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第九〇話 元・《魔王》様と、史上最狂の宿敵


 今より遙か昔。

 古代世界と称されるその時代において、陸海空の全てを支配していた者達が在った。


《外なる者達(アウター・ワン)》。

 当時、彼等の主たる呼び名(、、、、、、)はそれだった。


 人類を基に《魔族》という超越者達を創り、古代世界を完全支配していた上位存在。

 彼等の多くは人間という生き物に対して差別的であり、その大半が圧制者であった。

 ゆえに俺はオリヴィアを始めとした当時の仲間達と共に反乱軍を立ち上げ、彼等を排斥すべく戦い続けたわけだが……


 しかし実のところ、彼等のことを真に邪悪だと思ったことは、ただの一度さえない。


 中には人類に対して極めて友好的な個体も居た。そうした者達は例外なく、差別なき理想的な国家を創り上げており、その政治的手腕は手本として相応しいものだった。

 人類に対して差別的な個体であっても、皆それぞれが信念に基づいた行動を取っており、敵ながら称賛に値すると感じた者達も多い。


 だが。そんな《外なる者達(アウター・ワン)》の中に在って、奴だけは。


 メフィスト=ユー=フェゴールだけは、特別な存在だった。


 その行動に信念などなく、全てが支離滅裂であり――――何よりも、おぞましい。


 この世の悪、全てを煮詰めたとしても、奴一人の邪悪には遠く及ばないだろう。


 人も魔も、神さえも例外なく、気まぐれに救っては嘲笑(わら)い、気まぐれに殺しては失笑(わら)う。


 そうした在り(よう)はまさに、邪悪なる神そのもの。


 それゆえに奴は、《邪神》と呼ばれていた。


 そう、元来、その呼び名は奴にのみ適用されていたのだ。

 現代において聖書(バイブル)の一つとされる魔王英雄譚の中では、《外なる者達(アウター・ワン)》という記述はなく、彼等のことを総じて《邪神》と呼称しているが――


 俺からしてみれば、その呼び名を用いるべきはただ一人。


 メフィスト=ユー=フェゴール。

 奴だけを、そのように呼ぶべきだと、そう思っている。


 あの時代においてメフィストを憎く思わないような存在はなかった。

 人も、魔も、神も。森羅万象が奴を憎み、恨み、誰もがその存在を消し去らんとした。

 この俺もまた、例外ではない。

 俺の周りを固めていた配下や、仲間達にしても、同様であろう。


 オリヴィア、ヴェーダ、アルヴァート、ライザー。我が軍において四天王を務めた者達や、文官の最高峰・七文君、我が側近たる薔薇の騎士・リヴェルグ……そうした名だたる英傑達は当然のこと、まだ何者でもない雑兵、一人一人もまた、同じ感情を共有していた。


 リディア率いる《勇者》の軍勢にしても、同様である。


 特に……リディアは誰よりも、メフィストを恨み抜いていた。

 彼女にとってメフィストは愛する母の仇であり……


 実の、父親だった。


 その出自が、どれだけリディアを苦しめたか。

 そして……最後の最後まで、メフィストはリディアにとって、悪夢のような男だった。

 いや、彼女だけではない。俺達からしても、奴は悪夢そのものだ。


 だから、総力を以て消し去った。


 もう二度と、その存在が世に現れることはないと、安心しきっていた。


 ――それなのに。

 今、再び。

 悪夢が、蘇ってしまった。


「ッ…………!」


 歯軋りの音が、静かに響く。

 隣に立つオリヴィアやヴェーダも。すぐ後ろに居るシルフィーも。そして、俺も。

 目前のバケモノに対し、冷静ではいられなかった。

 そんな俺達の視線を一身に浴びながら、メフィストは――


「あぁ、いけないね。想定通りではあるけれど、やはり涙が流れてしまうよ」


 まるで無二の友と、再会を果たしたかのように、目元から滴を零した。

 ……この不快感と、気持ちの悪さ。

 緊張と、そして極限の怒気が、心中にて渦を巻き始める。

 ……そんな俺達に反して、奴と面識のないジニーは、怯えつつも冷静だった。


「メフィスト、って……《魔王》様が永劫の牢獄に封印したという、《邪神》の一柱、ですよね……? それが、どうしてここに……?」


 現状に対する疑問を抱ける程度に、ジニーの心理は冷えていた。

 反面、彼女が口にした疑問によって、我々の脳髄は殊更に熱くなる。


「ライザーだわ……! アイツが、《ストレンジ・キューブ》を使って……!」


 おそらく、シルフィーの言葉通りだろう。

 追い詰められたとき、ライザーは常に奇策へと走る。敵方の理解を超えた謀略を用いねば、最低最悪の状況は打破出来ぬと、そう考えているからだ。

 実際のところ、そうした行動で以て奴は幾度となく窮地を乗り越えてきた。


 そうだからこそ、此度の愚行に及んだのだろう。


「ライザーめ……! ここまで蒙昧な男だったか……!」


 オリヴィアの恨み節は、俺の心を代弁するようなものだった。

 なるほど。確かにこれは、奇策中の奇策だ。誰も予想しなかったに違いない。


 まさかまさか。

 敵方が自殺に等しい行為をしてくるだなんて、誰が予想出来ようか。


 ライザーはおそらく、万全の準備をしたうえで、奴を復活させたのだろう。

 制御可能と踏んだからこそ、そのようにしたのだろう。


 ……なんと、愚かな。


 相手は《邪神》だぞ。

《勇者》はおろか、《魔王》さえも及ばない。

 そんなバケモノを、制御出来るわけがないだろうが。


「ふぅ……少し、落ち着いたよ。悪かったね。取り乱してしまって」


 口元を笑ませながら、奴は黄金色の瞳を細め、周囲を見回した。

 そうしてから、ヴェーダへと目線を向けて、言葉を投げる。このうえなく、親しげに。


「展示されている発明品の数々、実に見事だよ、愛弟子(、、、)。僕が教えたことを全部、ゴミみたいに捨ててるね。そこらへんが特に素晴らしいよ」

「……また、ワタシの玩具を壊すつもりですか、師匠(せんせい)


 珍しく、暗澹とした怒気を顔に宿すヴェーダ。そんな彼女にメフィストは苦笑しながら、


「そうだねぇ。さっき君達が勘ぐっていたけれど、実際、今の僕はライザー君の手駒だから。けれど愛弟子。君がどうしても嫌な思いをしたくないと言うのなら――」


 天使のような美貌に、聖母のような優しい微笑みを浮かべて。

 奴は朗らかに、言葉を紡ぎ出した。


「――――まずは、君を壊してあげよう」


 刹那。

 危機感が全身を駆け巡る。


「ヴェーダッ!」


 対応してくれ。そう願いながら、彼女の名を叫ぶ。

 だが……それが叶うことは、なかった。

 ヴェーダの足下にて、漆黒の槍が生まれ出で、そして。


「あっ……」


 彼女の華奢な胴体が、鋭利な穂先によって、貫かれた。


「良かったね、愛弟子。これでもう嫌な思いをせずに済むよ」


 天使の顔に、悪魔のような微笑が浮かんだ、そのとき。


「メフィストォオオオオオオオオオオオオオッ!」


 オリヴィアの、狂乱めいた怒声が響き渡る。

 刹那、魔剣を抜き放った彼女が一瞬にしてメフィストへ接近し、袈裟懸けの斬撃を――


「相変わらず、つまらないな。君は」


 斬撃を繰り出すよりも、前に。

 オリヴィアの全身が、吹き飛ばされていた。


「がッ……!?」


 壁面へと衝突し、ずるずると地面へ落ち、そして動かなくなる。

 オリヴィアの身に、いかなる事態が起きたのか。メフィストが何をしたのか。

 全て、目視確認、出来なかった。


「暴力に対する報復を、同じ暴力で以てしか実行出来ない。それだけでも想定通り過ぎてつまらないというのに……なんだい? さっきの攻撃は。やって来るまでに三回も欠伸が出ちゃったよ」


 口元は笑んだまま、瞳に冷ややかさを宿す。

 そして奴は、こちらへと目をやって、


「さぁ。君はどうしてくれるんだい? ハニー」


 怖気が走ると同時に、俺は攻撃を開始した。

 それはまさに反射的な行動であり、思考は伴っていない。

 気付けば属性魔法を雨あられと叩き込んでいた。


 全力全開。

 加減などない。ありえない。


 目前の絶対的な脅威に対し、俺は全身全霊の攻勢を展開する。

 巻き起こった破壊の嵐は奴の体を瞬く間に飲み込んで、その周辺に存在する有象無象の全てに甚大な被害をもたらした。

 局所的ではあるが、威力は十分。いかなる手合いであろうとも、無事では済まない。


 ――それなのに。


「今、すごく落胆しているよ、ハニー」


 悲しげな囁き声が耳に入った、その瞬間。


 掻き消された。


 膨大な属性魔法の群れが、一瞬にして。


 けれど奴は、特に何も、不可思議な力を用いたわけではない。

 ただ、体にまとわりつく煙を払うように、両手を無造作に振っただけ。


 それだけの所作で、こちらの全力が、完封されてしまった。


「あぁ――――実に、不愉快だ」


 まるで奴の心情に応ずるかの如く、小柄な総身から、漆黒の波動が生じた。

 回避、出来ない。

 反応さえ難しい。

 俺も、ジニーも、シルフィーも、それをもろに浴びて、部屋の隅へと吹き飛ばされてしまった。

 背面が壁に叩き付けられ、鈍い痛みが全身を駆け巡る。

 そして俯せに倒れ込むと同時に。


「残酷なものだね。時の流れというのは」


 足蹴にされた。

 メフィストが、俺の肩を踏みつけている。

 小さく華奢な体だが、しかし、その力はまるで巨人のようであった。

 身動きが取れない。

 そんな俺に冷然とした視線を浴びせながら、メフィストは唇を尖らせた。


「今の君は、とても不細工だよ、ハニー」


 刹那、流れ込んでくる。

 奴の足から何か、恐ろしいものが。禍々しいエネルギーのようなものが。

 我が身へと、流れ込んでくる。


「ぐ、あ、あ……!」


 口から苦悶が漏れ出た。

 肉体的な苦痛であれば、いかなるものであろうと歯牙にもかけない。

 だが、これは。この、霊体を蝕み、腐らせ、破壊する痛みは。

 言い表しようがないほどの、苦しみであった。


「ぐ、ぁ、う……!」


 消える。このままでは、我が存在が、永遠に。

 けれども反抗出来ない。足蹴にされたまま、指一本、動かすことが出来なかった。

 ……こんなところで、終わるのか?

 心の中に絶大な恐怖が生まれ、歯がカチカチと鳴り始めた。

 そのとき。


「だぁりゃあああああああああああああああッッ!」


 聖剣・デミス=アルギスを携えたシルフィーが、吶喊する。

 完全な不意打ち。

 刃圏に相手を捉えると同時に、シルフィーは敵の首を狙って、鋭い突きを繰り出した。

 が――


「おぉっと危ない」


 跳躍し、距離を離す。

 聖剣の一撃は空を切り、メフィストに触れることさえ叶わなかった。

 大きく間合いが開く。

 シルフィーが俺を背にして、まるで庇い立てするように、敵方を睥睨する。


「これ以上、好き勝手はさせないのだわッ!」


 勇ましい彼女に、俺は……このうえない危うさを感じた。


「シル、フィー、さん……!」


 ダメだ。立ち向かっては、ダメだ。

 逃げろ。ジニーを連れて、逃げろ。

 そう叫びたかった。しかし、出来なかった。

 先刻受けたダメージが、声を発することさえも、許してくれない。

 そうこうしているうちに、状況が進んでいく。

 勇猛なオーラを放ち、敵方を睨むシルフィー。

 そんな立ち姿を前にして、メフィストは、


「ふっ、ふふ」


 クスリと、小さく笑う。


「……何が、可笑しいの?」


 眉間に縦皺を刻むシルフィーに、メフィストは「くつくつ」と喉を鳴らしながら、受け応えた。


「君は確か、シルフィーちゃん、だったかな? 僕の娘が、我が子も同然に育てた愛弟子の一人。そうだろう?」

「それがどう――」

「けれど君は。そんな愛弟子の君は。あのとき(、、、、)、姿を見せなかった」


 ピクリと、シルフィーの肩が震えた。


「誰よりも、あの子に愛されていたのに。誰よりも、あの子を愛していたのに。でも、君は居なかった。あの子が死ぬ間際、どこにも、その姿はなかった。ねぇ、どうして? どうして居なかったんだい? シルフィーちゃん」


 くつくつと喉を鳴らしながら、口元に悪魔の微笑を浮かべて、メフィストは口撃を重ねていく。


「君が居たなら、悲劇を防げていたかもしれない。僕があの子に掛けた洗脳を、解くことが出来たかもしれない。親友であるハニーの言葉は届かなかったけれど、家族のように愛した君の言葉なら、可能性はあったんだよ。でも……君は、居なかった」


 この言葉が、どれだけシルフィーの心を抉るか。メフィストは理解している。

 理解しているからこそ、笑っている。


「親も同然の相手が死にそうになっているのに、どこかへ行ったままの君が、今さら救世主のような顔をして……ふ、ふふっ。仲間を、守る? ふふ、ふふ……いや、実に滑稽で、哀れで、愚劣で、お間抜けで。あぁ、まったく、君って奴は――――」


 唇をヒクヒクとさせながら。

 メフィストは、この上なく人を見下した目で、言った。


「――格好付けてんじゃねぇよ、親不孝ものが」


 瞬間。シルフィーの中で、何か決定的なものが、切れた。


「黙れぇえええええええええええええええええええええええええええええええッッ!」


 金切り声を放ちながら、踏み込む。

 まるで癇癪を起こした子供のようだった。

 そんなシルフィーに対し、メフィストの態度は冷ややかだった。


「うん、もういいや、君は」


 飽いた玩具を見るような目。

 そして――


 気付けば、シルフィーの総身が宙を舞っていた。


 やはり、何が起きたのか、まったくわからない。

 何か巨大な壁に跳ね返されたように、シルフィーは勢いよく飛んで――

 壁面をブチ抜き、その姿を消失させた。


「さてさて」


 壁に穿たれた大穴から、メフィストは別の方向へと目線を移す。

 そこに在ったのは。


「ひっ……!」


 ジニーだ。

 尻餅を付いて、怯えたように体を震わせる彼女を、メフィストはジッと見据えた。

 大きく開かれた黄金の瞳。奴はきっと、ジニーの全てを見通したのだろう。

 そのうえで、メフィストは肩を落とした。


「つまらない。実につまらないよ、君は」


 はぁ、と大きく息を吐いて、愚痴を零すように呟く。


「生い立ちにドラマ性がなさ過ぎる。現代生まれは皆こうなのかな? だとしたなら、僕にとって今の世界は生き地獄も同然だね。昔はよかった……なんて言葉、絶対に吐きたくはなかったのだけど、君を見ていると否が応でも口にせざるを得ないよ」


 奴の瞳が、天使のような美貌が、みるみるうちに冷めていく。

 とうとう、口元に浮かべ続けていた微笑さえも消し去って。

 メフィストは、淡々と言葉を紡いでいく。


「君は、そう……例えるなら、永遠の芋虫だ。美しい蝶になることはおろか、さなぎにさえ変わることが出来ない。見所がなく、面白みを引き出すための要素もなく……あぁ、実に実に、退屈だよ。そして僕は――――虫ケラを見るとつい、踏み潰したくなってしまう」


 ここに至り。

 無力な友が。怯えることしか出来ない、哀れな友が。

 危機に陥ったことによって、ようやく。


「うぉ、あぁあああああああああああああああああああああああああああッッ!」


 我が肉体が、意思に応じて、動くようになった。

 先刻のダメージは残っている。依然として、生き地獄も同然の苦痛が走り続けている。

 だが、それがどうしたというのか。

 大切な友を失う苦しみ比べたなら、これしきの苦痛、どうということはない。

 そして、俺は――


「《孤独なりし王の物語プライベート・キングダム》ッッ!」


 一瞬にして詠唱を完了し、切り札を発動する。


 出し惜しみなど、するはずもない。

固有魔法(オリジナル)》を展開すると同時に、勇魔合身・第三形態へ移行。


 これは現段階において、俺がまともに運用出来る、最大の戦力だ。

 圧倒的なパワーが得られる代わりに、身体への負担は激烈だが……

 例え骨肉が砕けようとも、あの悪魔を倒せるなら本望。

 我が手に喚び出されし黒剣に、俺は万感の思いを込めて、今――


「あぁ。やっぱり君は、その姿が一番だよ、ハニー」


 ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――何が起きたのか、理解が、及ばなかった。


 奴の憎たらしい笑顔が瞳に映ったところまでは、覚えている。

 けれど、それからの記憶が、ない。


 気付けば俺は、床に倒れ込んでいて。

 黒剣は粉みじんに砕け。


《固有魔法》が、解除されていた。


「う、ぐ……!」


 動けない。

 指一本、動かせない。


「そうだよハニー。この世界はね、すごくすごく、理不尽に出来てるのさ」


 奴は、笑っていた。

 笑いながら、滂沱の涙を、流していた。


「あぁ、本当に。本当に本当に。この世界は理不尽だよ。僕が愛したハニーはもう、どこにも居ないんだね。僕が知ってる君は、もっと強かった。もっと情熱的で。もっと圧倒的で。もっともっと、怖かったよ。――――それが今じゃ、このザマか」


 メフィストが、右手を向けてくる。

 次の瞬間。

 掌の先に、純白の魔法陣が現れ、そして。


「がっかりしたよハニー。ここでお別れになってもいいと、そう思う程度には」


 魔法陣の中から、闇色の球体が顔を覗かせた。


「君を殺してから、僕も死ぬことにするよ。じゃあね、ばいばい」


 哀しげに涙を流しながら。愉しげに笑いながら。

 メフィストは微塵の躊躇いもなく、己の殺意を現実へと反映させた。

 刹那――

 黒球が、やって来る。


「ぐ、うッ……!」


 やはり我が身は、一切の動作を許さない。

 被弾する。直撃する。


 ――死ぬ。


 恐ろしかった。

 死ぬことが、ではない。

 皆を救えぬまま、道程を終えることが、何よりも恐ろしかった。


「イリー、ナ……!」


 すまない。イリーナ、すまない。

 助けてやれなかった。弱い俺を、許してくれ。


 自然と、涙が頬を伝う。

 もはやこれまで。

 己の結末を受け入れ、瞳を瞑る。

 その刹那――


「アード君ッ!」


 悲鳴にも似た叫びが、耳朶を叩く。

 ジニーの声だった。

 そして、すぐ、彼女の気配が移動する。


 思わず目を見開いた、その瞬間。

 瞳に、飛び込んできたのは。

 俺を庇うように立つ、ジニーの姿。


 そんな彼女へ、黒球が迫り――


「あ」


 爆裂。

 彼女の体に触れた途端、球体が漆黒の爆炎となって、ジニーの全身を覆う。

 彼女は小さな悲鳴を上げて。

 全身を闇色の炎に焼かれながら。

 俺の目の前で、倒れた。


「あ、が、あ……!」


 体が、震え出す。

 歯が、カタカタと音を鳴らす。

 ジニー。

 ジニー、ジニー、ジニー、ジニー、ジニー。


「ジ、ニィ……!」


 起きろ。起きてくれ。

 頼む。死ぬな。死ぬんじゃない。死ぬな。


「ジニィィィィッ……!」


 希うことしが出来ぬ己の無力さに、俺は一筋の涙を流した。

 ……その一方で。


「これは、想定外だ」


 悪魔が。

 天使の美貌に驚愕を貼り付けながら、目を見開いて、ジニーの姿を凝視する。


「どうしたことだろう、この子は決して動けないはずだった、いや動けたとしたってこちらの攻撃速度を思えば間に合うはずがない、なのにどうして、何が彼女を動かした、何が彼女の限界を引き上げた、何が何が何が何が――――」


 黄金色の瞳を揺れ動かしながら、ぶつぶつと呟き続ける。

 その末に、奴は結論を見出したのか。


「あぁ、そうか。愛だ。愛の力だ」


 得心がいったように手を打ち、そして……微笑む。

 まるで聖母のような、慈愛に満ちた顔だった。

 そんな表情でジニーを見つめながら、メフィストは口を開く。


「前言を撤回するよ、ジニーちゃん。君は醜い芋虫なんかじゃあない。ちゃんと見所のある、素晴らしい逸材だ」


 上気したように、メフィストの頬が赤く染まった。

 そうして奴は両手を広げ、天井を見上げながら、言い放つ。


「ありがとう。君は僕に、好奇心とアイディアを与えてくれた。それらを基にドラマを創ろう。……ふふ。今、すごく気が昂ぶっているよ」


 その場でクルクルと回り、小躍りした後。

 スキップしながら、奴がこちらへと近付いてきた。


 ……何も、出来ない。

 剣を握ることも。拳を固めることも。何一つ、出来はしない。

 ただ、されるがままだった。


 そんなこちらの頬を、メフィストは両手で挟むと、


「気が変わったよハニー。確かに、君の変化は残念だけれど、でも……そこは僕が合わせてあげればいい。そうしたなら、また遊べるだろう? 昔のように、ね」


 奴は俺の額に口づけし、まるで恋する乙女のように囁いた。


「ドラマを創りたい僕と、そうはさせない君達。あぁ、楽しみだ。実に実に楽しみだ」


 そして。


「じゃあね。愛してるよ、ハニー」


 天使のように、綺麗な顔をして。

 悪魔が、この場より消え失せた。

 残ったのは、犠牲となった者達だけ。

 皆、屍のように倒れ、指一本動かせずにいる。

 ……俺もまた、意識を繋ぎ止めることさえ、困難な状態にあった。


「く、う……!」


 太い涙が、頬を伝う。

 目前の現実が。受け止めがたい現実が。強い強い悔恨を、生み出している。


 ……負けたのだ。


 俺達は、負けてしまったのだ。

 完膚なきまでに。

 これ以上なく、明確に。


 奴は、メフィストは、徹底的な絶望をもたらして、去って行った。

 俺達の肉体と精神を、破壊するだけでなく。

 未来への期待さえも、壊していった。


 ……バキリ。


 音が鳴り響く。

 それは奴の置き土産。


 メフィストは去り際に、皆の腕輪を破壊していった。

 失われた魔力を元に戻すための魔装具を、全員分、破壊して、去って行った。


 振り出しに戻っただけなら、まだいい。

 魔力を失い、抗う術を失い、何もかもを失って。

 それでもなお、戦い続けなければならない。


 そんな状況に俺は。

 涙を流し、意識を失いかけながら。

 溶けた鉛を吐くような気持ちで、喉から声をひり出した。


「希望は、ないのか……!」




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