最果ての強豪
三月の終わりに踏みしめた青森の土は石のように固かった。
真新しいブーツの分厚い底からも、凍りついた土を踏み砕く感触はしっかり足に響いてくる。
長く続くアスファルトの傾斜。その向こうを仰ぐ額を腕が拭った。
俺、桃山国立は春からここ本州最果ての地で高校生となる。
故郷岡山から青森までは帝都東京で新幹線を乗り継ぐことで容易に辿り着く事が出来る。
が、俺は帝都で東北新幹線に乗り換えず青い寝台車を選んだ。それは単に旅費の節約のためではない。
中学の修学旅行で帝都東京は見て回った。しかし、俺にとってそれより北の土地は想像もつかなくて、是非とも車窓から自然溢れる白と緑の大地を目に焼き付けておきたかったからだ。
その為にわざわざ歩みの遅い寝台車に乗って半日かけてここまできたと言ったら駅の売店のおばちゃんに笑われた。
朝焼けに染まる山並みは最高だった。まだ白い帽子を被った稜線は長々と続くのに飽きさせない。俺は寝心地の悪いベッドに揺られながら北へと続く車窓を存分に楽しんだ。
天気予報士が言うことには、今年は春の訪れが近年で稀に見るほど遅いらしい。
それはこの北端の青森の地ではより顕著だ。
坂の両脇に沿うように植えられた桜並木は三月終わりだと言うのに未だにくるみ色の蕾のまま、一様に口をつぐんでいた。この蕾が桜の花に変わるのはいつになるのだろうか。
両親から北の冬は西の人間が思っている以上に厳しいと聞いていた。そこで、乗り継ぎまでの空き時間に上野の駅ビルでブーツを買った。
滑り止めつきのふくらはぎまで覆うお洒落なブーツだ。万を持してってヤツだ。
そのとっておきの靴で俺は既に三度転んでいる。凍土とも言うべき足場は全く未知の踏み心地だった。力を込めても滑る、両手でバランスを取りながら恐る恐る踏んでもやっぱり滑る。微妙に水分を含んでいるところを踏むと一気にズルッといってしまう。
この調子では寮に着くまでいくつ痣を作るのだろうか……
寝台車の終着点、青森駅からの交通手段はバスのみだ。郊外行きの市営バスに小一時間揺られ、降りたバス停には月見野学園前とだけ書かれた錆びた看板があるだけだった。
そこから俺はこの上にあるのであろう学園目指して三十分近くこの坂を上っている。未だに残雪がところどころに散らばっていて崩れた氷混じりの濡れ土が足を捉えて恨めしい。
昼下がりから夕刻に入ろうとする時間。民家もまばらで俺の他に歩く者はいない。車の通りも物寂しい郊外の郊外だ。
春になるとこの桜並木も賑やかになるのかな?そんなことを思いつつ歩き続ける。
しかし、傾斜はだんだんきつくなり肺から出る白い吐息も勢いを増していく。
なんで坂の上をバス停にしていないんだよと心の中で悪態をつくのは何度目だろうか。
ショルダーバッグには必要最小限の荷物しか入っていないのに、長時間歩いている為か肩に強く食い込んで痛い。
「ふぅ~っ」
足を止めて何回も肩かけ紐を左右に交代している。
そうこうしながら上っていくうちに、蕾だらけの裸桜が終わり、真新しい舗装道も終わり、とうとう建物すら一軒も見えなくなった。
いよいよ鬱蒼とした山道だ。
手入れの悪いアスファルト道。その穴だらけの道路の脇を見ると、枯れ草の茂みと、その奥には鬱蒼と杉林が広がっている。
枝打ちされた葉はてっぺんだけ残し細い幹が直立していた。それが何本も生え並ぶ光景は気味が悪い。
スカスカの爪楊枝のような幹の隙間は暗がりになっていて果てがどうなっているか窺い知れない。
まるで、どこまでもこの杉林が広がっているようだ。道を逸れて踏みこんだら最後、戻ってこれないのではとさえ思えてくる。
薄暗い、寒い。ネガティブな事ばかり考えてしまう。歩を進めるごとに物寂しさは増して、日は薄紫色に沈んでくる。
業を煮やして電池残量オレンジのスマホでマッピングナビを起動させる。
数秒の受信マーカー点滅の後、俺の立つカーソルの周りが更新されその領域が広がっていく。
空白、空白、空白。
「おいおい、本当にこの先に学校なんかあるのかよ……」
広がり続ける地図はひょろ長い道路が縮小され伸びていくだけで、いつまで経ってもその他のオブジェクトは現われない。
もうちょい範囲を広げてみるか。
親指と人差し指を、優しく閉じるようにスライドする。
道路らしき曲線は細く、長く――――。空白の中を蛇行する道の先にようやく複数の四角い影、建物を現すオブジェクトが現れる。
その中央に待ちわびた、私立月見野学園という文字列が表示されていた。
何度かGPSを更新したが俺が立っている場所は見当通りの所で間違いないらしい。
恐る恐る画面下に表示されるはずの所要時間を目で追った。
そこには、
―――徒歩35分とだけ書かれていた。
ストーブの匂いが狭い部屋を満たしていた。
鼻腔をくすぐるなんとも言えない香ばしい匂い。地元岡山の冬はエアコンかハロゲンヒーターがメインだったのでこの灯油の燃焼臭は癖になりそうだ。
蒸せるような暖気は冷え切った身体を全方向から弛緩させていく。
「はぁ~っ」
荷物を置いて長ソファーに腰を下ろすと腹の底からため息が噴き出た。
ようやくあの坂を登りきり月見野学園寮「月光寮」に着いた頃には日は暮れていて、空は星灯りで覆われていた。
案内された小部屋は管理人の宿直室になっていて、俺を案内してくれた人は背を見せながらインスタントティーを用意している。
「この時期は部活も休みでね。通学バスは夕方で終わりなのよねぇ」
黒檀の食器棚から取り出した埃まみれのティーカップ。
最後の使用からもうご無沙汰なんだろう。白い無地はやけに古びてアイボリーがかっていた。
そして、そのカップにレモンティーを注いでくれている女性はここの寮長さんだ。
「月光寮の寮長をやらせてもらってます、逢坂早苗です。よろしくね。あと、まだ熱いから気をつけてね」
逢坂早苗と名乗った女寮長は堅苦しさなど微塵も感じさせずにティーカップを僕の前に置いた。
長い睫毛が笑顔を彩っていてモデルのように美人だ。紺色のニットセーターに通した袖に手首は隠れていた。年齢の割にとっつきやすい印象のお姉さんだった。
俺の中では寮というものはもっとボロくて、管理人もオラオラ系のおばさんやゴツイおっさんが恐怖政治の元に寮生を取り仕切っているイメージがあった。
しかし、この月光寮は旅館かホテルのように綺麗で壁や床も新しい。管理している寮長も若く、俺より一回りほど年上の若い女性が切り盛りしているとは思っても見なかった。
「すんません。助かります」
差し出されたティーカップは湯気を天井まで靡かせていた。
洗浄間も無い水滴混じりのティーカップを受け取る。唇を付けてゆっくり啜ると、体中に上品な檸檬の香と熱が満たされていく。
「はぁ……」
俺はポタージュのCMよろしくのため息をしながら横目で寮長、早苗さんを見る。
両手で包み飲む仕草はまるで茶道のお点前だ。
「あったかいわねぇ」
この寮長はどこか語調や動作がゆったりと落ちついていた。このくらいの歳の女性にありがちなせかせかした様子は全くない。
渡り廊下で案内される際、ここに来て十年なのよねえと言っていたことから多く見積もっても恐らくは三十前後とは思うが、張りのある肌は艶やかでそれを感じさせない。
遥かに若く見える。表現としては幼いという言葉が正しいかもしれない。
ストーブの暖気で蜃気楼のように揺れる向こう側には小さなテレビがあって、ノイズ混じりの映像でローカルタレントが騒いでいた。方言そのままなので何を言っているのかマジでわからない。
部屋中に響くテレビの音は俺と早苗さんの間で楽しそうに笑い声をあげた。
「桃山、国立君。それにしても大学みたいな名前ね」
それを横目で見ながら、早苗さんはかちゃりとカップを置いた。
「毎回言われます」
初対面の挨拶、第一印象の反応。大学みたいな名前。小中と突っ込まれたこのやり取りにも慣れてしまった。
「笑ってる訳じゃないのよ。いい名前じゃない?大学みたいで頭がよさそう。出身は岡山だっけ?」
取りつくろうとする早苗さんはどこか可愛らしい。
「倉敷です。もともと地元の高校に行くつもりだったんですけど夏の全中でスカウトされて」
「なるほどね、ていうかうちのスカウトって中国地方まで行ってるのね。ここって大阪弁の人が多いから関西メインだと思ってたわ」
「ああ、大阪や兵庫はシニアがありますからね――」
岡山にいた時、大阪から来た友達がいた。そいつが言っていた言葉不意にリフレインした。当の今まで忘れていた幼いころのワンシーンだ。
――大阪弁?違うね。大阪弁なんてものはないって。そんなん摂津弁、河内弁、泉州弁をひとまとめにしたもんで正確には地方によってその名前は違うんだぜ。
昔大阪から転校してきたそいつに早苗さんと同じことを言ったらこんな返しをされた。大阪弁もとい本人いわく河内弁で。
そんな予備知識をひけらかしたくもなったが、こちらもそこまで大阪に詳しくないのでやめておく。
そういう早苗さんは津軽弁独特の珍妙なイントネーションを混ぜながらいろいろ聞いてきた。言葉遣い自体は標準語なので会話が成り立つ。でも……
こういう綺麗なお姉さんが方言使うのってなんかくるものがあるよなあ。
話した内容はお互いの出身地、家族構成といった世間話から、特待生大変でしょ頑張ってねとか社交辞令じみた会話だった。
「レギュラー争い大変だとは思うけど頑張ってね。ここまで話して思ったけど桃山君ってとても正直な人柄なのね。そういう性格って騎士道競技ではとても大切だと思うわ」
早苗さんは息子でも褒めるかのような表情で頷いた。
「正直……ですか。馬鹿真面目なんです俺。どんなに戦略を練っても気がつけば正面から押し切る力技になってしまって」
そうだ、結局それで中学最後の夏も全国にもいけなかったんだ。昔見たあのステージに俺はもう少しのところで立つことができなかった。
「あら、良いじゃない。そういう真っ直線な戦い方って見る人をとても楽しませるし」
早苗さんは俺の不安など意に介する訳も無く新たな茶を注ぐ。
「俺はある人に憧れて騎士道競技を始めました。その人はとても強くて小細工なしの真っ向勝負で――それでもいつも勝ってた。自分も知らず知らずのうちにその人の剣を真似してました。でもそれは中学では通用しなかった」
「気を落とす必要はないわ」
そう言って早苗さんはまるで慮ったように大きく頷いた。
「まだ通過点でしょ?私は昔馬術部があった頃にここの生徒でね、馬の世話をしていたんだけど……」
遠い目で続ける早苗さん。彼女はここの卒業生なのか。
「あの子たちってひと夏でグンと成長していくのよ。去年の夏に全く人を乗せたがらなかったお転婆が次の春には人を背に乗せるのを許せる子に成長してる。で、その持ち前の荒々しさを活かして一気に優勝したりとかもあったわねえ」
早苗さんは目尻を細めながらテレビに目をやる。
これから三年間を部活に全てを費やすであろう俺に郷愁を感じたのだろうか。騎士道は馬術に通じる物があるからなぁ……
ローカル番組は既に終わり、テレビにはニュースを読むキャスターが映し出されていた。全国ネットのニュースだ。字幕には「北陸で歴史的大雪」と書かれていた。
「そういうこともあるんだから貴方は貴方のスタイルを崩さずに道をいくべきだと思うわ。気休めかもしれないけど、貴方の持ち味ってきっと騎士道では武器になるわ」
「ありがとうございます……」
早苗さんの厚意を受け取り己のこれまでを惟みる。
俺はなんで特待生に選ばれたんだろう。実力も並みで実績も薄い県大会ベスト8だ。それでいて他の選手と一線を画し特化した才能なんて持ち合わせていない。凡人だ。
そんな俺に何故寮費無料、授業料も一部助成してくれる特待制度の話が舞い込んできたんだろう。
「国立君?」
「あ、え、はい?はい」
「心配しなくていいのよ。あと、私のことはここでは家族みたいに思っていいんだからなんでも相談してね」
慈母のような寮長が最後に付け加えてくれた言葉はどこか温かみがあって、ぼんやりとした不安を払拭してくれた。
与えられた鍵を開け部屋に入ると、暗闇の中からうっすら芳香剤の匂いが漂ってきた。
窓の先は木々の枝が揺れるだけでその向こうは真っ暗。ほんの数十分前、玄関で見た暗灰色の空は闇に落ちていた。
洗濯したての匂い漂う布団に身を投げた。
先ほどの続きの会話を思い出す。
早苗さん曰く、今は春休みド真ん中という事もあって寮生は殆ど帰郷しているとのことだった。
通学のシャトルバスは本数を大きく絞って運行しているようで、俺はちょうど日暮れ時に麓に着いたためか、運悪く最終便を逃してしまったらしい。
「じゃあ残ってる人達はどうしてるんですか?」
この街と隔絶された自然豊かな学園は絶海の中に取り残された孤島とも言うべき状態だ。
そんな何も無く寒いだけの山の中で、留学生や残っている生徒達は一体何をして春休みを過ごしているんだろう。
「うーん、部屋に引きこもってたり、この季節はまだ外で自然と触れるってこともできないしねぇ」
早苗さんは人差し指を口元に当て芳しくない表情だ。
寮長としてもせっかくの春休みにそんな生活をしている寮生には複雑な心境なのだろうか。世話好きそうなところもあるし。
「ああ、そうだった」
早苗さんは思い出したように掌を拳でぽんと叩く古風なリアクションを取る。
「バスで市内まで降りて体育館とかで練習しているバレー部員も多いけど、貴方のような騎士道部の特待生は稽古場で自習練してるわね」
この月見野学園は多くの部がありスポーツ強豪校として知られている。
中でもバレー部と騎士道部の活躍は顕著でこの二つは全国区の大会でもしょっちゅう見る。
俺は騎士道の特待生で来たけど、話ではバレーバスケ新体操等、とにかくいろいろな部の特待生がこの寮にいるらしい。
「けど、どの部の子も夕方前にはバスで帰ってきて皆自分の部屋に戻っちゃうから寮内は静かなものね。特に今は。私が学生の頃は馬術部もあったから馬の世話なんかにつきっきりな子もいて結構この時期も賑やかだったんだけどね」
「みんな帰ってきてすぐ部屋に戻っちゃうんですか?」
「今は新学期まで食堂もやっていないからね。残ってる人達は街のコンビニとかで弁当買ってきたりしてるから、買い出し以外部屋に出る必要がないのよ」
うへぇ。そりゃあ皆実家に帰るしかない。道理で閑古鳥が鳴いてるわけだ。
「でも国立くんはなんでこんな時期に来たの?まだ新学期まで二週間近くあるじゃない。ちょっと早すぎるような」
早苗さんがそう思うのも無理はない。
卒業式を終え、クラスメートから打ち上げの誘いも跳ね除けスマホの契約をすませた俺は、最低限荷造りして妹に発送の段取りを伝えて倉敷を飛び出してきたのだ。
そうしたのは故郷にいるのに飽きていたからでも、増して春休みが寂しいものになるのを予感して逃げてきたわけでもない。
入学式やクラス替えなど、今まで新しい顔ぶれの環境が始まる時に限ってのっけから有り得ないミスをしてきた俺は、地元を離れた寮生活でもとんでもないうっかりをしてしまいそうな不安を覚えた。
出遅れたくなくて、早めにこちらの生活に馴染んでおこうと思ったのだ。
だから今はスポーツバッグに積め込んだ私物以外はまだ一切持ち込んでいない。
電化製品一式と部活で使うであろうセンサーメイルや贋剣の類は後日手筈どおりの日時指定、品名指定「家電・雑貨」で届くようになっている。
よって新学期が始まるまで自炊しつつ過ごさなくてはならない。
幸い寮には風呂も調理場も完備で生活に不自由はないらしい。
コインランドリーもあるので数少ない下着を着回したり街のランドリーに降りる必要もない。
ただし売店は絶賛閉業中なわけで、俺は寮に隣接する森林公園で山菜を取るか、街に降りるなりして食糧を確保しなければならない。
「この時期はまだツキノワグマはいないと思うけど、イノシシには注意してね」
早苗さんはクマには慣れてますよと言わんばかりの口調で笑っていた。
そんなことを思い返していたら眠りかけている自分に気が付いた。
「寝るか……」
昼に駅弁を食べたきりなのにまるで食欲がしなかった。スマホの時刻を見ると夜の九時前。いつもなら普通に起きている時間なのにどうしようもなく身体が重い。
「とりあえず明日だな」
俺は妹に到着報告のメールを送るとアウターを床に脱ぎ捨て寝具に潜りこむ。
冷たい掛け布団の感触が徐々に暖まり始めると、俺の意識は完全にまどろみに落ちた。
―――なんならイノシシでも狩るか?
翌日の早朝、半ば投げやりになった俺はまだ肌寒い草っぱらに立っていた。
寮と学園に隣接したこの森林公園は、夏季はキャンプ場として市民や生徒で賑わうそうだが、秋から春先までの時期は誰にも使われるわけもなく草ぼうぼうの原野同然の空間だった。
黄色い枯れ草は背丈も高く無造作に茂り、バーベキューに使う錆びた金網とコンクリート塊が積まれた設備には、ところどころ残雪がこびりついている。
そんなキャンプ場を見渡しながら俺は自然溢れる森林公園を散策していた。
眠気を覚まそうとなんとなしに訪れた水飲み場の水道はまだ凍りついているらしく、蛇口をいくらひねってもキイキイ音が鳴るだけで水一滴出てこない。
昨日はあの後八時もまわらないうちに寝てしまった。そのまま一度も覚醒することなく夜明け前に目が覚めた。あまりに早すぎたせいかテレビをつけてもまともな番組は始まっておらず、通販番組にも飽きたので宛もなくウインドブレーカーを着こんで寮周りを徘徊、散歩をしている訳だ。
幸い朝食には早苗さんの差入れのシュガートーストがあるが、バスの時間になったら一番に買い出しに行かないとな。
そんなことを考えつつ林道に入った所で、その先の東屋に人影があることに気付いた。
東屋は丸太をそのまま伐り出して据えたようなテーブルと椅子が設けられている。その中の一つの椅子に座している人影が見えたのだ。
背格好から子供?六時にも回っていないこんな朝早くの時間に?
この学園寮の周辺は本校と、一戸建ての森林公園事務局があるくらいで人が住む建物は無い。
それは昨日薄暗い坂道を上ってきた時に確認済みだ。
寮には俺と早苗さんを含め数人しか残っていない。学校の関係者がこんな時間、場所に来る訳もない。
じゃああれは誰なんだ?
丸太で区切られた土の階段を下るにつれ不安を覚える。だんだんその人影の輪郭がはっきりしてきた。
背格好は子供、猿とか熊の類でないことは確かでちゃんと仕立てられた服を着ているようだ。
俺は気づいてもらえるようわざと足音を立てて近づくのだが人影はピクリとも動かない。
「人形……?」
最初その姿を見た時、一瞬幽霊かと思った。だが人影は明らかに質量を持った存在で、よく真夏にやっている番組の再現VTRのように透き通ったり、黒い靄を纏っているわけでもない。明らかに人間、それも俺と同じここの学園の生徒だった。
東屋の屋根をくぐりその人物に近づく。
対面の椅子に座る人物はパンフレットで見た黒のブレザーにフリルつきスカートを履いていて、この学校の女子生徒だということだけはわかった。
ブレザーの上にはこれまたパンフレットで見た学校指定の白のケープを羽織っている。
日本人離れした雪のような肌にひときわ際立つの銀髪とも言える明るい色の髪。肩までのショートカットの毛先は緩やかにカールしていた。
外国人留学生という言葉が寝ぼけ気味の思考にちらつく。
「おはよう、いい天気だね」
おもむろに近づいた俺は自分でもおかしなことを口走っていることに気付いた。
理屈的な事を考えずに出てきた感情のままの挨拶。考える前にうっかり行動が現れてしまう俺の悪い癖だ。
「……」
ケープ姿の少女は見上げる。
口は並行線の真一文字で噤まれており、その無表情からは内の感情を計り知ることができない。
小さなショートカットは大きなメダルのような金色の髪留めで飾られていて、ツヤめいたキューティクルと翠色の大きな瞳は人形のようだ。
やば……いきなり挨拶はまずかったか?アイムファインエンデューなんて言った方が良かっただろうか?
頭の中でいろいろ逡巡しているうちに
「ヤー!」
その少女は開口一番に聞きなれない単語を一声。
中学で習った授業では聞いたこともない聞きなれない単語だった。
「何語だっけこれ……」
どう返せばいいかわからない俺の様子に気づいたのだろうか。
「ドイツ」
その少女はカタコトの日本語と共に小さな手を差し伸べる。
か細い指先は雪のように白くて、その子が遠く離れた海の向こうから来た子なんだってことを実感させる異質なものだった。
俺は恐る恐る指先から触れてから握り返す。
万国共通のあいさつの印。
そっと握り返してくる手はマシュマロのように柔らかくほのかにあたたかった。
少女は不快そうに顔を歪めることもなく、澄んだ瞳を瞬かせる。
「さてここから何を言えばいいものか」
外国人と対面した経験は俺には無いのでどう接したらいいか検討もつかない。
俺の悪い癖その二、初対面の人間との会話が挨拶以降続かなくなるフリーズ現象が発生した。こればっかりは自分でもどうにもできない。グイグイ向こうから話題を引っ張ってくる人とならすぐ打ち解けられるから平気なんだけど。
目の前の少女はとてもじゃないけどそういう人間ではないよな。
「……ヤー?」
少女は真一文字に噤んだ口角を緩ませ笑う。
かわいい。
顔の端から湧く熱を気取られないよう必死に言葉を探す。
だめだ、なんとか会話を保たねば。
「マイネームイズ、コクリツ・モモヤマ……えと、違ったか?」
桃山国立という俺の名前を伝えたい。
「コクリツ?」
少女は小首を傾げ聞き返す。
その視線は真っ直ぐで心を見透かされるような双眸だ。
「マイネーム。そう!コクリツ。正確には国立だけど」
「ヤー!」
ジェスチャーを交えながら話すと少女は合点がいったと言わんばかりに頷いた。
「シェリーカ・シェーレザルト」
「え?」
「私の名前!」
シェリーカ・シェーレザルト。
少女は自分の名前をネイティブの発音で高らかに謳う。
「君はここの生徒?」
木々の稜線から突き出た寮の屋根を指さす。その指を少女の胸、制服に縫い付けられた校章と往復させながら尋ねた。
「ヤー!」
そこまで言ったところでシェリーカは両腕を八の字に広げ椅子から立ち上がった。
直立しても俺の胸にようやく頭が届くくらいの小柄だ。
中等部?とも思ったが、生憎この学園に中等部はない。
「ワタシこの前来日、春から入学一年生!」
シェリーカはワルツでも踊るかのようにくるくる回る。
「入学!タノシミ!」
スカートの白フリルが風にそよぎ花びらのように舞った。
どうやら俺と同じ春からの新入生らしい。留学生だから俺よりもさらに早くこちらに来たのだろうか。
向こうの学年末っていつだっけ?そんなことを考えていると
「ちなみに日本語分かるから安心していい!」
「え?ああ……」
「ヤー!」
シェリーカはてててと小気味良い音を響かせ横を通り過ぎる。どことなく嬉しそうだ。俺もそれを見て釣られて口角が上がるのを感じた。
「コクリツもシュバリエ?それともバリボー?」
振り返った顔は満面の笑みを湛えていた。
バリボー?バレーのことか?
「俺は騎士道部の特待生だよ、騎士」
「キシ?」
銀髪の頭上に黒い糸モヤモヤが右往左往している。
聞きなれない日本語に困惑した様子。これはまずい、なんとかしなきゃ。
「騎士、ソードファイター、ジャパニーズサムライナイト」
思いつく限りの単語を挙げる。
「パラディン、ファイター、ソルジャー、ウォリアー、シーフ、ナイト」
騎士と関係ないジョブまで混じってた気がするけど、まだ眠気で回らない脳細胞をガンガンに回しまくる。
「ナイト?」
「そう、ナイト!」
「オウ、シュバリエ!!!」
その時俺はシェリーカが発したシュバリエという単語の意味はわからなかった。シュバリエというのはドイツ語で言う騎士を意味する言葉だ。
「コクリツ、シュバリエ!私とオナジ!」
そう言ってくるくる回転しながら進んでいくシェリーカ。最後に高らかにヤー!と一声。
澄んだ美声を森中に響かせると、シェリーカは寮の方向へ行ってしまった。
あんな子供みたいな女の子が騎士道の特待留学生なのか?
果たして彼女はどんな剣を振るうんだろう?そもそも強いのか?
一人残され丸太椅子に腰かけ小一時間そんなことを考えていた。
「はっくしゅ!!」
その末、大きなくしゃみを響かせる。小鳥の囀りは散発的に響くだけで他に何も聞こえない。
改めて考えるとかなり物悲しい森だった。寒風に枯れ枝が揺れざわつく。腐食した枯葉はからから言いながら飛び散り、ここには君以外誰もいないんだよと囁いているようだった。
「シェリーカ?」
物寂しさを覚え振り返る。が、勿論銀髪の少女の姿は既に無い。
自分一人。そう考えると不意に怖くなって木立の向こうを見る。
「あれ……動いた?」
暗い木陰で何かが蠢いている気がする。
風に背中を撫でられぞわっと寒気立った。
「帰ろう」
――この時期はいないと思うけどこのへんってクマがでるのよね。
昨晩早苗さんの言っていた言葉を思い出し、大きな身震いと共にその場をあとにした。