第4章 斑鳩周辺 1 大和郡山
奈良県は古いお寺ばかりの所だ
と思っている人が少なくありません。
しかし城下町という面もあるのです。
その一つが大和郡山で、
14世紀末頃に郡山衆と呼ばれた
土豪によって築かれた居館が始まりで、筒井順慶の築城を経て、
天正13年(1585)豊臣秀長が
大和・和泉・紀伊の100万石の太守として入城し、
城を100万石の居城に相応しい大規模なものに拡大したものが
その後の基礎となったそうです。
その時城郭作りや城下町の整備を急いだため
根来寺の大門を移築したり、
大和は石材に乏しい国であったために、
天守台の石垣に墓石や地蔵までも用いたということです。
江戸時代は水野家、松平家、本多家など譜代大名が入り、
柳沢吉里が享保9年(1729)に15万石で入城し明治まで至ります。
そして明治3年に郡山城は破却されましたが、
昭和55年に追手門、向隅櫓、多門櫓が再建復元されています。
また城跡には遺構のほかに、
柳沢家時代の史料を保管する柳沢文庫や
柳沢家初代郡山藩主吉里の父吉保を祀る柳澤神社が鎮座しますし、
天守台北側の石垣に組み込まれたさかさ地蔵も有名です。
3月の終わりから4月にかけてのお城祭りは、
郡山城跡をライトアップし、夜桜が楽しめます。
郡山の町の中心部の道路は
城下町の町割が残り細い路地が多く
迷路のようになっているのですが、
ところどころに箱本制度というものがあった
という案内板が立っています。
これは天正13年(1585)9月、
豊臣秀長が大和郡山城下町繁栄の為に、
商工業保護の政策として同業者を一地区に集め、
営業上の独占権を与えたのですが、
こうした特権を書き記した文書を
御朱印箱と呼ばれる箱に納め、
封印をして一ヶ月交代で「内町十三町」と呼ばれる
外堀の中にある本町・魚塩町・堺町・奈良町・今井町・紺屋町
・蘭町・綿町・材木町・雑穀町・柳町・茶町・豆腐町
の13の町の中で、1ヶ月づつ持ち回りをしたというのです。
順番に当たった月の町が「箱本」となり、
この御朱印箱を町内の会所に置いて、
表に長さ2尺の紺地木綿に白地で「箱本」と染め抜いた
小旗を2間余りの竿に付けて立てる習わしだったそうです。
城下町を偲ばせる建物も多いところで、
例えば紺屋町は藍染めを職業とした人たちが
集まって出来た町です。
前の道の真ん中に今も残る川は城の堀から流れ出ていて
当時十軒以上の紺屋が
染め上げた布や糸をここでさらしていたとのことで、
「箱本館紺屋」という藍染を体験できる博物館もありました。
さてこのような街並みを見て、
郡山城の外堀を復元したと言う
「外堀公園」などを経て近鉄郡山駅に向かいますが、
道沿いに、
通称「やこうさん」と呼ばれる
「薬園八幡神社」があります。
ここは『続日本紀』の天平勝宝元(749)年の記述もあり、
中世には、東大寺領薬園荘の守り神とされ、
郡山城築城の際に現在の場所に移されたということです。
春日造りの檜皮葺き(ひわだぶき)の本殿は、
ところどころに極彩色が残ります。
見事な吊り燈篭が並ぶ社殿は、
江戸時代に再建されたものだそうですが、
桃山時代のようすをよく残しており、
県の指定文化財になっています。
こじんまりとしたなかに清々しい雰囲気があふれています。
また大和郡山市は愛知県弥富町とともに
金魚の代表的な産地として挙げられる大和郡山です。
現在は生産量の日本一は弥富町に譲ったようですが、
以前は断トツで金魚の生産量日本一を誇っていたそうです。
近鉄郡山駅から南に10分ほども歩くともうそこは
一面の金魚養殖池です。
その一つに「やまと錦魚園」という
大和郡山を代表する金魚店がありましたが、
敷地内に金魚普及のために
なんと私費を投じて建設されたという
「金魚資料館(月曜休館、無料)」も併設されています。
資料館の横には水槽がずらり並べられており、
おなじみの品種から新しい種類のものまで、
幅広く展示されているだけでなく、
江戸時代の金魚に関する文書や資料、
絵画など様々なものが展示されており、
金魚の歴史・文化を学び・感じることが出来ます。
この地域の金魚養殖は
江戸時代より武士の副業として始められたそうですが、
最近は後継者不足や市場の低迷から、
廃業して養殖池を宅地などに転用する業者が相次いで、
かつては市内のあちこちに見られた養殖池は
年々減っているそうです。
それでも近年、市の後援や地元の業界団体などにより
「全国金魚すくい選手権大会」などが開催されているそうです。




