独りの幸せ
その日の俺は、酷く陰鬱な気分を抱えていた。
別に、何か特別に厭な事があった訳じゃない。
ただ単に、パチンコで大負けしたってだけの事だ……。
まあ、世間一般の人が恐らく抱えているであろうくらいの、些細な不満や腹の立つ事などは、いつもこの腹の中に入ってはいるが……。
「さて、どうしたもんかな……」
財布の中には二六五円しか入ってない。
これじゃ今夜の飯にはありつけても、明日から絶食しなきゃならない。
「そう言えば家賃も払わなきゃな。 払えればだけど……」
夜の街を照らすネオンの光が、行き交う人達が、みんな俺を笑っているように感じられた。
「ギャラの振込みは確か二十五日だから……あと五日間は絶食か……」
金も無いのにパチンコなんかするからだと思われるだろうが、俺だって何も好き好んでやった訳じゃない。
だけど、イライラした気分を紛らわす方法が他に無かっただけなんだ。
「……つまらない言い訳だな」
自分で自分に苦笑して、俺は誰も待っていないアパートへと足を向けた。
と、暫く歩いた所で、
「あれ? おい! 何やってんだよ、こんな所で!」
丁度、俺には一生縁の無いような高級レストランの前で、見知った顔に声をかけられた。
以前、同じデザイナー事務所で、一緒にデザインをやっていた男だ。
「よう、久し振りだな」
「久し振りだなじゃないだろ? 突然事務所を辞めちまって……。 田舎に帰ったって聞いてたが、まだこっちにいたのか?」
「いや……」
実は、俺は実家を追い出されて、またここへ舞い戻って来たのだ。
そりゃあそうだろう。
大見得切って田舎を出て来たってのに、結局、錦も飾れず都落ちだ。
そんなもん、近所の手前、恥ずかしくて迎え入れちゃくれない。
俺の田舎は、未だにそういった部分が強く残っているのだ。
「こんな所で立ち話も何だな……少しいいか?」
「え? ああ、別に構わないよ」
予定なんか何も無い俺は、そのまま誘いに乗る事にした。
ただ……。
「あ、でも俺、今は金欠なんだよ」
「何だ? お前、無職か?」
「いや、バイトはしてる。 でも、家賃で殆ど消えちまうからな」
運送屋は三日でクビ。
道路工事はその日にクビ。
新聞配達やピザ屋、各種工場なども回ったが、どれも一週間ともたなかった。
早い話、俺には肉体労働は無理という事だ。
で、やっと見つけたのが、広告のカットや小説の挿絵の仕事だ。
「そうか……よし、今夜は俺が奢ってやる!」
ついてる……そう思った。
声をかけられたのがレストランの前である事で、俺の期待は高まっていた。
……しかし、現実はそう甘くなかった。
「なかなかいい店だろ?」
「ああ……そうだな……」
俺が連れて行かれたのは、ごくごく普通の喫茶店。
まあ、小奇麗ではあるが……。
人生、そうそう甘い話は転がっていないという事だろうな……。
「好きな物頼んでいいぞ」
「ああ……じゃあ、ピラフとコーヒー」
「それだけでいいのか?」
おいおい、こんな所で 『満貫全席』 でも頼めって言うのか?
こいつは人は悪くないんだが、少しズレてるんだろうな。
やがて運ばれて来たピラフを、俺はものの数秒で腹に収め、コーヒーを飲んで一息ついた。
「お前……一体何日食事をしていないんだ?」
「最後に食ったのは一昨日の朝かな?」
「身体壊すぞ? そんなに苦しいのか?」
「まあ、楽じゃないのは確かだな」
そりゃあそうだ。
バイトの分際で仕事は選ぶし、パチンコになんぞに興じていれば、必然的に金はどんどん減って行く。
「しかし、もう三十も半ばを過ぎたってのに、バイトのままというのはどうかと思うぞ?」
「しょうがないさ。 正社員で雇ってくれる所が無いんだから」
「フリーだなんてツッパってみた所で、二流のケツじゃ仕事も無いだろう?」
「……ハッキリ言うなよ、悲しくなる」
「正直、実力のある若い奴らがどんどん入って来るんだ。 俺たち古株よりも、そっちの方がギャラが安くて使い易い。 余程のコネでも無けりゃ、業界で生き残って行くのはキツいぞ?」
そんな事は言われるまでも無く身に染みて解ってる。
今まで何度も履歴書と一緒に送ったイラストやCGは、その殆どが俺の手元に戻って来ているのだから……。
「ところで、お前、俺に何か話しでもあるのか?」
「ん? 何でだ?」
「久し振りに会ったってだけで、晩飯を奢るってのもさ……」
俺だったらまずやらない。
例え金を持っている時でも、他人に施すなんて事はする気にならない。
それで見返りでもあれば話は別だが。
「いや……ちょっと話したかっただけだ……それだけだよ」
「話し?」
「ああ。 ……最近、女房と上手く行ってなくてな。 真っ直ぐ家に帰る気になれないんだ……可笑しいだろ?」
「……独り者の俺には解らんよ」
「別に解って貰おうなんて思ってないさ。 ただ聞いて貰うだけで楽になるって事もあるんだ」
「そんなもんかね……何の解決にもならんと思うが」
それでも食事 (ピラフだけだが) を奢って貰った恩はある。
それに、こんな話しを見ず知らずの他人にする訳にもいかないだろう。
「で? どうして上手く行かなくなったんだ?」
俺は彼の話しを聞く事にした。
「理由なんて無いのさ……いつの間にか狂ってしまう物なんだ、歯車なんて。 掛け違えたボタンみたいに、何となく落ち着かない気分を感じた時には、もう戻れない所まで行ってしまっている物なんだ」
「ふうん……」
「そして、ふと考える。 このまま俺も女房も歳だけ食って、干乾びて死ぬんだな……ってな。 子供は成長するにしたがって、親を親とも思わない存在へと変化して行く。 たった独りで大きくなったような顔をして、口だけ一人前になってな……」
相槌の打ちようも無い。
俺には全く理解出来ないからだ。
……いや、俺にだって子供の頃はあった。
親を疎ましく感じ、事ある毎に食って掛かったり、意味も無く反抗したり。
「自分は子供らしい事をしないクセに、俺達には親らしい事をしろと言う。 そういう状況になった時、両親ってのはどんな事を考えると思う?」
「さあ?」
「お互いの欠点を論うのさ。 お前の育て方が悪い、あんたの躾け方が間違ってた。 しまいには血筋の話しにまで発展する」
「血筋ね……何代前まで遡るんだい?」
「別に本気で血筋の事なんて言ってる訳じゃないのさ。 結局、お互い自分が悪いんだって事を認識してるから、どちらのせいにも出来ない。 だから祖先に責任転嫁するんだ。 日頃、ロクに墓参りにも行かないのにな」
「ご先祖様も草葉の陰で嘆いてる事だろうな」
「まったくだ。 結婚なんてするもんじゃないな」
おいおい……こっちは払いたくも無いご祝儀を払わされたんだぞ?
後悔してるなら俺の祝い金を返してくれ。
……なんて事を言える訳も無い。
「だけど、それでも独りでいるよりはいいと思うぞ?」
「例えば?」
「誰もいない真っ暗な部屋へ帰る事を考えてみろよ。 冬なんて特に悲惨さを醸し出してるぞ?」
「結婚して何年か経ったら同じ感覚を味わえるさ」
「食事の支度も、掃除も、洗濯だって自分でやるんだぞ?」
「それも同様だ」
「病気になった時に……」
「枕元で掃除機をかけられるよ。 子供には小遣いをよこせとケリを入れられる。 だから無理矢理にでも出勤するんだ……その方が気が休まるからな」
どうやら彼は、とことん恵まれない生活をしているようだ。
俺は何となく、独身の方がマシなような気がして来た。
「だが、一つだけいい事がある」
「何だい?」
「……そろそろ出よう」
「え? お、おい」
彼は突然話を打ち切ると、会計を済ませて店の外へ出て行ってしまった。
俺は少し残っていたコーヒーを慌てて飲み干し、彼の後を追って店を出た。
「続きを聞かせてくれよ。 途中で打ち切られたままじゃ落ち着かないよ」
最初は大して興味も無かったのだが、やはり途中で終わったままというのは、何だか気になってしまう。
「そんなに気になるか?」
「一つだけいい事があるなんて、聞いてみたくなるじゃないか」
「そうか……。 まあ、大した事じゃないかもしれんが」
彼は殊更勿体付けるように、背広の内ポケットから煙草を取り出して火を点け、美味そうに吸い込んだ煙を、少し時間をかけながら吐き出した。
「家じゃ吸わせてもらえないんだ。 俺が買った家なのにな……」
「早く続きを話せよ」
俺は少しイライラしながら先を促した。
彼は、そんな俺の様子を楽しそうに見ながら口を開いた。
「……保険さ。 それ程高額でなければ問題無くかけられる。 俺を受取人にしてな」
「何だ、そんな事か……」
「しかも、お互いにかけ合えるんだ。 それなら不満も出ない」
当たり前の事じゃないか、お互いに保険をかけるなんて。
万が一、何かがあった時の為の用心なんだから。
「何があるか判らないご時世だからな。 掛けられるなら掛けておいた方がいいなんて、誰でも思う事だろ?」
「ああ。 ただ生命保険は駄目だ。 色々と事件が多かったせいで今は警戒されるんだ。 だから傷害保険なんかがお勧めだな」
「何だ? お前、副業で保険の勧誘でも始めたのか?」
「冗談言うなよ。 そんな時間があるなら、もっと堅実なバイトをするさ。 ……例えば交通事故なんかで相手が死亡した場合、煩雑な手続き無しで保険金が転がり込むんだ。 これがどういう意味か……解るか?」
俺には彼が何を考えているのか理解出来なかった。
保険をかけた相手が事故で死亡する。
すると、彼の手元には労せずして現金が入る。
しかし、それは保険のシステムがそうなっているからで、決して特別な事では……。
「おい……お前まさか……?」
「ははは、怖い事を考えるなよ。 俺が自分で手を下したら、保険金どころかお縄になっちまうよ。 そうなったら、出所と同時に首を括らなきゃならなくなる」
「そりゃあそうだな……」
我ながら物騒で馬鹿な事を考えてしまったと、俺は内心、胸を撫で下ろしていた。
いくら何でも、身近にそんな事を考えている奴がいるというのは嫌なものだ。
彼はそんな奴ではない……そうに決まってるさ。
「それに何だかんだと言ってても、大事な家族には違いないんだ。 俺は、それを護る為に毎日働いてるんだからな」
「そうだな……」
「お前も早く結婚しろよ。 いいもんだぞ? 負い目を背負って歩くのも」
「さっきと大分言ってる内容が変わってるぞ?」
「だから言ったろ? 聞いて貰うだけで気持ちが楽になる事もあるって」
彼は、そう言って再び笑った。
成る程、こうして聞いてみると結婚ってヤツも、まんざら悪くない物のように思える。
「まあ、相手がいればの話しだな」
「その為にも定職に就けよ。 難しいとは思うが、まだ若いんだ。 何とかなるさ」
「そうだな……頑張ってみるよ」
「じゃあ、俺はそろそろ帰るよ……俺の城に。 築三十年の古い城だがね」
「ははは。 気を付けてな」
そう言って、俺は彼の背中を見送った。
少し歩いた時、俺の背後で急ブレーキの音が鳴った。
その一瞬後、大音響と共に何人かの人が叫ぶ声が聞こえた。
俺は一生独身でいようと、その時思った……。