閑話 不死の怪物と泡沫の夢 三
揺らいでいる。
純白の空間が、軋み、撓み、震撼し、波打つ。
そうした異変を前にして、カルミアが瞳を細めながら呟いた。
「……もう、時間がない」
彼女の焦燥感を見て取ったことで、イリーナは己の考えに確信を抱く。
即ち――結末が、近付いている、と。
おそらく今、アードはアルヴァートと対峙しているのだろう。
そしてこれから、二人は戦いを始めるのだ。
決着を付けるために。全てを、終わらせるために。
……任せてもいいのだろうか。イリーナはそんなことを思う。
アードが負けることなど決してありえない。彼は確実に勝利し、全てを救済するだろう。
だが。今回の一件を終えて、笑い合う者達の中に、きっと彼女の姿はない。
アードの勝利と、自分達の救済は……カルミアにとっての悲劇に、繋がってしまう。
それでいいのか。このまま何もせずにいていいのか。イリーナは、そう思う。
「……あたしは」
考えがまとまらない。どうすればいいのか、どうしたいのか、その思考に芯が通らない。
カルミアと同様に、イリーナもまた強い焦燥を感じ始めた。早急に答えを出さねば、手遅れになる。彼等はもう、次の瞬間にはぶつかり合っていってもおかしくない状況にあるのだ。――それを証明するかの如く。揺れ動く純白の空間に、再び色彩が生じた。
瞬く間に風景が描かれていく。激しい戦を終えたばかりといった、血なまぐさい光景。
敵味方、入り乱れて倒れる、血の海の中で。
ルキウスとガープが、アルヴァートを見て笑う。
「やっぱお前さんは、俺等とは違う人種だな」
「だ、だが……それが、いい」
弟分を見るような、穏やかな目。彼等の心情は果たして、いかなるものか。
それが判然とする前に、眼前の光景を塗り潰すような形で、新たな色彩が駆け巡った。
「……これは、何?」
広々とした部屋の中で、カルミアが瑠璃色の髪飾りを手にしながら、首を傾げている。
「贈り物だよ。女の子って、そういうのが好きなんだろ?」
眉間に皺を寄せながら、ガシガシと自分の頭を掻くアルヴァート。
「あなたに贈り物をされる理由が、わからない」
「……この前、助けてくれただろ。そのお礼だよ。言わせんな、馬鹿」
決して目を合わせることなく、口をもごもごさせるアルヴァートへ、カルミアは一言。
「気持ち悪い」
率直かつ明確な台詞が吐かれた後、なんやかんやあって、いつもの如く殴り合いの大喧嘩へと発展。しかし……実際のところ、カルミアは嬉しかったのだろう。
何せ、このとき貰った髪飾りを、未だに着用しているのだから。
――その後も、過去の映像が浮かんでは消えていった。
それら全てが断片的で。だから今、アードと対峙しているアルヴァートが、どのような思いでいるのか、イリーナには十全に理解出来た。
「……死ぬつもりなんだ」
これまでの記憶を精算するように、出ては消え、出ては消えを繰り返す。
総じて、幸せな思い出だった。
愛する女性と過ごした時間。
認め合うようになった同胞達と過ごした時間。
不愉快ながらも好ましい、そんな親友と過ごした時間。
それらは瞬く間に消え失せて。そして――――長い長い、暗黒の時が、やってくる。
新たな色彩が生まれたとき、イリーナはその明らかな異質さに、目を眇めた。
新たな風景を描く色彩達。その全てに、禍々しい邪気が宿っている。果たして、出来上がったそれは……悲劇の始まりを思わせるような、薄暗いものだった。
「う、ぐ……!」
曇天の下。ボロ雑巾のようになった一人の青年が、荒野の只中を歩いている。
年月を経て美しく成長したアルヴァート・エグゼクス。しかし、血に染まった美貌には優美さなど欠片もなかった。
「どうして、こんな……! あいつより、僕の方が強い、はずなのに……!」
あいつとは誰のことか。なにゆえ、彼はこのような有様となったのか。
そんなイリーナの疑問を察したか、彼女の隣に立つカルミアが粛然と口を開いた。
「《魔王》・ヴァルヴァトスと、《勇者》・リディアを中心とした、反乱軍の大連合。この時期、リュミナス軍は彼等を相手に戦い続けていた」
淡々と語るカルミアだが……
その冷静な口調に反して、目前の光景を見る目は、あまりにも鋭いものだった。
「連合の大半は所詮、烏合の衆。リュミナス達が遅れを取るような相手ではない。しかし……ヴァルヴァトスとリディアの軍勢は、別格だった」
拳を固く握り締めながら、カルミアは言葉を重ねていく。
「雑兵でさえ、一人一人が一騎当千の強者。将に至っては、怪物と呼ぶほかない。……それを纏め上げる二人は、輪をかけたバケモノだった」
《魔王》と《勇者》。御伽噺の怪物と、大英雄。
その称号は、伊達で付けられたものではない。
絶対的な暴力と冷徹な判断で以て、人も魔もねじ伏せてきた男・ヴァルヴァトス。
そんな彼に並ぶほどの力と、誰からも愛されるような人徳を持つ女・リディア。
皆、この二人には勝てなかったと、カルミアは語る。
ただ……ヴァルヴァトスは規格外の怪物である一方、アルヴァートにとってはやりやすい相手だったらしい。
ゆえに勝てはしないものの、引き分けに持ち込むことは出来たという。
――だが、その反面。
「……四回目、だった。彼がリディアに打ちのめされたのは、これで、四回目だった」
アルヴァートが同じ相手に四度も敗れたことなど、今までなかったと、カルミアは語る。
彼は《魔王》でさえ手を焼くほどの強者であり、リュミナス軍の中に在って最強の戦士と呼ぶべき存在であった。
なのに、なぜ。
ヴァルヴァトスと同格か、あるいは一段落ちるような相手に、なぜ、ここまで一方的にやられてしまうのか。
「ちく、しょう……! 好き放題、言いやがって……!」
そのとき、イリーナの脳内に、彼女の声が響いた。
歴史上最高の英雄と称されし《勇者》・リディアの声が、悠然と響いた。
“てめぇは甘ったれたクソガキだ”
“てめぇ自身で物事を決めることも出来ねぇ”
“心の中心に自分以外の誰かを置いて、そいつに依存しながら生きる”
“んなダセぇ野郎に、オレが負けるわけねぇだろ”
このように、言われたのだろう。
なんとなくだが……リディアのいわんとすることが、イリーナには理解出来た。
けれどもアルヴァートには、意味不明な罵詈雑言にしか感じられなかったのだろう。
「はぁっ……! はぁっ……! くそ……! くそ、くそ、くそ……!」
歯を軋らせ、泣きべそを掻きながら……やがて力尽きたか、地面に両膝をつく。
荒れ果てた大地の中心で、アルヴァートは悔し涙を流した。
……そんな彼の傍に、そのとき、一人の少女が顕現する。
カルミアだ。彼女もまた、アルヴァートと同じく傷ついて、痛ましい姿を晒している。
「すまない、カルミア……僕のせいで、そんな、酷い姿にさせてしまって……」
「……あなたらしくない。ここは普段通り、無様な姿だね、とでも言って笑うべきところ」
「出来ないよ、そんなこと……少なくとも、今は……」
彼を見下ろす瞳に、悲哀が宿る。
記憶の中のカルミアも。イリーナの隣に立つカルミアも。同じ目をしながら、相棒の姿を見つめていた。
「……ねぇ、アル。あなたはなぜ自分が戦うのか、その理由をハッキリと断言出来る?」
「えっ」
問いかけに対し、アルヴァートは僅かに考えてから、
「僕は、リュミナス様の笑顔が見たい。だから、戦ってる。僕が活躍すれば、あの人はいつだって――」
「それがあなたの敗因だと、わたしは思う」
己が述べた言葉を否定するような受け答えに、アルヴァートは驚きを覚えたのか。目を丸くしながら、カルミアを見つめていた。
「あなたのそれは、信念と呼ぶべきものじゃない。戦う理由として、扱うべきものじゃない。……アル、今のあなたはまだ、リディア・ビギンズゲートの言う通り、甘ったれたクソガキでしかないと、わたしも思う」
どうしてそんなことを言うのか。
瞠目するアルヴァートの瞳に、悲しみと失望の念が宿った。
表向きは、罵倒し合うことしかしないような関係だが……しかし、内実は違うと思っていた。長い時を共に過ごして、互いを理解し合うようになって。だから……
カルミアは最良の友であり、誰よりも頼もしい相棒だと、そう思っていたのに。
「どうしてそんな、酷いことが言えるんだ……!」
リュミナスへの思いこそが自分の全てだと、カルミアは知り及んでいるはずだ。
にもかかわらず、彼女はそれを否定した。到底、許容できるものではない。
「僕を、見限ったのなら……そのように明言すればいい……! そんな、遠回しに、僕の存在を否定するだなんて……! どうして君は、そんなにも底意地が悪いんだ……!」
恨み節を吐きながら、相手を睨み上げる。そんな視線にカルミアは、目を細めた。
そこに宿るのは、怒り……ではない。
己の意図がまるで伝わらないことに対する深い悲しみだけが、そこにあった。
「わたしは、あなたのことを否定しているわけではない。わたしはただ……あなたに、成長してもらいたいだけ。子供から大人へ。頼りのない男子から、一人前の男へ。わたしは、あなたならそうなれると信じてる。そうすればきっと、リュミナスのことも……」
ここでカルミアは、言い淀んだ。
……女同士、だからか。イリーナはカルミアの心内を直感的に理解出来た。
けれども、アルヴァートにはやはり、彼女の思いが伝わっていなかったらしい。
「わからないよ……! カルミア、君が何を言っているのか、全然、わからない……!」
思わず、イリーナは拳を握り固めていた。
自分がどうすべきなのか、どうしたいのか、その一端が掴めたような気がする。
――そんなふうに思った、直後のことだった。
アルヴァートとカルミア、そのすぐ傍に何者かが顕現する。
第三者の視点で見ているイリーナには、来訪者の正体が判然としている一方で。
アルヴァートからしてみれば、最後まで彼女(、、)は認識の外に居たのだろう。
おそらく来訪者が何者か、知るよりも前に。
「――――ッ!?」
相手方が放った、後頭部への手刀を浴びて、アルヴァートは即座に意識を失った。
瞬間――
周囲の風景が、急変する。
麗らかな春の景色を思わせる(、、、、、、、、、、、、、)温かな平野(、、、、、)。
しかし……地上の景観こそ平穏そのものだが、なぜか空は赤黒く、気味が悪い。
そんな謎めいた空間の只中に、無数の欠片が浮かび上がっていた。
割れたガラス片にも似たそれらには、総じて、なんらかの映像が映し出されている。
アルヴァートの記憶であった。
リュミナスと過ごした尊い日々の全てが、無数の欠片に映っていた。
「なんだ、これは……」
当惑の最中、あまりにも唐突に。
目前に浮かぶ欠片達が、音を立てて割れ始めた。
理解が追いつかない。だが……
何か、恐ろしいことが起きつつあると、そんなふうに直感する。
そして、最後の一枚が割れた、そのとき。
「済まない。吾はもう、限界だよ、アルヴァート」
リュミナスの声が、周囲一帯に響き――
前後して、再び周囲の景観が変化する。
どうやら、アルヴァートは意識を覚醒させたらしい。
現地はグラズヘイムにある宮殿の自室であり、そこで彼はベッドの上に横たわっていた。
そうした状況に加え、リディアとの戦いで刻まれた傷も失われており、それゆえにアルヴァートは一瞬、これまでの出来事を、夢か何かであると結論づけそうになったのだが。
「アルっ……!」
相棒の声を耳にすると同時に、確信した。
前後の記憶は夢などではなく、現実のそれであった、と。
視線を横にずらしてみれば、そこにはカルミアが居て。その表情には、先刻の声音に応じた焦燥と、哀切があった。
「お願い……! もう、あなたしか……!」
まるで、怯えきった子供のようだった。
顔を真っ青にして、歯をカチカチと鳴らす。こんなカルミアの姿は見たことがない。
「……何があった?」
自然と出た疑問に、彼女は一言。
「リュミナスを、止めて……!」
その返答を受けた瞬間。気付けば、アルヴァートは飛び起きていた。
そうしてカルミアを捨て置き、駆け足で部屋を出る。
意図して動いているわけではない。全てが無意識の行動だった。
何か。何か、恐ろしいことが起きている。なんとかしなくては。そんな強い衝動に駆られながら、アルヴァートは脊髄反射も同然に足を動かし――その場へと、辿り着いた。
茶会を行うための小さな一室。半ば破るようにしてドアを開き、部屋の中へ足を踏み入れる。果たして、そこには。
「……嗚呼、目覚めてしまった(、、、、)か」
紅茶入りのカップを片手に、無機質な表情をした、リュミナスの姿があった。
独り茶を飲む彼女の様相は、尋常ならぬものだった。身に纏う衣服を見れば一目瞭然であろう。普段から着込んでいる紅い軍服めいたそれではない。
華美な装飾が施された、重厚な装束。その色は限りなく黒に近い紅。
これはリュミナス軍の中に在って、特別な意味を持つ装いであった。
即ち――――死に装束。決死の任務へ就く戦士が、末期の見栄を切るために纏うもの。
リュミナスは今、そんな忌まわしき衣装に袖を通していた。
「何が……どうして……」
わけがわからない。なぜ、リュミナスがあんなものを身に纏っているのか。なぜ、リュミナスがこちらを見て、嘆息するのか。これではまるで――
「ふむ。まぁ、こうなってしまったなら、仕方がないか」
カップをテーブルへ置いてから、リュミナスは席を立ち、アルヴァートの方へと向かう。
敵意も害意もない。むしろ、その表情は慈愛に満ちていた。
「大きくなったなぁ、アルヴァート」
僅かに視線を上へ向けて、彼の顔を覗き込む。我が子の成長を、喜ぶように。
「ここへ来たばかりの頃は、実に小さかった。それが今や……ふふ、こうして見上げねば貴君の顔が見えぬほど、大きくなった」
なんだ、その顔は。なんだ、その言葉は。
おかしい。何かが、決定的におかしい。
「……座りたまえよ。これも運命の差配というもの。なれば貴君に、全てを話しておこう」
壁際の棚へ向かい、ティーカップを一つ手にすると、リュミナスはテーブルへ戻り、再び座椅子に腰を下ろした。
アルヴァートもまた、促されるままにテーブルへと足を運び、着席する。
「少々長くなるが、そうだな、吾の素性を明かすところから始めようか」
リュミナスは紅茶を一口啜り、舌を潤してから、蕩々と語り始めた。
「《外なる者達》という呼び名の通り、我々は元来、この世界とはなんら縁のない存在だ。皆総じて異世界からの来訪者であり……その実態は、こちらの世界におけるヒューマン族と似通ったものと言える」
ゆえに我々は、神だとか、造物主だとか、そんな大層なものではないのだと、リュミナスはそのように述べた。
「こちらの世界では、誰もが支配者として君臨しているわけだが…………元居た世界では、まったく別の生き方をしていた者が大半だ。吾も例外ではない」
そして彼女は、自らの生い立ちを語り出した。
「生まれ故郷の名は、サウス・ゲルマン。元は北方のそれと併せてゲルマン帝国と呼ばれていたが、吾が生まれる頃には遠い昔の話となっていた」
過去を懐かしむように、紅い瞳を細めながら、リュミナスは言う。
故郷はまるで、この世の地獄を極めたような土地だった、と。
「元は一つの国家であり、世界的にも有数の先進国として知られていたようだが……北と南に別れて以降、血で血を洗うような紛争を繰り返す、まっこと愚かな国へと変貌した」
闘争の開幕がいかなる原因であったか、その詳細を知る者はもはや一人として居ない。
ならばその戦に意義はなく、血を流す価値もまた皆無。されど――
「人は必ずしも、合理性を尊重するような生き物ではない。数百年も闘争が続けば、必然、怨嗟もうずたかく積まれていく。もはやゲルマンの民は、なんの意義も求めてはいなかった。目的と手段が完全に入れ替わっていたのだ。何かを得たいがために争うのではなく……争いを続行するために、何かを得ようとする。国家も、そして国民も、総じて度し難い戦争狂へと成り果てていた」
そんな地獄の中に在って。
リュミナスの生家は代々、武門の名家として知られていたという。
「親父殿が言うには、我が家は偉大なる蛮勇の民の血を引いているとのことだが。まぁ、それならば納得がいくというものだ。我等が有する狂気は、きっと血筋によるものだろう」
リュミナスは自らの一族のことを、ただ一言で表現した。
即ち、戦闘狂の変態である、と。
「戦場の怒号と悲鳴を子守歌として眠り、敵方の血肉を喰らって育つ。我が一族は誰しもがそれだ。吾もまた、そういった手合いの一人だが……他の連中と違うところがあるとしたなら、一点、センチメンタリズムに傾倒しやすいところが上げられる」
闘争への美学、哲学が、特別に複雑であると、リュミナスは自己の人格について、そのように語ってみせた。
「吾にとっての闘争とは、究極のコミュニケーションだ。戦場に立てば、人は全てを脱ぎ捨てることになる。高度な知性体としての有り様。倫理観。道徳感情。それら全てを脱ぎ捨て、純粋な本能に応じて動く。敵を虐殺し、領土を侵略し、民草を犯す。そうしたプリミティブな欲求をぶつけ合う相手こそ……吾にとって唯一無二の、友と呼べる者達だった」
理解し難い。アルヴァートはただ話を聞くのみで、その本質的な意味については、まるで掴むことが出来なかった。そんな彼の心情を察したか、リュミナスは自虐的に笑って、
「そう。それが当然だよ、アルヴァート。吾は自分のことを理解してくれと言っているわけではない。むしろ、貴君はそれでいいと思っている。いや、そうでなくてはならぬと、言い換えるべきかな」
ここで一息吐くと、リュミナスは話を元のそれへと戻した。
「ともあれ。吾にとっては敵方こそが友であり、味方にそうした存在はどこにもなかった。殺し、殺され、憎み、憎まれ、犯し、犯され……そんな相手にしか、真の友情を抱くことが出来ない。そんな、あまりにもおぞましい人間なのさ、吾は」
そうだからこそ。
吾はいつだって、孤独感に苛まれていたと、彼女は冷笑を浮かべながら口にした。
「友愛の情を向ける相手とは常々敵対関係にある。であれば蜜月が長続きすることはなく、友誼の念を抱いた相手も、唯一愛した男も、吾は自らの手で葬ってきた。そんなことはしたくないと考えているのに、どうしても、そうなってしまう。そんな狂った自己矛盾に苦しみ抜いた末に、吾は……いつしか、破滅願望を抱くようになった」
ズクン、と。その言葉はアルヴァートの心を穿った。
「リュミナス様……! 貴女は……!」
戦慄く彼の姿に、リュミナスは目を伏せながら、
「元居た世界で、吾は自殺めいた闘争を展開し続けていた。けれども、見ての通り未だ健在だ。己の破滅をただ願うだけなら、いくらでもやりようはある。だが面倒なことに、吾には戦士としての矜持があった。ゆえに、自害など出来なかったのだ。戦場にて全身全霊を尽くし、その末に死を享受する。そうした結末でなければ、我が死に様として認めることは出来ない。そうした結末でなければ……吾は、戦士達の楽園に逝くことが出来ない」
戦士達の楽園。それは彼女の一族の中で代々語り継がれてきた、空想(、、)の一つである。
そこは戦士として立派な末期を迎えた者が、死後に辿り着く場所であり――
「その場で吾は、別離した者達と再会し、永劫に続く闘争を享受する。それだけが我が願望であり、希望だった」
天井を見上げ、息を吐くリュミナスへ、アルヴァートは唇を震わせながら、応答する。
「そんなものは、どこにも……!」
在ろうはずがない。
この残酷な世界に、死後の救済といった優しさなど、用意されているはずがないのだ。
「……ふふ、そうだな。吾だってわかっているさ。こんなものは、空虚な妄想に過ぎない。だがそれでも……ありえない可能性に、賭けたいのだよ」
「なぜ、そんな……!?」
血を吐くように出された問いに対し、リュミナスは渇き切った笑みを浮かべて、
「結局、元居た世界で吾を殺せるような戦士は居なかった。その後、紆余曲折あって、吾はこの世界へと転移したわけだが……こちらでもやることは同じだった」
闘争。闘争。闘争。
当時この世界の支配者であった《旧き神》を相手取り、己が破滅を願いながら、リュミナスは戦い続けた。けれども、異世界の強者でさえ、彼女を殺すことは出来なかった。
「いよいよ以て、我が心も限界を迎えようとした、そんな頃。吾は、カルミアに出会った」
極めて特殊な存在である彼女に、リュミナスは初めて、まっとうな友情を抱いたという。
「カルミアは、希望だった。彼女の存在は、吾の感性を普遍的なものにしてくれるのではないかと期待していた。……アルヴァート、貴君にしてもそうだ。吾にとって貴君は、生まれて初めて、まっとうに愛することが出来た存在だった」
カルミアとアルヴァート。二人は確実にリュミナスの心を癒やし、その狂気を抑え込んでいったが――――しかし、それでも。
「ダメだったよ。どうしても吾は、変わりきることが出来なかった」
落胆めいたその言葉は、アルヴァートに深い絶望をもたらすものだった。
お前との日々は、なんの意味も、なんの価値もなかったのだと。
そう言われたも同然の発言に、気付けば、アルヴァートは涙を流していた。
そんな彼から目を背けるように、リュミナスは視線を床へ落として。
次の瞬間、唐突に。あまりにも、唐突に。
衝撃的な言葉を、口にした。
「…………つい先ほど、な。ルキウスとガープが死んだよ」
滂沱の涙が、そのとき、ピタリと止まった。
「は?」
呆けたように口を開けるアルヴァートへ、リュミナスは紅茶を一口含んでから、
「吾が貴君を眠らせてから(、、、、、、、、、、、)、すぐのことだ。二人は敵方の本陣へと深く斬り込んでいった。そして……《魔王》と、その右腕を相手にして、凄絶な最期を迎えたのだよ」
淡々と紡がれる現実に、アルヴァートは呆然とすることしか出来なかった。
そんな彼に目を向けて、どこか物悲しい顔をしながら、リュミナスは言葉を続けていく
「知っての通り、《魔族》は我等《外なる者達》の遺伝子を基に創り出されたものだ。よってある意味、我が子も同然の存在と言える。そうだからか、我が軍の連中は誰も彼も死にたがりだ。ルキウスとガープはその中でも格別な存在だった。あの二人はまるで吾の心を生き写したような男達だったよ。常々死に場所を求め……そして遂に、それを見出した」
ここでリュミナスは、一気に紅茶を呷ると、
「……彼等の死に場所は、同時に、吾にとってのそれにもなり得るだろう。永き時を経て、吾の前にとうとうやってきたのだ。あの男こそが。あの《魔王》こそが。我が生涯において、最後の敵となるだろう」
この言葉が意味するところは、即ち。
「…………嫌だ。そんなことは、認めない。絶対に、認めない」
並々ならぬ哀切と、決意が、アルヴァートの総身から放たれた。
それは先刻、カルミアが発露した強い情念と同一のもの。
この人を止める。絶対に。なんとしても。
「嗚呼、そうだな。そうなると思っていた。だからこそ、吾は貴君を眠らせたのだ。しかし…………どうやら、神は吾のことをとことん嫌っているらしい」
静かに息を吐いて、席を立つ。そうしてから数歩刻んで……停止。
二人は真っ向から対峙して、睨み合った。
「思うように埒を明けたいのなら、もはやこれしかない」
両手を広げながら、まるで招くように、リュミナスは微笑した。
「おいで、アルヴァート」
そして、開幕する。
己が意を通さんがために。
両者は全力で、ぶつかり合った。
その様相はまさに神話の一幕。出鱈目な力の応酬に、宮殿が耐えられるはずもなく、豪奢なそれは瞬く間に瓦礫の山へと変わった。
その後、二人は数度、舞台を変えて戦い続け……平野の只中にて、決着が付いた。
リュミナスが抱えた思いは一人分。これに対し、アルヴァートの思いは二人分。
自分と、そしてカルミア。二人の感情が合わさったなら、例え彼女といえども、これを打ち破ることは出来ないはずだと、そう考えていた。
しかし――戦いを終えて、今。
地に伏せているのは、アルヴァートの方だった。
「う……あ……」
指一本、動かせない。声を出すことさえ困難。
それでもアルヴァートは、ぼやけきった視界の中に彼女の姿を捉えて、
「リュ、ミ、ナス、様……」
手を伸ばそうとする。けれども肉体は、応えてくれなかった。
「……済まない」
彼女は今、どんな顔をしているのだろう。それさえもはや、判然としなかった。
離れていく。
地獄から救ってくれた、あの人が。自分を獣から人へ変えてくれた、あの人が。
この世で唯一愛した、あの人が。
「待……て……待……」
離れていく。
離れていく。
体も。心も。
彼女を留めることが出来ぬ自分に、アルヴァートは絶望し、涙を流した。
やがて不明瞭な意識は闇へと沈み行き、視界が昏くなっていく。
「う……あ……あ……」
目尻から滴を零し、地面を濡らす。
もはや明確な意思を保つことさえ叶わず、ゆえに――
次の瞬間、アルヴァートが放った言葉はまさしく、魂が紡ぎ出した声に他ならなかった。
「母上……!」
初めての呼び名。常々そう思いつつも、遂に言えなかったそれ。アルヴァートにとってのリュミナスが、いかなる存在であったかを表現するに相応しい言葉。
――そのとき、歩を進めていた彼女が、ピタリと足を止めた。
「………………」
肩を震わせ、唇を震わせ、拳を握る。
だが、心の中に生じた迷いは、きっと僅かなものに過ぎなかったのだろう。
「……済まない。本当に、済まない」
愛情が、エゴを上回ることは、なかった。
「あ……あ……」
繋いでいた意識が、そのとき、プツリと切れて――
暗転した視界に映像が戻った頃には、全てが終わっていた。
何者かが運んだのだろうか。アルヴァートは再び、グラズヘイムの宮殿にある自室にて目を覚まし、そして、体の芯にまで刻まれた傷の痛みを撥ね除け、外へ出た。
感覚が走ったのだ。彼の感覚が。彼女の感覚が。
すぐ近くに、ヴァルヴァトスとリュミナスが居る。
中庭だ。そこに二人が、確実に存在する。
アルヴァートは一縷の希望を抱いた。ヴァルヴァトスがリュミナスを説得して、その命を存えさせ……かねてより、あの男が望んでいた人魔同盟を結んだのだと。
……実際、彼と彼女は、そこに居た。
中庭には今、宮殿に在る全ての武官、文官が集っていて、目前の光景に見入っている。
美貌の《魔王》と、その腕に抱かれた主。
リュミナスはまるで、眠っているかのように瞼を閉じていた。
リュミナスはまるで、人形のように動かなかった。
リュミナスはまるで――――死者の如く、肌が青白かった。
「戦士達よ。諸君等の主は、偉大であった」
無機質な声にどこか悔恨の情を宿して、ヴァルヴァトスが言葉を紡ぐ。
「その人柄は公明正大にして清廉潔白。民主主義と平等を基本理念に掲げた治政に、学ぶところは多く……ゆえに志は同じものだと、そう思っていた」
そして。
「……これより、彼女の遺志を伝える」
遺志。最後の言葉。末期に残した思い。
この単語に、アルヴァートは呆けた声を出した。
遺志? 遺志だと? 何を言うのか。リュミナスが死んだかのような言い草を、なぜするのか。彼女は今、そこに居るじゃないか。確かに、そこに、居るじゃないか。
「……リュミナス=ウォル=クラフトは、諸君等の抗戦を望んではいない。自身の亡骸に別れを告げた後、ヴァルヴァトスの軍勢へ降れと、そのように述べた」
そう語ってから、彼はリュミナスの体を芝生の上に置いて、
「……諸君等が、亡き主の思いに寄り添ってくれることを祈る」
言い終えると同時に、ヴァルヴァトスは姿を消した。
その後、どれほどの時間が過ぎたのか。
一昼夜。二昼夜。永遠と続く、沈黙と静止。
誰も、リュミナスに近寄ろうとはしなかった。
誰も、リュミナスに声をかけようとはしなかった。
受け入れがたい現実に、目を背けるかの如く。
だが、どのように足掻いても、その結論に達してしまう者は少なからず居て。
彼等は二通りの行動に出た。
「リュミナス様、万歳ッ……!」
太い涙を流しながら主を讃え、そして、己が胸へと短剣を突き立てる。
「全軍を纏め上げろッ! 大戦の準備だッ!」
あらん限りの怒気を放ち、合戦に対する気勢を煽る。
皆が現実を受け入れ、己がすべきことを見出す中。
アルヴァートは躊躇うことなく、舌を噛み切った。
激しい痛みと、大量出血。やがて彼は己の血に溺れ、呼吸困難となり……意識が朦朧となる。迫り来る死の予感。けれども恐怖など微塵もなかった。
むしろ、早急に消えてなくなりたいと、そのように思う。
胸の内を埋め尽くす絶望と悲嘆は筆舌に尽くしがたく…………
しかし。常人ならば死を享受出来ていたであろう、その瞬間。
周囲の風景が、激変する。以前、リュミナスの手によって意識を失った直後に見た、異様な景観とまったく同じものだった。
赤黒い空の下、どこか肌寒い平野の只中に、アルヴァートは一人、立っている。
明瞭な意識を保ちながら。無傷の状態で。
「ここ、は……」
しばしの当惑。そして…………願望の萌芽。
「まさか、ここは……戦士達の楽園、なのか……!?」
否定した、死後の世界。在ろうはずがない希望。それが有り得たとしたなら。
「リュミナス様……!」
彼女はきっと、ここに居る。いや、居てほしい。
アルヴァートは一縷の希望を胸に、謎めいた空間の探索を始めようとするのだが。
「いいや。違うよ。ここは君が思っているような場所じゃあない」
声が響く。
聞き覚えのあるそれは、再会を願う彼女のものではなく。
二度と見えたくないと、そう思っていた悪魔の、声だった。
「メフィスト=ユー=フェゴールッ……!」
反射的に名を呼び、そして、声の発生源へと目を向ける。
果たしてそこには、楽しげな微笑を浮かべた悪魔が立っていて。
「君の願望が叶うことは、未来永劫、決してない」
唇に浮かぶ不快な笑みを、ゆっくりと深めていき、そして。
「さぁ、悪夢の続きだよ、アルヴァート。苦しみ悶える姿で、僕を笑わせておくれ」
別れの挨拶でもするかのように、奴が手を振った、矢先のことだった。
元に、戻る。
周囲の景観が。己が身の状態が。全て、元通りになった。
アルヴァートは今、宮殿の庭園に立っていて。周囲には、自らの手で命を絶った同胞達が倒れ込んでいる。そんな彼等の姿を見る、アルヴァートの体は……
何事もなかったかのように、平常そのものであった。
「…………………………そんな、まさか」
状況の詳細を察したアルヴァートは、冷や汗を流しながら、心中を染め尽くさんとする絶望とその原因を否定すべく、再び舌を噛み切った。
しかし……結果は、前回のそれと同じ。
不気味な平野で目を覚まし、それからしばらく経つと、元の場所へ戻る。
これは、即ち。
「い、嫌だ……! そんな、こと……! あってたまるかッッ!」
再び命を絶つが、やはり結果は同じだった。
それでもアルヴァートは、現実を受け入れようとはしなかった。
死という救済が、用意されていないという現実を、決して受け入れようとはしなかった。
ゆえに――自決。
自決。自決。自決。自決。自決。自決。自決。自決。自決。
あの人が居ない世界に、生きる価値などない。
もはや自分には、存在の消失以外に救済はないのだと、アルヴァートはそう考えていた。
しかし、悪魔が仕掛けたであろう絡繰りが、彼の願望を否定し続ける。
幾度自決しようとも、アルヴァートは死ぬことが出来なかった。
謎めいた空間で目を覚ましては、しばらくして、現実に戻る。それを繰り返すのみ。
やがて自決を諦めた彼は、その身を軍勢の中に投じていた。
後日、残された戦士達は、和睦と同盟の交渉に来た相手方の使者を斬り捨て、出陣。
総員、死に装束を身に纏い、最後の一兵になろうとも戦い抜く所存であった。
総大将を失ってもなお、リュミナス軍が最強無比であることに変わりはなく、むしろ誰もが生涯最高の状態へと心身を仕上げ、最後の大戦へと臨み――
その悉くが、《魔王》の手によって討ち取られた。
リュミナス軍、総勢二万に対し、ヴァルヴァトスは単身にて迎撃。
全身に無数の傷を刻みながらも、決して退くことなく、猛る戦士達の魂に応えた。
果たして、無数の兵は瞬く間に失われ……ただ一人が残る。
血の海が広がる中、アルヴァートだけが生き存えていた。
無論、望んだ結果ではない。アルヴァートはこの場へ、戦いに来たわけでも、復讐に来たわけでもなかった。幾度となく矛を交え、その脅威を認め合った相手、《魔王》・ヴァルヴァトス。彼ならば、我が不死性ごと、この命を絶てるのではないか。
ゆえにアルヴァートは形式上の戦闘に臨み、当然の如く敗北して――
今、同胞達が流した鮮血の中に、その身を沈めている。
満身創痍。戦闘不能。だが、まだだ。まだ死んではいない。その気配さえない。けれども、この男ならば。生まれて初めて、我が心に絶大な畏怖を刻んだ、この男ならば。きっと殺してくれるはずだと、そう信じて、アルヴァートは彼の顔を見上げ続けていた。
「………………」
ヴァルヴァトスは無言のまま、大の字に倒れたアルヴァートの姿を見下ろし……
一歩近付いた、そのとき。
「来るなッ……!」
彼我の狭間に、一人の少女が現れた。
カルミアだ。彼女は美貌に怒気を宿し、ヴァルヴァトスの前へ立ちはだかると、
「それ以上、こちらへ近寄ることは、許さない……!」
背後にて倒れる彼を庇うように、両腕を広げてみせる。
そんな姿を見つめながら、アルヴァートはポツリと声を漏らした。
「邪魔を、しないでくれ」
感情の色など、どこにもない。
無機質な顔から、無気力な声が、淡々と紡ぎ出されていく。
「ヴァルヴァトス。後生だ。殺してくれ。頼むから。僕を、早く、殺してくれ」
そのとき、カルミアがどんな顔をしたのか。アルヴァートはきっと、知らないだろう。
彼はただ自分の望みだけを口にして、それを叶えてくれるであろう相手の姿しか、見てはいなかった。
「僕を殺すことが出来るのは、お前だけだ。だから頼む。今すぐ、僕を――」
求めた慈悲に、《魔王》は冷然とした声を返した。
「断る」
あまりにも短く、それでいて、あまりにも絶望的な一言に、アルヴァートは唖然とする。
「……なんだって?」
目を見開く彼に、ヴァルヴァトスは次の言葉を送った。
「貴様の存在は、グラズヘイムの統治に必要不可欠だ。これ以降、貴様は我が軍へ降り、主なきグラズヘイムを――」
「ふざ、けるなぁッ!」
魂を引き裂くような痛みを味わいながら、アルヴァートは無理矢理、上体を起こした。
「アル……!」
駆け寄ってきたカルミアの心情を慮ることなど、出来るはずもなく。
アルヴァートは彼女を突き飛ばして、ヴァルヴァトスを睨み、叫んだ。
「お前がッ! お前があの人を奪ったから、こんなことになったんだッ! あの人は、僕の全てだった! あの人が居ない世界なんか、なんの価値もない! だから――」
アルヴァートは崩れ落ちるようにして、再び倒れ伏せ、
「頼むよ……殺してくれよ……もう、嫌なんだよ……」
恥も外聞もなく、幼子のように泣きながら、縋り付く。
けれども、返ってきた答えは。
「悲哀を憎悪に変えよ、アルヴァート・エグゼクス。貴様はそうすべきだ。そうしなくてはならない。主を奪った者を憎め。この俺を、恨み抜け。そして誰よりも、この身の傍に立ち、隙を伺い、仇を討つ日を夢見て…………生き存えよ」
望みを叶えるつもりはない、と。殺してやるつもりはない、と。
そう告げた《魔王》の顔には、どこか哀切の情が宿っていた。
次の瞬間、そんな彼は少し、迷うような仕草を見せて。
先刻口にした内容と、矛盾するような言葉を投げた。
「……我が理想が成就し、闘争の全てが終わった後。まだ、貴様が死を望んでいたのなら」
そのときは。
「そのときは、俺がこの手で、葬ってやろう」
そして。
彼が立ち去ってからしばらく、アルヴァートは発狂したように泣き喚いて、暴れ回った。
「アル……」
精根尽き果て、身じろぎ一つしなくなった彼を背負うカルミア。そうしてグラズヘイムへ帰還し、残された文官達と顔を合わせ――
紆余曲折の末、彼は新たな統治者として、担ぎ上げられた。
文官達はリュミナスの遺志に寄り添うことを選んだのだ。
その後、リュミナスの逝去が民へと伝えられた、翌日のこと。
明朝。大広場に民衆が集い、誰もが、宮殿の頂上を見つめ続けていた。
尖塔からせり出した台座の上に立つ、彼の姿を、見つめ続けていた。
かつてリュミナスが纏っていた、紅き王の衣装。
新たな王として君臨するアルヴァートの言葉を、民衆は待ち侘びている。
そんな彼等の姿を、隣に並ぶカルミアと共に見下ろしながら。
アルヴァートは、笑みを作った。
かつての主のように、紛い物の笑みを、形作った。
「嗚呼、絶景哉、絶景哉。貴君もそう思うだろう? カルミア」
「……うん」
あの人のように語る。あの人のように振る舞う。
あの人のように。あの人のように。あの人のように。
「仮面(、、)を通して見る景色は、嗚呼、とても穏やかで……実に、不愉快なものだな」
死への渇望を抱きながらも、生き存えねばならぬという運命。
まともな心持ちで耐え抜けるはずもなく。
ゆえにアルヴァートは、狂うことを選択した。
狂気の仮面を被り、別人に偽ることを、選択した。
「さぁ民草に意思表明をしようじゃあないか。新たな王の誕生を。新たな自分の、誕生を」
狂っていれば、痛みが和らぐ。狂っていれば、涙も流れない。
そしてアルヴァートは、
「民衆よ! 諸君等の心には今、莫大な不安と恐怖があるだろう! だが、安堵せよ! 永久不滅など、この世にはない! 諸君等の心は時と共に晴れ渡るだろう!」
アルヴァートは、狂気の仮面を被りながら、宣言する。
「命脈尽きる、その日まで。乾いた瞳が何物も映さなくなる、その日まで。僕は――――いや、吾(、)は。この地獄を、愉しむことにしよう」
――ここで。
過去の記憶が、終わりを迎えた。
その途端、世界から色が抜け落ちて、純白色の虚無へと戻る。
「……イリーナ・オールハイド。もう、本当に時間がない」
焦燥を見せるカルミアに、イリーナは首肯した。
「……始まったのね。二人の戦いが」
確証はないが、確信はある。アードとアルヴァートの闘争は、今まさに開幕を迎えたのだと。そして、このまま手をこまねいていたなら、イリーナにとっても、カルミアにとっても、望まぬ結末へ至ってしまうのだと。
「改めて、お願いする。アルを救ってほしい。了承してくれるなら、わたしはなんだってする。あなたが望む全てを差し出す。だから――」
彼を、死なせないで。希う彼女の切実な思いと、強い覚悟。それに応えたいと思いながらも……イリーナの中ではまだ、当然の疑問が消えていなかった。
「どうして、あたしなの? あんたの願いは、アードにだって……」
これはつい先刻、聞きそびれた内容でもある。なにゆえアードでなく、自分に頼むのか。様々な点において彼よりも劣るであろう自分に、なにゆえこのような大事を頼むのか。
その問いに対して、カルミアは言い淀むことなく受け答えた。
「あの男とあなたとでは、死生観に違いがある。古代世界では誰もが、死という概念に救いを求めていた。それはアルも、あの男も、変わりがない。そして何より、あの男と彼が似通った人生を送っていることも、大きな問題。そのせいであの男は、アルを殺すことこそが救いだと、そのように考えてしまう」
カルミアの返答を受けて、イリーナは――
「けれど、現代生まれのあなたにはそれがない。死は決して救いではないと言い切れる。そんな死生観を持つあなただからこそ、アルを救うことが出来ると、わたしは踏んでいる」
イリーナは、強い違和感と、新たな疑問を抱いた。
カルミアの発言を紐解いていくと……
アードは古代世界で生まれたのだと、そんな結論になってしまう。
これはいったい、どういうことなのか。そのことについて、問いを投げるよりも前に。
「今し方話した内容が、あなたを頼った理由の半分。もう半分は…………わたしのエゴ。リュミナスを殺したあの男(、、、、、、、、、、、、)に頭を下げるだなんて、絶対に嫌」
カルミアの発言はまさに。
この一件に関する疑問、だけでなく。これまでイリーナが、アードに対して抱えてきた疑問の全てを、解き明かすようなものだった。
なぜ、彼はあんなにも強いのか。
なぜ、彼はあんなにも優しいのか。
なぜ、彼はあんなにも恐ろしいのか。
なぜ――彼はあんなにも、孤独なのか。
それは。
「――――やっぱり(、、、、)、アードは《魔王》様の生まれ変わりだったんだ」
驚きや当惑は、さほどなかった。
うすうす、勘づいていたから。
最初に彼のことをそのように思ったのは、学園祭にて、シルフィーが起こした騒動を解決した直後のことだった。
平穏が戻った学園生活の中で、ジニーが不意に、彼へこんな問いを投げたのだ。
“アード君は、《魔王》様、なんですか?”
彼はすぐさまこれを否定した。ジニーはその返答に納得したようだが……
イリーナは。誰よりも彼の傍に居た、イリーナだけは、それを感じ取っていた。
アードが嘘を吐いたのだと、そのように感じ取っていた。
「でも、そのときは、ありえないことだとも思った……アードが、そんな、まさか……」
しかし、イメージを重ねれば重ねるほどに、しっくりとくる。
アードは《魔王》様の転生体。この推測を証明するものは今まで、どこにもなかったが……心のどこかで、それが真実なのではないかと、そう思っていた。
ゆえに今。
その証を得たことで、イリーナはただただ、納得するのみだった。
「……そうね。もしアードが《魔王》様だったなら、そうするわよね」
これまでずっと、アードのことを見ていた。アードの活躍ぶりを見ていた。
だからこそ、わかる。彼は己の命に対して、あまりにも無頓着だ。自らの生命に対する危機を甘んじて受け入れ、そのうえで勝利する。こんなやり方を貫くような人間は、およそ死にたがり以外のなにものでもない。
きっと、過去に死を願い続けたから、そうなったのだろう。
きっと、過去に死を救いとして認識していたから、そうなったのだろう。
だからアードは、アルヴァートを殺すのだ。
そうすることが彼の救いだと。そんな、間違った結論を胸に抱きながら。
「……初めてかも、しれないわね。アードの考えを否定したいと思ったのは」
息を唸らせながら、イリーナはカルミアの目を見て、今一度。
彼女の意思確認と、そして、己自身の意思確認を、行った。
「あたしでいいのね? アードじゃなくて、あたしに助けてほしいと。あんたは、そう言うのね?」
「肯定する。この一件を解決出来るのは、あなただけ。だから――」
「いいえ。あんたの願いは聞けないわ(、、、、、、、、、、、)」
放たれた結論に、カルミアが唖然となった。
そんな彼女が何かを言う前に、イリーナはカルミアの目をジッと見据えながら、
「過去の記憶を見てて、常々思ってたんだけどね。あんた、ほんっとに素直さが足りてないわ。もっと自分の感情を正直に出しなさいよ。そうしていたなら、もしかしたら、こういうことにはならなかったんじゃないの?」
カルミアにも、思い当たるところがあったらしい。
言い返すことはせず、唇を引き結んで、沈黙する。
「あたしは、あんたの願いを聞いてはやらない。あんたの、偽物の願い(、、、、、)なんて、聞くつもりはない。だから――」
頭の中に、アルヴァートの姿はない。
目の前に、アルヴァートの姿など、断じてない。
そこに在るのは……ただ一人の、哀れな少女のみ。
イリーナは彼女だけを見つめながら、胸を張って、宣言した。
「カルミア。あたしは、あんたのことを救うわ。絶対に」
この子が望んだ結末を。
この子が取り戻したいと願った日常を。
必ずや、その手に。
アードではなく、このイリーナ・オールハイドを頼ってくれた彼女を、決して、泣かせたままで終わらせることはしない。
「ま、個人的にも、言いたいこととか、やりたいこととか、たくさんあるしね」
ここでフッと笑いかけて。
イリーナは、胸中に漲る決意の力を、言葉へと変えて放つのだった。
「――――全部、あたしに任せときなさい」