第一〇七話 元・《魔王》様、約束を破る
「貴様の主は、決して、《邪神》などと呼ばれるべき存在ではなかった」
広大なる銀世界。雪と霊体が舞い踊る、あまりにも冷め切った空間の只中にて。
俺は、対面に立つ男を見つめながら、語り続けた。
「荒事を好む傾向にあったが、しかし、自ら火種を作るようなことはせず、統治下にあった領土はまさに楽園と呼ぶべきもの。ゆえに彼女は……リュミナスは、敬愛に値する人物だと常々思っていた。そうだからこそ、俺は彼女と手を取り合って、より良い世界を創りたいと、そう考えていた」
そんなリュミナスを手にかけたのは、望んだ結果では断じてない。
あんな結末になってしまったことを、俺は今でも悔やんでいる。
……そうした意思表明に対して、対面の男、アルヴァート・エグゼクスは無言を貫いた。
その表情には、何も宿ってはいない。まるで感情が抜け落ちた人形のようであった。
もはや、いかなる言葉を用いたところで、奴の心内が変わらぬことは明白。
だが、そうであったとしても。俺は、最後の意思確認を行わねばならない。
二つの約束、その片方を、破るために。
「俺はあのとき、約束したな。全てが終わってなお、貴様がまだ死を望んでいたのなら、そのときは我が手で葬ると。……当時は明かせなかったが、事ここに至っては隠す必要もあるまい」
そして俺は、これまで秘匿していた、もう一つの約束(、、、、、、、)について語り始めた。
「我が軍へ降ってから今に至るまで、貴様の考えは変わらなかった。己が死を望み、それゆえに、挑戦的な行為を繰り返してきた。そうした貴様を、俺は常に受け流し、決して命を奪おうとはしなかった。それは此度の一件においても同じこと。出来ることなら、貴様を死なせることなく、終結へ導きたいと、そう考えていた」
なぜならば――
「かつて、約束を交わしたのだ。貴様の主、リュミナス=ウォル=クラフトとの間で、な」
やはり、アルヴァートは眉一つ動かすことはなかった。それでもなお、俺は語り続ける。
「我が腕の中で死にゆく最中、彼女は貴様のことだけを思っていたのだろう。過去を懐かしむように微笑みながら、いくつかの思い出を語り……その末に、リュミナスは哀願した。どうか、我が子の命だけは取らないでくれ、と」
敬愛する相手が、最後に発した願い。これを無碍に出来るはずもなく。
「そうだからこそ、俺は今日に至るまで、貴様の願いと約束を、流し続けてきた」
しかし――もはや、これまでか。無駄と知りつつも、俺は意思確認を行った。
「リュミナスは貴様の死を願ってはいない。亡き主の思いに応え、未来へ目を向けるつもりが、貴様に僅かでもあるのなら……ここは矛を収めよ。貴様のしでかしたことは総じて水に流し、今後、そのことについて追及することは一切しない」
果たして、返ってきた答えは。
長い長い、嘆息であった。
「……もう、どうだっていいんだよ。あの人の遺志なんて、知ったことじゃない」
虚無の貌から放たれし言葉は、紛れもない本心。
これまで被り続けてきた狂気の仮面を打ち捨て、元来の己を見せる。
それはまさしく、奴の意思表明に他ならない。
即ち――此度の一件は、自らの命脈が潰えることでしか終わることはないのだと。
アルヴァートは、その結論を決して、変えようとはしなかった。
「昔、お前は僕に言ったよな。自分を恨めと。憎しみを糧に生きろと。……そう出来たならきっと、こんなふうに苦しむこともなかった。けれど僕はどうしても、お前を憎みきることなんか、出来なかったんだよ。僕の心には常に、失望と絶望だけが広がっていた。それ以外の感情が生まれる余地なんて、どこにもなかったんだ」
虚ろな瞳で地面を見つめながら、アルヴァートはポツリポツリと声を出し続けた。
「あの人はどうして、僕を選んでくれなかったのか。あの人にとって僕は、その程度の存在でしかなかったのか。……僕はどうして、あの人を止められなかったのか。僕はどうして、あの人の心を救ってやれなかったのか」
淡々と、冷気を放つように、アルヴァートは言った。
「思うところは、それだけだ。あの人と僕の間に、お前を入れ込むことなんか出来やしない。そこに悪が在ったとしたなら……それはきっと、僕自身だ」
悪感情の全てを、奴は己へと向けたのだろう。二人の世界を壊したのは、俺ではなく、あくまでも彼女と、そして、自分なのだと。そのようにしか考えられない。
……そんなアルヴァートはまるで、俺自身を映す鏡のようだった。
「なぁ、ヴァルヴァトス。お前になら、僕の気持ちが理解出来るだろう? いや、お前だからこそと言うべきか」
「……あぁ、そうだな」
「お前も過去に、愛する人を失った。自らの手で、その命を奪った。それから今に至るまで味わい続けてきた感情は、きっと僕のそれと同じはずだ」
「……あぁ、違いない」
リディアを失ったとき、俺はアルヴァートと同じ思いを抱いた。
なぜ、俺のことを選んでくれなかったのか。
なぜ、自殺行為に等しき行いを優先したのか。
俺の存在はお前にとって、その程度のものだったのか。
そして何より――どうして俺は、あいつを死なせてしまったのだろう、と。
その悔恨は、未だなお残り続けている。
「……わかるよ、アルヴァート。俺もそうだった。あいつを失ってからずっと、己の破滅を望み続けていた。そうだからこそ……常々思っていたものだ。敗北が知りたい、と」
誰か、俺を止めてくれ。
誰か、俺を殺してくれ。
自らの手で自己の命脈を絶てぬ以上、何者かに頼る他なかった。
けれども、その何者かは終ぞ現れず……
「俺は逃避(転生)した。襲い来る苦しみから。孤独感から。……今思えば、それは、まだ生きていたいという感情の裏返しだったのだろう。絶望と失望の果てに、これ以下はないというところまで沈みきってもなお、俺は心のどこかで、前を向きたいと願っていたのだ」
そして、この時代に生まれ、かけがえのない友と出会うことが出来た。
しかし……アルヴァートにはそれがない。
俺達の間に違いがあるとしたなら、そこだけだ。
苦境にあっても、前を向こうとした男。苦境の中で、破滅しか望めなかった男。
同一でありつつも真逆。だがそれでも、その感情は誰よりも理解出来る。
だからこそ――口にした願いを、叶えてやりたいと、そう思う。
「ヴァルヴァトス。お前が僕をどう思っているかはわからない。けれどもし、ほんの少しでも情けがあるのなら。かつて、肩を並べて戦った者に対する情が僅かでもあるのなら、大切なものを救うと同時に、この僕を、苦しみから解放してくれ」
「……貴様の死は、皆の救済に、繋がるのだな?」
「あぁ。この命が尽きたとき、お前は全てを取り戻すだろう。それは保証する」
「……貴様は、死を以てしか、救われないのだな?」
「あぁ。それだけが僕の望みであり、救いだ」
ならば、もはや――
もはや、迷うことはない。
眼前に立つ、かつての同胞を真っ直ぐに見つめながら。俺は、淀みなく断言した。
「承服する」
一つの約束を破り、そして、もう一つの約束を果たす。
皆を救済するために。哀れな男を、救済するために。
その決意を固めると同時に、最後の闘争が、幕を開けた。
「……出し尽くす。僕の全てを。何もかもを」
結果が定められていたとしても、その過程において不甲斐ない姿など晒したくはない。
奴の中で、戦士としての矜持が叫んでいるのだ。全身全霊を以て戦い、そして死ね、と。
それを証するかの如く、奴は第一手を打った。
刹那、無数の魔装具が銀世界の只中にて顕現する。
六六六種。それは、我が身から奴が奪い取った切り札。
《魔王外装》の威容であった。
「初手必殺か」
「死んでくれるなよ」
言葉が交わった、次の瞬間。
襲来する。
刃が大気を引き裂き、戒杖が波動を放ち、盾が煌めく。
それは、アサイラス連邦首都における決戦時と全く同じ状況。
相も変わらずその光景は圧倒的で、心に畏怖をもたらすようなものだったが――
「被造物に討たれる造物主など、在るはずもない」
前回はそもそも対応するつもりがなかった。ゆえに一方的な展開となったが今回は違う。
――打ち砕く。
迫る刃を躱すと同時に握り潰し、破壊。
破壊の魔導を放つ杖へ五大属性による迎撃を打ち込み、飛来した攻撃もろとも撃滅。
装着者を見出すことなく勝手に動き回る盾と鎧は、我が拳によって粉砕される。
「貴様は支配権を奪っただけだ。それでは真奥を引き出すには至らぬ」
そも、《魔王外装》とは名が示す通り、我が身専用の武具である。
付与された術式にアレンジを加えぬ限り、俺以外の人間がその性能を十全に引き出すことは不可能。それは四天王最強の男であっても例外ではない。
奴は外装の掌握にこそ成功したようだが、そこから先には進めなかったのだ。
「不甲斐のない力の数々。かようなものをいくら集めたところで、塵芥も同然よ」
様相こそ圧倒的だが、されど、本質的には吹けば飛ぶような代物に過ぎん。
ゆえに外装は総じて我が身に掠り傷さえ付けること叶わず、ただただ砕かれるのみ。
「……あぁ、そうだな。これしきのことで、お前が斃れるはずがない」
漏れ出た声には、安堵の思いが宿っていた。そしてアルヴァートは、次手を打つ。
「《《我、混沌の中で産まれ》》《《怨嗟と共に生き》》《《末期に虚無を抱きし者なり》》」
《魔王外装》を繰りつつの詠唱。それは奴が有する切り札の一つが、世に顕現する前触れに他ならない。即ち――神魔滅殺の暴技と称されし、最強の《固有魔法》が、今まさに放たれんとしているのだ。
「目には目を、歯には歯を、か……!」
翼を展開した者に追いつくには、こちらも同じことをしなければならない。
俺は躊躇うことなく、それを実行した。
「《《その道に在りしは絶望》》《《それは哀れな男の生き様》》」
飛来する外装達を砕きながら、敵方に合わせるような形で、詠唱。
「《《我が生涯に意味はなく》》《《無為を極めし生涯なれば》》《《ゆえに我はせめて》》」
「《《その者は独り》》《《背を追う者はいても》》《《覇道を共に進む者はなし》》」
銀雪が降り注ぎ、霊体が舞い踊る中。
奴は、俺だけを見ていた。
俺は、奴だけを見ていた。
「《《この身が死に踊る道化で在ることを望む》》《《それがさらなる痛みを招こうとも》》」
「《《誰にも理解されることはなく》》《《皆、彼のもとから離れていく》》」
尋常の魔法詠唱が手動的であるのに反して、《固有魔法》のそれは完全に自動的だ。
それを用いようとしたなら、勝手に口から漏れ出してくる。
まるで、己の存在全てを表するように。
まるで、己の存在全てを相手にぶつけるように。
「《《我は悲哀を放棄する》》《《我は憎悪を放棄する》》《《そして我は、狂気の海へ沈む》》」
「《《唯一の友にさえ捨てられて》》《《彼は狂気の海に沈んでいく》》」
互いの詠唱が交じり合う。互いの思いが交じり合う。互いが互いを、理解する。
「《《その生に安らぎはなく》》《《我は只救いを待つ》》《《悲嘆と絶望を仮面の奥に隠して》》」
「《《その死に際に安らぎはなく》》《《悲嘆と絶望を抱いて溺れ死ぬ》》」
アルヴァート・エグゼクス。俺はもう、無駄に長引かせるようなことはしない。
「《《あぁ、それこそが――》》」
「《《きっとそれが》》――」
決意を秘めながら、俺は奴と同時に、最後の一唱節を放った。
「《《無貌へと至りし者の真実》》……!」
「《《孤独なりし王の物語》》ッ!」
――発動。
それは寸分の狂いもない、完全なる同時進行であった。
我が身の傍らに、そのとき、闇色の拘束具に縛られたリディアが出現。彼女が漆黒のオーラへと変じ、俺の右腕へと纏わり付く中――アルヴァートの身にも、異変が生じた。
奴の総身を焼くように、暗黒の炎が噴き出して。
我が腕に纏われた闇が、やがて鎖へと変わり、その先端に大剣を形成し始めた頃。
「う、お、ぁあああああああああああああああああああッッ!」
噴出。膨張。魂からエネルギーを放出するかの如く、苦悶する奴の背部から、膨大な黒炎が放たれた。それは瞬く間に膨れ上がり――
今まさに、黒剣を手にした我が方へと、殺到する。左右、一対の軌道を描くそれは、まるで堕天使の翼のようであり、荒れ狂う濁流のようでもあった。
「ぬぅッ……!」
視界を埋め尽くす、黒、黒、黒。降り注ぐ銀雪と、虚空を彷徨う霊体、さらには今なお我が身を狙う外装達、それら全てを飲み込んで、暗黒が暴走する。
「相も変わらず、恐ろしいものだな、これは……!」
暴れ回るそれに対し、俺は冷や汗を流しながら躍動する。
回避、回避、回避。時には跳躍し、時には飛翔し、無造作に襲い来る暗黒を躱す。
決して当たってはならない。掠ることさえ致命傷に繋がる。
この黒炎は文字通りの必殺技。
直撃は当然として、触れただけでも、森羅万象を絶命へと導く。
それが有機物であろうとも、無機物であろうとも。生きていようがいまいが関係なく。
ゆえに飲まれた霊体と外装は、もはや完全に失われ、永遠に戻ってはこない。
果たして、誰よりも死を求め、それに恋い焦がれた男は、今。
まさしく、死神そのものへと変じていた。
「ふぅぅぅぅぅ…………」
深い深い呼吸に応ずるような形で、荒れ狂う闇色の炎が収束を始める。
まるで時が逆巻いているかのようだった。
襲来時と全く同じ軌道をなぞりながら、黒炎がアルヴァートのもとへと向かう。
漠然としたエネルギーの塊が次第に明瞭な形を作り、それに伴って、大雑把な力が凝縮し、濃密なものへと変化した。
あれぞまさしく、アルヴァート・エグゼクスが有する最強の力であり、究極の戦闘形態。
一対の翼骨を展開するその姿は、御伽噺に登場する死神のように禍々しく。
全身を覆う黒炎は、先刻までのそれとは比にならぬほどの圧力を放ち。
異常を極めた力は、使い手の肉体をも蝕む。
黒炎がジリジリとアルヴァートの肌を焼き、黒炭化したところで……瞬時に回復。
常に続く破壊と再生は耐えがたい苦痛を与えているはずだが、それでもなお奴は眉一つ動かすことなく、こちらを見据えるのみだった。
「……行くぞ」
宣言と共に、アルヴァートの姿が消失。
気付けば奴は目前に居て。
「シッ!」
鋭い呼気を放ちながら、両手に在る、剣状の黒炎を繰り出した。
紙一重。どうにか反応が間に合う。
後退し、黒炎剣の脅威から避難。
されど――
「相も変わらず、凶悪極まりないな」
呟きつつ、俺は己の左半身へと目をやった。
黒炭化している。
左腕部全体から胸部、脇腹、左大腿部にかけて、広範囲が消し炭のようになっていた。
……《固有魔法》発動後のアルヴァートは、まさしく人型の災害である。
そこに在るだけで、周囲の全てを焼き尽くす。ゆえに攻撃を回避したとしても、接近を許してしまった時点で、ほぼ全ての存在は肉体と魂を焼かれ、消え去るのみ。
かつて我が軍に属していた頃のアルヴァートは、この力で以て戦場を荒らし、敵も味方も関係なく万物を滅却した。
そうした力と、姿は、奴の絶対的な孤独感を表しているようで。
「……畏怖以上に、哀切を覚えたものだ」
けれども、我が身と魂は、易々と焼けるものではない。
そうだからこそ、きっと俺だけが、奴を救うことが出来る唯一の存在なのだろう。
アルヴァートを中心として、広範囲に展開される絶対焼却圏内。けれども俺は、その中に在ってなお自己の存在を維持するだけでなく……戦闘行為の続行をも、可能とする。
「リディア。再生状態の持続設定を変更。強度を限界突破。霊体への過負荷に対する危険信号をカット。加えて、安全維持機構の第一から第六までを無効化せよ」
【了解。第二種リミッター解除を実行。推奨継続時間、七分二〇秒】
我が手に在る黒剣から、彼女の声が響き……次の瞬間、黒炭炭していた半身が完全再生。
時間制限付きとはいえ、これで焼却圏内に入ったとしても問題はない。
例え肉と魂を消し炭にされたとしても、一瞬にして全てを再生すれば万事安泰である。
そして、さらに。
「敵方が本域を見せた以上、こちらも出し惜しむわけにはいかぬ。ゆえに――リディア、フェイズ:Ⅲ」
【了解。勇魔合身、第三形態へ移行します】
瞬間、我が周囲に黒きオーラが生じ、全身へと纏わり付いた。それは瞬く間に卵状めいた形を作り……内部にて、この身、この存在、そのものが組み変わっていく。
果たして。
卵状のオーラを破裂させ、姿を現した我が身は、先刻までのそれとは別物になっていた。
「やっと本来の姿になったか、ヴァルヴァトス」
そう。闇色の装束を纏いし我が肉体は、アード・メテオールのそれではない。
腰まで伸びた純白の髪。万人から女神と称されし風貌。
《魔王》・ヴァルヴァトスの姿が、ここに在る。
「長引かせるようなことはしない。全力で以て、すぐさまに終わらせよう」
有言実行。巨大な黒剣と化したリディアを携え、一気呵成に踏み込む。
ただそれだけで激烈な衝撃波が生じ、相手方の体を叩いて、吹き飛ばす。
「ぐッ……!」
まともに反応も出来ていない。
虚空の只中を引き裂くように飛ぶアルヴァートへと、俺は一瞬にして接近し、
「フッ!」
斬撃。
大方の相手はこの一手で詰みとなるが……四天王最強は、伊達にあらず。
「ぬぁッ!」
反応を見せただけでなく、両手に構えし黒炎剣を交差させ、我が斬撃を防ごうとする。
だが、関係はない。
黒と黒が衝突し、相克し、大気が悲鳴を上げる。敵方の黒炎剣は万象を滅却せしもの。ゆえにいかな神剣も、いかな魔剣も、触れた時点で消滅が確定するわけだが――
関係は、ない。
勇魔合身:第三形態は理不尽の体現である。どのような理合いがあろうとも。どのような理屈があろうとも。ことごとくをねじ伏せ、我が意を通す。
究極の身勝手。究極の我が侭。それゆえに――この手が繰り出した刃は、相手の防御を粉砕し、黒炎剣もろとも斬り伏せた。
「がッ……!」
胴を斜めに裂かれ、口から悲鳴を漏らすアルヴァート。
降り積もった白雪へと落下するその最中、俺は容赦なく追撃の刃を走らせた。
「ぐッ……!」
顔面を断ち切らんとする黒剣へ、アルヴァートは右腕を差し出し、これを防御とする。
なるほど、黒炎を纏いし肉体は、全身が凶器であると同時に、防具にもなりうる。
けれどもやはり。
「なんら、関係はない」
右腕を斬り飛ばしたうえで、顔面を袈裟懸けに割断。
美貌に深手を与えたが、しかし、どうやら脳髄にまでは至らなかったようだ。
「うぉ、あッッ!」
裂帛の気合いを放ち、残った右腕で、こちらの腹部を穿たんとする。
だが、無駄なこと。
遅い。
全ての動作が遅い。
俺は悠々と刃を滑らせ、迫る黒炎剣をその腕ごと膾斬りに刻んだうえで、アルヴァートの胸部を足蹴にした。
「ごはッ……!」
凄まじい衝撃が奴の全身を駆け巡り、内臓器官の全てが破裂したのだろう。
喀血しながら、奴の体が遠方へと吹き飛んだ。
数瞬後、分厚く積もった粉雪に衝突し、銀世界の一部を血の色に染める。
「はぁッ……! はぁッ……!」
足をもつれさせながらも、立ち上がる。
だが、満身創痍。
断たれた両腕部の断面から大量の血液が漏れ落ち、裂かれた顔面は紅一色となっていた。
再生が遅い。表情に余裕がない。
もはやアルヴァートは無限の生命を持つ不死者ではなく。
断てば死ぬ、普遍的な生物でしかなかった。
「幕を引かせてもらうぞ、アルヴァート・エグゼクス」
最後の一撃を与えるべく、踏み込んだ。
相手方は今、再生の最中にある。接近する頃には全身の傷は癒えていよう。
だが、それよりも早く、我が剣は奴の体を――――両断すると、確信した、その瞬間。
「させないッ……!」
第三者の声が響くと同時に。
俺とアルヴァートの狭間に、一人の少女が顕現する。
その姿には見覚えがあった。
「……まるで、あのときの再現だな」
アルヴァートを庇うように立ち、こちらを睨む。
そして彼女は右手を突き出し――
閃光。
相手の掌から放たれたそれを、俺は魔法防壁の展開によって無力化。されど凄まじい衝撃波を殺しきることは出来ず、この身が紙切れのように吹き飛んだ。
間合いが開く。雪面に着地しつつ、俺は眼前の敵方を見据えた。
「……あぁ、そうだ。まだ、僕は全てを出し尽くしたわけじゃない」
終結を受け入れていたアルヴァートの瞳に、闘志が戻る。
あの二人、やはり数千年を経ても、絆は断たれていなかったか。
であれば、ここからが正念場であろう。
何せようやっと、死神が鎌を握るのだから。
「今回が最後だ。僕に、力を貸してくれ」
「……うん」
了承を得ると共に、アルヴァートは再生した左手で、彼女の背中に触れて、
「共に征こう。カルミア――――――いや」
奴は、少女の真名を叫ぶ。
超古代の言語において、終焉をもたらす者を意味する、その真名を。
「ディルガ=ゼルヴァディスッ!」
変身。
名を呼ばれた瞬間、少女の全身が七色の光彩に覆われ……そのシルエットを変えていく。
果たして、そこに現れしは一振りの剣。
絢爛雅な装飾の数々と、虹色の煌めきを放つ刀身が、あまりにも高い気位を思わせる。
……事実、あれが己の使い手として認めた者は、俺が知る限り二人しか居ない。
リュミナスとアルヴァート。両者が打ち立てた伝説と武勇伝には常に、あの剣が関わっていた。まるで、愛する家族を守るかのように。
あれこそは、あらゆる武具の頂点。なにものも寄せ付けぬ、至高にして究極。
――三大聖剣が一振り、ディルガ=ゼルヴァディス。
その白銀色に煌めく柄を、アルヴァートが握り締めた瞬間。
度外れた圧力が、我が身を震撼させた。
「もう一幕、付き合ってもらうよ、ヴァルヴァトス」
血に染まった全身が、躍動する。
それは満身創痍だった男の動きではない。
――――――剛武超越。
かの聖剣が有する七種の権能が一つ。
それを以てして、アルヴァートは今、世に並ぶことなき戦士へと変わっていた。
ゆえに――
「ぬぅッ!」
疾い。目で追えぬほどの攻勢。斬撃の雨あられ。
剛武超越の効能は、名の如く、超越。使い手の身体機能を敵対者のそれよりも数段階上のものへと無理矢理引き上げる。
となれば、近接戦闘において打ち負けるは必定。
「ハッ!」
「ちぃッ!」
致命の連撃に対し、俺は防戦一方となっていた。
秒を刻む毎に、こちらの肌が切り刻まれていく。
形勢は完全に、逆転した。
「らぁッ!」
剣閃に紛れる形で放たれた横蹴りが、こちらの胴を薙ぐ。全身を駆け巡った衝撃が内臓器官を破裂させ、筆舌に尽くしがたい痛みをもたらすと共に、我が身が真横へ飛んだ。
再び間合いが開く。
接近戦に活路はない。
俺は激痛を無視して、無数の魔法陣を顕現。
属性魔法を何千、何万と放った。
しかし――
「生ぬるいぞ、ヴァルヴァトスッ!」
ディルガ=ゼルヴァディスが有する権能が一、逢魔必滅。巨山をも消し飛ばすであろう我が魔法の数々は、そのとき、一瞬にして掻き消されてしまった。
……やはり、離れてもなお活路なし、か。
「久方ぶりに見る人剣一体。これほど厄介なものも、他にはなかろう」
かの聖剣が有する真の恐ろしさは、あまりにも強い自我にある。他の二振りも同様に自我を有してはいるが、しかし、己が思念を表に出すことはない。一方で、ディルガ=ゼルヴァディスは自らの意思を以て闘争に介入し、使い手を援助する。よって――
「不意を打とうとしても、無駄」
刀身から声が放たれた矢先のことだった。
先刻の猛攻を隠れ蓑として、密かに敵方の背後へと忍ばせておいた魔法陣。そこから放たれし風の刃が、そのとき、そよ風も同然のそれへと変えられて、効力を失った。
……どのような事態になろうとも相棒を守る。そんな強い意志を感じる。
事を成すには彼女の思いを挫き、人剣一体の脅威を完封せねばならない。
だが、そのためには相応の代償が必要となろう。
それこそ、我が身の消滅を覚悟するほどの、あまりにも大きな代償が。
「……打つ手がないとは、言わせないぞ」
こちらの迷いを感じ取ったのか。決意を促すかのように、アルヴァートは激烈な攻勢を開始した。剛武超越を発動し、近接戦闘にてこちらを圧倒。たまらず距離を置いて、魔導による搦め手を用いたなら、そのことごとくを逢魔必滅によって消去。
これだけでも厄介の極みであるというのに。かの聖剣がもたらす脅威は、まだ序の口にさえ至ってはいない。それを証明するかの如く。
「《セディア(我は願う)》! 《ウルグ(再誕を)》《ファルメカント(君臨を)》《フォルベル(創造を)》《カダ・セディア(乞い願う)》!」
「《フィルミナ(我は知る)》《オーベル(かの記憶を)》《マドゥーク(かの悲嘆を)》……《エル・カディア(ゆえに叶えん)》《ベス・ティヌス(夢幻の造物を)》」
超古代の詠唱を紡ぐ両者。そして――第三の権能、万理開闢が発動する。
それはまさに反則の中の反則。使い手、あるいは剣そのものが望む総てを創り出すという、荒唐無稽な力であった。果たして、その権能によって彼等が創造したものは。
「かつての総力戦、その再現か……!」
我が周囲に顕現する、無数の戦士達。
赤黒い死に装束を纏う彼等の姿は、あの日、主人の仇討ちに臨んだ際のそれと全く同じ。
「出し尽くす。僕が持つ全てを。持っていた、全てを」
言葉に秘められし思い。それを感じ取った、次の瞬間。
軍勢が、四方八方から襲い来る。
まさしく過去の再現。だが、現状は当時のそれとは比にならぬほどの危険に満ちていた。
万理開闢は現実改変に近しい。ゆえに使い手と剣が願ったなら、その全てが叶う。ゆえに――殺到する戦士達は、その末端に至るまで、我が命を脅かすほどの力を持っていた。
「ちぃッ!」
迫る槍衾に、異様なまでの圧を感じる。
直撃は避けねばならない。あれはきっと、我が身を容易く貫くだろう。
だが……逃げた先にも、必殺の刃が待ち受けていた。
「くッ……!」
隊伍を組んだ戦士達による、剣と魔法の連携。
刃をいなし、攻撃魔法を相殺し、灼熱で以て返礼とする。
そうして目前の数百を焼き尽くすが、しかし、無駄事であった。
燃え残った灰から戦士達が再誕する。そうした光景に、俺は冷や汗を流した。
「なんと、もはや……!」
斃しても斃しても間髪入れずに復活する。
まさに無敵。まさに不死。これをどうこうするには、やはり。
だが、しかし、それでも。
と、迷う最中。
「ふざけるなよ、ヴァルヴァトス」
横合いから、怒気に満ちた声と刃が、飛んで来た。
奔る聖剣の刀身を黒剣で以て受け止める。
そして、大軍の只中にて鍔迫りながら、
「また、僕を泣かせるのか。また、僕を失望させるのか」
怒りと、焦燥と、悲しみ。アルヴァートの瞳から伝わるのは、それだった。
「死なせるために、僕はここに居るんじゃない。僕は、死ぬために戦ってるんだ。その気持ちがわからないとは言わせないぞ」
その言葉は、懇願であった。その言葉は、哀愁であった。
今のアルヴァートは最強の戦士でありながらも……寄る辺を失い、寒さに凍えて涙する、そんな哀れな子供も同然であった。
「なぁ、頼むよ、ヴァルヴァトス」
瞳を涙で濡らしながら。
対面の男が。かつての同胞が。
俺にしか叶えられぬ願いを、口にする。
「もう、待たせないでくれ」
救済。それを求むる奴の顔と、声は、確かに我が心を打った。
……あぁ、俺は愚かだ。
この期に及んで何を迷うことがあろうか。
もとより、この一戦はそういうものだったはずだ。
全てを取り戻すか、全てを失うか。そういうものだったはずだ。
であれば……
「そうだな。俺もまた、己が有する何もかもを賭けるべきだ。そうして」
貴様を、救って(殺して)みせよう。
俺は、その決意を固める。
例え我が身が滅ぶことになろうとも(、、、、、、、、、、、、、、)、俺は、それを実行しなければならない。
なればこそ。
「リディア――――安全機構、総じて解除」
【警告。霊体が消滅する恐れ有り】
「承知している。だが、もはや是非もない」
俺は、究極の先へと、足を踏み入れんとする。
即ち――
「リディアッ! フェイズ:Ⅳ(ファイナル)を発動せよッッ!」
決然とした号令に、彼女が応答を返す。
【了解。勇魔合身――――最終形態へ、移行します】
そして、我が身に変異の兆しが表れた、その瞬間。
「ッッ!」
戦士としての本能によるものか。アルヴァートが弾かれたように距離を取った。
死を求むる者でさえ震撼せざるを得ない。そんな、絶対的な力の発露。
その始まりは静かなものだった。
粉雪が降り注ぐ中。我が周囲に闇色のオーラが生じ――やがてそれが、純白へと変わる。
銀世界の只中にあって、なお白い。
それは我が身を覆い、そして、全てを真っ白に染め上げていく。
握り締めた黒剣。闇色の装束。全身余すところなく、白へ。
そうした変化が完了した瞬間。
「……滅べ」
これは、詠唱ではない。ただの言葉に過ぎぬ。
けれども。
そんな、なんの変哲のない言葉でさえも。
勇魔合身、最終形態へと至った俺が放ったなら、世界に絶大な影響を及ぼすようになる。
目前の光景が、それを証していた。
静かに。あまりにも静かに。
バタリ、バタリ、バタリと、軍勢を構成する戦士達が、雪面へと倒れていく。
皆、誰一人として、指一本さえ動かない。
「出鱈目にもほどがある……!」
聖剣の刀身から、少女の声が飛んだ。
それに応ずる形で、アルヴァートが口を開く。
「そうでなきゃ、困るんだよ」
念願が成就する。そんな確信に満ちた瞳へ、飛び込むように。
俺は、踏み込んだ。
一瞬。
何もかもが、一瞬で終わる。
アルヴァートは何も出来なかった。聖剣もまた、なんら反応が出来なかった。
無数の戦士達が屍を晒す中、俺が立ち、奴が膝をつく。それだけだ。
そうした結果だけが、残っていた。
理不尽をも超えた表現不能の何か。それこそが勇魔合身、最終形態。
この力に対抗し得る存在など、あの悪魔(、、、、)ぐらいなものだろう。
究極の一振りを携えた《魔王》軍最強でさえ、足下にも及ばない。
だが。
そんな絶大に過ぎる力が、平凡な村人としての肉体に、悪影響を及ぼさぬはずもなく。
「ごふっ……」
やはり、ほんの僅かな、片鱗程度の力を用いただけでも。
肉の器が崩れ、霊体さえも、滅びかかっている。
耳、鼻、口、そして目尻から、朱色のそれが溢れ出た。
もう、存在を保つことさえ難しい。
それでもなお、未だ、アルヴァートを生かしている理由は。
「……最後に何か、言い残すことは?」
決着を付ける者としての義務。
これに対し、奴は片膝をついたまま、
「お前を、その気にさせるためとはいえ…………本当に、酷いことをした」
謝罪の言葉。それが奴にとって、末期に残すべきものだったのだろう。
「……気に病むことはない。全ては、この身の不徳が招いたこと」
そして俺は、今度こそ。
「さらばだ。同胞よ」
純白の剣を振り上げ、不死者の悲嘆に終止符を――
打つという、直前のことだった。
「ちょおおおおおおおおっと待ったぁあああああああああああああああああッッ!」
声。
それは、アルヴァートの身から放たれたものだが、しかし、奴の音ではない。
この声は、まさか――――――と、そう思った矢先の出来事だった。
「うっ」
アルヴァートの口から苦悶が漏れ出てからすぐ、奴の胸が煌めきを放ち――
輝光の中から、彼女(、、)が飛び出てきた。
「こんな終わらせ方! 認めてたまるもんですかッ!」
その姿は、紛れもなく。
我が親友、イリーナのそれであった――