第八八話 終章序曲 変貌する世界
茫洋とした意識の中。
シルフィー・メルヘヴンは何者かの声を聞いた。
「ミス……フィー……! これ……飲……さい……!」
断片的な言葉。その声色に、シルフィーは友人の一人、ジニーを連想した。
おそらく、彼女が自分を救助すべく動いているのだろう。
この、口に流し込まれているのは、決戦前、アードに貰ったポーションか。
シルフィーは失われゆく意識をどうにか繋ぎ止めながら、口内の液体を飲み干した。
すると狂龍王によって刻まれたダメージが瞬く間に回復。
動けぬほどの激痛が消え去り、失神寸前だった意識もある程度明確になった。
(さすが、アードお手製のポーションだわ)
(けど……いくらアードでも、副作用をゼロにすることは出来ないようね)
そればかりは仕方がないことだった。
ポーションは対象の肉体を無理やり活性化させ、傷を癒やすという薬品である。
そのため使用者が受けた傷の具合によっては、大きな副作用をもたらすことがある。
軽傷であれば、治癒の後、ちょっとした疲労感を味わうといった程度の副作用で済むのだが、今回のシルフィーのように重傷だった場合、傷を癒やす際の肉体への負荷は極めて強く……
(あぁ、めっちゃ眠いのだわ)
(悪いけれど、アタシの出番はここまで)
(あとはアードに任せて、眠らせてもらうのだわ……)
きっと、イリーナやジニーはアードが救ってくれるだろう。
そのように確信しているシルフィーは、あっさりと睡魔に敗北した。
そして――
どれだけの時間が経ったのだろうか。
シルフィーは独特の揺れを感じたことで、目を覚ました。
彼女の小柄で、華奢な体が、硬い何かによって揺らされている。
それをシルフィーは、イリーナかジニー、あるいはアードによるものと考え――
「う~ん。もうちょっと、寝させてほしいのだわ」
眉間に皺を寄せながら、怠惰な欲求を口にする。
それに対し、帰ってきた言葉は。
「グォオオオオ……」
まるで、人外のような声である。
というか。
完全に人外の声である。
そうした反応に悪寒を覚えたシルフィーは、眠気を打ち払いながら、瞼を開けた。
その結果。
彼女は驚きの光景を目にする。
ついさっきまで、アサイラス首都の城跡にて眠っていたはずだが……
なぜだか、シルフィーは森の中にいた。
うっそうと生い茂る草花や樹木。絶えず鳴り響く獣や虫達の声。
そして。
そんな場所で彼女を起こしたのは、イリーナやジニーでもなければ、アードやオリヴィアでもない。
見上げるほど巨大な、脚竜種であった。
発達した二本の足を有する、ガイアドラゴンの一種。
その大きな顔が、目前にあり――
「えっと、起こしてくれてありがとうだわ。じゃあアタシ、ちょっと急用があるんで――」
「グォオオオオオオオオオオッ!」
そのとき、脚竜の巨大な口が開かれ、少女を食らわんと襲いかかってくる。
シルフィーは咄嗟に後方へと跳躍し、殺到する牙を回避した。
それから、手元に聖剣・デミス=アルギスが握られていることを確認すると、
「まったく! 今日はまさにドラゴン日和だわね!」
巨大な敵を前に、恐るることなく、聖剣を構えた。
「ちょっと状況がよくわかんないけど! とりあえず、やっつけてやるのだわっ! このデカトカゲっ!」
シルフィーは聖剣が有する恐るべき力を解放し、一撃のもとに敵方を打倒……
したかったのだが。
「……あれ?」
聖剣の力を引き出すべく、魔力を込めるシルフィー。
だが、相棒はうんともすんとも言わない。
「えっと、デミス? なにしてんのだわ? 早くド派手な光線ぶっ放すのだわ。お~い」
呼びかけながら、魔力を流し込む。
しかし、それでも、聖剣はなんの反応も示さなかった。
「もしかして、あのエルザードとかいうドラゴンと戦ったことで、なんか問題が起きたのかしら?」
ならば、少々面倒ではあるが、自前の魔法技術で戦えばいい。
そう思い、シルフィーは挨拶代わりの攻撃魔法を放とうとするのだが、
「……あれ?」
何も、起きない。
発動したはずの魔法が、顕現しない。
「え~っと……」
異常事態に、シルフィーは冷や汗を流し、そして。
「ヒトとドラゴンって、友達になれると思うのだわ。だからアタシを食べるのは――」
「グガァアアアアアアアアアアアアアッ!」
問答無用とばかりに襲いかかってくる脚竜。
それに背を向けて、シルフィーは全速力で駆け出した。
「あぁ、もうっ! どうなってんのだわぁあああああああああああああああっ!」
広大な森林の只中にて。
今まさに、《激動の勇者》による、孤独なサバイバルが開幕したのだった。
◇◆◇
あの恐ろしい狂龍王を、イリーナが見事にブッ飛ばした。
そうした結末を目撃した瞬間、ジニーは口元に笑みを浮かべ、親友へ称賛の言葉を送る。
「ふふ。さすが、ですわ。そうこなくては、張り合いがありません」
親友であり、恋敵であり、そして……憧れの存在。
そんなイリーナの勝利を祝福しながら、ジニーは自身の意識が急激に薄れていくことを実感した。
「ここまで、来れたことは……まさに、奇跡……でしたわね……」
エルザードに腹を貫かれてからすぐ、ジニーはアードから貰った緊急用のポーションを服用した。そうすることで一命は取り留めたが……
ポーション特有の副作用と、酷い貧血で、まともには動けぬ状態であった。
それに耐えてイリーナのもとへ駆けつけたジニーだったが、もはや気を張る必要はない。
彼女は地面に寝転がりながら、目を瞑った。
意識を取り戻した頃には、何もかもが解決しているだろうと、そう思いながら。
ジニーは、深い眠りへと沈んでいった。
そして――
目が覚めると同時に、違和感を覚える。
頬から伝わる感触がずいぶんと柔らかい。
自分は砕けた石畳の上で眠っていたはずだが……
民間人の手によって、医療所に運び込まれたのだろうか?
いや、それは違う。
この、頬から伝わる感触と匂いは、ベッドのそれではない。
土だ。
自分は今、土の上に倒れ込んでいるのだ。
そのように理解した瞬間、ジニーは当惑と共に瞼を開いた。
「ここ、は……?」
少なくとも、アサイラスの首都でないことは理解出来る。
目覚めたジニーの瞳に映ったのは、見知らぬ平野であった。
辺りには濃厚な霧が漂っており、身近な場所しかハッキリと視認することが出来ない。
なんともおどろおどろしい平野の中で、ジニーは立ち上がり、
「……待っていても、助けが来るとは限りませんわね」
わけのわからぬ状況ではあるが、とりあえず動こう。
そのように考えたジニーは、周りに警戒しつつ、ゆっくりと歩き出した。
慎重に、油断なく進んで行く。
そうしていると、濃霧の中、目前に何かしらのシルエットが現れた。
「これは……トーテムポール、かしら?」
何を模したものなのか、ちょっとわからない。
そんな独特過ぎる置物を前に、ジニーは顎に手を当てながら呟いた。
「そういえば、ミス・イリーナの村にもトーテムポールが置いてあるとか、おっしゃってましたわね」
以前、話に聞いたそれと、このトーテムポールの特徴は完全に一致する。
ならばここは、アード達の生まれ故郷であろうか?
「いや、でも、お二人の出身地には霧なんて滅多に発生しないはず。というかそもそも、なぜ私は別の場所に飛ばされたのでしょう……」
わからない。
目前の状況の、全てがわからない。
気味が悪すぎる現実に、ジニーは辟易し始めた。
そんなとき。
濃霧の向こう側にて、何か、動くものを発見した。
「村の方、でしょうか」
ちょうどいい。
ここがどこなのか、それがわかるだけでも、精神的には楽になるだろう。
そう思ったジニーは、霧の中、村人と思しき存在へと近づき――
そして、目を大きく見開いた。
「こ、これは」
目前の存在を凝視しながら、冷や汗を流す。
見知らぬ村の中には、恐るべき光景が広がっていたのだった。
◇◆◇
白き筺が開かれ、黄金色の煌めきが我が視界を覆ってからすぐのこと。
俺の意識は瞬く間に失われ――
「……い! ろ……! ……ード! ……起きろ、アード!」
そのとき。
聞き覚えのある声が、耳朶を叩いた。
途端、浮遊感に似た感覚がやってきて。
俺は、意識を覚醒させたのだった。
「ん!? 目が覚めたか!?」
瞼を開けると共に、エルフの少年が視界に映った。
エラルドである。
彼の姿を確認してから、周囲を見回す。
……学園の教室だ。
俺は、アルヴァートの手によって、ここへ飛ばされたということか?
いったいなんのために?
……その意図も気になるところだが、それ以上に。
「なぁ、アード。オメーなら、何があったかわかんだろ?」
エラルドが、俺の目を見つめながら。
この教室内に広がる異常について、問うてくる。
「なんなんだよ、この霧は?」
そう、霧である。
教室の内部が……いや、どうやら外部に至るまで、濃密な白い霧に覆われていた。
「これがいきなり広がってよ。したら、オメーが突然、教室に現れたんだよ」
エラルドの言葉を聞きつつ、改めて周りを見回す。
……夏期補習講座に参加していたであろう生徒や講師達が、ジッとこちらを見ていた。
皆、一様に不安を顔に貼り付けている。
……正直言って、皆を慮るだけの余裕はない。
イリーナが誘拐されてしまったのだ。
そうした現実が、俺の脳内から言葉を奪っていた。
「……なるほどな。やべぇことが起きてるってわけか」
一言も喋らぬ俺の姿から、エラルドは何かを察したらしい。
彼はこちらの肩に手を置いて、語りかけてきた。
「事情の説明はしなくていい。ただ、オメーがすべきことを考えろ」
「私が、すべきこと……」
決まっている。
イリーナの救助だ。
それ以外はエラルドが述べた通り、考えるべき問題ではない。
「答えが出たみてぇだな。そんじゃ、さっさと事件を――」
と、エラルドが笑いかけながら、喋る最中のことだった。
「ぐ、う……!?」
突如、彼が苦しみだした。
いや、エラルドだけじゃない。
室内に存在する者達全てが、苦悶を吐き出している。
「ア、アード、君……!」
「か、体が、変、だよぉ……!」
「助けて、くれぇ……!」
呻き声が木霊す室内の様相は、筆舌に尽くしがたい惨状として、我が目に映った。
そして――
「ぐ、が、あ」
エラルドが。
他の生徒達が。
その体を、変貌させる。
「ぐげ、が、あ」
「ごご、が、が」
「げ、げげっ」
喉から異音を零す皆々の肉体が脈打ち、ベキバキと音を鳴らす。
「なんだ、これは……!?」
目前で展開される異常事態に、俺は目を見開いた。
ヒトが、バケモノに変わっていく。
ある者は触手の塊へ。
ある者はキメラじみた姿へ。
またある者は、形容しがたい怪物へ、姿を変えていった。
そして、エラルドもまた。
「ぐげ、ぐげげげげげげげ!」
まるで豚のバケモノといった、おぞましい姿へと変貌を遂げた。
……これは間違いなく、アルヴァートの仕業だ。
あの筺が、こうした事態を招いたのだ。
「俺をここへ転移させたのは、友が醜いバケモノへ変ずる場面を見せるためか……!」
より一層強い敵意を、俺の中に生み出すため。
そうした奴の意図が、ハッキリと理解出来た。
「……いいだろう。かつての約束を、果たしてやろうじゃないか」
無二の親友を攫っただけでなく、明るい未来を共に築いていこうと、そう考えていた者達にさえ牙を剥くとは。
もはや、絶対に許してはおけぬ。
アルヴァートを必ずや討ち取り、友をこの手に取り戻す。
強い目的意識を胸に抱きながら、俺は目前の、変わり果てた友人達を見た。
「イリーナ救出の前に、まず以て、皆を元の姿に戻してやらねばな」
おそらくはなにがしかの魔法によるものであろう。
それを我が異能にて解析し、元通りにする魔法を開発すればよい。
実に容易いことだ。
「少々お待ちください。今、解析を――」
と、変わり果てたエラルドに語りかける最中。
俺は、強烈な違和感を覚えた。
「……どういう、ことだ?」
解析を行おうとしても、いつものような調子にならない。
異能が、発動しないのだ。
いや、それだけじゃない。
我が身から、魔力の流れが失われている。
これは、即ち――
「アルヴァートめ、この俺から友だけでなく、魔力さえも奪ったのかッ……!」
あまりにも最悪な状況に、俺はただただ、歯噛みするしかなかった。
◇◆◇
ラーヴィル魔導帝国、古都・キングスグレイヴにて。
オリヴィア・ヴェル・ヴァインは所用を済ませ、この旧く懐かしい街へと戻っていた。
その隣には、かつての同僚たる少女、ヴェーダ・アルハザードが並んでいる。
「まったく、無駄に手間のかかる素材ばかり集めさせおって。これで製造する装置がくだらぬものだったなら承知せんぞ」
「ゲヒャヒャヒャ! その点はだいじょ~ぶ! 今後、絶対に必要な装置だからね!」
白衣に似た独特な衣服を纏う、金髪の少女、ヴェーダ。
彼女はさすらいの天才学者として知られているのだが、ここ最近はなぜだかキングスグレイヴを拠点として、謎めいた魔動装置の製造に取り組んでいた。
今回、オリヴィアが呼び出されたのもその一環である。
「……もうそろそろ、製造している魔導装置の詳細について、教えてくれてもいいのではないか?」
当然ながら、それが気にならないわけもない。
けれど、ヴェーダはこの問いについて、常にはぐらかすような答えばかりを送ってきた。
おそらく今回も、似たような返答をするのだろうとオリヴィアは考えていたのだが。
「そうだね。ワタシの推測が正しければ、もうそろそろ始まるだろうし。詳細の説明をするなら今しかないかな」
意外にも、ヴェーダは真面目な顔をして、こんなことを言った。
そして、彼女の口から装置の実態に関する話が紡がれる――
その直前。
オリヴィアは妙な悪寒を覚えた。
何か、恐ろしいことが起きる前兆。
それを感じ取った矢先のことだった。
大通りを行く二人の周囲にて、異変が発生する。
なんの前触れもなく、濃密な霧が発生し、街の全域へと広がっていく。
それからすぐ、目に映る全ての民間人が苦悶し始め――
「げ、が、が」
「ぎぃ、い、い」
「ぐご、げ、あ」
奇声を発しながら、全身を変形させていく。
あまりにも異様かつ、おぞましい光景。
しかし、オリヴィアもヴェーダも、四天王として知られた存在。
これしきのことで動ずる心など、持ち合わせてはいなかった。
「ふむ。貴様が製造していた装置というのは、こうした事態に備えてのものか?」
「そのと~りだよ、オリヴィアちゃん! もっと言えば、アル君が始めたゲームに勝利するための装置、ってところかな!」
「……アル君、だと? まさか、それは」
「うん。ワタシ達の元・同僚さ」
その言葉で、オリヴィアはおおよそのことを察することが出来た。
目前の光景は、あのアルヴァートによるものか。
そして。
今まで発生した事件、それこそ今回の戦争騒ぎにしても、おそらくは彼が裏で糸を引いていたのだろう。
全ては、アード・メテオール……
即ち、《魔王》・ヴァルヴァトスと、至高の闘争を演ずるために。
「ヴェーダよ。貴様、こうなることを知っていたのか?」
「いんや? いつ、どういうタイミングで、どんなことが起きるのか、そこまではわかんなかったよ。ただ、何かが発生することは間違いないと思ってた。んで、その発生時期を予想したところ、今日か明日あたりかな~って」
目前にて、民間人のことごとくがバケモノへと変ずる中。
ヴェーダはそれでもニヤニヤと楽しげに笑いながら、言葉を紡ぎ続けた。
「つい先日、アル君の方から接触があってね。まぁ、色々と話し込んだ末に、こんなことを言われたよ。貴公も吾と共に、主との闘争を楽しまないか、ってね」
「……貴様はなんと答えたのだ?」
「ワタシがアル君の側に行ったら、陣営に属する四天王は三人。それに対して、ヴァル君の陣営はオリヴィアちゃん一人だけ。これはちょっとフェアじゃないよね? だからワタシはヴァル君の側に付くよ、って。そう言ったら彼、酷く嬉しそうに笑ってたよ。どうやらワタシとも一戦、交えてみたかったみたいだねぇ」
その戦闘狂ぶりに、ヴェーダはケラケラと笑う。
そうしている間にも、民間人の変容は進んで行き――
「さて。見た目は完全に人外だが、人間としての意思は残っているか否か」
オリヴィアが見据える先には、無数のバケモノが佇立している。
元は人間であった哀れな怪物達。
彼等は二人の姿を確認すると、その瞬間、雄叫びを上げた。
「ギギャアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!」
完全に、自我を失っているようだ。
怪物の群れがこちらを害さんと向かってくる。
「チッ、面倒だな、まったく」
剣を抜き放ち、迫り来るバケモノの軍勢を相手取る。
オリヴィアは史上最強の剣士として知られる女だ。その剣技はまさに神域。圧倒的な物量をものともせず、瞬く間に怪物の群れを片付けていく。
とはいえ、絶命させた者は一人もいない。
全て峰打ちであった。
今や怪物となった彼等だが、いずれは元の姿に戻すことが出来るはず。
そう、神の頭脳を自称する天才魔法学者の手によって。
「……まさか、貴様を勝負の切り札として、頼らねばならなくなる時が来るとはな」
ため息交じりに息を吐いて、ヴェーダの方を見る。
と――
「うわっ!? ちょっ!? お客さ~ん! お触りは禁止で~す!」
必死の顔となりながら、脂汗を浮かべ、怪物達の攻撃を回避するヴェーダ。
そうした様子に、オリヴィアは疑問を投げかけた。
「何をしているのだ、貴様。反撃すればいいだろうに」
「したくても出来ないんだなぁ、これが! なんせ魔力を封印されちゃってるからねぇ!」
「……なんだと?」
言われてみて、ようやっと気付く。
確かに、体の中から魔力の流れが消えている。
これもアルヴァートによる奸計の一つか。
とはいえ、オリヴィアの心に動揺は皆無。
何せ彼女は、魔法がほとんど使えないのだ。
昔からそうだった。魔法の才覚がこれっぽっちもなかったオリヴィアは、獣人族特有の身体機能と剣術を極める道を選択し、戦において魔法を用いたことは一度もない。
そんな彼女にとって、魔力を封じられた状況というのは、特別たいしたものではなかったのだが、
「ヴェーダ。貴様を始め、魔法を得手とする者達にとってこの状況は、あまりにも辛いものであろうな」
「そうだよっ! その通りだよっ! だから早く助けてっ! お願いっ!」
さすがに苦しくなってきたのか、息を切らせ始める天才学者。
その姿に嘆息しつつ、オリヴィアは一瞬にして敵方へと肉迫し、そのことごとくを斬り伏せた。
「大事ないか?」
「ハァ……ハァ……! お、おかげで、ね……!」
これで、周囲一帯の怪物は片付いた。
しかし……キングスグレイヴの住民は、数万人規模。
それが全て怪物になったとしたら。
「グゥガァアアアアアアアアアアアアアアアアッ!」
必然的に、新手が無数にやってくる。
「いちいちかまってはいられんな。走るぞ、ヴェーダ」
「え~。ワタシ、体力に自信ないからさぁ~。おんぶしてよ、オリヴィアちゃん」
先の回避運動で疲れ果てたか、ヴェーダは地面にへたり込んでいた。
「……チッ。この一件が終わったら、体力増強に励め。いいな?」
「は~い。そういう薬を用意しま~す」
運動でなく科学に頼るというところが、実にヴェーダらしい発想であった。
そんな彼女をおぶって、オリヴィアは霧に包まれた街中を駆け抜ける。
行き先は、ヴェーダが拠点とする研究施設だ。
「魔動装置を早急に完成させねば、な」
「うん。勝利するためには、アレが絶対に必要だからねぇ」
のほほんと呟くヴェーダに、オリヴィアは何気なく問い尋ねた。
「……勝算は、あるのか?」
「そうだねぇ。状況はハッキリ言って最悪。たぶん、ワタシが想定した内容よりもずっと悪いんじゃないかな。勝てる見込みはおよそ、数パーセントぐらいだと思う。それはヴァル君が本気になったところで変わらない」
この返答に、オリヴィアは鼻を鳴らす。
「数パーセント、か。それならば――」
「うん。実質一〇〇パーセントみたいなもんだね」
可能性がゼロでないなら、勝算などいくらでも積み重ねることが出来る。
自分達はそうして、数千年前の戦に勝利したのだ。
その自負が、二人に自信を芽生えさせていた。
そして、オリヴィアの背中にしがみつきながら、ヴェーダはニヤリと笑う。
「まだまだ、ゲームはこれからさ」
◇◆◇
アサイラス連邦首都・ハール・シ・パール。
情緒ある木造建築が広がる街並みで知られるこの都市は、今や怪物達が跋扈するおぞましい空間へと姿を変えていた。
濃霧に覆われし、バケモノの楽園。そんな都市の中央には、エルザードの破壊によって失われた王城が見事に復活しており……
それは今や、彼の根城となっていた。
「人外の群れの中。無人の城にて待ち構える一人の男。ふははん。まさしく御伽噺の《魔王》そのものだ。貴公とてそう思うだろう? ライザー・ベルフェニックス」
広々とした、謁見の間にて。
玉座に腰を下ろし、脚を組むアルヴァートの前に、一人の老将が立っていた。
彼は小さく頷いて、現状に関する所感を述べる。
「理想郷の形成。その目的はもはや、達成したも同然。《ストレンジ・キューブ》による民間人の精神支配と、其処許……即ち、《魔王》という共通の敵の存在による結束。全ては我輩の意図するように、完璧な連動を見せておる」
《ストレンジ・キューブ》。
それは《邪神》の魂をエネルギー源として起動する、現実改変装置であった。
かつてアルヴァートが主として仰いでいた存在であり、《勇者》・リディアの父であり、イリーナの始祖であり、そしてヴァルヴァトスが生涯憎み続けた男。
そんな《邪神》の一柱が遺した、恐るべき装置を用いて、アルヴァートは世界を改変した。
表向きは、ライザーが目指す理想郷として。
その詳細を、アルヴァートは謳うように語り出した。
「大陸の半分は霧で覆われたバケモノの世界。もう半分は、太陽に庇護されし人間達の世界。人々は差別も偏見もなく、誰もが手と手を取り合い、平穏に過ごす。だが平穏は退屈を生み、退屈は狂気を生むもの。ゆえに、人々が狂気に囚われぬよう、ある程度のスリルを用意した。それが吾、《魔王》・アルヴァートと怪物の軍勢である、と」
どのように意識改革をしたところで、人間の本質は変わらない。
それをよく知るライザーは、理想郷を維持するシステムの一つとして、人類にとっての共通の敵というものを考案した。
敵が存在することで、人々は強い結束を見せる。
それが続くことで、理想郷は強固に維持されるだろう、と。そのように考えたのだ。
「此度はまず、この大陸内部を先行モデルとして実施し、様子を観察するのである。そしていくつかの調整を加えたうえで、望んだ成果が表れた暁には――」
「大陸内の状況を、世界へと広げる」
「左様。その際は再び、其処許に協力してもらうのである」
否とは言わせない。
そんな厳しい表情に、アルヴァートは艶然とした笑みを返した。
「嗚々、貴公の望みは全て叶えてみせよう。もとより、そうした契約で我々は手を結んでいるのだから。しかしライザー卿、吾とてタダ働きをしようというわけではない。そこのところは理解してくれているのかね?」
「……うむ。忌々しいことではあるが、な」
ライザーは重々しい調子で頷いた。
彼からしてみると、理想郷の完成率は九割かそこら。
そう、完全ではないのだ。
その最たる要因が、アード・メテオールを始めとした不安要素である。
《ストレンジ・キューブ》を用いたなら、彼等の存在を消去することだって可能だ。
にもかかわらず、アルヴァートはあえてそれをしなかった。
全ては、究極の闘争を演じ……
自らの人生に、最善の終止符を打つために。
そうした意図を知り尽くすライザーは、ただただ嘆息することしか出来なかった。
「……もとより、納得済みの契約である。反乱分子の存在は不愉快ではあるが、しかし、排除してはならぬというわけでもない。そうであろう?」
「然り然り。むしろ積極的に、排除運動に勤しみたまえよ。相手方は魔力を封じられている反面、こちらは全力全開で魔力を用いることが出来る。まさにワンサイド・ゲームというやつだ。せいぜい、彼等に地獄を味わわせてやるといい」
ライザーは知っている。
この言葉が、真意でないことを。
アルヴァートは待ち望んでいるのだ。ライザーの手によって苦境となったアード達が、それでもなお困難を乗り越え、自らのもとへとやってくる瞬間を。
「……其処許との契約は守ろう。しかし、其処許が望む場面が訪れることは、決してない」
そう言い残して、ライザーは転移魔法を発動。
自らの拠点へと、戻っていった。
そんな彼と入れ替わるような形で、アルヴァートの傍にカルミアが顕現する。
「おぉ、戻ったか。して、我が相棒よ、かの狂龍王殿はどうだったかね?」
「……短時間では、行方が掴めないと判断した」
「ほう」
楽しそうに、嬉しそうに、アルヴァートは美貌に笑みを宿した。
「貴君はどう思う? 彼女は我々に迎合するだろうか? それとも、無関心を貫くのかな? あるいは……」
「意外な行動に、打って出る。その可能性も、ゼロじゃない」
カルミアの返答に、アルヴァートはうっとりした表情となりながら、天井を見上げた。
「我が最後の闘争に、もう一つ、彩りが加わったというわけだ。素晴らしい。嗚々、実に素晴らしい」
悦に入ったような声色で呟きながら、しばし妄想の世界に耽るアルヴァート。
「それもこれも、全てはかの少女が居てくれたからこそ」
そう述べてからすぐ、アルヴァートはカルミアと共に別室へと転移した。
広々とした客室。
その中央に置かれた、天蓋付きの豪奢なベッドにて。
可憐なエルフの少女……イリーナが、横たわっていた。
「嗚々、素敵なお嬢さん(フロイライン)。貴君は今、どんな夢を見ているのかな? 自らの存在が蹂躙される、最低な悪夢か? はたまた、友が自らの苦難に駆けつけるといった、都合の良い夢か? ……いずれにせよ、貴君の夢が現実になるまで、もうしばらく時間が必要だ」
アルヴァートはイリーナの銀髪をそっと撫でながら、妖艶に微笑んで。
「それまでの間――吾の半生を聞かせてしんぜよう。つまらぬやもしれぬが、無聊の慰みにはなるだろうさ」
これにて第六部、完結となります。
また、本日、第六巻に加え、短編集も発売となりました。
どうかなにとぞ、よろしくお願いいたします。