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閑話 欠落者は満たされない


 物心ついてから絶えず、ライザー・ベルフェニックスは己の心に欠落を感じ続けてきた。


 足りない。

 何かが、足りない。


 ゆえにライザーの目に映るものは、全てが灰色だった。


 誰もが極彩色の世界に住み、楽しげに人生を謳歌している中で、自分だけが常に下を向いて歩いている。


 そんな在りようが、たまらなく悔しかった。

 皆が羨ましかった。


 だから求め続けたのだ。欠落した何かを。


 それが手に入れば、自分も皆の仲間になれると思った。無為を感じるだけの人生から抜け出して、孤独を払い、充足した日々を過ごせるものと、そう思っていた。


 けれど……求むる何かが具体的にいかなるものかは、わからなかった。


 であれば必然的に、欠落した心が満たされることなど未来永劫ありえない。

 苦痛であった。数十年の旅路はまさに生き地獄そのものであった。


 だが、その果てに。

 ライザー・ベルフェニックス、七六歳。

 人生の末期にてようやっと、彼は求めてきたものを得た。


 かつて不明瞭であったそれを、今は明確に言語化出来る。

 長きに渡って求め続けてきたもの。それは――



 ――愛であった。



 一人の幼い孤児、マリアとの出会いが、ライザーにそれを与えたのである。


 行き倒れたところを彼女に救われ、そのまま孤児院で暮らすようになったライザーは、満ち足りた生活を送り続けていた。


「うわぁ、今日はすごいごちそうだねっ!」

「肉がたくさん並んでる……!」

「野菜もシャキシャキだぜ!」


 夕刻。

 孤児院の食卓は煌めきに満ちていた。

 それは元来、ありえない光景である。孤児院の財布事情はどこも火の車で、子供達はひもじい思いをするのが常。しかしながら……ここにはライザーが居る。

 彼は日々、マリア達の食い扶持を稼ぎ続けていた。


「今日のライザーはホントにすごかったんだよっ! おっきなドラゴンを片手で倒しちゃったんだものっ!」


 豪勢な食事に舌鼓を打ちながら、マリアがライザーの活躍を称賛する。


「マジかよ!」

「さすがだね~」

「ていうかマリアばっかりずるいぞ! おれ達もライザーと一緒にクエストやりたい!」


 マリアには魔法に関する特別な才があった。ゆえに幼くして、ライザーの補佐を務めている。他の面々も一定の年齢になったなら、彼女と同様に魔法の手ほどきをする予定だ。

 さすればこの孤児院に属する子供達は皆、冒険者となり、稼ぎに困ることはなくなるだろう。


「ライザーさんのおかげで本当に助かっておりますわ」

「この御恩に対し、どのように報いればいいか……」

「情けないことに、我々には差し出せるものがないのです……」


 孤児院の責任者達が恐縮の思いを口にする。これにライザーは首を横に振って、


「左様な気遣いは無用である。我輩は居候の身。ならば恩を感じるべきはこちらであり、其処許等の手助けをするは至極当然のこと」


 心からそう思っていた。

 こちらの行動に対する報償など、何一つとして欲しくはない。

 ただ、ここに居られればいい。

 マリアの傍に居られれば、それでいい。

 彼女とその仲間達を幸福な人生へ導くことこそ、ライザーの生き甲斐であった。

 マリア達が明るい顔を見せてくれたなら、もう他には何も要らなかった。


 

 夕餉を終え、入浴を済ませたなら、すぐに消灯となる。

 ライザーが来る前まで、この孤児院には個室はおろかベッドさえなかった。

 けれども今、彼の稼ぎによって院内は改築され、そこに住まう子供達は個室を得ただけでなく、最高級のベッドで安らかな眠りに就くことが出来る。


 夜半。ライザーは本日もマリアの部屋へと足を運び、日課を楽しんでいた。

 絵本の読み聞かせである。これは彼女の識字力を鍛えるための教育であると同時に、ライザーとマリア、両者にとって至福のときでもあった。


「勇者・カイザルは叫んだ。我こそは民の希望! 人々が私に力を与えてくれるのだ!」


 感情豊かに、絵本の内容を読み聞かせるライザー。

 当初は棒読みも甚だしい彼だったが、マリアの指導によって演技力をめきめきと成長させ、今や舞台俳優もかくやとばかりの芝居を見せている。


「魔物は悲鳴を上げた。うぎょおおおおおお! こんなに強いなんて、聞いてないぞぉおおおおおおお!」

「あははははっ! ライザーってば、変な顔~!」


 表情筋を動かすことなど、この人生でほとんどなかった。けれどマリアと出会ってからというもの、ライザーの顔は毎日、さまざまな感情を表現している。

 やがて今宵も、マリアはうとうとと船を漕ぎ始めた。

 普段なら「おやすみ」の一言と共に一日を終えるところだが。

 しかし、今日のマリアは少しばかり様子が違っていた。


「……ねぇ、ライザー。どうしてこの世界は、絵本みたいにならないんだろうね」


 細められた瞳は、眠気によるものか、それとも……悲哀によるものか。


「もし生まれ変わったらさ。あたし、聖女様になりたいな。それで、勇者様と一緒に、皆が笑って暮らせるような世界を創るの」


 彼女の小さな声に、ライザーは心痛を覚えた。

 なぜ今日に限ってマリアがこのようなことを言い出したのか。

 それはきっと、クエスト完了後の帰り道での出来事が原因であろう。

 報酬を受け取り、食材などを購入した後、二人は道ばたに倒れ込んだ子供の亡骸を見た。


『……いつか皆も、こんなふうになっちゃうのかな』


 今にも泣き出しそうなマリアを、ライザ-は強く抱きしめた。

 そして彼女を悲しませた何者か……あるいは、この世界の有様に怒りを覚えた。


「誰もが笑って生きられる世界。其処許が、それを望むなら」


 叶えてやりたいと思う。

 彼女が心から笑っていられる世界を。

 彼女が悲しまずにすむ世界を。

 このとき、ライザーの胸に明確な目的意識が生まれ、そして――


 ある日のことだった。

 ライザーはマリアの夢を叶えるための手段を見いだした。

 昨今、世を賑わせる反社会的勢力の一つ……ヴァルヴァトスが率いる反乱軍への入属こそ、最短の道ではないかと考えた。


 ライザーはヴァルヴァトスとその配下達が有する戦力に可能性を感じたのである。


 マリアが望む世界を形成するには、《魔族》と《外なる者達(アウター・ワン)》の排斥が必須。

 奴等の手から人類を解放せねば、いつまで経っても理想郷は生まれない。

 それゆえに、ライザーはヴァルヴァトスの軍勢へ参加することを決意した。

 彼等に力を貸すことで、最終的にマリアが思う理想郷を世に顕現させられると、そのように考えた結果である。


 思い立ったが吉日。ライザーは早速、己の意向を皆に伝えた。

 その時点で孤児院の蓄えは潤沢にあり、また、子供達に対する魔法の指導なども実施済み。彼等は自分が居なくても、現在の暮らしを維持出来る程度には一人立ち出来ていた。

 ゆえに責任者達はライザーの出奔を惜しみつつも、文句の一つも零すことなく了承。


 一方で、子供達は猛反対した。

 皆にとってライザーは敬うべき師であり、愛する祖父のような存在だったのだ。

 けれども彼の心は変わらなかった。


「……うん。ライザーならきっと、勇者様みたいになれるよ。あたし、応援するね」


 マリアも後押しをしてくれた。

 彼女は喜んでいるに違いないと、ライザーはそのように考えていた。

 理想の世界が現実のものになるかもしれない。

 ライザーがそれを実現してくれるかもしれない。

 そんな彼女の期待感に応えるためにも、存分に働かねばと、ライザーはそう思った。


 ――そして、運命の日がやってくる。


 出立予定日の数日前。この日もライザーは、普段と変わりなく過ごしていた。

 クエストを受注し、危険地帯へと赴いて、獲物を狩る。

 いつも通りの日常、だが。

 この日、補佐役のマリアが傍に居なかった。

 本日は盛大なお別れ会が催される予定だ。

 マリアも他の子供達と共に孤児院へ残り、パーティーの準備に勤しんでいる。


「……我輩も変わったものだな。他者との別れに対し、寂寞を覚えるとは」


 マリアの、子供達の、煌めくような笑顔が脳裏に浮かぶ。

 しばらくの間、皆と離ればなれになるという現実に心が痛んだ。


 しかし今生の別れではない。

 立身出世を果たせば、いずれ領土を貰い受けるだろう。そうなったら皆を我が領地へと招待するのだ。さすれば、また一緒に暮らすことが出来る。


 そのときを思い、ライザーは微笑した。

 それは彼にとって、生まれて初めて抱いた夢だった。この身に宿りし力を存分に振るえば、きっと輝かしい未来を築けるものと、ライザーはそう信じていた。


 だが――



 そんな彼の希望は、粉みじんに打ち砕かれる。



 報酬を受け取り、孤児院へと戻る道中。

 ライザーは、それを見た。

 あってはならぬ現実の光景を、目にした。


 ――亡骸だ。


 道ばたに転がる、無惨な死体。

 まるでボロ雑巾のようなそれを、見つめながら。

 ライザーはわなわなと、全身を震わせた。


「マリア……!」


 そう。

 道ばたに、ゴミみたく打ち捨てられた、その亡骸は。

 ライザーにとって何よりも大切な存在……マリアの、成れの果てだった。


 頭の中が真っ白になる。

 どれだけの時間、立ちすくんでいたのだろう。


 やがてライザーは、嘔吐した。


 胃が痙攣し、歯がガチガチと音を鳴らす。

 もう立ってもいられない。

 くずおれ、五体を地面へ付ける。

 そのままよろよろと地べたを這いながら、ライザーはマリアの亡骸へと近寄った。


 そうして、彼女の霊体が失われていることを確認すると――

 無意識のうちに魔法を用いて、マリアの肉体に残された、最後の記憶を読み取る。


 それはライザーがクエストをこなすべく、危険地帯へと赴いてからすぐのことだった。

 マリアは孤児院を出て、ある場所へと向かう。

 装飾品を扱う店だった。

 そこで彼女は、ペアリングを購入する。

 自分とライザー、二人のペアリングだ。


 これまでの感謝を表するだけでなく……これを嵌めている間、自分達の心はいつだって共に在ると、そう伝えるためのプレゼントだった。


“喜んでくれるかな”


 期待と不安で胸を高鳴らせながら、マリアは街中を歩く。

 ……それが不注意を生んだ。

 曲がり角で、彼女は何者かとぶつかる。


《魔族》だった。

 この街を治める、高位の《魔族》だ。

 奴は醜い面構えに嫌悪感を湛え、そして。

 マリアへと、手を伸ばす。


 ――そこから先の記憶は、ライザーの心を狂わせるのに十分なものだった。


 気づけば、彼は泣きわめいていた。

 半狂乱になりながら、何かを叫び続けた。


 その末にライザーは、ふらついた足取りで孤児院へと向かう。


 現実を受け入れることが出来ない。

 あの死体はマリアじゃないと、自分に暗示をかけていた。

 孤児院に戻れば、彼女はきっとそこに居て、明るい笑顔を見せてくれる。

 そんな未来を夢見ながら、ライザーは歩き続け――


 さらなる絶望を、知った。


 燃えている。

 孤児院が、燃えている。

 紅蓮に染まった第二の故郷。その前で、集団が狂気を振りまいていた。


「はははははっ! ざまぁみろっ!」

「自分達ばかりいい目をみやがって!」

「天罰の炎で焼かれろ! 成金共が!」


 彼等は、人間の集団だった。

 彼等の足下には、子供達の死体が転がっていた。

 それを足蹴にして、彼等は笑っていた。


 ――そこから先は、覚えてない。


 地を這う蟻を踏み潰すようなものだ。

 一切の情もなく。命を散らせたという実感もなく。

 気付けば、ライザーの周囲に血の海が広がっていた。


「…………」


 ぼたり、ぼたりと、全身から紅い液体が滴り落ちる。凄惨な濡れ鼠となったライザーは、噎せ返るような鉄錆じみた臭いになんら感慨を抱くことなく、燃え落ちる孤児院の様子を見つめ続けていた。

 欠落していた心の一部。マリアや、孤児院の皆が与えてくれた、愛によって埋められたその空白が、新たな情念によって真っ黒に染め尽くされていく。


 憎悪。

 この世界に対する、果てなき憎悪。

 愛する者達を惨殺した者達に対する、底なしの憎悪。


 この瞬間、ライザー・ベルフェニックスは完全に、人の道を外れた。


「其処許等の無念、恐怖、そして恨み。我輩が晴らしてみせよう」


 歩き出す。

 紅い足跡が、街に刻まれていく。


 ――まず真っ先に八つ裂いたのは、マリアを惨殺した《魔族》であった。

 それから孤児院に火を放ち、狼藉を働いた者達に関係する人間、ことごとくを殺害。


 しかしそれでも。

 ライザーの胸中に渦巻く怨嗟は、消えなかった。


 憎い。憎い。憎い。

 この世界が。この世界に蔓延る悪意が。憎くて仕方がない。


 だから、旅に出た。

 それは殺戮の旅路であった。


 行く先々で、ライザーはその手を血で染め続けた。


《魔族》も人間も関係ない。醜悪であると判断した相手であれば、どこの誰であろうとも迷うことなく殺す。それが彼の存在意義になっていた。


 魂が真っ黒な炎に焼かれ、次第に燃え尽きていく。

 そんな感覚を味わいながら、ライザーは一つ、また一つと骸を積み重ねていく。

 それだけが手向けだと、そう思っていた。

 孤児院の子供達。マリア。

 彼女達への手向けは、悪意に満ちた害虫共の断末魔以外にないと、そう思っていた。


 そして、数年の月日が経った頃。


 ――ライザーは、かの存在へと行き着いた。


 メフィスト=ユー=フェゴール。

 邪悪の権化として知られる、《外なる者達》が一柱。


 その戦力がいかなものかは、ライザーとて知り及んでいる。

 勝算はない。挑めば死ぬ。そうだからこそ、ライザーはメフィストを最後の標的として定めたのだ。


 数年の旅路を経て、彼の心は疲れ切っていた。

 堆積し続けた悲哀が、とうとう憎悪を塗り潰したのである。


 これで全てを終わらせる。結果がどうなろうと知ったことではない。

 ライザーは死を享受すべく、標的のもとへと向かった。


 夜半。メフィストが住まう宮殿の中庭へと侵入する。


 奴は、そこで待っていた。


 夜闇の中で、瞳を煌めかせながら。

 メフィスト=ユー=フェゴールが、ライザーを待ち受けていた。


「やぁ、ライザー君。そろそろ来てくれるものと思っていたよ」


 相手方の発言をライザーは訝しんだ。

 こちらの行動を見透かしていた、というよりも……まるで、全てが計算通りと言わんばかりの語り口。

 これは、まさか。


「……見ていたのか。我輩の道程、全てを」


 メフィストは。怪物は。悪魔は。

 キラキラと、輝かしい笑顔を見せながら。

 ライザーの言葉を全面的に肯定した。


「僕にはね、わかるんだよ。僕のことを楽しませてくれる玩具が、いつ、どこで、どうやって生まれたか。だから、ライザー君。君のことも見ていたよ。赤ん坊の頃から今に至るまで、ずっと」


 この発言が意味するところは、即ち。


「操っていたのか。これまでの悪意、全てを」


 果たして。

 メフィストはこの言葉をも、全面的に肯定してみせた。


「そうだよ。君の欠落した心を刺激したくて、僕はまず村を滅ぼしてみた。でも、君は全然動じなかった。その時点で、君は僕の特別になったんだよ。この無機質な人形めいた存在を、精神的に破壊する方法はあるのか否か。君は僕の心を好奇心で満たしてくれた。本当に感謝しているよ、ライザー君」


 煌めく笑顔が、より一層の輝きを得た。

 その一方で。

 ライザー・ベルフェニックスの老貌(ろうぼう)には、次第に常闇の情が広がりつつあった。

 そして。


「……マリアが殺されたのは。孤児院の皆が焼かれたのは。其処許の仕業が」

「そうだよ? といっても、僕はただ皆の悪意を促しただけで、直接的には何も――」


 疲弊しきったライザーの心が。悲哀に塗り潰された心が。

 再び、ドス黒い憎悪へと染め尽くされた。


「うぉおおおおおおおおぁああああああああああああああああああああッッッ!」


 こいつだ。

 こいつだ。

 こいつだ。


 これまでずっと、我が心を苦しめてきたのは。

 ようやく得た安息を、愛する者達を、ことごとく焼き払ったのは。


 こいつだ。この男だ。


 ライザーは、メフィスト=ユー=フェゴールに、この世全ての悪を見た。

 奴はもはや生命体にあらず。悪意という概念そのもの。

 ゆえに――


 この男だけはなんとしてでも、滅ぼさねばならぬ。


 我が憎悪を晴らすためにも。マリア達の無念を晴らすためにも。

 ――しかし。


「それだよ、ライザー君。その顔が見たかった。さぁ、クライマックスと行こうか」


 もとより、勝算など絶無だった。

 ライザーの胸中がいかに変わろうとも、そこに変化が訪れることはない。

 彼は瞬く間に、死に際へと追い詰められてしまった。


「じゃあね、ライザー君。冥府でマリアちゃんによろしく……と言いたいところだけど、それは無理な話か。彼女は霊体ごと殺されてしまったのだから。もはやどのように頑張っても、再会することは叶わない。あぁ、心が痛むよ。しかし……だからこそ、面白い」


 胸の内に、無念の思いが広がっていく。


 ライザーは血涙を流した。


 この憎き怨敵は今後もなお生き続け、悪意を振りまいては笑うのだろう。

 そんなさまを想像しただけで、心が張り裂けそうになる。


「其処許の、道程に、呪いあれ……!」


 呪詛を吐くことしか出来ぬ自分が、腹立たしくて仕方がなかった。

 ――そして、そのときが訪れる。

 メフィストの掌から、闇色の球体が今まさに放たれんとした、その瞬間。


「この男の命、(わたし)が預からせていただく」


 突如として雷鳴が鳴り響き、一陣の突風が吹き荒れた。


 途端、ライザーの視界は闇一色に染まり――

 気付けば、別の場所に立っていた。


 風柳な調度品に彩られた、雅やかな一室。

 その中央にて。

 豪奢な椅子に座った一人の男が、ワイングラスを片手に、ライザーの姿を見つめていた。


「いやはや、危ういところであったなぁ」

「……其処許は」

「アルヴァート・エグゼクス。顔は知らんでも、名を聞いたことぐらいはあるだろう?」


 確かに、その名は記憶の中にあった。《魔族》でありながらヴァルヴァトスの軍勢へ付いた、奇特な男。どうやら自分は、このアルヴァートに救われたらしい。


 それがいかなる魂胆によるものかは不明だが……ライザーは現状を、好機とみていた。


「我が命、其処許が預かると、そう申したな?」

「肯定する。貴君の生殺与奪は今、吾の手中にあると断言しよう」

「ならば……この命、其処許のために使わせてはくれまいか」

「ほほう。我が配下となり、手足の如く働きたい、と?」


 ライザーは首肯を返した。


 無論、本心ではない。全てはメフィストへの復讐を成し遂げるためだ。


 自分一人の力では、奴に傷一つ付けることさえ叶わない。だが、この男に取り入って身を起こし、ヴァルヴァトスの軍勢を動かせるようになったなら。

 勝算は少なくとも、ゼロではなくなる。


 メフィスト=ユー=フェゴールを地獄へ落とすためなら、なんだってしよう。

 その覚悟を胸に秘めて、ライザーは言葉を紡ぎ出した。


「我輩は其処許の役に立つ。これは自惚れではなく、事実である。ゆえにこの身を――」

「断る」


 にべもなく一蹴し、グラスの中身を煽る。

 そんな相手の顔に浮かぶ微笑を睨みながら、ライザーは問いを投げた。


「なにゆえ?」

「貴君の心の()(よう)が、実につまらんからだよ」


 グラスの中身を揺らめかせながら、アルヴァートはつらつらと語り続けた。


「吾もまた、かの者と同様に貴君のことを観察していた。もっとも、貴君の存在を知ったのはここ最近のことだがね。人も魔も無関係に殺し回る凶賊。いかな手合いか興味を抱いたと、そういうわけだよ」


 足を組み、頬杖を突きながら、アルヴァートはライザーの姿を真っ直ぐに見据えた。


「その凶行は実に鮮やかで、荒々しくも手際よく、迷いや淀みなど微塵もない。そして何より……激しい悲憤に満ち溢れていた。そんな貴君の姿に、吾は色気を感じたが――しかし、どうにも物足りない。なぜだと思うね?」


 おそらくここで、先刻の一言に繋がるのだろう。

 心の在り様が実につまらない。

 しかしなぜそのように思うのか。それがまったく理解出来なかった。

 アルヴァートはそうした心理を汲み取ったのだろう。

 一口、グラスの中身を煽ってから、答えを語り始めた。


「貴君の心には怨念しかない。邪なる感情しか、広がってはいない。それだけではダメなのだ。ただそれだけの心で振るわれし力は、つまらぬ暴力に過ぎん。そんなものでは、かの怪物に届くはずもなく…………何より、吾がムラムラしてこない」


 ここで葡萄酒を全て飲み干すと、アルヴァートは椅子から立ち上がり、ライザーの胸元を指差した。


「信念を持て、ライザー・ベルフェニックス。何よりも眩い、貴君だけの信念を。さすれば貴君は完全なものとなる。そのとき、吾は貴君を配下として迎え入れよう」

「信、念……」

「左様。それを形作るための部品は、既に貴君の胸中にある。今は亡き愛する人々を思い出せ。失われてしまった黄金の日々を思い出せ。その中に貴君が目指すべき目標が、信念の煌めきが埋もれている。それを見出すまで、貴君は吾の客分としてここに居座るが良い」


 慈母の如き微笑が、アルヴァートの美貌に宿った。

 それから幾日、幾月、幾年。

 瞑想を重ね、己自信を見つめ直し、憎悪を振り払って、ようやく。

 ライザー・ベルフェニックスは己が信念を見出した。


「地上に楽土を築き、幼子が決して悲しむことのない世を創り上げる。それこそ、我輩が真に成し遂げるべき大業である」


 長き間、無念を想った。

 子供達の無念を。保護者達の無念を。

 そして、マリアの無念を、想い続けた。


 その末に見出したのが、子供達の理想郷であった。


 復讐を成したとて、マリア達が喜ぶはずもない。

 だが、彼等のような犠牲者が二度と出ない、そんな世界を創ったなら。

 そのとき、やっと、マリア達は苦悶から解放されるのではないか。

 皆の無念はそのとき、やっと晴れるのではないか。


 ライザー・ベルフェニックスは子供達の未来を守り、育むために生きる。

 そして、この大義のもと、邪悪を打ち払うのだ。


 もはや憎悪のみの男ではない。

 信念を得た欠落者は、ひたすら真っ直ぐ、その道を歩き続けていった。


 ――その後ろで、悪魔が嗤っていることに、気付くことなく。


◇◆◇


「……また、同じ夢である、か」


 カーテンの隙間から朝日が差し込み、鳥達がさえずる。

 早朝。ライザーはベッドの上で身を起こし、小さく息を吐いた。


「不安、恐怖、焦燥…………実に、ままならぬ」


 ただ信念だけがあるのみ、だったなら。

 意志を体現するだけの人形であったなら。

 こんなふうに今日を迎えて、明日を見つめることに、怯えを抱くようなことはなかった。


 あの日。アルヴァートの配下として《魔王》の戦列に加わった、あの日。

 ライザーは理想郷の創造という大義を成就するためだけに存在する、肉人形として生まれ変わった。自分はこの信念を貫き通し、そして死んでいくのだと、そう思っていた。

 だが……


「《ストレンジ・キューブ》……万能の願望器……その魅惑に、打ち勝てぬとは……」


 当初はただ、理想郷を形成するだけで良いと、そう思っていたのに。

 いざ、それを前にした瞬間、ライザーの脳裏にマリアの姿がよぎった。


 馬鹿馬鹿しい。そんな行いになんの意義がある? そう考えつつも……

 ライザーは、マリアを復活させた。……いや、復元したというべきか。


 それが無為な行いであることを理解していながら、それでもライザーは、愛する者の姿をもう一度、この目で見たかった。

 そして彼女を取り戻してしまったがために、ライザーは日々、心痛を味わっている。


「我輩は守らねばならぬ……理想郷を……マリアを……マリアの、幸福を……」


 そのために、悪魔を服従させたのだ。

 そう、服従させた、はずだ。

 全て上手くいっている。何も問題はない。


「……考え込んだところで、詮無きことか」


 今、自分に必要なものは楽観だと、ライザーはそのように考える。

 全ては意のままであると、そう楽観するのだ。

 マリアの理想郷は守られ、彼女は幸福となり、邪魔者は排除され――


 悪魔は我が掌で踊ることしか出来ない。


 実際、そうなっているではないか。

 ライザーは大きく息を吐いて、心に巣くう悲観的な感情を消し飛ばすと、


「かような些事に、いつまでも囚われていてはならぬ。今日は目出度き日だ。輝かしい心持ちで祝福せねば」


 マリアの眩い未来を、ライザーは鮮明に思い描くことが出来た。

 彼女が民衆に崇められ、満面に花が咲いたような笑顔を宿す。

 本日はそんな、目出度き祝日である。


 ――今日この日、マリアは聖女になるのだ。


◇◆◇


《ストレンジ・キューブ》を用いた改変により、世はまさに異世界も同然の有様へと変化していた。


 今、世界は二つに分割されている。


 半分はライザーが治めし、人間達の理想郷。

 もう半分はアルヴァートが支配する、魔物達の楽園。


 こうした状況になった経緯について、ライザーは偽りの設定を設けた。

 それは過去、マリアに読み聞かせていた絵本の内容に酷似している。


 無論、偶然ではない。

 復活させたマリアを物語の主役にすべく考慮を重ねた結果が、虚構の現実化であった。


 改変後の世界において、ライザーは国王という脇役の一人を務めている。

 彼は物語の主役……勇者と聖女を盛り上げるためだけに存在するような、ぱっとしないポジションのキャラクターだ。しかしそれが、ライザーの性分に合っていた。


 そして本日。

 彼は己の役割と願望、二つを満たすために動く。


 人間達の理想郷たる聖国の首都・メガトリウム、その中央広場にて。

 設けられた高台から、ライザーは膨大な民衆を見下ろしつつ、声を張った。


「皆も知っての通り、《魔王》・アルヴァートとの戦いにおいて、我々は劣勢となっている! しかし、悲観的になることはない! 神は我々に希望を与えてくださった!」


 ライザーの言葉に沸き立つ民衆。彼等は実に、奇妙な集団であった。

 そう……子供しか居ないのだ。

 一定年齢を過ぎた者達は、この場のどこにも居ない。ライザーを除けば、全てが幼児。

 そんな奇怪な状況の中で、彼は国王としての役割を果たす。


「予言者によって記された救世の聖典! そこには《魔王》の脅威に世界が困窮したとき、勇者と聖女が現れ、我々を救うと記されている! 未だ勇者は現れておらぬが……しかし、ついに! 我輩は聖女を発見した!」


 大仰な身振り手振りで民衆の熱意をかき立てる。

 そうしてからライザーは、満を持して、彼女を招いた。


「紹介しよう! 彼女こそ、我等が救世主! 聖女様である!」


 腕を広げ、後方にて待機していた幼女へ、合図を送る。

 マリアだ。素朴な容姿に派手な化粧を施し、身に纏う衣装も聖女の名に恥じぬ荘厳なものとなっている。

 晴れ舞台に緊張しているのだろう。その表情は固く、足取りは重い。

 マリアは促されるがままに前へと出て行き、その姿を民衆に晒した。

 途端、皆が爆発的な歓声を放つ。


「聖女様ぁあああああああああああああああ!」

「ぼく達をお救いくださぁああああああいッ!」


 彼等の熱気にあてられたのか、マリアの表情がより固いものになる。

 ……そんな彼女の有様が、ライザーの胸をチクリと刺した。

 この光景に満足感を示し、笑ってくれるものと、そう期待していたのに。

 実際はその正反対。

 マリアはニコリともせず、汗を浮かべながら、民衆に手を振るのみだった。

 ……ここで本来はスピーチなどしてもらう予定だったのだが、これでは難しいか。


「勇者の出現も間近であろう! そのとき、ようやっと! 我々は真の平和を掴み取り、永劫の繁栄と安寧を得るのだ!」


 かくしてライザーは定例集会を打ち切り――

 それから。

 王宮へ帰還してすぐ、ライザーはマリアへとあてがった部屋へ直行した。


 ドアをノックし、返事を待った後、入室。

 出迎えてくれたマリアは化粧を落とし、身なりも質素な麻布の衣服に着替えていた。

 ベッドに座り込んでこちらを見つめる彼女の表情は、なぜだか今なお固い。

 そんなマリアに、ライザーは眉尻を落としながら、問い尋ねた。


「我輩はよもや、其処許の機嫌を損ねてしまったのだろうか?」

「……ううん。そんなこと、ないよ。ライザーはあたしの願いを叶えてくれたんだもの。感謝してるよ。本当に」


 言葉とは裏腹に、彼女はちっとも嬉しそうではなかった。

 何がいけないんだ? どうして笑ってくれない?


 ライザーには理解出来なかった。


 その後。

 釈然とせぬまま、執務室へと向かう。


 とはいえ、心にモヤが掛かった状態では、政務など手に付くはずもなく。

 ライザーはマリアのことばかりを考えては、心を痛め、嘆息するばかりだった。


「マリアは、我輩に愛想を尽かせてしまったのだろうか……」


 呟くと同時に、すぐさまそれを否定した。

 ありえない。自分が彼女を愛するように、彼女もまたこちらを愛してくれている。

 我々の愛は絶対不変であり、そこに疑いを抱くなど言語道断。

 ライザーは首を横に振って、無理矢理に気持ちを――

 切り替えようとした、その瞬間。


「そもそもの問題。君は何も、取り戻してはいないんだよ」


 声が、響いた。

 流麗な美声だ。それは実に心地の良い音色だが、その一方で……矛盾しているが、実に不愉快な雑音めいた音色にも感じられる。


 ライザーは激しい嫌悪感と緊張を抱きながら、机上に置かれた書類束から目を逸らし、面を上げた。

 目前にて、悪魔が佇んでいる。

 メフィスト=ユー=フェゴールが、天使のような美貌に、吐き気を催すほど煌びやかな笑みを浮かべて、こちらを見つめている。


「……其処許には敵方の排除を命じたはずだが。その任は終えたのか?」


 これを無視して、メフィストは一方的に語り続けた。


「君も自覚はしてるんだろう? あの子は所詮、まがい物に過ぎないってことを」


 彼の言葉は確実にライザーの図星を突き、そして、心を抉るようなものだった。


「あのとき、彼女は死んだ。霊体ごと殺された。そうなったら最後、どうやっても蘇生は出来ない。わかるだろ? もう、元には戻らないんだよ」

「…………」

「彼女は君が愛する相手と同じ記憶を持ち、同じ心を持ち、同じ姿を持っている。けれどね、所詮はまがい物。彼女は君の記憶を頼りに創られた、精巧な復元に過ぎない。本物のマリアちゃんでは、決してない」

「…………」

「であれば、どこかに齟齬が発生していてもおかしくはない。何せ彼女は、本物じゃあないのだから」

「…………」

「ねぇ、ライザー君。僕がいわんとすることが、わかるかな?」

「…………」

「ふふ。だんまりか。それじゃあ好き勝手言わせてもらうよ? 君はあのガラクタ(ストレンジ・キューブ)を使って全てを取り戻したと思っているんだろうけど、そんなことはない。そんなものは嘘さ。幻想さ。妄想さ。虚構さ。薄っぺらいハリボテにも劣る、くだらない虚仮そのものさ」

「…………」

「苦しいんだろう? 今にも胸が張り裂けそうだろう? 当然だよねぇ。相手が自分の思うがままの反応をしてくれないのだから。不安だよね? 怖いよね? 自分が考えていることが、真実だと証明されてしまうかもしれないのだから」

「…………黙れ」

「けれどね、ライザー君。認めたくないのだろうけど、それが現実なのさ。君は逃げただけだ。心の弱さを晒しただけだ。アレは君が愛した少女じゃあない。よく似た模造品に過ぎないんだよ。だから君の思ってるようには動かないし、今後そうなることもない」

「…………黙れと、言っている」

「いいや、黙らないね。ここからが本題なのだから。……ねぇ、賢くて愚かなライザー君。君はもう、わかってるんだろう? 失われてしまったものはもう、二度と元には戻らないということを。マリアちゃんはね、消えたんだよ。この世から完全に消え去った。今居る彼女は偽物で。まがい物で。だから、君のことを愛してなんか――――」

「黙れぇッッ!」


 核心を突かれるよりも前に。

 ライザーは左掌を、前方に立つメフィストへと向けた。

 その瞬間。


「うぁっ……!?」


 メフィストの全身から漆黒の鎖が飛び出し、彼の華奢な体を縛った。

 そうして、ギリギリと締め上げていく。


「いぎ、い、いいい、いぃいいいいいいいいいいいいッッ!」


 もんどりを打って、床に倒れ込み、魚のように跳ねては苦悶を吐き散らす。


「おごッ、ご、ご……ゆ、許して……もう、許し……げぎゃッ!」


 激しい苦痛にのたうち回り、許しを乞うことしか出来ない。

 そうしたメフィストの醜態を見下ろしながら、ライザーは冷然と口を開いた。


「忘れたのか? 主導権は常に、こちらが握っていることを。其処許の生殺与奪は我輩の思うがままである。その事実を今一度、肉体と魂に刻み込んでくれよう」


 メフィストへ与える苦痛を、一層強いものへと変化させた。

 これもまた《ストレンジ・キューブ》の効力によるもの。

 封印されていたメフィストを、ライザーはただ解き放ったわけではない。

 生殺与奪を完全に握り、こちらの意に従わせるための仕掛けをいくつも施したうえで、自らの手駒としたのである。

 さしもの悪魔も、万能の願望器には手も足も出なかった。


「ひ、ぎッ! あが、が、ががッ! い、痛、痛……痛痛痛痛痛ぁああああああああッ!」


 かつて自分達をとことん苦しめた怪物が、今やこのザマである。

 ライザーは手駒の制御に成功しているという現実を前にして、安堵の息を唸らせた。

 そうして、地べたを転がる悪魔へと命令を下す。


「《魔王》とその一行を、早急に抹殺せよ。彼奴等の首を持ち帰るまで、我輩の前に姿を晒すな。さもなくば、この世に生を受けたことを後悔させてやる。永遠にな」

「わ、わかっ、わかったから! わか、り、ました、からぁ! もう、やめ……ぎゃああああああああああああああああああああああッ!」


 のたうち回るメフィストを見下ろすライザーの心には、相も変わらずモヤが掛かっていたが、しかし。

 いずれこの不快な霧も、晴れるときが訪れるだろうと、楽観している。

 こうして、史上最悪の怪物さえも、意のままに出来るような瞬間が訪れたのだ。

 であれば不可能なことなど、この世のどこにもない。

 邪魔者を排除したなら、あとはもう希望に向かって進むだけだ。

 この道はきっと、明るい光へ繋がっているはずだ。

 ライザーは悪魔の悲鳴を耳にしながら、そのように思い込むのだった――


◇◆◇


「何か、変だよ。おかしいよ」


 あてがわれた、広い広い自室にて。

 ふかふかなベッドに寝転がりながら、マリアは憂鬱な顔をして、呟いた。


「あたし、どうしちゃったんだろう……」


 自分で自分が、理解出来なかった。

 今の暮らしぶりに、不自由など微塵もない。


 欲しいものはなんだって手に入る。望めば全てを叶えてもらえる。

 この部屋が何よりの証左であろう。

 王族が使うような最高級のベッド。愛くるしいぬいぐるみ。


 そして――ライザーが与えてくれた、人形のお友達。


 それは床から跳び上がり、ぽすんとベッドの上に着地すると、


『やぁやぁ、マリアちゃん。どうしたの? どうしたの? 元気ないね? 元気ないね?』


 聞く者を穏やかにさせるような、心地のいい声で語りかけてきた。

 それはまるで、天使のように可愛い少女の人形であった。

 純白のワンピースを纏い、背中には黒と白、一対の翼が生えている。

 そんな人形をマリアはメリーと呼び、本物の妹のように扱っていた。


「うん。心配かけて、ごめんね」

『大丈夫。大丈夫。それより、どうして落ち込んでんの? 聞かせて。聞かせて』

「ん~~……それが、自分でもよくわかんなくて」


 まるで理想郷みたいな世界に居るというのに、なぜだか、それが幸せに思えない。

 奇妙な違和感が、喜びを消している。

 そう話したところ、メリーは腕を組み、うんうんと唸ってから、


『お友達よりもイイ暮らししてるから、それを悪いと思ってるのかな? かな?』

「……ううん。たぶん、ちがう。だって皆、あたしと違って、すごく幸せそうだもの」


 この世界は自分のみならず、孤児院の皆にだって、とてつもなく優しい。

 彼等は城下に豪邸を与えられ、一人一人が大勢の召使いに囲まれて、日々贅沢な暮らしを謳歌している。

 皆、心の底から笑い、幸せを噛みしめていた。

 それはマリアにとっても至上の喜びであるはず、なのに。


「なんで、あたしは、笑えないんだろう。皆が幸せになって、いつも楽しそうで……ライザーだって、すぐ傍に居てくれるのに。もう、これ以上、何も要らないのに」

『ライザー君。ライザー君。悲しんでたね。悲しんでたね』


 メリーにそう言われて、マリアはきゅっと唇を噛んだ。

 数時間前の式典を思い出す。

 あのとき、ライザーは本当に悲しそうだった。その瞳には失望が宿っていた。


「きっと、あたしが笑わなかったから、だよね。嬉しそうに笑ってあげらなかったから、ライザーを、悲しませちゃった……」


 本当は、笑うつもりだった。

 そもそも、嬉しいことなのだから、笑って当然なのだ。

 聖女になるという夢が叶ったのだから、これを笑わずしてなんとするのか。


 ……そう思っているにもかかわらず、マリアはライザーの意図を汲んでやれなかった。


 そうして彼を、悲しませてしまった。

 そんな自分に腹が立つのと同時に……胸中を支配する妙な違和感に、マリアはただ怪訝を覚えることしか出来なかった。


「何かが、変。何かが、おかしい。でも、それがなんなのか、わかんない。……ぜんぜん、わかんないよ」


 胸に抱くその奇妙な感覚を解明する方法が、マリアには見出せなかった。


「皆と一緒に、笑いたいのに。あたしだけ、笑えないなんて」


 とうとう涙が出てきた。

 わけのわからぬ違和感に、泣きべそを掻きそうになる。

 そんなとき――


『大丈夫。大丈夫。メリーが教えてあげる。マリアちゃんが知りたいこと全部、メリーが教えてあげる』

「……えっ?」


 人形のメリーが胸を張って、こんなことを言い出した。


「ほ、本当に? そんなこと、出来るの?」

『うん。うん。うん。教えてあげる。教えてあげる。マリアちゃんが知りたいこと、全部。全部全部全部全部、ぜ~~~~~んぶ』


 ニッコリと、人形の顔に微笑が浮かぶ。

 なぜだろう。

 その表情はとても、愛らしいはずなのに。

 マリアはなぜだか、妙な胸騒ぎを感じた。


『でもね。でもね。君が知りたいことが、君にとって、知れてよかったこととは、限らないんだよ?』


 もしかすると、自分は何か、間違ってしまったのかもしれない。

 だが、もう、後戻りは出来なかった。

 させては、くれなかった。


『知らなかった方がいいことだって、あるんだよ? あるんだよ? でも―――』

「いまさら気が変わったと言っても、やめてなんかあげないけどね?」


 マリアは、囚われていたのだ。

 最初から。

 復活し、ライザーや孤児院の皆と再会してから。

 その時点から。

 常にマリアは、囚われていた。

 そう――

 今、天井に足を付け、逆さまの状態でこちらを見つめる、この悪魔に、マリアは囚われていたのだ。


「あ、あなた、だれ?」


 くすくす、くすくすと。

 人形が笑う。悪魔が笑う。


『やぁ、僕メフィスト! 君のお友達だよぉ~!』

「やぁ、あたしメリー! 君のお友達だよぉ~!」


 人形の口から、悪魔の声が――

 悪魔の口から、人形の声が――

 放たれ、そして、やって来る。


「い、いや……! やだ……! こないでっ……! いや……! いや――――」


 くすくす、くすくす、くすくす、くすくす。

 くすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすアハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ!


 笑い声が、幼き少女の悲鳴を、掻き消していた――


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