第一〇三話 元・《魔王》様と、悪魔の導き 後編
《魔族》が《邪神》を崇拝し、手足のように働く理由。
それは文字通り、彼等にとって《邪神》は神も同然の存在だからだ。
超古代において《旧き神》が我々人類を創造し、使役したように、《邪神》達もまた便利な道具として《魔族》を創ったのだと、俺はそのように解釈している。
アルヴァート・エグゼクスもまた、そんな《魔族》の一人であった。
であれば、当然、奴を創ったあの男は、その不死性に関する秘密を把握していよう。
しかしながら……素直に話すかどうか。
一抹の不安を抱えつつも、それ以外に選択肢はない。
ゆえに我々は転移の魔法を用いて、そこへ向かった。
狂気山脈。この土地は、そのように呼ばれている。連なった山々によって形成された、広大な自然風景。その雄壮さは人々の心を惹き付け――内側へと誘い、喰らう。
ただ美麗な自然が広がるだけの土地であれば、狂気山脈といった名称が付くことはない。
この場には呼び名に相応しき異常性があった。
ここへ足を踏み入れたが最後、並大抵の人間は例外なく心を狂わせ、狂気へと走ってしまう。そうなれば皆、誰もが非業の結末を辿り――
そんな者達の血肉を吸収することで、この山脈は美しい自然を維持しているのだ。
「……二度と足を運ぶまいと、そう思っていたが」
「まっさか、こんな形で再訪することになるなんてね~」
山脈の只中にて。オリヴィアが忌々しげな顔をして呟き、それに反応する形でヴェーダが笑う。狂気山脈が有する異常性など、微塵も通じてはいない。
それは彼女達だけでなく、俺やライザー、シルフィーにしても同じことだった。我々の心はヤワじゃない。これしきの精神汚染など、そよ風を受けるが如し。
だが、やはり……ジニーには厳しい環境だったらしい。
「う、う……」
右手でこめかみを抑え、呻く。そんな彼女を慮りながら、俺は声をかけた。
「ジニーさん、やはり貴女は別の場所で待機を――」
「いや、です……! 私だけ、何もしない、なんて……!」
狂気山脈の異常性が影響を及ぼしているのか。
ジニーは今、極めて直情的な状態になっていた。
「私にだって、プライドがある……! 置いて行かれたくない……! 絶対に……!」
普段、決して見せることのない顔。しかしこの負けん気は、ジニーが精神的成長によって獲得した、宝にも等しきもの。それが放つ煌めきは、狂気山脈の影響をも吹き飛ばすだろう。俺はそう信じることにした。
「……では、そろそろ参りましょうか。異常性を生み出す、元凶のもとへ」
言いつつ、俺は東方へと目をやった。
山脈の只中に鎮座する、大型の遺跡。その中央部に、奴が居る。
「……皆さん、どうか気を強く持ってください」
さもなくば、奴が放つ気力に呑まれてしまうだろう。
我々は皆一様に緊張を覚えながら、遺跡の内部へと足を踏み入れた。
……暗い。光源など取り付けてはいないため、辺りは闇に満ちている。
「とはいえ、暗闇が原因というわけではないのでしょうね。こうも、気が滅入るのは」
嘆息しつつ、俺は魔法を用いて、小型の光球を創り出した。
周囲を照らしつつ、皆と共に進んでいく。と、ジニーが不意に呟き声を漏らした。
「とても、入り組んでますわね……」
「だねぇ~。内部情報を把握してないと、一〇〇人が一〇〇人とも迷っちゃうんじゃないかな。でも、必要な設計だからしょうがないね」
「必要な設計って、どういうこと?」
「ここはさ、あの人の封印を補強するために創られたんだよ。通路は俯瞰して見ると、巨大な魔法陣を描くように出来てる。この建造物そのものが、巨大な封印装置ってわけだね」
そう。この遺跡はそのためだけに、俺が手ずから創ったものだ。形成された魔法陣は永久的に作用するよう設計されており、奴に施した無限牢の封印を絶対的なものにしている。
だが……これほど手の込んだことをしてもなお、安心には程遠い。
ライザーもまた、俺と同じことを考えていたのか。
複雑な通路を歩きつつ、眉根を寄せながら口を開いた。
「《魔王》・ヴァルヴァトスによる全身全霊の封印態勢。これを受けたなら、例え相手が何者であろうとも待ち受けるは永劫の苦痛のみ……と、尋常の手合いが対象であればそう考えるところだが。されどここに封じられている相手は、そのように思わせてはくれぬ」
ライザーは言う。彼奴めは決して、我々を安心させてはくれぬ、と。
実際のところ、あの悪魔は俺の想定から外れた状況を創り出している。
この土地が狂気山脈と呼ばれているのが、何よりの証拠だ。
「……ヴァルが施した封印は、対象の力を完全に封じ、赤子よりもなお弱々しい存在へと堕とすものだった。……であるにも関わらず」
「あの人は、それでもなお外部に影響を及ぼしてる。……それが意図的なものだったなら、単純にヤバいってだけで済むんだけどねぇ」
珍しく、ヴェーダが緊張した様子で、頬に汗を浮かべていた。
……そうだ。この狂気山脈に広がる異常性が、奴の意図したものなら、単純な怪物というだけで片が付く。
けれども実際は違う。あの悪魔は、何もしてはいないのだ。悪影響を広めてやろうとか、封印の穴を突いて何か悪事をしてやろうとか、そんなことは何も考えてない。
ただそこに居るだけで、奴は世界に対して絶大な影響を及ぼしてしまう。
ゆえに、この土地が有する異常性は、意図的なものではなく。
奴が存在しているという、それだけの理由で、発生しているものだ。
「……これまでさんざん、規格外という言葉を身に受けてきましたが。アレに比べたなら、私など常識的な存在の範疇でしかない」
真にそう呼ぶべきは、あの悪魔ぐらいなものだろう。
規格の中に決して入れない。入れてはならない。
ゆえに誰よりも孤独で、誰よりも恐ろしい。
――――そんな悪魔の姿を思い浮かべた、次の瞬間。
『やぁ皆。我が家へようこそ』
頭の中に、声が響いた。
透き通るように美しく、それでいて、吐き気を催すほど不愉快な音色。
これは間違いなく。
「メフィスト=ユー=フェゴールッ……!」
不快感を込めて、声の主を呼ぶ。そんな俺の態度に愉悦でも感じたのか。
次に響いた声音は、実に上機嫌なものだった。
『いやはや。先のライザー君に続いて、こうも連続的にお客さんがやって来るだなんてね。寂しがり屋な僕としては、とても喜ばしいことだよ』
弾むような語調に嘘偽りはない。奴からしてみれば俺達は旧友のようなもので、それと再会したことを心から喜んでいるのだ。こちらの敵愾心など微塵も慮ることなく、奴はただただ一方的に、友好的な感情を送るのみ。まさしく身勝手の極みと言えよう。
そういうところが相変わらず、不愉快だった。
『さて。本来なら皆におもてなしをすべきところだけど……今回は二人きりで話したいな』
新たな言葉が頭に響いてからすぐ、俺の目前に煌めく薔薇の花束が現れた。
『そこから先に進んでいいのは、君だけだ。それが嫌だと言うなら仕方ない。残念だけど、お帰り願うしかないね』
俺は皆に目配せをして、意思確認を行うと、
「……いいでしょう。今からそちらへ向かいます。私一人で、ね」
宙に浮かぶ花束を無視して、俺は一歩踏み出した。
「アード君……お気を、つけて……」
ジニーの弱々しい声が、背後から飛んでくる。
「大丈夫。心配することはありません。私のことよりも、今はどうかご自愛ください」
こちらの身を案ずる彼女に感謝を述べてから、俺は歩み始めた。
勝手知ったる遺跡の中を進む。一歩、また一歩と刻んでいく毎に、圧力が高まっていく。
近付いている証拠だ。あの悪魔に、俺は間違いなく、接近している。
「……先のライザーの一件以降、少なくとも一〇〇年は顔を合わせたくないと、そう思っていたが…………まったく、ままならんものだ」
嘆息と共に足を動かし、そして、巨大な門扉の前で立ち止まる。
この先だ。これを開いたその先に、奴が居る。
忌々しい真っ黒なオーラが、門の内側から漏れ出ていた。
『君と僕の仲だ。ノックなんかいらないよ。遠慮なく入室するといい』
まるで家主のような語り口調。
封印されている立場にあるとは微塵も感じさせぬ、堂々とした態度。
「あぁ、まっこと不愉快な男だよ、貴様は」
苛立ちを声に乗せて吐き捨てる。そうしてから俺は、門扉に触れた。
瞬間、ギィ……と音を立てて、巨大な門が動き出す。
そのさまはまるで、怪物が口を開いているかのようだった。
そして。
「やぁ、ハニー。久しぶりだね、本当に」
天使のような美貌に、悪魔のような微笑を浮かべて。
史上最悪の宿敵が、こちらを出迎えてきた。
その様子と、室内の景観を目にした瞬間。俺はこの日一番の、実に深いため息を吐いた。
……当時、奴の体には複数の黒剣が突き立てられており、そこへさらに、闇色の拘束具を着せて、完全に身動きを封じ込めていた。
それだけじゃない。目、鼻、口、耳。穴という穴を塞いで、喋ることはおろか呼吸さえ出来ない状態にしてやったうえ、黒剣から伝わる苦痛は、生まれてきたことを後悔するほどの苛烈な責め苦として機能するよう、設定してあった。
無論のこと、魔力や異能、神通力の行使など不可能。奴はここで未来永劫の苦痛に悶え苦しむ……と、そのようになっているはずだったのだが。
「……予想通りとはいえ、それでも腹立たしいな」
苦痛を運ぶはずの黒剣。全身を拘束しているはずの拘束具。いずれも見当たらない。
奴は身綺麗なまま、白と黒を基調色とした、奇抜な装束を纏うのみ。
また、室内の景観も激変している。
ここは元来、だだっ広い石室でしかなかったはずなのに、今、床には純白のカーペットが敷かれ、その上に豪奢な家具が置かれている。
天上には絢爛雅なシャンデリアが在り、室内を煌々と照らし続けていた。
壁面には見目麗しい壁紙が貼られているだけでなく、複数の絵画まで並ぶ始末。
インテリアコーディネートを楽しみ尽くした。そんな印象を受ける景観に、俺は歯噛みするほかなかった。
「そんな怖い顔しないでおくれよ、ハニー。最初はね、君の願う通りにしてあげようと思っていたんだ。本当だよ? 僕を出し抜いたご褒美として、君が望んだように、ここで永い永い苦痛を受け続ける。そう考えていたのだけど…………なにぶん、飽き性なものでね。三〇〇年ぐらい経った頃かな。自分の環境に飽きてしまったんだ」
肩を竦めながら、悪びれたように舌を出して見せる。
「いや、本当に心苦しかったのだけどね? でもやっぱり、僕は自分に正直で在りたいから。悪いとは思いつつも、拘束を解かせてもらったんだ。ついでに剣も抜いたよ。だってほら、あんなものがくっ付いてたら日常生活の中で邪魔になるだろう?」
……そもそも日常生活など送れるはずがなかったのだが。
「それから二〇〇年ぐらい過ぎた頃、かな、ふと君達の顔でも見たいなぁと思ってね。ここから出ようとしたのだけど……流石は僕のハニーだね。それだけは出来なかった。だから僕は永いこと、ここに居座ることになって……いや、本当に退屈で仕方なかったよ」
やれやれといった調子で、首を横に振る。
だが、その黄金色の瞳は相変わらず、鬱陶しいぐらいに煌めいていた。
「けれどね。僕は一言も愚痴なんか零さなかったよ。つまらない現状に嘆くよりも、そうした中に何か楽しみを見出す努力をした方が建設的だ。そうだろう? 辛いときにこそ、ポジティブな思考が必要なんだ。これは僕の人生哲学の一つさ」
ふふんと、得意げに胸など張ってみせる。
「そういうわけで。僕はこの環境を楽しむことにした。今の僕にしか出来ないことを考えて、その全てを実行したよ。結果は見ての通りさ。家具を作ってみたり、絵画に挑戦してみたり、本を執筆してみたり…………いや、本当に充実した、楽しい時間だった」
奴は言う。全部君のおかげだ、ありがとう、と。
皮肉でもなんでもなく、心から感謝しているようだった。
「けれどね。確かに、ここでの生活は楽かったのだけど……やはり人は一人じゃ生きていけないんだね。僕の頭には常に君の姿があったよ。固い絆で結ばれた、君の姿がね」
奴は恥じらうように頬を紅くして、人差し指同士をくっつけ、体をもじつかせながら。
「知っての通り、僕は意外と寂しがり屋さんだから。もう本当に、君のことが恋しくて仕方がなかったんだ。この数千年、君との再会を心待ちにしていたんだよ。君からすると、僕との再会は数日ぶり程度なのかもしれないけれど、君が出会ったのは僕の分裂体であって、僕自身じゃない。だから僕にとっては数千年ぶりの再会なわけで。喜びもひとしおというか。あぁ、うん。ちょっと抑えが効かないから、とりあえずハグとキスを――」
「うるさい黙れ死ね」
気持ちが悪い。
その一言に尽きる。
だが、こちらの明確な拒絶を受けてなお、不愉快な悪魔は笑顔を絶やさなかった。
「アハハハ。恥ずかしがらなくてもいいのに。あ、それとも外見が変わったことを気にしているのかな? 大丈夫だよ、僕は見た目なんて気にしないから。確かに、転生前の君はこの世の何よりも美しい姿をしていたけれど、僕が君に惚れたのは外見が理由じゃあないんだ。僕は君の存在そのものを――」
「舌噛んで死に腐れ」
無表情のまま、無機質に言い放つ。これでようやっと、取り付く島がないことに気付いたか。奴はお手上げとばかりに両手を挙げながら。
「まぁ、こうして君とお喋り出来るってだけで、十分だと思おうか」
残念そうにしつつも、奴はこちらに近付くことなく、すぐ傍にあったテーブル席に腰を落ち着けた。
「君も座りなよ。お茶でも飲みながら歓談しようじゃないか。ちょうど最近、家庭菜園にも挑戦しててね。良い茶葉が作れたから、是非君に――」
「俺達は茶を飲み合うような関係ではない」
どこまでも、我が心は冷え切っていた。
ちょっとした敵対関係にあっただけなら、ここまで冷然とした態度はとらない。かつての宿敵の中には、交流を深めた相手も数多居た。
しかし。この悪魔とだけは、死んでもごめんだ。
「やれやれ。いけずだねぇ。でもまぁ、それでもいいさ。君がどのような態度で接しようとも、僕達が何よりも固い絆で結ばれていることには変わりないのだから」
「……戯れ言を抜かすな」
「いやいや。事実だよ。君が真の意味で友情を育めるのは、この僕だけさ」
意味深に笑うメフィスト。挑発か。あるいは、普段通りの妄言か。
いずれにせよ、付き合ってやるつもりはない。
「前置きはたくさんだ。本題に移らせてもらう」
立ったままこのように切り出すと、メフィストは小さく微笑んで、
「アルヴァートの不死がいかなる理屈で成り立っているのか。君はそれを聞き出すために来た。そうだろう? ハニー」
まるで、こうなることを予見していたかのような口ぶり。
実際、奴からしてみれば、この状況は想定通りの内容だったらしい。
「そもそもの前提からして、無理な話だったのさ。殺して欲しいと願う彼。殺さないでと願う彼女。二人との約束は相反するものであり、両立させることは出来ない。そうだからこそ……君は片付けるべき問題を放棄して、未来へと転生したんだろう?」
肩を竦めながら、メフィストは言う。
「精算すべき過去から目を背けたならどうなるか。君は長い半生でそれを知ったはずだ。にも関わらず愚行を犯したということは……よほど辛い状況に陥ったのだろうねぇ」
他人事のように話すその態度が、あまりにも憎らしかった。
もとはと言えば、貴様が原因だろうが。
そう怒鳴りたかったが……時間の無駄と判断し、俺は努めて冷静に言葉を紡いだ。
「そうだ。俺は本当に愚かだった。心から反省している。……そうだからこそ、貴様に頭を下げる覚悟まで決めて、この場に立っているのだ」
口にした言葉に偽りはない。もしメフィストが望むのなら、頭を下げるだけでなく、どのような要求にも応えるつもりでいる。
……しかし、奴は特に何も求めることはなく。
「いいよ。教えてあげる」
至極あっさりと、語り始めた。
「アルヴァートの不死性は、冥府との空間連結によって成り立つもの。彼そのものが冥府の一部として機能しているがために、現世でいかなる手段を用いようとも、その存在を消し去ることは出来ない。何せ彼は別次元存在であり、普遍的生命ではないのだからね」
メフィストが口にした内容を、しばらく頭の中で反芻し、噛み砕いていく。
「……つまり貴様は、冥府の特定領域に手を入れて、その空間そのものに意思を持たせたということか?」
「流石ハニー、理解が早いね」
出来の良い子供を褒める、親にも似た笑顔。
……実に不愉快な男だが、やはりその力は規格外と言う他ない。
生命という概念が成立するためには、肉の器と自己意識が必要となる。
前者は主に母の胎内で形成され、後者は霊体が創り出すものだと、一般的にはそのように結論づけられているわけだが……
アルヴァートの自己意識は霊体に由来するものではない。冥府の一部領域そのものが奴の自己意識となっている。奴からすれば霊体は現世に意識を留めるための補助装置でしかなく、それを消したところで意味がないということだ。
――要約してしまえば。
「アルヴァートの自己意識を形成・維持している空間を消し去らぬ限り、奴は決して死ぬことはない。別の言い方をするなら、それさえ成せれば奴を殺すことが出来る、と」
「概ねその理解で間違いないよ。……それで? 他に聞きたいことは?」
二、三、質問し、全ての回答を得る。結果、知りたかった情報は総じて手に入った。
「具体的なプランが出来上がったみたいだね。それじゃあ、もう――」
「あぁ、もはや貴様に用はない」
情緒も何もなく、俺は冷然と踵を返した。用件が済んだ以上、この場に居座る理由は皆無。一秒でも早く皆のもとへ帰りたい。奴と同じ空気を、吸っていたくない。
そうした強い衝動が、歩調を早めていく。
「やれやれ。お別れのキスぐらいしてくれてもいいのに」
どこか拗ねた語調。けれども、反応を返してやるつもりはない。
無視を決め込んで、歩き続ける。
そして、部屋を出るまであと一歩といった、そんなタイミングで。
「君には、悪癖がある」
背後から飛んで来た声に、俺は思わず足を止めた。
なぜそうしたのかはわからない。ただ、何か、メフィストの声音にはそうせざるを得ないような、引力じみたものがあった。
「絶大な力を有し、こと戦においては無類の強さを誇っているけれど。君の精神性は、日常生活の中に在っては脆弱と言う他ない。無意識のうちに、君は立ち向かうべき問題から目を背けてしまう。そうだからこそ、どれだけ反省したところで、同じことを繰り返す」
ぞわり、と。
そのとき、全身が総毛だった。
気付けば冷たい汗が噴き出し、溢れて溢れて、止まらない。
そんな中、背後にて、我が心胆を寒からしめる邪悪が、淡々と言葉を紡いでいく。
「悪魔は相手が誰であろうとも、求められたなら手を差し伸べるものさ。けれどね。そんな存在を頼ってしまった時点で、過程がどれだけ順調であろうとも、結果は決まり切ってる。何せ――見返りを求めない悪魔なんて、この世には居ないのだから」
そして。
「いいかいハニー。よく覚えておきなよ」
メフィストは、あまりにも意味深に、あまりにも不気味に。
こんな言葉を、言い聞かせてきた。
「――――過去からは逃げられない。過去は決して、君を逃がさない」
なぜか、その一言を耳にした途端。
俺は、駆け出していた。
背後にて扉が閉まる音が響く。奴の存在感が、遠ざかっていく。
それでもなお、俺は躍動する足を、止めることが出来なかった――