに浴びて、宙を舞うアルヴァート。
着地し、足をもつれさせつつも、奴はイリーナを睨み、
「く、そ、がぁああああああああああああッッ!」
怒気を放って、馬鹿の一つ覚えも同然に踏み込んでいく。
紅く染まった美貌は、鼻血だけが原因ではなかろう。
そしてまた、奴は隙を突かれて、ブッ飛ばされた。
……おかしい。あまりにも異常だ。
冷静に考えてみれば、こんな状況には決してなりえない。
何せ奴が有する聖剣・ディルガ=ゼルヴァディスは、近接戦闘における最強をもたらすもの。七種ある権能が一、剛武超越は確実に発動しているだろう。にもかかわらず、なぜ、アルヴァートはイリーナに打ち負けるのか。
……同じ疑問を、過去に抱いた覚えがある。前世にて、まだアルヴァートが狂気の仮面を被る前のこと。あれは確か、奴と四度目の対決を迎えた、矢先の出来事だった。
突如としてリディアが乱入し……
一方的にアルヴァートを殴り倒して、完全なる敗北へと追い込んだ。
それまで三度、俺はアルヴァートに負けることはなかったが、逆に、勝つこともなかった。人剣一体の神技はこの俺でさえ手をこまねくほどの力。ゆえに決着が付かぬまま、両者のいずれかが身を退くという展開が続いていたのだ。
俺がそのザマだったというのに、なぜ、リディアはあぁもアッサリと勝てたのか。
当人に確認してみたところ、こんな答えが返ってきた。
“あんなクソガキとはな、気合いが違うんだよ、気合いが”
わかるように言え、馬鹿。
当時はそんなことを思ったが……ややあって、その言葉の真実が判然とした。
リディアはメフィストの娘であり、奴の力を受け継いでいる。即ち……思いの力によってあらゆる願望を叶えるという、反則極まりない力を、彼女もまた有していたのだ。
それを無意識のうちに用いていたのだろう。
リディアは何か、アルヴァートに思うところがあったようで、奴にだけは負けられんと考えていたらしい。その思いに応える形で《邪神》の力が発動し、相手の力を完封したのだと、俺はそのように理解している。
よって――――
「ぬぅ、あああああああああああああああああッッ!」
イリーナがアルヴァートに対して一方的な展開を見せている、この状況。
なにゆえか説明するとしたなら。
「リディアの力を、持っているというのか……!?」
……確かに、イリーナの一族は《邪神》の血を引いてはいるが、しかし、そんな。
……いや、こうなればもう、目前の真実を受け入れるしかあるまい。
あの姿は。イリーナの、あの姿は。
「ブッ飛べ、おらぁッ!」
在りし日のリディアと、瓜二つだった。
……初対面の頃から、俺はイリーナに彼女の面影を見たものだが、今はより一層、その影が明瞭に映る。
だから、か。
“アードは今、間違った道を歩いてる”
ついさっき出された否定の言葉を、俺は今、好意的なものとして受け止めていた。
「自分が正す、か……」
それはかつて、俺が誰かに言ってほしかった言葉だった。
リディアを失ってからずっと、俺は間違った道を取り続け……
最後まで、進み続けてしまった。
そんな道程の最中、俺は常に、自分を止める者を求めていた。
自分を正してくれる者を求めていた。
そう……かつてのリディアのように、俺の隣に立って、俺が間違いを犯したなら殴ってでも止めてくれる相手を、求め続けていた。
古代において、出会うことは終ぞなかったが……数千年後の未来にて、俺はようやっと、それに巡り会えたのか。
「……思えば、大事な局面で正しい答えを出したことなど、一度さえもなかったな。であれば、この大一番において俺が選んだ道も、イリーナ、お前が言う通り、誤ったものだったのだろう」
俺には彼女が見出したであろう正道が、まるで見えない。
だが、そうだからこそ。
イリーナは、この俺と肩を並べて立つ、真の親友なのだ。
ゆえにもはや、先刻までの老婆心や不安など消え失せて。
俺は、目前の状況を最後まで見守るという決意を、固めたのだった。
「……後は任せたぞ、イリーナ」
◇◆◇
なぜ、こんなことになっているのか。
己の頭蓋が軋む音を耳にしながら、アルヴァートは苛立ちを噛みしめた。
顔面を殴打され、宙を舞う。
これで四七回目だ。始まってから今に至るまで、アルヴァートは一方的に殴られていた。
「く、そぉ……!」
雪面に着地し、降り注ぐ白の向こう側に立つ少女を睨む。イリーナ・オールハイド。銀甲冑を纏い、聖剣を携え、こちらを見据えるその立ち姿は、まるであの女のようであった。
「リディア・ビギンズゲート……!」
アルヴァートの永き生涯において、唯一、打ちのめすことが叶わなかった相手。
眼前の少女と奴の姿が、ダブって見える。
「忌々しい……! 忌々しい、忌々しい、忌々しい……!」
不愉快だった。気にくわなかった。
あの目だ。あの目が、心の底から嫌いだった。
見下すわけでもなく、憎悪するわけでもなく、慈愛を向けるわけでもない。
こちらの全てを見通し、理解し、ただ真っ直ぐに見据える、あの目が。
アルヴァートの心を、熱くさせるのだ。
「そんな目で、僕を見るなぁッ!」
らしくない。あまりにも、らしくない。そう自覚しつつも、改めることは出来なかった。
踏み込む。もはやそれは戦士の動作ではない。泣きべそを掻きながら腕を振り回す、小僧のそれだ。そんな彼に反して、イリーナは落ち着いた立ち回りを見せ――
「どらぁッ!」
好機を掴む、その一瞬のみ、爆発的な激情を放つ。
果たしてアルヴァートは四八回目の殴打を貰い、空中にて弧を描いた。
浮遊感を覚えながら、再び彼は思う。
どうして、こんなことになっているのか、と。
しかし、自問に対する答えは出てくる気配がない。
着地し、それから、繰り返す。
何度も何度も、同じ状況を、繰り返す。
怒気に任せて踏み込み、接近戦を展開し……ブン殴られて、宙を舞う。
「なぜだッ……! なぜ、こんなッ……!」
手心など加えてはいない。正真正銘、全力全開でぶつかっている。
《固有魔法》による必殺の黒炎。
究極の聖剣がもたらす絶大な力。
それらを接近戦の最中に絡め、本気の殺意と共に臨んでいるというのに。
ことごとくが無力化され、殴打を浴びて、ブッ飛ばされる。
全ては、奴の血筋によるもの。メフィスト=ユー=フェゴールを祖として、脈々と受け継がれて来た、規格外の異能力。
それはまさしく神の力であった。
いかにアルヴァートが絶大であろうとも、被造物に過ぎぬ者が、神の力に敵うはずがない。……そのような運命を突きつけてくるのも、きっと一つの要因であろう。
秒を刻む毎に、白熱した感情が心を支配していく。
その反面。
「ふぅ。ちょっぴりだけど、気が済んだって感じね」
握り固めていた拳を解いて、イリーナは息を唸らせた。
アルヴァートの熱量が増幅する一方で、イリーナの激情は段々と静かなものへ変わっていく。されど全身から醸し出される威圧感と凄みは、天井知らずの高まりを見せていた。
古代を代表とする最強格が、現代生まれの脆弱な少女に威圧されるという異常。
それをイリーナは特別視するようなこともなく、落ち着いた様子で言葉を紡ぎ出した。
「甘ったれたクソガキ。リディア様にそう言われてから、もう何千年も経ってるっていうのに、あんたはまったく変わってないわね。そんなだから一方的にやられるのよ」
呆れ果てた顔と、嘆息。そんな態度が憎たらしくて仕方なかった。
しかし、それでもまだ、限界点のギリギリで踏みとどまることは出来ている。
尊厳をかなぐり捨てるほどの状態にはならない。
……そんな、最後の砦が、次の瞬間。
「ちょっとウジついてるだけなら、助けてあげたいとも思うけれど。あんたは度が過ぎてるから、むしろムカつくのよね。何千年もウジウジウジウジと、腐った性根のまんま生き続けて、皆に迷惑かけまくったうえ、身近な人の気持ちにも気付かないで」
次の瞬間、イリーナの言葉が、何もかもを破壊した。
「たかだかママが死んだってだけで、自暴自棄になってんじゃないわよ」
バキリ。
そんな音を、アルヴァートは確かに聞いた。
それは崩落の音。
最後の一線であり、一欠片の冷静さを保つ、なけなしのそれが、壊れた音だった。
「………………し……やる……」
人としての尊厳を保つためのそれは、もはやなく。
ゆえにアルヴァートの理性は完全に崩壊し。
人から獣へと、堕落した。
「こぉおおおおろぉしてやぁるぅうううううぁああああああああああああああッッッ!」
灼熱が心身を焦がす。その熱量が湯気のように全身から放たれ、周囲の雪を溶かし――
「ああああああああああああああああああああああああッッッ!」
雄叫びをあげて突っ込んでいく。
全ての行動は、脊髄反射的なものだった。まともな思考など望むべくもない。まるで幼少期の頃へ戻ったように、アルヴァートは獣の如く暴れ狂った。
「きぃいいいいいぁああああああああああああああああッッ!」
奇声を発して刃を振り回す。そこに理合いはない。知性なき純粋な暴力であった。
その狂乱ぶりは今までにない圧力を生んではいるが……剣の振りようは最悪なまでに大雑把で、能力を絡めての戦術的な行動もない。
イリーナからしてみれば、今のアルヴァートは泣き喚く幼子も同然であろう。
ゆえに彼女は微塵も臆することなく、
「情けない男ね。あんたって奴は」
冷めた顔で易々と暴威を避け、握り固めた拳をアルヴァートの胴体へと叩き込む。
「ぐはっ……!」
身動きを止める。が、それも一瞬のこと。彼はすぐさま狂乱を再開し、叫んだ。
「何も知らないくせにッ……! よくも言ってくれたなぁッッ!」
たかだか母親が死んだぐらいで。
その言葉は決して、許せるものではなかった。
アルヴァートにとってリュミナスは人生の全てであり、唯一無二のよすが。
これを失った苦痛が、お前なんかにわかるものか。
……そんな情念に、イリーナは平然とした顔のまま、言葉を送る。
「何も知らない? いいえ、むしろ完全に知り尽くしてるわ。あんたの怒りも、あんたの悲しみも、全部全部、知り尽くしたうえで、言わせてもらう」
静かな激情を、拳に込めて。
イリーナは言葉と同時に、それを放つ。
「リディア様がおっしゃった通り、あんたは甘ったれたクソガキなのよ、アルヴァート」
顔面を殴打。しかし、今回は踏みとどまった。宙を舞うことなく、地に足を着けたままアルヴァートは剣を振るう。されど、それは全て空転し、
「ママが人生の全て。それはあんたに限った話じゃない。探せばいくらでも居るわ、そんな人。子供の頃のあたしだってそうだった。あの人の存在だけが、唯一の救いだった」
《邪神》の血を引く、真の王族。そんな宿命を背負う者が、すくすくと真っ当に育つはずもない。決して正体を明かすことなく、末端の貴族として生きねばならぬという人生が、どれほどの苦痛と孤独をもたらすのか。それはおよそ、何者も理解出来ぬ感慨であろう。
「他人が全て、敵に見えた。どれだけ仲良くなっても、あたしの正体を知ったなら掌を返す。そんな確信があったから。だから、あたしが心を開けた相手は、家族だけだった」
当時、父・ヴァイスは貴族としての仕事と、真なる王族としての責務に忙殺され、イリーナと顔を合わせることはほとんどなかった。
けれども母が傍に居てくれたから、寂しくはなかった。
その頃のイリーナにとって、母は人間関係の全てであり、彼女の隣こそが、この世で唯一の居場所だった。
「この人が居てくれれば大丈夫。この人さえ居てくれれば、他にはなにも要らない。心の底からそう思ってた。でも…………親っていうのはね、いつか子供の前から姿を消してしまうものよ。あたしのママも、例外じゃなかった」
母は時たま、父と揃って家を出ることがある。その日も、そうだった。イリーナは広々とした屋敷で独り、留守番をして、母の帰りを待っていた。しかし……
屋敷へ戻ったのは、父・ヴァイスのみ。
それからずっと、母は帰ってこなかった。
代わりに、今まで自分の傍に居ることのなかった父が、身近な存在となった。
まるで母の代わりを務めるかのように。
そんな父へイリーナは何度も聞いた。
ママはどうしたの? いつ帰ってくるの?
父は何も答えてはくれなかった。
「……幼心に理解したわ。ママはもう、帰って来ないんだ、って」
結論付けてすぐ、心に襲来した悲嘆と絶望は、筆舌に尽くしがたいもので。
「消えてしまいたいと思った。心の底から」
その言葉を放ってからすぐ。
剣と剣とが衝突し、鍔迫り合いの形となって、両者は視線を交わした。
そんな状態を維持しながら、イリーナは再び口を開く。
「ママが居ない世界で、生きていけるわけがない。ママが居ない世界なんて、生きる価値がない。だから……死のうとしたわ。ナイフで自分の首を刺して、ね。でも、その直前で、止められた。…………パパがあんな顔をしたのは、初めてだった」
自害しようと進む手を、父に止められて。
イリーナは泣きじゃくりながら暴れ狂った。そう、今のアルヴァートのように。
「死なせてと叫ぶあたしを、パパは抱きしめて、涙を流しながら言ったわ。もう僕には君しか居ないんだって。……そんなの知ったことじゃないって思う反面、この人を残していいのかって気持ちも、あった」
そのときの父はきっと、自分を映す鏡のような存在だったのだろう。
最愛の母は、同時に、彼にとっての最愛の妻でもある。そんな人を失ってもなお、生きなければならなかった。本当はイリーナのように消えてしまいたかったはずなのに。残された我が子のため、生きることを選んだのだ。そんな父の姿が、あまりにも哀れで……
「だから、死ぬことを諦めた。あたしがそうしたなら、残った人が悲しむから。その人のために悲しみを乗り越えて、生きなくちゃって、そう思った」
鍔迫り合いながら、イリーナは言う。
アルヴァートの目を、ジッと見つめながら、
「あんたにだって、居るでしょうが。残されてしまう人が。あんたが居なくなることで、悲しみを抱える人が」
この言葉に、彼は絞り出すような声で以て、応答する。
「そんな奴……! この世のどこにも、居るものか……!」
迷いなく放たれたそれへ、イリーナは心から嘆息し、
「――――そういうところ、本当に嫌い」
果たしてこれは、彼女自身が紡いだ言葉であったろうか。
否。これはイリーナの言葉ではない。イリーナが、彼女(、、)の心を代弁する形で放ったもの。
そう――
「カルミアのことを、どうして、思ってあげないの」
彼女の悲嘆を、彼女の慟哭を、彼女の痛みを。
イリーナは本人に代わって、アルヴァートへと叩き付けた。
「今、あんたが握ってるその子は、あんたにとってなんなの? 形通りの道具? 都合のいい戦力? なんら価値のない無機物? ……答えなさい、アルヴァート・エグゼクス。あんたは、カルミアのことを、どう思ってるの?」
剣に込められし圧。
増していく凄み。
それは激情に支配されていたアルヴァートを正気に戻し、畏怖の念を覚えさせるほどの熱量を秘めていて。
ゆえに彼は冷や汗を流しながら、一歩、後ろへ引いた。
そんな彼を責めるように、イリーナは圧を強めながら、同じ問いを口にする。
「あんたは、カルミアのことを、どう思ってるの?」
気付けば、全身が震え始めていた。
なぜかはわからない。相手に気圧されたのか。それとも、別の理由か。
アルヴァートは戦慄きながら、膨大な汗を掻いて、無言のままイリーナの顔を見つめ返すことしか出来なかった。
そんな反応に業を煮やしたか。これまで静かだったイリーナが、怒気を爆裂させた。
「どうしてそこでッ! 何も言えないのよッ! あんたはぁッッ!」
剣圧が尋常ならぬ高まりを見せ、気付けば、体勢が崩されていて。
七〇回目の殴打が、アルヴァートの顔面を凹ませた。
宙を舞い、ややあって、雪面に衝突。それからすぐ、イリーナは手にしていた聖剣を投げ捨て、アルヴァートのもとへ駆け寄り、その胸倉を掴んだ。
「思い出しなさいよッ! カルミアとの日々をッ! あの子が見せた顔をッ! それはあんたにとって、どうでもいい記憶なのッ!?」
剣幕に圧され、促されるままに、アルヴァートは過去を思い返した。
カルミア。カルミア。カルミア。
彼女と初めて会ったときに感じたものは、決して良好なそれではなかった。
酷く、気にくわない女。そんな印象だけがあり、それは時と共に悪化の一途を辿ったが……しかし、うんざりしつつも、居なくなればいいだなんて思ったことは、一度もない。
「あんたの隣に一番長く居たのは誰ッ!? あんたと一番長く会話したのはッ!? 一番長く一緒に戦ったのはッ!? 一番長く、思いを共有したのはッ!? どこの誰か、言ってみなさいよッッ!」
カルミアだ。
彼女は、まさにそれだ。
文句を言いつつも、いつだって力を貸してくれた。
憎まれ口を叩きながらも、いつだって傍に居てくれた。
そう、彼女だけは。
彼女だけは決して、自分のもとから離れることは、なかった。
「あんたが本当に独りぼっちだったなら、アードの選択は間違いじゃない。死ぬことでしか救われない相手に、それを与えることが、間違ってるとは思わない。でも――」
胸倉を掴んだ手に、一際強い力を込めながら、イリーナは言葉を重ねていく。
「あんたにはカルミアが居る。あんたは独りじゃない。なのにもし、あんたが死んじゃったなら、カルミアはどうなるの? 残されたあの子の悲しみと、苦しみに、あんたは無関心で居られるの? カルミアに、自分と同じ苦しみを与えてまで、あんたは救われたいって、そう思うの?」
カチカチと、アルヴァートは歯を打ち鳴らしていた。
「僕、は……」
一度思い起こしたなら、もう、止めることは出来なかった。
カルミアと共に過ごした時間を。彼女との記憶を。
……傍に在るのが当然だった。いつ、いかなる時も、自分の手には彼女が在った。
最初は本当に、気にくわない奴で、大嫌いだったのに。
気付けば、彼女はアルヴァートにとって、自らの半身に等しい存在となっていて。
そんなカルミアは、自分に残された、唯一の――
「気付くのが遅いのよ、お馬鹿さん」
愚かな子供を諭すような顔で、溜息を吐いて。
イリーナは、アルヴァートの胸元から手を離した。
「大切な人を失ったのは、あんただけじゃないし、もちろん、あたしだけってわけでもない。それはきっと、誰しもが通る道。人が成長するために必要な、乗り越えるべき試練だと、今のあたしはそう思ってる。だから……いい加減、大人になりなさい、アルヴァート。あんたと同じように、愛する人を失って、取り残されてしまった親友のためにも、ね」
彼女の言葉は拳よりもなおアルヴァートの芯に響き……
それが、空白の心に、何か温かなものを、芽生えさせた。
その瞬間。
彼の手元にあった聖剣・ディルガ=ゼルヴァディスが発光し、姿を変えていく。
一振りの剣から、一人の少女へ。
カルミアとして世に顕現した彼女は、頽れたアルヴァートを見下ろしながら、
「リュミナスを止められなかった、あのとき。あなたが意識を失った後、彼女はわたしに命令した。あなたと共に生きろ、と」
普段、平坦な調子を維持しているカルミアが、今。
その美貌を哀切の色へと染め上げながら、語り始めた。
「わたしは自己を道具と定義してはいないけれど、でも、自身が道具であるという宿命からは逃げられない。心の底から主として認めた相手の命令は、呪いのようにわたしを縛る。だから……わたしは、あなたと一緒に死ぬことが、出来なかった」
ゆっくりと、彼女の顔が歪んでいく。
指を震わせ、唇を震わせ、カルミアは隠し通してきたであろう感情を、吐き出した。
「わたしはどうあっても、死ぬことが出来ない。けれど、あなたは違う。自己意思を優先し、自らを救済出来る。……そんなあなたを、止めたかった。でも、言い出せなかった。あなたが、あまりにも哀れ、だったから。だから、あなたを救うために、協力、してきたけれど……」
言葉が詰まる。
……この数千年、彼女は相棒の救済と、己が願いの狭間で、苦しみ続けていたのだろう。
大切な人だからこそ、救われてほしい。そう思う反面、大切な人だからこそ、死んでほしくない。そんな自己矛盾が生み出す苦痛が、どれだけカルミアを苦しめたのか。
そんな彼女の気持ちを、わかってやれなかった。
気付いて、やれなかった。
「……カルミア」
見上げながら、呼びかける。
そんな彼の瞳には、強い悔恨と、謝罪の念が宿っていて。
それを感じ取ったからか、カルミアはその美貌をくしゃりと歪めながら、
「あなたは、わたしにとって、最後に残された、大切なもの、で……だから……お願い、だから………………わたしを、独りにしないで」
カルミアの白い頬に、一筋の滴が流れた。
その姿を目にして、アルヴァートは痛恨の情を抱く。
(僕は、何をしていたのだろう)
(自分のことばかり考えて)
(彼女の気持ちなんて、まったく、見えてなかった)
(……見ようとさえ、しなかった)
(あぁ、本当に……甘ったれた、クソガキだな)
かつてリディアに言われたこと。
かつてカルミアに言われたこと。
当時は理解出来なかったそれが、今ならわかる。
いかなる強さを持っていたとしても、アルヴァートはまだ、甘えた子供でしかなかったのだ。それゆえにリディアは彼を戦士としては認めず、カルミアは子供から一人前の大人に成長してほしいと願い……そして、あの人(、、、)もきっと、死に魅入られた自分を変えてくれるような男へ変わってぼしいと、そう思っていたのではないか。
(もし、そのことに気付けていたなら)
(子供ではなく、男として、大人として、あの人に向き合えていたなら)
(……いや。いまさら、そんなことを考えても、仕方がない、か)
もはや過去は変えられない。失ったものを取り戻すことは出来ない。
そうだからこそ。
今、目の前にある大切な者のために――
「これまで、本当に、すまなかった」
手を伸ばし、相棒の涙を拭う。
そうしてから、アルヴァートは、
「……イリーナ・オールハイド」
彼女へ、目を向ける。
相手の顔にはもう、激情など微塵もなかった。
「喪失の苦しみを抱えながら生きるのって、本当に苦しくて、難しいことだけれど……あんたは独りじゃない。その子と支え合っていれば、きっと乗り越えられる。……でも、もし、ダメだったら。そのときは、あたしのところに来なさい。そしたら」
穏やかに微笑む、彼女の姿は。
まるで、女神のように美しかった。
「――あたしが、あんたを救って(生かして)あげる。絶対に」
この言葉に、アルヴァートは俯いて、息を唸らせた。
彼女の言う通り、簡単なことではない。
死への渇望を捨て、絶望に立ち向かい、生まれてきたことを後悔するほどの痛みを味わいながらも、その道を進み続ける。
それは、想像しただけで気が滅入ってしまうような、苦難に満ち溢れた選択。
そんなことをするぐらいなら、死んだ方がマシというものだろう。
その願望は未だ以て消えてはいないが、しかし。
――気付けば、激しく吹き荒んでいた白雪が、消えていた。
――いつの間にか、暗雲が割れて、陽光が自分達を照らしていた。
だから。
「イリーナ・オールハイド」
彼女の姿を見つめながら、久方ぶりに、穏やかな微笑を浮かべて。
アルヴァートは、その言葉を口にする。
決着の言葉であり、そして、決意の言葉でもあるそれを、口にする。
「――僕の、負けだ」