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閑話 不死の怪物と泡沫の夢 二


 近い。

 純白の空間に身を置く中、イリーナは不意に、そんな感覚を味わった。


「アードだわ……! アードがこっちに近付いてる……!」


 確信めいた思いを口にしてから、すぐのことだった。


「肯定する。彼等は現在、第一地点を通過。着実にアルのもと(こちら)へと接近している」


 すぐ傍で、虚空の只中に浮かぶカルミアが応答を寄越した。

 その声音には危機感など皆無。無機質な表情にも一切の変化はなかった。

 そんな、不自然なほど落ち着き払った姿に、イリーナは眉根を寄せながら、


「ねぇ。あたし達って、敵同士、よね?」

「肯定する」

「じゃあ、アード達がこっちに来るのって、不都合なことなんじゃないの?」


 なのになぜ、平然としているのか。その問いかけに、カルミアは首を横へ振って、


「否定する。現状は想定の範疇であり危機的状況と呼ぶべきものではない。彼等がアルとぶつかり合うまでは、わたしにとって予測の範囲内。もし、危機を感じるとしたなら」


 語る最中、カルミアはゆっくりと頭を動かして、イリーナの顔に注目した。

 人形のような美貌に見つめられていると、同性のイリーナでさえ恥じらいを覚えてしまう。そんな羞恥を誤魔化すように、彼女は慌てて口を開いた。


「な、なによ!? あたしの顔に何か文句でも!?」


 カルミアは再び小さく首を振った。長い白髪とそこに走る朱色の流線が、さらりと揺れる。それからしばし無言のまま、彼女はイリーナの顔を見つめて……


「わたしが危機を感じるとしたなら、あなたがアルを救わないという判断をしたときだけ」


 目を伏せるカルミアの顔に、イリーナは不安と恐怖を感じ取った。きっと彼女は、心の底からアルヴァートのことを好いているのだろう。そうした思いは確と伝わった。

 だからこそ……


「なんていうか、素直じゃないわよね、あんたって」


 真に救ってほしいのは、きっと。

 ……いや。いずれにしても、イリーナが抱く疑問が晴れることはない。


「ていうかさ。そもそも、どうしてあたしなの?」

「それは――」


 返答が紡がれる、最中のことだった。

 純白の空間が再び、変化を始める。白一色の世界に色彩が生まれ、急速に広がっていく。

 まるでキャンバスの上に絵画を描くかのように。

 気付けば、イリーナ達はそこに居た。

 石造りの部屋。どうやら前回の記憶から地続きとなっているようだ。

《邪神》の一柱にして、紅尽くめの美女リュミナスが、幼きアルヴァートを譲り受けた、その直後。そこからしばらく彼の体験を追うことになるらしい。今回で二度目、だからか。イリーナは目前の光景に対し、落ち着きを保ちながら見ることが出来た。


「……言わずもがな、ではあるがね。後で返せと言ったところで応ずることは出来んよ?」


 リュミナスの紅い瞳が、アルヴァートから別の存在へと移る。

 メフィスト=ユー=フェゴール。彼は美しくもおぞましい顔に微笑を浮かべて、


「大丈夫。そんなことには決してならないさ。その子は未来永劫、君のモノだ。体だけでなく……心さえも、ね」


 煌めく黄金色の瞳に、どこか邪な気配が宿る。気味が悪い。心の底から不快感が沸き立つような感覚だった。幼きアルヴァートもまた同じ感情を抱いていたらしい。


「幸せにおなりよ。……といっても、君には通じないのだろうね。何せ言葉を教えていないのだから」


 そう。彼の中に言語という概念はない。ゆえに何を言われてもわからない。だが、そうだからこそ、言葉ではなく心で、相手の本質を理解出来る。

 微笑むメフィストは天使のように美しく、紡がれる声は実に蠱惑的だが……アルヴァートの目にはその全てが、不愉快なものとして映る。

 吐き気を催すような何か。彼にとってメフィストとは、常にそれであった。

 彼の姿を目にしていると心がざわめく。胸の内で黒々とした情念が渦を巻く。

 消さなければ。そんな衝動に、アルヴァートは正直な反応を――――見せる、前に。


「さぁ、行こうか」


 彼の手にそっと、リュミナスの白い指が触れた。

 細くて長いそれが小さなアルヴァートの掌を包み込んでくる。

 ……温かい。こんな温もりは、初めてだった。この身に触れる手はいつだって冷たくて。与えてくるのは痛みだけだったのだけど。彼女が与えてくれるものは、心地が良かった。

 気付けば、悪魔に対する衝動など消え失せ――瞬きするうちに、目前の様相が激変する。

 薄暗く無機質な石室から、絢爛雅な都市の風景へ。アルヴァートは今、リュミナスと共に、数多の人々が往来する大通りの只中に立っていた。


「ようこそ。我が都、グラズヘイムへ」


 歓迎の言葉は果たして、彼の耳には入らなかった。無理もない。生まれた頃からずっと、あの石室だけがアルヴァートの世界だった。それが今、あまりにも急激に広がったのだ。

 目に映るもの全てが新鮮。身に受ける空気の全てが鮮烈。もし言語の全てを知り尽くしていたとしても、この感情を具体的に説明することは出来ないだろう。

 ただただ目を見開き、圧倒される。……そんな姿を見せるのは、アルヴァートだけではなかった。彼と同じように、イリーナもまた驚きを覚えている。


「ね、ねぇ、カルミア。この街って……《邪神》が治めてるのよ、ね?」

「肯定する」


 信じられない。

 現代生まれのイリーナにとって、《邪神》の統治下にある場所と聞けば、頭に浮かぶのは地獄絵図も同然といった惨状のみ。

 《魔族》が人類に鞭を打ち、路上には罪なき人々の亡骸が転がっているような……暗澹極まる様相だけが広がっているものと、そう思っていた。

 にもかかわらず、今、目の前にあるのは。


「皆、普通に暮らしてる……」


 往来を行く者達の表情。露店の主達が見せる表情。

 総じて明るく、活発で、淀んだものなど微塵もない。それが《魔族》のみであれば、納得も出来た。だが、目に映る人々の大半は人類だ。ヒューマン、エルフ、ドワーフ、ハーフリング、オーク。全ての人種が堂々と、肩で風を切って道を歩いている。


「……教わったのと、全然違う」


 歴史学の講義では常に、こうした光景とは真逆のことを教えられてきた。《邪神》と《魔族》は人類にとって、ことごとくが天敵であると、誰もがそう述べていた。しかし実際は。

「あなた達が《邪神》と呼ぶ存在……当時、《外なる者達(アウター・ワン)》と称されていた者達にも個性がある。確かに、彼等の多くは人類を嫌い、迫害していたけれど。その一方で、人を愛し、人に愛された者も居た。……リュミナスはその代表格」


 そう口にしたカルミアの顔はどこか、誇らしげに見えた。


「誰もが彼女を愛した。人間も、《魔族》も、関係なく」


 信じがたい。その一言に尽きるが、しかし。


「おぉ、リュミナス様! ちょうどいいところに! 今し方パンを焼いたばかりでして、もしよろしければお一ついかがですか!」

「ふはん。有り難う。ついでにこの子の分もいただけると嬉しいのだが」

「もちろんですとも!」


 脅されて商品を渡すのではなく、率先して話しかけ、自らの意思で奉納する。それは相手に対する敬愛があってこその行為で……しかもそれは、一人や二人の話ではない。


「おやリュミナス様。本日も麗しいですな」

「お連れになられているのは……ま、まさか、ご子息!?」

「お、お相手は誰ですか!?」

「そうさなぁ。貴君等にとっても既知の人物、とだけ言っておこうか」


 道を歩けば、貴賤を問わず多くの人間が声をかけてくる。


「あ、リュミナス様!」

「遊んで遊んで~!」

「応。本日も元気で何より」


 大人だけでなく、子供さえもが、遠慮なく彼女と触れ合っていた。

 幼子を相手に無邪気な笑顔を見せるその姿は、まるで女神のようであり……

 到底、《邪神》と呼ぶべき存在には見えなかった。


「なんというか……すごく、偉大な人って感じ」

「実際、リュミナスは偉人と呼ぶに相応しい。これほど多くの人々に愛された統治者はそうそう居ない。……わたしの使い手としても、申し分がなかった」


 最後に語られた内容は、潮騒のような活気に紛れて耳に入らなかったが、イリーナは特に気にすることなく、目前の様子に気を向け続けていた。


「う、あ、あ」


 周囲の景観と、自分を見る人々の温かな視線に、アルヴァートは呻き声を出した。

 なんだろう。この感情は、なんだろう。わからない。だが、嫌じゃない。

 むしろ……心地よかった。


「ふふ。気に入ってくれたようで何より。今日からここが貴君の故郷だ。これまでのことは忘れ、この地で健全に育つがいい」


 そっと彼の頭を撫でるリュミナスの顔は、子に対する母に似た優しさに満ちていて。

 その慈愛はアルヴァートの心を蕩かし、生まれて初めての笑顔を形作る――寸前。


「シィイイイイイァアアアアアアアアアアアアアッッ!」


 白昼堂々。大通りのド真ん中にて。のどかな午後の景観に似合わぬ物騒な雄叫びが轟いた、次の瞬間。頭上から、何者かが襲いかかってきた。


「おっと危ない」


 リュミナスが小さなアルヴァートの体を抱いて、真横へ跳ぶ。

 それからすぐ、今し方まで彼女達が居た場所へ、斬撃が降り注いだ。

 滑らかな流線を描く二振りの曲剣。回避しなければ、例え《邪神》といえども、その身を両断されていたに違いない。


「あ、あ、う……!」


 幼いアルヴァートには、現状が緊迫したものとして映った。

 あの、白髪混じりの男。あいつは危険だ。リュミナスへ向けられた鋭い眼光は、まるで猛獣じみた凶暴性を宿していて――何かせねばと、そう感じた次の瞬間。


「うあっ!」


 背後から伝わってきた悪寒に、アルヴァートは叫び声を放った。

 刹那――暴風を伴いながら、巨大な質量がリュミナスの頭部へと迫る。

 大鎚(ハンマー)。容赦なく振り下ろされたそれは、しかし、標的を捉えるには至らなかった。


「ふはっ!」


 楽しげな笑声を漏らしながら、リュミナスは真横へステップ。果たして大鎚は空転。されどその勢いは留まることを知らず、繰り出された一撃が地面を穿つ。膨大な土塊が晴天へと舞い上がる中、リュミナスは一言、アルヴァートへ口添えた。


「いいかね? 決して、動いてはならんよ」


 言葉を知らぬ身ではあるが、不思議と彼女の意図が伝わってきた。そして――


「さぁ、遊ぼうか」


 女神のようなリュミナスの美貌が、そのとき、苛烈な修羅の様相へと変化した。

 徒手空拳。両手に何も握らず、両足に何も仕込まず。五体のみを頼りとして、リュミナスは間近の相手へと踏み込んだ。

 つい先刻、大鎚を振るった巨漢。糸のように細い瞳に、果たしてリュミナスの動作は映っていたのだろうか。それほどまでに、彼女の躍動は素早かった。

 まさしく電光石火。

 瞬時に接近し、そして、不可避の一撃を打つ。どこをどう叩いたか、アルヴァートも、イリーナも、まるで把握出来ていない。気付けば巨漢の全身が宙を舞っていた。


「ははっ! あいっかわらず馬鹿力だねぇ!」


 愉快げな声を放ったのは、曲剣を構えた初老の男。

 彼の踏み込みもまた度外れて疾く、両者の間合いは一瞬にしてゼロとなり、


「背中がお留守――」

「それはこちらの台詞だよ、ルキウス」


 何が起きたのだろうか。

 ルキウスと呼ばれた男が、リュミナスの背後を取って不意打ちを浴びせんという場面。

 そんな状況だったはずなのに、今、背後を取られているのはルキウスの方であり、攻守はいつの間にやら完全に逆転して――


「ひひ。やべぇな、マジで」


 この男もまた、さっきの巨漢みたく宙を舞った。

 細身な体が青空へ向かう最中。

 巨漢は既に地に足を付けており、太い唇を一文字に引き結んで、


「むんッッ!」


 接近し、横薙ぎ一閃。ド迫力の打撃だが、これもまたもや空転。それから先ほどの状況を再現するかの如く、大柄な肉体が紙切れのように天へと舞い上がった。

 ……その後、延々と同じ光景が展開される。

 着地。

 突撃。

 回避。

 昇天。

 二人の男が地に足を付け、踏み込み、一撃を繰り出すも躱され、ブッ飛ばされる。そんな様子に、周囲の街人達は怯えるどころか。


「ひゅ~~! さっすがリュミナス様!」

「ルキウス様、がんばれ~~~~!」

「ガープの旦那ぁ! 一発入ったら今夜ご馳走しますぜ!」


 まるでサプライズ・イベントを楽しむ客のように、歓声を送るのみ。

 異様な事態に理解が追いつかないのは、アルヴァートだけではなかった。


「……何コレ?」

「気にしなくていい。いつものことだから」


 どこか呆れたような声音が、カルミアの口から出されてすぐ。


「へっ。たまにゃあ、こすっからいやり方も試してみようかね!」


 刃にも似たルキウスの鋭い眼光が、アルヴァートの姿を捉えた。

 来る。そう感じた瞬間には、既に。


「悪ぃな、小僧! ちょっとばかし――」

「う、ああああああああああああッッ!」


 すぐ間近へと迫ったルキウスに対し、アルヴァートは己が異能を発現する。

 黒炎。小さく華奢な全身から、そのとき、闇色の灼熱が噴き出した。


「うわっとぉ!?」


 予想外の展開だったか、ルキウスは喫驚した顔を晒しながら、咄嗟に後方へと跳んだ。


「……どうやら、ただの小汚い小僧ってわけじゃあなさそうだな」


 本能的に危険を察しているのか、彼の表情には強い警戒心があった。

 けれども、その口元に浮かぶ笑みには微塵の陰りもない。

 そうした様子がどこか、あの悪魔を思い出させ……実に、不愉快だった。


「あ、あ、あ……!」


 消し去ってやる。幼いアルヴァートの双眸に、凄まじい殺気が宿った。


「ひひ。小僧のクセして、いい目ぇしてやがる。俄然、楽しくなってきたぜ」


 ルキウスもまた、壮絶な戦闘意思を発露する。

 次第に空気が張り詰めていき、やがて限界を――


「嗚呼。流石にもう、ここまでにしておくべきだな」


 限界を迎えるという、一歩手前のタイミングで、リュミナスの声が耳に入る。


「終わりだよ、アルヴァート。これはじゃれ合いであって、殺し合いではないのだから」


 穏やかな声音は、すぐ傍から放たれていた。いつの間にか彼女はアルヴァートの横に立っていて。黒き炎を纏う彼へと、手を伸ばしていた。

 危ない。この人が、消えてしまう。

 生まれて初めて感じた、喪失に対する恐怖。

 それがアルヴァートの殺意と、その具現たる黒炎を、綺麗さっぱり洗い流した。


「うむ。良い子だ」


 リュミナスの白い手が幼い頭を優しく撫でる。その微笑みは先ほどまで見せていた苛烈なものではなく、蕩けるように甘やかで、柔らかいものだった。

 そうした二人の姿に、ルキウスは肩を竦めながら一言。


「幼児趣味にでも目覚めたんですかい? 御大将」


 どこか呆れたような口調に、敵意などは微塵もない。


「う、美しい」


 少し離れた場所に立つ巨漢……ガープの声と顔もまた、穏やかなものだった。

 唐突に現れた、二人の襲撃者。彼等の態度にイリーナは首を傾げながら、


「……なんなの、この人達? 敵じゃなかったの?」


 これを問いかけと受け取ったか、カルミアが回答を投げてきた。


「ルキウスとガープ。この二人はリュミナスの配下であり、彼女が率いる軍勢の中に在って、最大戦力と認知されている」

「つまり、敵じゃないってこと、よね? ……じゃあ、なんで襲ってきたのよ?」

「再会の挨拶」

「えっ」

「アレは二人にとって、再会の挨拶」

「……ちょっと、なに言ってんのかわかんない」


 端から見ると、あの二人は本気で主君の命を狙っていたように見えたのだが……。

 どうやら彼等はイリーナにとって、理解しがたい感性の持ち主らしい。

 幼いアルヴァートもまた、似たような感覚だったらしく、


「にしても小僧。お前さん、なかなか――」

「フゥウウウウウウウ!」


 にこやかに近付いてくるルキウスへ、アルヴァートはまるで猫のように威嚇してみせた。

 さっきまで矛を向け合っていたというのに、なぜ気安く振る舞ってくるのか。

 そういう奇妙な気質にも、あの悪魔に似た何かを感じ取ったがために、


「フゥウウウウウウウ! フゥウウウウウウウ!」

「ふはん。ずいぶんな嫌われようじゃあないか、ルキウス」

「ひひ。昔っから、動物とガキにゃあ懐かれた試しがねぇんだよなぁ」


 苦笑しながら、白髪混じりの黒髪をボリボリと掻く。

 それから。リュミナスは二人のことをアルヴァートに紹介してみせたものの、やはり言葉を知らぬ彼にとってはまだ、相手方は警戒すべき敵として映ったままだった。

 それを察したか、リュミナスは諦めたように諸手を挙げて、


「まぁ、関係の改善はおいおいしていけばよかろう」


 そう述べてから、彼女はアルヴァートを抱き寄せつつ、二人へ問うた。


「吾達はこれから宮殿へ向かうが……貴公等は?」

「戦帰りの疲れを癒やしてぇ、ってのが本音だが」

「れ、練兵の必要が、ある」

「ちょっとばかし課題が見えやしてね。こいつを潰しておかねぇと、気になってロクに寝れやしねぇ」

「ふははん。相も変わらず、修練に熱心なことよ」


 その後、二言、三言、交わしてから、彼等は別々の道を歩き始めた。淀みない足取りで、都市中央部へと向かって進んでいく。行く先は、豪奢な造りの大宮殿。威風堂々と居を構えるそれへ近付く毎に、周囲を行く街人の数は減っていき、代わりに宮仕えと思しき服装の面々が目立ち始めた。彼等は一見すると実に理知的で、身に纏う衣服も一般人のそれとは違い、身分の高さが窺えるようなものだったが――


「おぉ、リュミナス様。本日もご機嫌麗しゅう…………死ねぇいッ!」


 こんな奴とか。


「お帰りになられたのですね。では早速、溜まりに溜まった政務を…………オラァッ!」


 こんな奴とか。


「チィエエエエエエエエエエエエエエエエエエエイッッ!」


 こんな奴ばかりだった。


「……なんなの、この人達」

「ここではコレが日常。気にすることじゃない」


 初見時、イリーナはこの街を理想郷じみたものと捉えていたのだが……それが今や、戦闘狂の変態達が集う溜まり場といった、なんともアレな認識に変わっていた。


「……う、あ」


 リュミナスと配下達の奇妙な関係に、アルヴァートもまた首を傾げざるを得なかった。

 周りの連中がリュミナスに仕掛けている行為は、あの石室で悪魔が自分にしてきたことと同じものだと思う。なのに……なぜ、不快感がないのだろう。

 今の彼にはそれが、まったく理解出来なかった。


「わかるようになるさ。いつか、必ず」


 アルヴァートの胸の内を見透かしながら、リュミナスが微笑する。その後、配下達に襲われてはそれを返り討ちにするといった珍道中を経て、二人はある部屋へと入った。内観を見るに、執務室か。広々とした空間は書籍と紙束に埋め尽くされていた。特に机の上などは惨状じみた有様で、重要書類と思しき羊皮紙が天井に届くほど積み重ねられている。

 ――そんな室内にて。一人の少女が、腕を組みながら佇立していた。

 カルミアである。今、イリーナの隣に立つ彼女と、まったく同じ姿。しかしその白い顔にあるのは、無機質な様相ではなく。


「……今度という今度こそ、あなたには愛想が尽きた。放蕩癖もいい加減にしてほしい」


 明確な怒気を見せるカルミアに、リュミナスは困ったような苦笑を浮かべて、


「ふははん。積もりに積もった紙束が貴君の意思表示というわけかね。しかし、それにしても……これはいささかやり過ぎというものだろう。まさかまさか、言いつけた仕事を全てサボるとは。この光景、さしもの吾も目眩がするぞ」

「そもそも、わたしに政務仕事を押しつける方がどうかしている。あなたはわたしのことをなんだと思っているの?」

「それはもちろん、我が生涯における無二の友だよ。そうだからこそ、吾は貴君に頼り切ってしまうのさ」


 にへらと笑いながら言う彼女に、カルミアは盛大なため息を吐いた。


「……そういうところ、本当に嫌い」


 眉根を寄せてみせても、リュミナスはいけしゃあしゃあとした態度を変えることはなかった。そんな彼女に諦観を抱いたか、カルミアは再び嘆息を放つ。


「どうしてこうも自分勝手になれるのか。これがわからない」

「ふはははは。褒めるな褒めるな」

「……くたばれ、ド畜生」


 吐き出された毒を笑い飛ばしながら、リュミナスは別の話題を切り出した。


「さて。そろそろ彼の紹介をしようか」


 二人のやり取りを静かに見つめていたアルヴァート。その華奢な肩を抱き寄せながら、リュミナスは言葉を紡ぐ。


「この子の名は、アルヴァート・エグゼクス。今日この日より、貴君はこの子に仕えよ」

「…………は?」


 冷たい気迫が、カルミアの全身から放たれた。思わず尻餅をついてしまいそうな、恐ろしい迫力。けれどもリュミナスは涼しげな顔をしたまま、アルヴァートに目を向けて。


「言葉がわからん以上、言っても仕方のないことやもしれんが……彼女の名はカルミア。吾にとっては唯一無二の親友であり、最善最優の――」

「わたしは、あなた以外の何者も、使い手として認めるつもりはない」


 いつの間にか、カルミアがリュミナスのすぐ目前に居て、カッと目を見開いていた。


「わたしは、妹達とは違う。ヴァルトみたいに尻軽ではないし、デミスのように自身を道具として定義することもない。わたしは自らの意思で、カルミアとして、あなただけに仕えると決めた。それをないがしろにするのは、例えあなたでも許さない」


 血走った眼で、主人を睨み据える。

 尋常ならぬ様相に、しかし、リュミナスは微塵も態度を変えることはなかった。


「ふはん。ことあるごとに愛想を尽かしたと言うくせをして、やはり吾のことが大好きなのだなぁ、貴君は」


 カルミアの白い髪を撫でつけながら、リュミナスは愛おしげに微笑む。

 けれども、見開かれた瞳が平常に戻ることはなく、むしろますます迫力を増して、


「次に茶化すような真似をしたら、その時点であなたを見限る」


 放つ気勢が、彼女の本気を証明していた。

 そんなカルミアは瞬きもせず、ジッと主人の顔を見上げながら、


「あなたの意図がわからない。そんな子供なんか連れ帰って、何がしたいの?」


 カルミアからしてみれば、己を怒らせる現状は、総じてアルヴァートが原因であると、そのように考えているのだろう。


「わたし達の間に、そんな、どこの馬の骨とも知れない子供を、どうして入れ込むの? ……わけがわからない。納得のいく説明を求める」


 問いかけに対し、リュミナスはくたびれたように息を吐いて、天井を見上げた。

 そうして、しばし無言を貫いた後。


「正直なところ、自分でもよくわからんのだよ。なにぶん、生まれて初めての感情だ。…………後の世に何かを残したい。そんなことを考えるときが来るとは、思いもしなかった」


 ここでリュミナスは美貌から笑みを消し、真剣な面持ちとなってカルミアと向き合った。


「今一度、言わせてもらう。今日よりアルヴァート・エグゼクスに仕えよ。吾はこの子を見込んでいる。貴君もきっと、いずれは使い手として認めるだろう」


 カルミアは何一つとして応えなかった。宝石のような瞳に不満を宿して、主人を睨むのみ。そんな友人を困ったように見つめながら、リュミナスは言う。

 あまりにも、弱々しい語調で。


「いい加減、わかっておくれ。吾は永遠の存在ではないのだよ。貴君とは違って、ね」


 瞬間、カルミアの双眸に宿る感情が、総じて悲哀へと変わり、


「……嫌い。あなたのことなんか、大嫌い」


 唇を震わせながら呟くと、彼女はリュミナスを突き飛ばして、部屋から出て行った。


「やれやれ。すまなかったね、アルヴァート。見苦しかったろう?」

「う、あ……?」


 なにがなんだかわからない。彼の感想はそれだけだった。

 それはイリーナにしたって同じこと。カルミアとリュミナス、二人の関係がいかなるものか把握出来ていない以上、その感情の機微などわかるはずもない。


「なんていうか、その……」

「言葉は求めていない。あなたは黙って見ていればいい」


 気遣いは無用。そんな調子だった。


「さて。遺憾ながら、出鼻を挫かれてしまったわけだが……まぁ、そうだな。とりあえず、溜まりに溜まった仕事を片付けるとしよう。しばし捨て置くことになるが、許しておくれ」


 軽くアルヴァートの黒髪を撫でてから、リュミナスは執務机へと向かった。

 ――それから、時間がゆったりと流れて。


「ふう。やはり一日では終わらんか」


 椅子の背もたれに体重を預けつつ、リュミナスは伸びをしながら息を唸らせた。


「はぁ。やめだやめだ。かような仕事など明日に回せば良い。今日の吾は十分に頑張ったのだ。誰がなんと言おうと、もう働かんぞ。後のことは全て明日の吾に一任する。せいぜい頑張れ、明日の吾」


 独りごちながら、リュミナスはアルヴァートへ目をやった。


「そろそろ、夕飯と風呂の支度が出来ている頃だろう。初の体験に対し貴君がどのような反応を見せるか、実に楽しみだよ」


 果たして。その後、アルヴァートが見せた初々しい反応の数々は、リュミナスの期待感を存分に満たすものだった。


「ぶぼぉおおおおおおお!?」


 味覚を襲う美味なる暴力に耐えきれず、口にしたスープを思い切り噴き出したり、


「ふぁあああああああ……」

「うむ。本日も良い湯加減だ」


 心地良い入浴体験に、表情筋を緩ませたり。

 アルヴァートにとっても、そしてリュミナスにとっても新鮮で、実に幸福な時間は、瞬く間に過ぎていった。そんな過程を経て、本日も就寝時間を迎えたわけだが。


「うあ? あ?」

「それはベッドといって、貴君がこれから寝る場所……と言っても伝わらんか」


 ジェスチャーでなんとか意図を伝えるべく、四苦八苦しているリュミナス。その横で、ベッドの弾力を玩具にして飛び跳ねるアルヴァート。


「……う、ん」


 しばらくして、ようやっとリュミナスの苦労が報われたか、アルヴァートはシーツの上に寝転がって、緩やかな呼吸を繰り返し始めた。


「はぁ。まったく、子育てとは大変なものよなぁ」


 くたびれた声に反して、リュミナスの顔には幸せそうな微笑があった。


「添い寝でもしてやりたいところだが……あまりくっつきすぎては、貴君も鬱陶しかろう。それに……母思いになり過ぎて、親離れが遅れるといった事態は避けたい」


 寝息を立て始めたアルヴァートの横顔を、愛おしそうに見つめながらも。

 リュミナスはどこか切なげな表情で、言葉を紡ぎ出した。


「――貴君が共に歩むべきは、決して、吾ではないのだから」


 その声が彼の耳に届くことはなく。まどろんだ意識は、夢の世界へと誘われていった。

 ……それから、どれだけ時間が経ったのか。

 室内に「サァッ」という擦過音が響き、続いて、アルヴァートは強烈な(まばゆ)さを覚えた。


「うあ、あ……」


 瞼を閉じたまま、眉間に皺を寄せ、唸る。

 そして、鬱陶しい眩しさから逃れるように、毛布を被ろうとするのだが、


「させない」


 強い力で毛布が引かれたかと思えば、次の瞬間、アルヴァートの右頬に衝撃が走った。


「起きて。早く」


 今度は左頬に衝撃が走る。

 身に受けたそれを攻撃と受け取ったアルヴァートは、すぐさま瞼を開いて飛び起きると、


「ぐるるっ……!」


 ベッドの上に立ち、獣のような唸り声を出しながら、相手の顔を見下ろした。


「起こしに来てあげたのに、その態度。本当に不愉快」


 無機質な表情のまま、冷然とした声を放つ。それは紛れもなく、カルミアであった。

 彼女は底冷えしそうな目でアルヴァートを見据えながら、言葉を重ねていく。


「たいへん遺憾なことだけれど。しばらく、あなたの教育係をすることにした。どうせリュミナスはわたしの言うことを聞かないし、あなたを追い出すにしても、今みたく野生の猿も同然の状態ではあまりにも哀れ。だから、他者とのコミュニケーションがまっとうに送れるようになるまで、わたしが育ててあげる」


 感謝して。そう述べる彼女の目と声音はとことん冷たくて。

 アルヴァートにはそれが、気にくわなかった。


「ぐぁるぅッ!」

「威嚇される筋合いは、ないのだけど」

「ぐるるるるるぅッ!」

「とりあえず、ベッドから降りて。あなたに見下ろされるの、すごく不愉快だから」

「ぐらぁッ!」

「…………面倒臭いな、この猿野郎」


 舌打ちを零しながら、カルミアが物憂げな瞳に鋭い殺気を宿らせる。

 次の瞬間には殴り合っていそうなほど、張り詰めた空気。そんな中で。


「ふはっ。貴君らしい振る舞いだな、カルミアよ」


 なんとも楽しげな声が、室内に響いた。途端、二人はそちらへと同時に視線を向ける。

 朝っぱらから紅尽くめの美女、リュミナスが椅子に座りながら、微笑んでいた。


「う、あ!」


 ベッドから飛び降ると、アルヴァートは彼女へと駆け寄り、その豊満な胸へと飛び込んでいく。


「おうおう。甘えん坊さんめ。どうやら吾は、ずいぶんと懐かれたようだ」

「……なに? その、これみよがしな目は? なんの自慢にもなっていないのだけど?」


 イライラした様子のカルミアに、リュミナスは抱きついたアルヴァートの頭を撫でつつ、


「いや、なに。最高の神器を称する割には、子供の扱いもわかっていないのだなぁ、と。そう思ったまでさ」

「…………あぁ?」

「まぁ、気にすることもない。そもそも貴君の役割からは懸け離れたことゆえな。さしもの貴君とて、出来ることと出来ぬことが――」

「舐め腐るな馬鹿野郎。わたしに出来ないことなど、この世のどこにもない」


 どうやら、リュミナスはカルミアの扱いに長けているようだ。

 聡明に見えてその実、カルミアという少女は単純――


「今、失礼なことを考えた?」

「そ、そんなことないわよ!? あははははは!」


 真横から漂い始めた殺気に、イリーナは冷や汗を流すのだった。

 ……ともあれ。このときより、アルヴァートとカルミアの交流が始まったわけだが。


「本日は言語学習の小テストを行う。これまで教えてきた文字を組み合わせて、いくつかの単語を――」

「ば・か・お・ん・な」

「よろしい。ご褒美にゲンコツをあげる」


 この二人は、なんというか。


「高度な知的生命体は、テーブルマナーを守って食事をするもの。その基本は第一に無音、第二に所作、第三に姿勢。先日のように獣みたく肉にかぶりつくなど、以ての外――」

「うががぁ~~~~~~!」

「学習能力がないのか、この猿は」


 実に、噛み合わせが悪かった。それでもカルミアが教育係としての役割を放棄することはなく、アルヴァートが学習を拒絶することもなかった。

 リュミナスという大きな存在が、反発し合う二人を繋いだのである。

 彼女の頼みを無碍には出来ないカルミア。彼女との時間をもっと楽しみたいアルヴァート。二人の間には喧嘩が絶えず、お互いに歩み寄るようなことも一切なかった。

 まさに犬猿の仲といった二人だが、しかし、その関係が決裂することはなく――


 気付けば、四年の月日が流れていた。


 ――早朝。陽光が大地を照らし、小鳥達がさえずり始めた頃。

 本日も、カルミアは宮殿にあてがわれたアルヴァートの自室へと無遠慮に入り込んだ。

 その歩調は荒っぽく、安眠する少年への配慮など欠片もない。

 そして彼女は窓際へ向かうと、あえて思い切り音を鳴らす形でカーテンを開け放ち、


「起きて。早く」


 気持ちよさげに眠るアルヴァートへ、眩い日光と冷たい声音を浴びせかけた。


「う、んん……」


 息を唸らせながら、眉間に皺を寄せる。そうしながら。


「……もう少し、優しい起こし方が出来ないのかな? 君は」


 口から放たれたのは、ヒトの言語であった。この四年で、彼は目を瞠るほどの成長を遂げたのである。真っ当な言葉を覚え、日常生活におけるマナーや常識も身につけたアルヴァートは、もはや知性なき獣ではない。今の彼は相手の言葉は当然のこと、心に秘めた感情の機微さえも理解出来る。だが、そうだからこそ。


「あなたはどうして、お礼の一つも言えないのか。毎朝起こしに来てくれてありがとう。あなたの口から出る朝の第一声はそれであるべきだというのに、実際は常に文句だけが吐き出されている。これでは犬畜生の方がずっとマシというもの」

「僕がいつ、誰に、起こしてくださいと頼んだのかなぁ? 全部君が勝手にやってることだろ。それを恩着せがましく言われてもね、何言ってんのコイツ? って感想しか出てこないんけど」

「なぜこんなことが言えるのか。これがわからない。わたしが起こしに来なかったら、あなたは昼まで眠っている。自力で起きることも出来ない猿以下のあなたをわたしは毎朝起こしてあげているのだから、これは確実に感謝されるべき案件であって――」

「ふぁ~~~~。今日の朝ご飯はなんだろうなぁ~~~~。楽しみだなぁ~~~~」


 ぷいっとそっぽを向いて、欠伸をかますアルヴァート。

 そんな彼のことを、まるでゴミ屑でも見るような目で蔑み、舌打ちを零すカルミア。

 言語や感情の機微が把握出来るようになったからこそ、二人の関係は氷点下よりもなお低い場所へと落ちきっていた。


「……もういい。早く着替えて。リュミナスが待ってる」

「は!? なんでそれを真っ先に言わないのさ!」


 アルヴァートは跳ねるようにベッドから降りると、慌てて寝間着を脱ぎ始めた。


「異性を前にして、こうも恥じらいを見せることなく裸体になれるとは。やはりあなたは猿そのもの」

「異性? そんなのどこに居るのかな? え? まさか君、自分ことを言ってるの? だとしたら君はジョークの天才だね」


 二人にとって罵り合いは、呼吸も同然の行いであった。そうした関係は表面だけを見ると険悪そのものといった印象を受けるが……イリーナの目には、彼等の本質が映っていた。


「本当に仲がいいわね、あんた達」

「……このやり取りを見て、なぜそんな感想が出てくるのか。これがわからない」


 過去の記憶を目にしながら、不機嫌そうな顔をするカルミア。

 けれども心の内では別の感情を抱いていることを、イリーナは見抜いていた。


「遠慮なく言い合いが出来る相手っていうのはさ、本当に得がたいものだと思う。表面的には険悪だけど、でも、本当は――」

「うるさい。あなたは黙って見ていればいい」


 とことん素直でないカルミアに、イリーナは肩を竦めるのだった。そんな最中も、過去の記憶は進行を見せ続けている。緩やかな寝間着から、カッチリとした気品ある衣服へ着替えてすぐ、アルヴァートはカルミアを伴って部屋を出た。

 食堂へ向かうべく廊下を進む二人。道中、擦れ違った使用人達は、総じて同じ反応を示してくる。貴人に対する畏敬と、美貌に対する恍惚。それは主にアルヴァートへと向けられるものだった。隣に並ぶカルミアもまた人形めいた美形だが、こちらは使用人達からすると慣れ親しんだものに過ぎない。その一方で、アルヴァートのそれは年月を重ねる毎に磨きが懸かり、留まることを知らなかった。

 いずれは傾国の美姫さえも醜女に感じさせるような、桁外れの美貌となるだろう。

 そんな彼の美しさは、老若男女を魅了するものだったが……


「はぁ。嫌な視線だな、本当に」


 当人からすると、この容姿は何よりも不快なものだった。

 鏡を見る度に思う。また、あの悪魔に似てきた、と。

 アルヴァートはメフィストの分身とも呼べる存在。その関係はある意味、親子以上に密接なもので、それゆえに、成長と共に姿が似通い始めるのは必然であった。


「嫌なら変えてしまえばいい。魔法の力があれば出来るはず」

「……わかってて言ってるあたり、本当に君は底意地が悪いと思うよ」


 カルミアの言う通り、顔面の形など変えようと思えばいくらでも可能だ。

 にもかかわらず、そうしないのは。


「嗚呼、ようやっと来たか。おはよう、アルヴァート。本日も貴君は実に麗しいな」


 この人が、褒めてくれるから。広々とした食堂にて、長机を前にするリュミナス。その手前に並んだ豪華な食事には、一切の手が付けられていなかった。


「……お待たせして申し訳ございません、リュミナス様」

「ふはん。気にすることではないさ。もはやそれが日常だ」


 やりとりしつつ、アルヴァートは座席に腰を――


「本日、特等席に座る権利を持つのは、わたし」


 横から、カルミアが彼の体を突き飛ばして、そこへ腰を下ろした。

 リュミナスの真ん前。愛する彼女と向き合うことが出来る、二人の特等席。

 それを取られて、アルヴァートは瞳に殺意を宿しながら、


「……今日の戦闘訓練、地獄を見せてやるから覚悟しろよ」

「口だけ大将の言葉など恐れるものではない。あぁ、本日の朝餉も実に美味」


 今にも取っ組み合いの喧嘩を始めかねない二人。そんな様子を見つめながら、リュミナスはくつくつと喉を鳴らした。


「まったく、本当に仲が良いな、貴君等は」

「「はぁ?」」

「ふははん。ほら、息がピッタリ」


 ニコニコ笑いながら料理を口に運ぶリュミナス。どうにも釈然としないが、この人を相手に反論をする気にはなれない。そんなことをして万が一にでも不快感を抱かせたなら、アルヴァートは一生肩を落とすだろう。

 それほどに、リュミナスは彼にとって大きな存在になっていた。言語を学び、身なりを整え、時には不快な思いに堪え忍んだのは、全て彼女のため。リュミナスが褒めてくれる。笑ってくれる。ただそれだけが、アルヴァートの生き甲斐だった。

 彼女が喜んでくれるのなら、どんなことだってしよう。

 そうした決意は実に固いもので、それゆえに、


「嗚呼そうだ。アルヴァートよ、貴君もそろそろ初陣を飾るべきと考えているのだが」

「はい、喜んで」


 即答であった。お遣い感覚で危地へ行けと言うリュミナスもなかなか異常だが、そこになんら異を唱えないアルヴァートもまた、ある種の狂気に満ちていた。


「ふぅむ。間髪を入れぬ返事、たいへん好ましいが……しかし、わかっているのかね? 吾は貴君に遠足へ行けと言っているわけではないのだぞ?」

「心得ております。人と人とが全身全霊を以てぶつかり、命を取り合う場……即ち戦場。そこへ向かえと、そうおっしゃられたのでしょう?」

「然り。その通りではあるが…………貴君、恐怖はないのかね?」

「はい。これっぽっちも」


 初の戦を前にしたなら、誰しも強い反応を見せるもの。

 必要以上の昂揚。わかりやすい動揺。みっともない拒絶。

 しかし、アルヴァートにはその全てが当てはまらなかった。


「戦場で手柄を立て、貴女様に喜んでいただける時を、ずっと心待ちにしていました。そんな僕がどうして初陣を恐れましょうか。むしろ喜びしかありません。貴女様に手ほどきされた技術の数々、それらを実戦にて披露する瞬間が、今から楽しみです」


 すらすらと淀みなく、気負いもなく、流麗に言葉を紡ぐアルヴァート。

 その堂々とした姿に、リュミナスは出来た息子を見るように微笑んで、


「うむ。やはり吾の見込みに間違いはなかった。貴君には戦士の資質がある」

「光栄至極にございます」


 贈られし褒め言葉が、彼の心をより一層滾らせた。リュミナスを筆頭とするウォル=クラフトの軍勢は最強無比で知られており、昨今隆盛し始めた人類を中心とする反乱軍に対しても、無敗を誇っている。そんな軍勢を統率するリュミナスは、善き為政者である一方で、その本質は苛烈な戦士そのもの。ゆえに彼女が真に評価する相手は知的な文官ではなく、屈強を極めた戦士に他ならない。

 であれば。喜んで危地へ行こう。喜んで命のやり取りをしよう。

 敬愛する母であり、心から服従する主人の一番になれるなら、なんだってする。

 それがアルヴァート・エグゼクスの、存在意義なのだから。


「……どうせ泣きっ面を見せるに決まっている。前もって言っておくけれど、わたしに力を貸してやるつもりはない。わたしはあくまでも教育係であって、あなたを使い手として認めたわけではないのだから」


 憎たらしい教育係の言葉もまた、アルヴァートを焚き付けるに十分なものだった。


「君みたいな(なまくら)最初(はな)から頼りにしてないよ。僕は僕の力だけで頂点に立つ」

「その傲慢に報いが訪れることを祈る。心の底から祈る。わたしのことを(なまくら)と抜かしやがったことを後悔しながら死ね。あるいはもう今すぐ死ね。このド畜生めが」


 舌戦を展開しながら、アルヴァートは思いを馳せた。戦場にて手柄を立てる己の姿。それを称賛する、(リュミナス)の姿。まるで弾むような気分だった。

 そんな気分のまま――

 アルヴァートは、その日を迎えたのである。

 初陣の朝。されど特別なところは何一つない。

 カルミアの不愉快な起こし方に文句を垂れて、服を着替え、朝餉を摂り、そして。


「さぁ。征こうか、諸君」


 リュミナスが率いし軍勢の一員として、街を出る。

 その身に纏うは紅き軍服に似た装束。形こそ周囲の面々が着用するそれと同じだが、しかし、これは母がこの体に合わせて誂えてくれた特別なもの。

 初めて袖を通したものだが、これが実にしっくりと来る。

 リュミナスもその姿を、似合いであると褒めてくれた。

 ゆえにアルヴァートの心は常時喜びに満ちており……そうだからこそ、彼の馬廻として編成されたことに対する不快感など、取るに足らないものとして扱うことが出来た。


「ひひ。えらく上機嫌じゃねぇか、小僧」


 件の彼……ルキウスが馬上より声を掛けてくる。たくましい竜馬(りゅうば)に跨がり、ニタニタと笑う姿は、どこかあの悪魔を連想させるような雰囲気があり、どうしても好きになれない。

 それが態度にまで出るほど、アルヴァートはルキウスのことを一方的に嫌っていた。


「……君の声が耳に入ったことで、気分が少し滅入ったんだけど。どうしてくれるのかな」

「ひひっ。そりゃ悪うござんした」


 飄々と受け応える姿が実に不愉快。こんな男が自分の上官だなんて、認めたくなかった。


「……どうして、リュミナス様は親衛隊に入れてくださらなかったんだろう」


 てっきり、彼女の直属として編成されるものと思っていた。彼女のすぐ傍で、戦働きを見せられると、そう期待していた。しかし実際はこれだ。嫌っている男の配下として働けと、リュミナスはそのように下知を下したのである。


「御大将は戦になると周りが見えなくなるからなぁ。子供のおもりにゃ向いてねぇのさ」

「……僕はもう、子供なんかじゃない」

「ひひ。んなこと言ってる時点で、お前さんはまだまだ子供だよ」


 やはり、こいつは嫌いだ。

 共に双璧と呼ばれるガープに対しては、親愛の情がある。

 あの寡黙な戦士の背中は憧憬に値するものだ。ゆえに彼とは、近い距離感で接している。

 だがどうしても、このルキウスだけは初対面の頃から好きになれない。


「ま、初陣の童貞小僧なんぞに、誰も期待しちゃあいねぇよ。お前さんはせいぜい死なねぇよう気をつけてりゃいいさ」


 舐め腐った態度が無性に腹立たしい。こいつの鼻を明かしてやるためにも、絶対に活躍をしてみせると、アルヴァートは心に決めたのだった。

 ――そして。穏やかな道中の果てに、彼等はそこへ到達する。


「よぉ、小僧。見えるか? アレが俺達の墓場だぜ」


 冗談めいた口調だが、その目に宿る鋭さは、覚悟を決めた戦士のそれだった。

 僅かな凹凸が見られる平野の只中にて。遙か向こうに、巨大な壁がそびえ立っていた。


「いやはや、人間サマの底力ってのはたいしたもんだねぇ」


 顎をさすりながら、ルキウスが呟いた。


「天まで届くほど高く。何者も貫けねぇほど分厚く。ありゃあ、俺達《魔族》への憎悪が結晶化したようなもんだぜ」


 あの壁と、その内側に設けられた砦は、人類種を中心とした反乱軍が建造したもの。

 全方位をグルリと囲んだ壁は守護の要であるだけでなく、敵方を迎撃する矛としての役割をも担っている。


「一つ破るのも難しいってのに、大将首を取るためにゃあ、そいつを三つも破らなきゃなんねぇ。……ちなみに、俺等以外の連中はあの壁を一つも破れなかったらしいぜ」


 無理からぬ話だろう。あの壁と、それに守られた砦は、この先にある都市を防衛するための要となっている。ゆえに駐屯する敵兵の数は膨大で、こちらを迎え撃つ将の質も極めて高い。そうだからこそ、これまで誰もあの砦を落とすことが出来なかったのだ。


「そういう、難攻不落の砦を見事に陥落……ってのが最高にかっちょいい勝ち方だが。ま、そんなに気張るこたぁねぇ。なんせ俺等の役割は、あくまでも陽動だしな」


 ルキウスの発言通り、自分達に任された仕事はそれだった。

 ここで一暴れして、敵の目をこちらへと集中させる。その間、リュミナス率いる少数精鋭の別働隊が迂回ルートを経由し、この砦の先にある敵の最大拠点を急襲。反乱軍の指導者を討ち取ってその場を占拠する、というのがおおまかな戦略となっている。


「ちょっくら運動を楽しんで、御大将から連絡が来たら、作戦の成否にかかわらず撤退。いやまったく、気楽なお仕事だぜ」


 ヘラヘラと笑うルキウスだが……この一戦が容易なものでないことは、彼もよくわかっているはずだ。陽動としての役割を果たすには、相手方の心胆を凍らせ、全力で潰しに来るよう仕向けねばならない。さもなくば広く張り巡らされた探知網によって、別働隊の動向が敵方に把握され、作戦は失敗に終わるだろう。


「敵軍の心を周辺警戒が出来ないほどの恐慌状態へと追い込む。……果たして、君にそれが出来るのかな? ルキウス」

「ひひっ。任せとけよ小僧。敵をビビらせることにかけちゃあ、俺の右に出る奴ぁ居ねぇんだからよ」


 戦前の言葉は、ここまでとなった。どうやら相手方の警戒網に引っかかったらしい。彼方より、敵軍が洗礼の一撃を浴びせかけてきた。巨大な壁の表面に点状の煌めきが無数に灯ったかと思えば、次の瞬間、視界を埋め尽くすほどの流線が、殺到する。

《フレア》。火属性の基本的な攻撃魔法。《魔族》たるアルヴァート達からしてみれば、なんら恐るるものではないが……しかし、これほどの物量となれば話が変わる。


「防壁展開ッッ!」


 ルキウスの口から、鼓膜が破れんばかりの轟声(ごうせい)が放たれた。

 彼の命令は即座に実行され、軍全体が半球状の防壁によって守護される。

 全ての兵が一丸となって形成した最硬の盾。しかし、それでも。


「人間の厄介なとこは、まさにこいつだぜ」


 目前にて、防壁が殺到する《フレア》の群れを受け止めている。一撃の火力だけを見れば、敵方の洗礼は我が方の盾を破るものではない。だが、長き年月を経て、雨滴が岩を穿つように。この凄まじい物量は、いずれ必ず、最硬の盾をも貫くだろう。


「さっさと内側に入んねぇと、暴れることも出来やしねぇ。つ~わけで……全軍、突撃だオラァアアアアアアアアアアアアアアアアッッ!」


 ルキウスの号令一下、戦士達が一斉に躍動した。

 歩兵が大地を蹴り、騎兵が猛然と風を切る。

 そうしながら、防壁の修復と維持を同時に実行。

 まさに最強無比の面目躍如といったところか。これまであの砦へぶつかり、そして散っていった者達とは違い、初手で躓くようなことは決してないと断言出来る。敵方の物量は確かに厄介だが、それでも、ルキウスの手勢を苦しめるほどのものではなかった。


「……双璧が率いてるだけのことはある、か」


 アルヴァートがボソリと声を漏らした頃。

 どうやら自軍は、敵方の絶対防衛ラインへと足を踏み入れたらしい。

 降り注ぐ《フレア》の勢いが弱まり、それから、壁に設けられた小さな門が開いて――


「うぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッッ!」


 無数の軍勢が、雄叫びを上げながら飛び出してきた。

 やはり莫大な物量。この時点で既に、戦力差は五倍以上に開いている。

 されど自軍に萎縮するような臆病者は皆無。むしろ迫る敵の姿を目にして、誰もが牙を剥くような笑みを作った。先頭を走るルキウスもまた、同じように笑って、


「野郎共ッ! リュミナス軍最強の戦士は誰だぁッ!?」

「「「ルキウスッ! ルキウスッ!」」」

「疾風迅雷の猛将ってのは、どこのどいつだぁッ!?」

「「「ルキウスッ! ルキウスッ!」」」

「一番槍の代名詞はッ!?」

「「「ルキウスッ! ルキウスッ!」」」

「向こう見ずの体現者はッ!?」

「「「ルキウスッ! ルキウスッ!」」」


 将が叫ぶ度に、兵が呼応し、戦意を高めていく。彼等が放つ気勢は天を突くほどの高まりを見せ――次の瞬間、ルキウスが突出する。


「あぁッ! 死ぬには良い日だぜッッ!」


 彼を乗せた竜馬が主人の意気を汲み取って、猛烈に突進する。

 そしてただ一人、敵の大軍へと飛び込んで、


「ヒィイイイイヤッハァアアアアアアアアアアアアアアッッ!」


 奇声が放たれると同時に、両の手が握りし曲剣が、凄まじい速度で躍動する。

 その姿はまるで、刃の化身。近付く者全てを斬り刻む、斬撃の嵐そのものであった。


「シィイイイイイヤァアアアアアアアアアアアアアアアッッ!」


 彼の周囲に血しぶきが舞う。

 単身のルキウスに対し、敵兵が必死に武器を繰り、魔法を放つが……総じて無駄事。

 刃が触れる前に全身を刻まれ、飛来する攻撃魔法はことごとくが両断される。

 そんな彼の技能は当然として、彼が跨がる愛馬もまた、尋常のものではなかった。

 かの竜馬もまた、戦士の気質を有しているのだろう。瞳に闘気を宿らせ、魔法を発動し、行く手を阻む連中を主人に先立って蹴散らしていく。

 まさに人馬一体の戦技。

 双璧の威光、ここに在り。


「御屋形様に続けぇええええええええええええッッ!」

「おぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおッッ!」


 ルキウス軍は一丸となって、彼が作る一本道を征く。その進行を止めることは、誰にも出来なかった。果たして――


「ハッハァ! 邪魔するぜ、皆の衆ッ!」


 第一の壁、陥落。分厚い門をバラバラに両断して、ルキウスが壁の内部へと侵入した。

 その後へ続く形で、自軍が雪崩れ込んでいく。

 ――圧倒的な光景であった。壁の内側での戦いは、まさしく地獄絵図も同然。全方位を敵方に囲まれ、磨り潰されるようにして、味方が一人、また一人と死んでいく。

 そこにはもはや、ヒトは居なかった。人も魔も関係なく、誰もが知性を失っていく。


「きぃいいいやぁあああああああああああああああああああッ!」

「るぅああああああああああああああああああああああああッ!」


 叫声。

 およそ、高度な知性を持つ者が放つようなそれではない。

 獣だ。誰もが今、獣へと落ちている。

 そんなザマに成り果てながら、持てる力を総動員させて、敵方を屠るのだ。

 魔法で。刃で。素手で。……そうした光景を前に、イリーナはただただ圧倒されていた。

 目を覆いたくなるような惨状に、気分が悪くなる。

 そして、それは。

 アルヴァートもまた、同じ。

 戦前、息巻いていた自分を恥に思う。想像も出来なかった。戦場が、これほどまでに凄まじいものだったなんて。戦場が、これほどおぞましいものだったなんて。


「ハァッ……! ハァッ……!」


 さして動いてもいないのに、息が上がっていた。耳朶を叩く怒号に、心が揺らめいていた。なれば必然、周囲に対する警戒がおろそかになり――


「ちぃああああああああああああああああああッ!」


 そのとき、アルヴァートの背中に戦闘意思が叩き付けられた。

 反応、出来ない。斬られ――


「おっと危ない」


 いかなる魔技によるものか。アルヴァートへ不意打ちを浴びせんとした兵が、一瞬にして細切れとなった。

 それを成した男は、あいつだ。

 遠方にて、今、敵の包囲を破らんと働く、ルキウスだ。彼は一瞬こちらを見て、


「背中がお留守だぜ。自殺志願者か? お前さんは」


 出来の悪い子供を見るような目と、皮肉めいた笑み。

 その声と顔が、アルヴァートの意気を昂ぶらせた。


「う、お……あぁあああああああああああああああああッッ!」


 地獄の中に、少年の雄叫びが轟く。

 もはやその瞳に畏怖はなく。もはやその心に怖じ気はなく。ゆえに。


「《来たれ》ッ! 《甘き死よ》ッ!」


 二唱節の詠唱が叫び放たれた、その瞬間、アルヴァートの全身が漆黒の炎に覆われる。

 かつては無意識の産物だった。けれども今は、それを自在に操ることが出来る。

 そして――アルヴァートは死神と成りて、戦場を蹂躙し始めた。


「《我は放つ》ッ! 《獄淵(ごくえん)の刃》ッッ!」


 身に纏う黒き炎が、まるで意思を持ったように蠢き、幾千、幾万にも枝分かれして、猛然と敵軍を襲う。それに触れた者は総じて意気を失い、白目を剥きながら倒れ伏していく。


「ハッ!」


 気迫を吐きながら、地面を蹴る。

 その疾走を止められるような者は皆無。

 接近する敵も、逃げ惑う敵も、一切合切関係なく、闇の炎に抱かれて消える。

 まるで、黒翼を広げる堕天使のようだった。

 アルヴァートの体から放たれる黒炎は、やがて戦場を埋め尽くし――


「背中がお留守だよ」


 ルキウスの背後にて。今まさに、不覚の一撃を受けんとしていた彼を守護するかのように。敵兵が繰り出した槍へと、黒炎が纏わり付いて、その存在を消し去った。


「なッ……!?」


 驚愕と同時に、闇色の炎は敵兵をも飲み込んで、彼の命を喰らい尽くす。

 そんな様相を目にしながら、アルヴァートは一言。


「君は自殺志願者かな? ルキウス」


 意趣返しの言葉を叩き付けてやった。


「ひひ。上等じゃねぇか、小僧」


 歯を見せて笑うルキウスに、鼻を鳴らすアルヴァート。

 この時点で、戦の趨勢は決したのである。打ち破ることは困難と見られていた、第二、第三の壁。けれどもそれは功を競う二人によってあっさりと突破され――


「大将首は、僕がいただくッ!」

「あ、ちょ! ずりぃぞ、おい!」


 ルキウスを出し抜いたアルヴァートが、見事、この一戦を終結へと導いたのだった。

 ――その後。別働隊として動いていたリュミナス、ガープもまた己の役割を完遂。反乱軍によって占拠されていた都市を奪還し、元の領主へと返還して、ルキウス軍と合流した。

 そして、皆の故郷グラズヘイムへの帰路を進む最中。


「此度の戦勝、貴君の戦果によるところが大きい。まっこと、素晴らしい初陣であったな、アルヴァートよ」


 リュミナスが跨がる竜馬に同乗を許されるという栄誉。

 後ろから彼女に抱かれ、称賛の言葉と共に、頭まで撫でられて……


「ふへ、ふへへ、ふへへへへ……」


 極楽気分とはまさにこのことか。表情筋をダルダルに緩ませたアルヴァートの姿に、両隣を行くルキウス、ガープは苦笑しつつ、


「ちったぁ認めてやろうかと思ったが……やっぱまだまだ小僧だな」

「だ、だが、微笑ましい」


 二人の声など、聞こえてはいなかった。


「ふへへへ。リュミナス様、僕、頑張りましたよ」

「うむ。よもや大将首を取るとは。さしもの吾も驚いた」

「ふへへへ。難攻不落の砦、打ち破っちゃいました」

「うむうむ。貴君は吾の想像を超えるほどの戦士だ。実に素晴らしい」


 母に成果を自慢する子供。今のアルヴァートはまさにそれだった。

 しばし、リュミナスは彼が欲するもの全てを与えるのみだったが……

 不意に彼女はアルヴァートの頭を撫でることをやめて、一つ、問いを投げた。


「どうだったかね? 初の戦場は」


 たいしたことはないと、強がりを言おうかとも思ったが……やめた。

 この人に嘘はつきたくない。だからアルヴァートは、正直な感想を口にする。


「恐ろしいと、思いました。心の底から」


 答えてすぐ、リュミナスは再び彼の頭を撫で始めた。

 どうやら正解だったらしい。彼女はどこか上機嫌な調子で、反応を返してくる。


「うむ。それでいい。貴君は間違いなく、それでいいのだ」


 彼女の声音には、我が子を慈しむ母性に満ちていた。……が、その一方で。


「血みどろの闘争に身を投じ、その果てに戦士の楽土(ヴァルハラ)へ至らんとする。左様な馬鹿者は、もはや我々だけで十分だ」


 少年期のアルヴァートは終ぞ、気付くことが出来なかった。

 リュミナスの慈愛に、哀切が宿っていたことを。

 ――ここで再び、周囲の空間が色あせて、純白へと戻る。

 キャンパスのようなそこへ身を置きながら、イリーナはポツリと所感を述べた。


「なんていうか……あたしが知ってるアルヴァート様とは、全然違うわね……」


 こうした状況になる直前の事態を除いて、過去に一度、イリーナは彼と対面したことがある。神を自称する不可思議な子供の力によって、古代世界へと時間跳躍をしたときのこと。アードやジニーと共に《魔王》・ヴァルヴァトスへの謁見に臨むというところで、彼女等は当時のアルヴァートと出くわしたのだが、


「雰囲気が、全然違う。喋り方も。顔つきも。……どうして、あんな風になったんだろう」


 記憶にある彼の姿は、螺旋が外れた戦闘狂といった風情で。つい先刻まで見ていたそれとは、まるで別人であった。……この疑問に、カルミアが反応する。


「実際、彼は別人を演じている(、、、、、)。そうしなければ、悲哀に押し潰されて、心が壊れてしまうから。もはや彼は、真にアルヴァート・エグゼクスとして生きることは出来ない。別人としての生でなければ、耐えることが出来ない」


 カルミアの言葉を理解するには、まだ、イリーナはアルヴァートのことを何も知らなかった。だからもう、何も言うことはない。その経緯を聞くつもりもなかった。

 きっと今から否応なく、全てを見ることになるだろうから。

 そしてそれは――およそ、気分のいいものではないと、イリーナは予感していた。

 ゆえに沈黙を保ちながら、次が訪れる瞬間を待つ。

 反面、カルミアは虚空を見上げながら、蕩々と語り紡ぐ。

 過去に目を向けて。悲哀の言葉を、語り紡ぐ。


「思い返してみれば……つい先刻の一戦が、始まりだった。

 反乱軍の中に在って、特に存在感を強めていた派閥。

 これを打ち破ったことで、リュミナス軍の武名は一層誉れ高いものとなり、同族からは敬意を、人類種からは畏怖を集めて……

 それが、終わりの始まりだった。

 人間達の希望を打ち砕くような結果を、作るべきではなかった。

 もし、あの一戦に敗れていたなら……

 いや、それでもきっと、結果は変わらない。

 どう足掻いても、いつか必ず、やってくる。

 あの男が。

 あの、憎らしい男が。


 ――《魔王》・ヴァルヴァトスが、いつか必ず、やって来る」



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