第九三話 元・《魔王》様と、末期の意味
「うああああああああっ!?」
開けた空間の只中に、イリーナの悲鳴が響き渡る。
まるで見えない糸に引っ張られるかの如く、彼女の体が勢いよく前進し――
我が目前へと肉薄。
「よ、避けてアードっ!」
叫びと共に斬撃が放たれた。
連撃である。
目にも止まらぬ剣舞。
半数は完全に捌けたが、もう半数はこちらの全身に刃傷を刻み付けた。
「あぁっ!」
己の手で友を傷付けたという現実を前にして、イリーナが顔を悲嘆に歪ませた。
そのうえ目尻に涙まで溜めた彼女を見つめながら、俺は後方へ跳び、距離を離す。
……さてこの状況、いかなるものと判断すべきか。
「う、うぅ……なんで、こんな……やだよ、こんなの……助けて、アードぉ……」
紅い濡れ鼠となった俺を前にして、泣き崩れてしまうイリーナ。
そうした姿を前にしても、俺は徹頭徹尾、冷静であった。
感情的になってはいけない。何せこれは、メフィストによる悪趣味な遊戯なのだ。
本質を見抜かねばならない。さもなくば、取り返しのつかぬことになる。
「……未来へと転生し、ようやっと出来た親友と殺し合わせる。なるほど、確かに奴らしい趣向ではある、が」
思考せよ。
真実はどこにある?
感じ取れ。
この身に向けられた悪意の形は、いかなるものか。
「……実に不愉快だな。もっとも憎む存在と、自分とを、同一化させる作業というのは」
俺はメフィストだ。メフィストは俺だ。
奴と同一の存在となり、その思考を読むのだ。
「……ここで終わらせることを是とするか、否か。いずれにせよ試せばわかる、か」
結果次第では、我が人生をここで終わらせることとなろう。
とはいえ、覚悟は出来ている。
無念を抱きながら死ぬという覚悟。あるいは、過ちを犯して嘆く覚悟。
あらゆる未来に対して覚悟し、冷徹にならねば、悪魔に立ち向かうことは出来ない。
ゆえに。
「ア、アードっ!?」
我が行動に、イリーナが驚愕の念を放った。
放棄である。俺は彼女の目前へと、こちらの得物を放り捨てたのだ。
「ど、どういうこと……!?」
こちらの意図が読めず、当惑した様子のイリーナ。
そんな彼女へ、俺は両腕を広げてみせる。
完全なる無抵抗を表すかのように。
「ダ、ダメよ……! そんなのダメよ、アードっ!」
我が行動を自己犠牲であると判断したのだろう。イリーナがポロポロと涙を零した。
……実際のところ、そのようになるかもしれない。
此度の状況、結末は三種ある。
一つ。イリーナが俺を殺し、我が道程は無念と共に終幕。
二つ。俺がイリーナを殺し、心が崩壊するほどの悲嘆を味わう。
そして、三つ目は――
「い、いやっ! いやぁあああああああああっ!」
悲鳴と共に、イリーナが向かってくる。間合いはすぐさまゼロとなり、こちらを刃圏に捉えるや否や、彼女は刀身を大上段へと振り上げた。
縦一文字に両断するつもりか。なるほど、なかなか残酷な末路だ。
「う、動いてっ! 動いてよ、アードっ!」
強い焦燥感。偽りの情とはとても思えない。
本物だ。イリーナが放つ感情は、間違いなく本物だ。
友を失う恐怖と、それを止められない自分への悔恨。いずれも本物、だが――
「あぁ、答えが見えた」
迫ってくる。刃が俺の頭部へと、迫ってくる。
これは確実に、我が命を絶つための斬撃だ。
そうだからこそ俺は――――確信へと至った。
「気に入った玩具を壊すとき、貴様はいつだって前のめりになる」
まさに死の間際。人生の幕が引かれるという、寸前にて。
俺は身を横へ移し、殺到する刃を回避した。
そのまま流れるように五体を躍動させ、両手で相手方の手首を拘束。
そこへ捻りを加え、手首の関節を極めて……へし折る。
両手を破壊されたことで、相手方は剣を保持することが出来なくなった。
手元から得物が零れ落ちる。
そして――
「詰めを誤ったな、メフィスト=ユー=フェゴール」
俺は敵方の剣を奪い取って。
躊躇うことなく、その胸元へと突き刺した。
「あっ……!?」
小さな悲鳴を上げながら、己の胸を貫いた刃を見つめる。その口元からは紅い滴が漏れ落ち……そして奴は、俺の顔へ目線を移し、涙を流した。
「ど、どうし、て……?」
俺は嘆息すると同時に、敵方の胸から刃を引き抜いて、
「茶番を続けるつもりは、ない」
イリーナの……いや。
イリーナに化けたメフィストの首を、一太刀にて両断した。
撥ねられた頭部が宙を舞い、地面へと落下して、転がる。
もしこれが本物のイリーナだったなら、首は永遠に沈黙したままであろう。
しかし。
「おかしいな。完璧に演じたつもりなのだけど」
断たれた首から、声が放たれた。
怖気が走るほど美しい、悪魔の声だ。
俺は奴を見下ろしながら、舌打ちを漏らした。
「完璧であるものか。本物の彼女であれば、あぁした状況になったなら、己を犠牲にしてでも相手を救うだろう。舌を噛むか、あるいは……自分を殺して生き延びてくれと、迷いなく言い放つ。それがイリーナだ」
とはいえ。
そのことについて、メフィストが理解していないはずもなく。
「……貴様は昂揚すると、途端に詰めが甘くなる。およそ最後の最後まで、俺を殺そうと考え、動いていたのだろう。だがその直前になって、貴様の昂揚感は極限を超えた。ゆえに芝居ではなく、貴様自身の本音を口にしてしまった。……ここで殺すなんて、やっぱりもったいない。あのとき貴様は、そのように考えたのではないか?」
こちらの問いかけに対し、メフィストは嬉しそうに微笑んだ。
そして長年連れ添った恋人に、睦言を囁くような声で、
「さすがだよハニー。やっぱり君だけだ。僕のことを完璧に理解しているのは」
俺は吐き捨てるように言葉を返した。
「あぁ。そのおかげで、貴様の幻影がいつまで経っても頭から消えなくなった」
「ふふ。それは嬉しいな。そんなにも僕のことを想って――」
鬱陶しい雑音を消すために、俺は敵の生首へ刃を突き立てた。
「これ以上、貴様と言葉を交わすつもりはない」
柄を離し、それから、先ほど投擲した己の得物を回収。
そうして。
「……二人もまた、悪趣味な遊戯に付き合わされているはずだ」
オリヴィア、シルフィー。両者共、今まさに苦悶の最中であろう。
心配なのは……オリヴィアだ。
普段、彼女は一切の隙を見せず、危うさも感じられぬが……ある一点、そこを突かれると途端に脆くなってしまうところがある。
あの悪魔が、それを見逃すはずもない。
「……急がねば」
何か強い胸騒ぎを感じて。
俺は、駆けだしたのだった――
◇◆◇
小さい。
敵の姿を目にすると同時に、オリヴィアはそんな感想を抱いた。
相手方の背丈は極めて小柄で、こちらの半分程度しかない。そこに加え、フードから覗く顔立ちの一部からして、相手が年端もいかぬ少年であろうということが窺い知れた。
――しかし。
この膂力。この技量。
共に、尋常のものではない。
一〇、二〇と剣を交え、足運びの末に、オリヴィアは敵方と共に開けた空間へと出た。
そこでも剣戟を展開させながら、彼女は思索する。
(小柄であるということは、基本的にデメリットが大きい)
(だが……己の背丈を超えるほどの長剣を振り回す膂力と、抜群の技量が備われば)
(的が小さい分、小柄な肉体にはメリットしかない)
敵方の剣技はオリヴィアをして一流と認めざるを得ないものだった。それだけでも十分に脅威だが……
(剣のみの手合いではない)
(そこに魔法を加えて、独自の戦術を生み出している)
オリヴィアが後方へと飛び退り、間合いが開いた、その瞬間。
敵の周囲に数多の煌めきが顕現する。
それらは魔法によって創造されし、輝光を放つ刃であった。
(間合いが開けば、これを絶えず撃ち続けてくる)
(魔法によるものゆえ、斬魔術での対応は可能だが)
斬る。無数に放たれし刃を、片っ端から斬って斬って斬りまくり、ことごとくを消し去っていく。その動作は無謬にして流麗であるが、しかし……どうしても対応に気を取られ、ほんの僅かだが、相手への警戒がおろそかになってしまう。
そこを突いて、敵が急接近し、こちらの胴体目掛けて斬撃を振るってきた。
呼吸、力み具合、そしてタイミング。全てが完璧。これはまさに不可避の一撃である。
が――
(戦闘能力に不足はない。しかし、わたしを仕留めるには経験不足だな)
オリヴィアは悠然とした心持ちで、易々と敵方の動作に対応する。
全てはフェイクであった。敵方はこちらを追い詰めたと考えているのだろうが、逆だ。
そのようになるよう、オリヴィアが誘導したのである。
(このようなところで、かかずらってはおれん)
(シルフィー、そして……)
弟分の姿が、脳裏に浮かぶ。
一刻も早く彼のもとへ。そのためにも――彼女は思い描いたとおりに事を進めていった。
まずは迫り来る刃を躱しつつ、相手の胴薙ぎをこちらの刀身で受け止め――足払い。
尻餅を付くと同時に、相手のフードが脱げた。
(獣人族か。黒髪から獣の耳が伸びている)
(同胞の幼子を斬るのは心苦しいが……大義のためならば、致し方なし)
敵が晒した致命的な隙に対し、オリヴィアは剣を振り上げた。
――その瞬間。
「……ね……うえ……」
俯いた敵方の口から、小さな呟き声が漏れる。
それを耳にすると同時に。
オリヴィアの脳裏に、断片的な映像が浮かび上がった。
“大広場に集う民衆”
“観覧する《魔族》達”
“笑う悪魔”
“絶望する、我が一族の男女”
“顔に無念を浮かべる両親”
“振り下ろされる刃”
そして――
『い、いやだ! 死にたくない! 死にたくない!』
『たっ、助けてください、姉上ぇええええええええ!』
もう、思い出すことも少なくなった、過去の残骸。
数千年を経てようやっと癒えつつある、心の傷。
それをなぜ、今、思い出すのか。
――その疑問の答えを。
悪魔が、無慈悲に笑いながら、告げた。
『大義のために全てを犠牲にしてきた君だけど』
『愛する弟は、さすがに斬れないよね?』
唐突に響いたメフィストの声を受けて、オリヴィアの顔色が一瞬にして青ざめた。
「そんな、馬鹿な」
剣を振り上げたまま硬直し、眼下の幼児に注目する。
……見れば見るほどに、確信が深まっていく。
敵を前にしているというのに、華奢な肩を震わせてばかりの、臆病な姿。
追い詰められれば常に姉を呼び、ポロポロと涙を流す、弱々しい姿。
そして、彼が顔を上げた、その瞬間。
気付けば、離れていた。
大量の冷や汗を流しながら、オリヴィアは逃げるように、敵方から離れていた。
「嘘だ……ありえない……こんな、ことは……」
呼吸が荒くなる。胃が痛い。汗が止まらない。
肉体は無傷でも、心はもはや満身創痍だった。
――そんなオリヴィアを前にして。
敵方が。小柄な少年が。獣人族の子供が。
目尻から滴を零しながら、口を開いた。
「姉上……!」
オリヴィアの脳内が、白一色に染まる。
あの、さらりとした黒髪は。
あの、愛くるしい顔立ちは。
あの、大粒の涙を流す瞳は。
……忘れるはずもない。忘れられる、わけがない。
目の前でボロボロと涙を流し、怯えた様子で肩を震わせる、あの子供は。
「ルイス……!」
ルイス・ヴェル・ヴァイン。かつて、己の命よりも大事に想った、家族の一人。
今は亡き最愛の弟が、そこに居た。
『いいね。実にいいよ、その表情。想定通りではあるけれど、それでも十分に愉悦をもたらしてくれる。やはり君は虐め甲斐があるね、オリヴィアちゃん』
真っ白になった彼女の頭に、悪魔の黒い声が染み渡っていく。
その語り口調はかつて、オリヴィアから何もかもを奪ったときのそれと全く同じだった。
――もう遙か遠い過去の話。
人類が《邪神》と《魔族》に支配されていた古代世界にて、オリヴィアは《名誉奴隷》の家系である、ヴェル・ヴァインの長女として生を受けた。
《名誉奴隷》というのは奴隷種として扱われていた人類の中に在って、特別な権限を有し、少数の《魔族》達に代わり人々を治めていた者達を指す。
中でもヴェル・ヴァインは武門の名家として知られており、その発言力は絶対的な支配種として君臨していた《魔族》達にさえ影響を及ぼすほどだった。
そんな家に生まれたオリヴィアは人並みならぬ剣才を有し、将来を嘱望されていたのだが……その一方で、長男である弟・ルイスにはなんの才覚もなかった。
“どうしてぼくは、こんなふうに生まれたんだろう……”
“姉上みたいに、強くて格好よくなりたい。でも、きっと無理ですよね……”
弟は常に後ろ向きで、ことあることに泣きべそを掻いては、親族を失望させていた。
けれどもオリヴィアだけはルイスの可能性を信じ、常に激励し続け、そして。
“やった! 一本! 一本取りましたよ、姉上!”
ある日ついに、組み討ち稽古でオリヴィアを出し抜いて見せた。
結構な加減をしたうえでの結果ではあるが、それでも一本は一本。
オリヴィアは弟の成長を心から喜ぶと共に、そのとき、改めて強く実感した。
やはり弟の笑顔は、本当に可愛らしいものだと。
普段、めったに見せない明るい表情は、実に眩いもので。
それを見たいがために、オリヴィアはルイスを溺愛した。
時には優しく。時には厳しく。
姉として弟を立派な当主へ導き、その後も下から支えてやるのだと、そう考えていた。
“ルイス。現時点では、わたしの方がお前よりもずっと強い”
“だが、いずれわたしを守れるような男になれ”
“お前ならきっとなれる。姉上は、お前のことを心の底から信じているぞ”
常にオリヴィアは、そのように弟を励まし続けていた。
弟にしか見せぬ、穏やかな微笑を浮かべて。幸福な未来を、想像しながら。
しかし。
ある日、それが唐突に奪われた。
両親の発言力を疎んだ《魔族》と……邪悪な神の手によって。
“い、嫌だ! 死にたくない! 死にたくない!”
“助けて! 助けて、姉上ぇ!”
誰よりも愛し抜いた弟が、涙ながらに懇願しているというのに、オリヴィアは何も出来なかった。
魔法によって縛り付けられ、瞼を閉じることさえ許されず。
オリヴィアは、親族と共に首を落とされる弟の姿を、ただ震えて見つめることしか出来なかった。
そして、全てが終わった後。
“いやぁ、いい見世物だったね。君もそう思うだろう?”
拘束を解いてきた悪魔に対し、オリヴィアは静かに問うた。
なぜ、こんなことをしたのかと。
悪魔は一瞬首を傾げ、それから微笑と共に、答えを出した。
“ん~~~~~~~、暇つぶし?”
爆裂した殺意に突き動かされ、オリヴィアは悪魔へ飛びかかり、その首を絞めたが。
それでも奴は、愉しげに笑うのみだった。
“ふふっ。いいねぇ、その顔。想定通りではあるけれど、実にそそるものだよ。やっぱり君は僕が見込んだ通り、実に虐め甲斐があるね、オリヴィアちゃん”
彼女は結局、仇を討てなかった。
最後の最後まで、自分から全てを奪った悪魔は、笑ったままで。
――きっと今も、奴はあのときと同じ微笑を浮かべているのだろう。
そのとき。
場に響き渡った悪魔の声が、オリヴィアの意識を過去から現実へと引き戻した。
『前もって断言しておくよ。弟君を救う方法は一切ない』
『大義のために、愛する家族を手に掛けるか』
『あるいは、弟君に斬り殺されるか』
『君に用意されている選択肢は、この二つだけ』
『まさに究極の二者択一』
『さぁ――僕を存分に楽しませておくれ』
悪意が振りまかれた、次の瞬間。
「ぅあ……!? あ、姉上っ……!」
ルイスが勢いよく立ち上がり、踏み込んできた。
そんな彼の頭上に、オリヴィアは悪魔の姿を幻視する。
糸で愛する弟を操り、ニタニタと笑う、不愉快な姿を幻視する。
「メフィストォオオオオオオオオオオオオオオッッ!」
怒気の爆裂と共に、間合いを詰めたルイスが剣を振るう。
「た、助けてください、姉上ぇ!」
涙を流しながら懇願するその姿が、オリヴィアの動作を鈍らせた。
平常であれば易々と躱せるはずの斬撃が、頬を擦過する。
「くッ……!」
後退し、間合いを空ける。完全に逃げ腰であった。
そんなオリヴィアのもとへ、魔法の剣が雨あられと殺到。
これも平常であれば、そのことごとくを斬り伏せていただろう。
しかし、心を乱した彼女には、完璧な対処など望むべくもない。
降り注ぐ刃を凌ぎきった頃、オリヴィアの全身は鮮血の紅に染め尽くされていた。
「あ、姉上っ!」
来る。
弟が、鋭い刃を携えて。
姉たる自分を、斬殺するために。
「い、いやだぁっ! 助けて、姉上っ!」
悲鳴と共に刃を大上段へと掲げ……振り下ろす。
オリヴィアはそれを真正面から受け止め、鍔迫り合いの形へと持って行った。
「あ、姉上……! なん、ですか、これは……!? 何が、どうなって……!」
白刃の向こう側で、ルイスが泣き崩れている。大粒の涙を流し、鼻水を垂らすその姿に、オリヴィアは心を痛めた。
抱きしめてやりたいと、心から思う。だが現状、それは叶わぬ夢。
オリヴィアには弟との幸福な時間など、用意されてはいないのだ。
弟を斬るか。弟に斬られるか。
どちらを選んでも、最低最悪の悲劇は免れない。
だが、それでも。
(わたしは前に進まねばならんッ……!)
(大義のために……! 皆を、救うために……!)
弟を斬る。
そのための材料を、オリヴィアは必死に探し始めた。
(此度の状況、初ではない……!)
(似たような窮地を、わたしは何度も経験した……!)
(目前に立つこの少年は、ルイスじゃない……!)
(よく似た別人に過ぎぬ……!)
古代世界において、オリヴィアの弱点を見抜いた敵は幾人も存在した。
そして彼等は総じて、亡き弟を利用した戦術で以て、彼女を追い詰め……
しかし、そのことごとくが、失敗に終わった。
(そもそも、ルイスの霊体は既に失われて久しい)
(それは冥府へと昇り……無数の転生を、繰り返しているに違いない)
(ゆえに今、この場に立つルイスは、まがい物に過ぎんのだ……!)
そう結論づけると共に、オリヴィアの心が平静へと導かれた。
「まがい物に、容赦する必要なし……!」
両足に力を込め、それを腕へと伝達し、敵方を圧す。
膨れあがった殺気にルイスは怯えたような顔で、「ひっ!?」と悲鳴を上げた。
けれどもオリヴィアの心に惑いはない。
「ぬんッ!」
気合いと共に圧力を一気に高める。そうすることで相手の上体を後方へと反らせ――
すかさず横移動。
鍔迫り合いの形が急に崩れたことで、相手がバランスを狂わせた。
「疾ッッ!」
大きな隙を突いた一撃。首筋への一閃。せめて苦しまぬよう一瞬にて。
オリヴィアの心には今、染みなど微塵もなかった。
このまま首を断ち、決着を付ける。その思いだけがあった。
しかし――
『まがい物じゃあないぜ』
突如響き渡った悪魔の声が、オリヴィアの体感時間を無限に引き延ばしていく。
ゆっくりと、刃がルイスの首へと向かう、その最中。
悪魔が、オリヴィアの心に染みを創り出した。
『弟君の霊体は既に失われて久しい。と、そんなふうに考えたんだろう?』
『実際、その通りではあるよ。でもね……僕が、そんな逃げ道を用意するとでも?』
『処刑の直前、僕は彼の霊体を一部切り離し、保存しておいたんだ。このときを見越してね。だから――――』
『今、目の前に居る弟君は、正真正銘、本物だよ』
これを虚言とするには、あまりにも。
あまりにも、説得力があり過ぎて。
ゆえにオリヴィアは再び、剣を鈍らせてしまった。
首を両断するはずだった刃は皮一枚を斬ったところで停止し、そして――
逆に、ルイスが執った剣は、オリヴィアの腹部を深々と突き刺していた。
「うっ……」
「あ、あね、うえ?」
両者共、目を見開いていた。
苦痛と、驚愕。それぞれ別の感情を抱きながらも、その本質は全く同じもの。
悲嘆である。
二人の心は今、悲嘆に埋め尽くされていた。
「ど、どうして……!? こん、な……!」
意図に反して、姉の腹から刃を引き抜き、刀身を担ぐように構える弟。
「ルイ、ス」
口から血反吐を漏らしながら、片膝を付いて、弟の姿を見上げる姉。
……斬れなかった。
メフィストの声が最後まで響いた、その瞬間、迷いが生じたのだ。
あの光景を、再現するのか、と。
弟の首が落とされた、あの瞬間を、自らの手で再現するのか、と。
……そんなことは、出来なかった。
「……ルイス」
もはや剣を手放して。
オリヴィアはその手で弟の頬に触れながら、一筋の涙を流した。
「済まなかった。救って、やれなくて」
そしてオリヴィアは選択する。
大義を投げ捨て、弟に斬られるという結末を、選択する。
「い、嫌だ……! 嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ……! う、動いてください、姉上っ!」
ガチガチと歯を鳴らしながら、ルイスが手元に力を込めた。
もはやここまで。
あと数秒も経たぬうちに、この命は絶たれることになろう。
それでもよかった。
いかに重大な大義を背負っていたとしても。
弟の命よりも大事なものなんて、どこにもありはしないのだから。
「メフィスト、頼む。わたしが死んだ後、弟の命は保証してくれ」
これを最後の言葉として、世を去る覚悟を決めた。
そして――
「姉上ぇえええええええええええええッ!」
絶叫と共に、ルイスが白刃を繰り出した。
オリヴィアは自らの末期を悟り、心静かにそれを受け入れ――
しかし、その瞬間。
彼女の脳裏に、ある人物の姿が浮かぶ。
それはもう一人の弟。
二つの姿を持つ彼が、頭の中に現れた、そのとき。
「オリヴィアッッ!」
声が、響いた――
◇◆◇
それを目撃すると同時に、俺はアード・メテオールの仮面を脱ぎ捨てていた。
「オリヴィアッッ!」
姉貴分の危機に対して、反射的に全身が躍動する。
……それはまさに、奇跡的な結果だったのだろう。
小さな獣人族の少年が振るいし刃が、オリヴィアの頭を両断するという、寸前。
俺は彼女の体へと飛びついて、その身を移動させた。
もし、ほんの僅かでも、駆けつけるのが遅かったなら。
今頃、オリヴィアの命脈は絶たれていただろう。
少年が執った剣は空転し、何者も捉えることはなかった。
「……オリヴィア様。こちらを、早急にお飲みください。腹部の傷を癒やさねば、大事に繋がります」
平静を装いながら、俺は腰元のポーチに手を入れ、ヴェーダ手製のポーションを取り出した。
「……済まない」
受け取ったオリヴィアの表情は複雑なものであったが、少なくとも生きる気力は失われていなかったらしい。蓋を開けてすぐ、ポーションを一息に飲み干した。
効果は覿面。彼女の全身に刻まれた浅い傷は当然のこと、腹部への刺突によるものであろう重傷もまた、瞬く間に快癒する。
……さて。
俺はオリヴィアから少年へと目線を移し、そして全てを悟った。
「弟君、ですか」
「……あぁ」
闖入者たるこちらの視線を受けて、かの少年は怯えたように全身を震わせていた。
その風貌と様相は、かつてオリヴィアより伝え聞いた有様と、完全に一致する。
「なるほど。これは悪趣味の極みだ」
吐き捨てると同時に、現状を創り出した悪魔が声を送ってきた。
『悲劇の舞台へようこそ、ハニー』
『君にも心地のいい苦味を楽しんでもらいたくてね。ずっと、待っていたんだ』
想定通り。奴の声音にはそうした意思が宿っていた。
即ち――
この俺を以てしても、悲劇は避けられぬと、そのように考えているということだ。
オリヴィアとてそれは察していよう。だが、そうであったとしても。
「……可能性は、ないのか?」
縋るような目を向けてくる姉貴分。その痛ましい姿に、悲哀を覚えざるを得なかった。
出来ることなら、胸を張って断言したい。任せてくれ、と。
だが、実際に出せる言葉は、真逆のものだった。
「結末を変えることは、出来ません」
どのように足掻いたところで、彼女の弟……ルイス・ヴェル・ヴァインは死ぬ。
何か奇跡が起こって、彼を悪魔の呪縛から救い出せたとしても。
我々が安堵すると同時に、奴はルイスの命を絶ち、絶望する我々を見て笑うだろう。
「此度の一件に決着を付けるということは、即ち、弟君を葬り去ることと同義であると心得ていただきたい」
それは、口にするもおぞましき現実であった。
けれども俺は嫌悪感を面に出すことなく、真っ直ぐにオリヴィアの目を見据えて、堂々と断言する。これは正しき行いであると、彼女の心を納得させるために。
「よろしいですか、オリヴィア様。過ぎ去って行った者達は、もはや帰っては来ません。我々に出来ることは、彼等の分まで精一杯生きるという、自己満足のみです」
俯き、一言も返そうとはしない。そんなオリヴィアに反して、奴は饒舌であった。
『さすがの決断力だね、ハニー』
『それとも、他人事だから簡単に言えるのかな?』
くつくつと、喉を鳴らす音が耳に入る。
過去の俺だったなら、ただ嫌悪し、感情的に反論していただろう。
だが……この時代にて、さまざまな経験を重ねたことで、俺は成長した。
ゆえに胸を張り、堂々と断言する。
「もし貴方が、この場に彼女(、、)を創り出したとしても、このアード・メテオールが迷いを抱くことはありません。彼女の命脈を絶ち、前へと進み……必ずや、貴方を討ちます」
『ほう。淀みがないね、ハニー。力は衰えたけれど、心は成長したようだ。……けれど、それは君の意思に過ぎないだろう? オリヴィアちゃんは違う思いを抱いてるはずだ。にもかかわらず、君は自分の考えを押しつけるのかい?』
間髪入れることなく、俺は宣言した。
「はい。押しつけます。それが正道であるならば、迷うことはありません」
この受け答えは想定外であったのか、メフィストは以降、一言も発しはしなかった。
「……オリヴィア様。どうぞ、私をお恨みください」
ルイスをこの手にかける。お前が出来ぬというなら、俺がその罪を背負う。
「……どうしても、無理なのか」
未だ迷いの中にある彼女へ、俺は首肯を返した。
途端、絶望がオリヴィアの顔に宿る。
この一件が終わり次第、自ら命を絶ちかねぬ、危うい顔であった。
そんな姉貴分に俺は、新たな言葉を送る。
ほんのちっぽけな、しかし、確実に救いへと繋がるであろう言葉を、送る。
「例え結末が悪魔の筋書き通りであったとしても、そこに宿る思いは変えられると、私は信じています。ゆえに――此度の一件は決して、悲劇になることはありません」
今はまだ、意味を理解出来ていないのだろう。オリヴィアはただ当惑するだけだった。
そして沈黙を保っていたメフィストもまた、我が意を測りかねているようで。
『いったい、何を見せてくれるのかな?』
少しの困惑と、多大な期待感。
それが発せられたと同時に。
「う、うわぁああああああああああっ!?」
悲鳴を上げるルイス。その周囲には無数の魔法剣が浮かび上がっていた。
「オリヴィア様。どうか、手出しをなさらぬよう」
釘を刺すと同時に。
煌めく魔法の剣が、我が身へと肉薄する。
回避。回避。回避。
全弾、総じて回避。
その末にルイスが踏み込んで、刃圏に我が身を捉えた。
「た、助け――」
「いいえ、お断りします」
小さな体が繰り出した鋭い斬撃を、俺は自らの刀身で受け止め、
「歯を食いしばりなさい」
攻撃後の隙を突いて、右拳を握り――容赦なく、幼い頬を叩いた。
「うあっ!?」
この殴打は、誰にとっても想定外の行動だったのか、吹っ飛んだルイスだけでなく、オリヴィアもまた目を見開いた。
姿を見せぬメフィストもまた、どこかで同じように驚いているのだろう。
『おいおい。容赦がなさ過ぎやしないかい?』
その声音は、驚きと興奮に満ちていた。
『相手は子供だぜ? それを、よくもまぁ――』
「お黙りなさい。貴方は指を咥えて、私の行いを見ていればよろしい」
確かに、我が行動は一見すると非道であろう。
だが、違う。そうではない。
「アード・メテオール……! なぜ、こんな……!」
姉貴分が説明を求めてきた。
当然であろう。きっと彼女は一合にて、我が剣が弟を斬るものと、そう思っていたに違いない。救えぬならせめて痛みなく……と、そのように思うのが自然であろう。
俺はその意に反したのだ。
オリヴィアの目には、先刻の殴打が無意味な暴虐として映っているに違いない。
しかしそれは、大きな間違いだ。
「オリヴィア様。ルイス様。そして、あのメフィストさえも。根本的に、前提を見誤っている。私が今、殴りつけたのは、無力な子供ではありません」
まだ、こちらの意を読めていないのか、オリヴィアは当惑した様子で口を閉じていた。
ルイスもまた、殴られた頬に触れながら、戸惑うようにこちらを見ている。
そんな彼へ、俺は問いを投げた。
「ルイス様。貴方は死を恐れますか? 死から逃れたいと、そうお考えですか?」
「そ、そんなの、当たり前、だろ……!」
「えぇ。そうでしょうね。しかし……その当たり前が許されるのは、世間一般の子供のみ。ルイス様、貴方は生まれ出ずると同時に、その権利を失っているのです」
この言葉を受けて、ルイスだけでなく、オリヴィアもまた肩を震わせた。
そう。俺の発言は二人にとって、耳にたこが出来るほど聞かされてきた内容であろう。
この二人は。武門の名家に生まれた、この二人は。
戦士としての心構えを、薫陶を、常に受け続けてきたのだ。
「ルイス様。貴方に関する仔細は姉君(オリヴィア様)から伝え聞いております。貴方を語る時の姉君は実に微笑ましく……それでいて、哀れだった。心の傷が癒えるまでの永き間、オリヴィア様は過去に縛り付けられた亡霊のようでした。……ルイス様、貴方がそうさせたのですよ」
酷く苦しげな顔をするルイスへ、俺はさらに言葉を投げた。
「貴方は確かに、齢一〇にさえ満たぬ幼子、ですが。それと同時に一人の戦士でもある。そして戦士には、人生の中において、死なねばならぬ瞬間というものが必ず訪れます。主君のため。己が信念のため。愛する者のため。理由は様々ありますが……いずれにせよ、そのとき、戦士は見事に散っていかなければならない。その死に様で見る者を圧倒し、心に宿っていた炎を、受け継がせねばならない」
ここで一度、言葉を切って。
俺はルイスの目を真剣に見据えながら、続きを語り出した。
「貴方は最後に処断されたと伝え聞きました。であれば……ご両親の死に様は、覚えておいででしょう? それを思い出しなさい。……きっと、立派な最期を迎えられたはずだ。命乞いなどすることなく、己の運命を受け入れ、一人残された娘をジッと見つめながら、最後の最後まで己の意思を継がせようとした。父も母も、戦士としての使命を全うし、見事な死に様を見せた。……それなのに。ルイス様、貴方がそれに水を差してしまった」
伝え聞いた彼の死に様は、同情と哀悼を感じずにはいられぬほど悲惨なものだった。
それは戦士の末期として、最低の内容であると断言してもよい。
「貴方がみっともなく泣き喚きながら、命乞いをして死んでいったせいで、オリヴィア様に受け継がれるはずだったご両親の思いは、無惨に砕けてしまった」
あえて責めるような口調で言葉を紡ぐ。ルイスはそれを、黙して聞き続けていた。
その目尻にはもう、涙はない。
その顔には……深い、反省の念が宿りつつあった。
「例え幼くとも、ルイス様、貴方には重い責任を背負う義務がある。貴方は一人の戦士であり、ヴェル・ヴァインの長男だ。いずれは当主となり、御家と……姉君を、お守りしなければならぬ立場にある。にもかかわらず、貴方は間違えてしまった。ご両親の意に反しただけでなく……何よりも大切だったはずの姉君の心を傷付けて、この世を去った」
きっと、これから放つ言葉は、残酷そのものだろう。
だがそれでも、口にしなければならない。
過ぎ去った者は、もう元には戻らないのだ。
ルイスの結末と宿命を、変えることは出来ないのだ。
しかし――例えそれが悪魔の計らいであろうとも。
「ルイス様。貴方は、やり直すことが出来る。戦士として、正しい死に様を、自らの意思で選ぶことが出来る」
ピクリと、ルイスの肩が震えた。
後方に立つオリヴィアもまた、同様であったが……今は捨て置こう。
俺はルイスにのみ注目して、言葉を重ねていった。
「貴方は今、操られている。その全身は、かの悪魔が手繰る糸によって、貴方の意図に反した動きを繰り返している。……その呪縛に抗いなさい。打ち勝てとは言いません。ただ抗うだけでも、十分に価値がある。そして悪魔の意図を超えられたなら」
ルイスの瞳を真っ直ぐに見つめながら、俺は最後の言葉を放った。
「貴方の存在は、姉君の胸の中で永遠に生き続ける。哀れな弟ではなく、誇り高き戦士として。貴方の最期は、姉君の心に火を残し……冥府にて、ご両親の祝福を受けるでしょう」
言い終わるや否や。
ルイスの目前に、一振りの魔法剣が現れた。
その切っ先は、こちらへと向けられている。
「……ぼく、は。ぼくは」
肩を上下させ、荒い呼吸を繰り返し、歯をカチカチと鳴らす。
けれどもやがて、ルイスは瞼を閉じ――次第に、落ち着きを取り戻していった。
そして。
「ぼくは、ヴェル・ヴァインの長男だ。姉上を守る……そんな、立派な戦士に、なるんだ」
開かれた瞼。
その瞳にはもはや、一点の曇りもない。
彼はそのとき、悪魔の呪縛に打ち勝った。
こちらへと向けられていた切っ先が反転し――
ルイスの小さな体へと、吸い込まれるように飛翔した。
「うっ」
小さな悲鳴が、彼の口から漏れる。
ルイスは、自らの胸元を、魔法の剣によって貫いたのだ。
瞬間。
煌めく刃は霧散し、幼い少年が、口元から血を零しながら倒れ込んだ。
「ルイスッッ!」
悲鳴も同然の叫びを上げて、オリヴィアが弟のもとへと駆け寄った。
そうして彼の小さな体を抱いて、涙を流す。
「あね、うえ」
きっと今、ルイスは痛みに苦しんでいるだろう。迫り来る死に、恐怖しているだろう。
本当は、助けてくれと、懇願したいはずだ。
しかし。
「泣かないで、ください。ぼくと違って、姉上は、強いのだから」
精一杯、微笑みながら、オリヴィアの目元を拭う。
そしてルイスは、唇を震わせながら、問うた。
「姉、上。今の、ぼくは……戦士の顔に、なっていますか? 父上や、母上に……叱られないような顔に、なって、いるでしょうか?」
「あぁ……! お前は、誇り高い戦士だ……! 父上も、母上も、そしてわたしも……! お前を立派に思う……!」
とめどなく溢れる涙が、ルイスの頬に落ちる。それは彼にとって、祝福も同然だったのだろう。青白い顔をしながらも、ルイスは嬉しそうに笑った。
「姉、上……もう、助けてなんて、言いません……逆に、ぼくが……いつか、生まれ変わって、絶対に……あなたを、守れるような、戦士に……」
かたかたと震える手で、もう一度、姉の涙を拭って。
ルイスは、冥府へと旅立っていった。
『……なるほど。これが、君の見せたかったものか』
静寂の中に、悪魔の声が響く。
『結局のところ、ハニー。君は自分自身の悪辣さを見せつけただけだ』
『自分達が前へ進むために、弟君を自害へと追い込んだ』
『自らの手を汚すことなく、言葉巧みに子供を殺すだなんて』
『いやはや。君もなかなかの悪魔じゃあないか』
メフィストは今、どこかで底意地の悪い笑みを浮かべているのだろう。
だが――俺には、そんな欺瞞は通じない。
「本当に、そう思っているのですか? 貴方の言葉は、本心ですか?」
途端、悪魔が黙り込んだ。
それに乗じて、俺は語り出す。
悪魔の企みを潰したという事実を、証明するために。
「貴方は私を邪悪だと詰りましたが……そうして論点をズラした時点で、貴方は認めてしまったのですよ。此度の一件が、貴方の手から離れたことを」
メフィストは、沈黙を守っている。
「貴方はルイス様の死に対し、悲劇性だけを持たせた。しかし……よくご覧なさい。彼の死に顔を。これが、悲嘆に塗れただけの最期と言えるでしょうか? ……否。断じて違う。彼は貴方の呪縛に逆らい、自らの意思で正しき末期を迎えた。ゆえに――」
メフィストは、沈黙を保ち続けている。
そんな悪魔に俺は断言した。
「ルイス様の死は、悲劇ではない。英雄譚の一幕に相応しき戦士の死に様だ。彼の末期は、メフィスト=ユー=フェゴール、貴方が意図したものなど、なんら我々の心にもたらしてはいない。むしろ、泣き喚くことしか出来なかった子供が絶大な恐怖に打ち勝って、悪魔の意に反したその姿は……我々の心に確かな火を灯してくれた」
俺は天を指差しながら、堂々と宣言する。
「もはや、貴方の思い通りになることなど、何一つとしてない」
悪魔は。
想定外を前にした、悪魔は。
『ふっ、ふふ……ふふふふふふふふ……』
喜悦。驚愕。憎悪。苦悶。悔恨。
数多の情がグチャ混ぜにして、笑う。笑い続ける。
『あぁ、たまらない。やはり君だ。君だけだ。僕をここまで楽しませてくれるのは、君だけだよ、ハニー』
その興奮に応ずるかの如く、周囲の空間が震え始めた。
そして――俺の目前に、何かが落ちる。
それは、二つの眼球だった。
『前言を撤回する。君のことを不細工だと言ったけれど、それはまさに僕の不徳だった。節穴の目玉を抉って、君に捧げよう。本当に愚かだった』
満足げに息を唸らせて。
メフィストは、最後の言葉を口にする。
『メガトリウムでの再会を心待ちにしているよ。今回も、最後の最後まで、僕を楽しませておくれ』
言い終わると同時に、奴の気配が消え失せた。
それから俺は、オリヴィアへと目を向ける。
ルイスの亡骸を彼女はしばらく抱き続けていたが……やがて、それを床へと横たわらせ、
「行こう。シルフィーのもとへ、奴も、苦しんでいるはずだ」
彼女の瞳には、強い輝きが宿っていた。
「えぇ、急ぎましょう」
俺はオリヴィアに首肯を返し、地面を蹴った。
シルフィー。あいつも今、苦痛の最中であろう。だが……俺の心に、不安はなかった。
むしろ期待感がある。
この一件を経て、あいつは一皮むけるだろう。
悪魔の画策はむしろ、眠れる獅子を呼び起こすに違いない。
そんな確信を抱きながら、俺は彼女のもとへと向かうのだった――