第1章 奈良公園あたり 4 氷室神社、手向山八幡宮、若草山
興福寺、東大寺と大きなお寺のあとは少し
小さな社寺を回ることにしましょう。
近鉄奈良駅を降りて登大路を東に歩いて行くと
東大寺の少し手前に
氷室神社の鳥居が見えてきます。
鳥居をくぐり石段を登ると楼門があり、
拝殿は、舞楽殿になっています。
本殿は桧皮葺で
江戸時代末期ごろの造営で
県指定文化財になっているとのことです。
氷室神社の縁起については、
奈良時代の初期に
春日山山麓の吉城川の上流に氷室を設け、
氷の神を祭ったのが始まりで、
これを吉城川氷室、春日氷室などと称し、
厳寒に結氷させたのを氷室に貯え
翌年に平城京へ献氷する慣わしがあったということです。
毎年五月一日に行われる献氷祭は
全国各地から製氷・販売業者が参列し
今年の業績成就を祈願する祭りとなり、
神前に鯛(海の幸の代表)や
鯉(里の幸の代表)を封じ込めた二基の大型氷柱や
花氷の奉納をはじめ、
かち割り氷の頒布、舞楽奉納などの神賑行事が行われます。
さて次は東大寺大仏殿前の道を東に行った正面にある
手向山八幡宮です。
すぐ北は東大寺法華堂(三月堂)です。
聖武天皇の発願により大仏建立が計画されてから
材料の金、銅が不足の事態を迎えた時、
宇佐八幡宮がわが国の天神地祇を
総動員して協力するとの託宣を下し、
その通り、豊前香春から銅が、
東北から金の産出、献上があり、
大仏は完成されました。
それゆえ宇佐八幡宮から勧請して以来、
東大寺に属しその鎮守社とされてきたが、
明治の神仏分離の際に東大寺から独立したということです。
10月5日には転害会という祭礼があり、
宇佐から遷宮のとき、
東大寺転害門から入られたことに起因して、
転害門をお旅所として神輿が出ます。
手向山は紅葉の名所として知られ、
古今和歌集のなかの菅原道真の
「このたびは幣もとりあへず手向山
紅葉の錦神のまにまに」との歌碑もありました。
なおも南に進むと若草山があります。
ふつうは登るのはほとんど裾野の芝生だけなのですが、
時間があれば上まで行ってみましょう。
この山は全体が芝生に覆われているのですが、
当初は木が生い茂る山だったのであったものが
鎌倉時代にはすでに芝生の山だったようですが、
いつから芝生になったかは不明です。
普段は芝生の保護という理由で閉山していますが、
だいたい春期は3月20日ごろから6月15日ぐらいまで、
秋期は年9月10日ぐらいから11月23日ぐらいまでで
年によって少し前後しますが、
有料で入ることができるのです。
さて入山料150円を支払い階段を登っていきます。
若草山は一重目、二重目、
三重目(山頂)の目印を目標にして登ることができます。
一重目の上から二重目にかけては
東大寺や興福寺境内を眼下に見ることができ、
山頂にあがると大和盆地を一望できます。
目前には西大寺、平城宮跡、
西の京は言うに及ばず左は京都方面、
前に生駒山、信貴山、二上山、葛城、
金剛そして大和三山と
まさに奈良好きにとって涙が出てくるような景色です。
言葉では言い尽くせません。
登山ルートは北側と南側があり
歩きやすいように道も整備されているので、
元気な人なら30分くらいで山頂に到達します。
山頂へは奈良奥山ドライブウェイを使って
車でも行く事ができます。
若草山の頂上には鶯塚古墳もあるのですが、
誰の御墓かは不明です。
頂上付近にも鹿がいてとても人に慣れています。
成人の日の前日に行われる若草山の山焼きの行事は、
約33ヘクタールの全山に火がまわり、
冬の夜空に山全体が浮かびあがるさまは壮観です。
山に火を入れ山全体を燃やしてしまうという
古都奈良の新年を飾る炎の祭礼です。
若草山焼き行事の起源には諸説あるそうですが、
若草山一帯をめぐる
春日大社・興福寺と東大寺の領地争いが
もとであるなどの説もありますが、
春の芽生えを良くするためとも言われています。
若草山は標高342m、
3つの山が重なっていることから、
三笠山とも言われていたそうですが
1935年、この山名に因んで三笠宮が創設される際に、
同じ名前では恐れ多いとして
山焼きに因んで若草山に改称したそうです。
次は春日大社に向かいますが、次回に致します。