原三代記 (上)
戦国時代の小豪族の誇りと生き残りをかけたお話です。
永正十四年十一月街道に二人のくたびれた具足の将がいた。「ようやく甲斐に入ったか」そうつぶやく彼の名は原友胤である「父上、これからどうなるのでしょうか」不安を隠しきれないのはその子、原美濃守である。彼らは故地、上総からは遠い甲斐にいた。
友胤の父は原胤継、受領名は左馬頭である。もとは上総山辺郡小西郷の豪族であり小西原氏と呼ばれる一族であった。
時は永正十四年初頭、上総の大名、真里谷武田三河入道恕鑑は野心を抱き古河公方足利政氏の嫡子である足利義明を擁立。小弓原氏との戦いで劣勢であった同族であり、本家筋の庁南武田宗信の支援を表明した。
時を同じくして小西城の原胤継には檄文が飛んでいた。小弓城主、原孫次郎基胤からの援軍要請である。「どうしたものか・・・」胤継は思わず言葉を漏らした。いくら同族とはいえ、相手は足利の血を引く義明に加え、房総半島有数の勢力を誇る真里谷恕鑑や里見氏である。ましてや胤継の所領は小さな小西郷であり、兵力の差は歴然である。
「父上、基胤殿からの支援を断るおつもりですか」そう話すのは原友胤である。「すでに高城殿は動員を始めているようだな」そう続けるのは胤継の弟、原大和入道道安である。「しかしだな・・・」胤継にはもう一つ懸念点があった。檄文には参陣の暁には総大将として小弓城の指揮を執ってほしいと書かれていた。「祖父上。総大将になれるのですぞ、祖父上が我ら氏族を率いるとは、なんたる名誉でしょうか」原美濃守は目を輝かせて言った。「そんな簡単な話ではないわい。総大将となるという事は、公方様だけでなく真里谷武田、里見らとの戦に発展するという事じゃ。我らだけで小西郷を守れるかも怪しいというのに、これでは房総すべてを敵に回すようなものじゃ」美濃守はハッとして自分の浅はかさを恥じた。「兄上。ここは一旦保留とし、皆とも話してみてはどうだろうか」道安が続ける。「そうだな、道安の話にも一理ある。皆にも話したうえで考えるとしよう」こうしてこの日の評議は終わった。
数日後、家臣との協議の末、正式に胤継は総大将として小弓城に入ることとなった。
稲刈りが終わり、出陣当日となった。動員できた兵は百五十。そのうち三十を留守として道安と共に小西城に。原胤継、友胤、美濃守の三人は兵百二十を率いて小弓城へ向かう事となった。
「兄上、友胤、留守はこの道安に任せ、全力で戦ってまいれ。美濃守は2度目の戦とはいえまだ慣れぬことも多いであろう。兄上や友胤の話をよく聞くのじゃ」大叔父の言葉に美濃守は「大叔父上、お任せください!」と自信に満ちた表情で答えた。「少し待て」道安はそう言うと美濃守の具足を正し背中を“ドン“と叩いた。続けて「うむ。良き若武者じゃ!頑張るのだぞ」と優しく言う。道安に勇気をもらい美濃守は笑顔で返す。
「準備できたな。では小弓城へ向かうぞ」胤継の号令を合図に小西勢は小西城を出立。
秋風になびくススキと共に小弓城へむかった。
小弓城に到着すると小弓城将、原基胤が胤継らを出迎えた。「いやはや、来ていただけて良かった。左馬頭殿の助けがあれば百人力じゃ。」「何をいわれるか、孫次郎殿の窮地に駆け付けるは当り前ですわい」短い挨拶を交わし、小西の軍勢は二の郭に詰める事となった。
夕暮れとなり野営の支度ができたころ、本郭からの伝令が来た。半刻後に軍議を開く為、本郭に来られたしとの事である。簡単な身支度を整え、胤継、友胤、美濃守は本郭へ向かった。
陣幕の中に入ると「おぉ久しいな左馬頭殿。」と声をかけられた。胤継に声をかけたのは、同じく援軍として小弓城に入城していた根木内城主、高城越前守胤広である。「これは越前守殿、久しいな。それと見慣れぬ顔がおるようじゃが」胤広の横には二人の若武者がいた。「申し遅れました、お初にお目にかかります。高城越前守が嫡子、高城左五右衛門と申します」「同じく下野守胤正と申します」二人の若武者はそれぞれの名を名乗った。
「越前守殿のご嫡子であったか。立派な若武者であられる。高城家はよい後継ぎに恵まれたようですな。わしの隣におるは能登守友胤と友胤の嫡子、美濃守じゃ」「越前守殿、お久しゅうございます。能登守友胤であります。越前守殿は愚息、美濃守と一度会ったことがありましたなぁ」胤広は驚きの表情で続ける。「その昔、寺中を走り回っていた能登守殿のご嫡子であったか。立派な将になられたのう。愚息、胤正と年は近いであろう。胤正は初陣故、色々教えてやってくれぬか。」「お久しゅうございます越前守殿、恥ずかしながら私も戦は2度目で初陣のようなものです。下野守殿に教えることはできませぬが、近しい者同士、親睦を深めたいと思っております」美濃守の返答に胤広は満足げな笑みを浮かべた。
「さて、軍議であったな、越前守殿向かいましょう」胤継の言葉に胤広は頷き一行は軍議へと向かった。
小弓城に籠城できたのは小西勢含めて五百あまり。高城勢二百、小弓原氏は領民を総動員したものの百七十人にとどまった。総大将は檄文の通り、数々の戦を戦った原胤継である。
小弓城は北、西、南を海に囲われた天然の要害であり、出丸とは別に四つの郭から構成された城である。此度の軍議で出丸には高城左五右衛門率いる兵卒五十が、四の郭には高城胤広、原友胤率いる兵卒百。三の郭には原美濃守、高城胤正率いる兵卒九十。二の郭には原基胤の父、原宮内大輔入道全岳(胤隆)率いる兵卒百。本郭には総大将、原胤継と原基胤の率いる兵卒百五十と決まった。各々籠城の支度をはじめ、襲撃に備えたのである。
十月七日小弓城に急報が入った。足利勢と真里谷武田勢が小弓城に向け出陣したとの知らせである。戦の足音はすぐそこに迫っていた。
十月十日足利勢と真里谷武田勢は小弓城を完全に包囲した。総大将、原胤継は物見やぐらからその様子を見ていた。
少なくみても六千はいると思われる文字通りの大軍勢である。敵の旗には足利家の家紋である”新田一つ引き“と真里谷武田家の家紋”割り菱“がなびいている。自分は恐ろしい役を任されたのではないか。本当に公方様に弓を引く事になるのか。胤継は不安を抱えながらやぐらを降り、近侍に告げた。「出丸の左五右衛門殿に伝令を頼みたい。今夜夜襲が来るやもしれぬ。警戒を密にし、夜襲が来たならばすぐに知らせよ」近侍は「承知しました」とだけ告げ、出丸へと走った。
足利義明は心を躍らせていた。自分は公方にはなれぬと諦め僧となっていた。だが忠臣である真里谷武田恕鑑が告げた。「私を房総管領に任じて下され。その暁には古河の公方様を追放し、義明様を真の公方として見せます」と。自分が諦めた夢を叶えると言うのである。欲が出てしまった。自分の声で関東が動く夢を見てしまったのである。「そのようにせよ」そこからは一瞬の出来事であった。八幡の仮御所へと入るや安房の大名、里見氏がこうべを垂れたのである。今まで何も力のなかった自分が今や房総の大半を従えているのである。真里谷武田恕鑑が告げる。「小弓城を攻めましょう。あそこは海運の要衝であり、要害堅固な城であります。公方様の御所として申し分ありません」義明はその先が見たくなった。「そのようにせよ。」
気が付けば僧だった自分が六千余りの軍を率いる総大将であった。心が躍った。自分の栄華はすぐそこである。夢心地の中、小弓城を包囲した。「三河入道。今夜にでも行動を起こしたい。よき手はないか。」義明はさっそく自分の力を試してみたくなった。恕鑑は少し思考し、意見を述べた。「公方様、わが軍は行軍で疲弊しております。本格的な城攻めをしても損害が大きいかと、ですが一つ考えがございます。小弓城には出丸がございます。この出丸に夜襲を試み敵の力を測ってみては。」義明は告げる「そのようにせよ。」
虫の音が響く秋の夜長。小弓城の出丸を守備する高城左五右衛門は原胤継の“夜襲に警戒せよ”との言葉を忠実に守り、厳戒態勢を敷いていた。しかし左五右衛門は夜襲には正直、半信半疑であった。「行軍をしてきた軍がその日の夜に夜襲を仕掛けるであろうか」そんな事を考えていた矢先、ふと気が付いた。先ほどまで聞こえていた遠くの虫の音が聞こえないのである。「まさかな」そうつぶやいた刹那、自分のすぐ横に矢が突き刺さった。「敵襲!夜襲だ!出丸が夜襲を受けたと左馬頭殿に伝えよ!」そう叫ぶと左五右衛門は槍を手に取り必死の防戦を始めた。
出丸が夜襲を受けたとの知らせはすぐに胤継に伝わった。「やはりな」なぜ夜襲が来ると思ったか自分でもわからない。しいて言うならば長年の勘であろうか。「二の郭に詰める宮内大輔入道殿に伝えよ!五左右衛門殿を救うために指揮下の兵を連れて出丸を救援せよと!」近侍はすぐに二の郭へ走り、全岳は出丸へと急行した。
全岳が到着した頃、出丸を守備する兵は殆どが手負いであった。高城五左右衛門も右肩に矢を受けていた。全岳率いる軍勢が背後から現れ、夜襲をした部隊はすぐに兵を引いた。
「五左右衛門殿大事ないか」全岳は治療を受ける五左右衛門に問うた。「これは宮内大輔入道殿、いやはや不覚を取りました。指揮下の兵卒は十三名が討ち死に。手負い二十七名であります。宮内大輔入道殿が来てくださらなければ私も討ち死にしていました」五左右衛門は疲れ切った様子で全岳に報告をすると治療のため、小弓城三の郭へ運ばれた。
治療を受ける五左右衛門のもとに弟、胤正とそれにつきそう美濃守が見舞いに来た。「あ、兄上。御無事で何よりです」胤正は涙を流しながら言う。「なぜ泣いておるのじゃ、兄はこの通り生きておるぞ」五左右衛門は弟を心配させぬようにと笑顔で返す。美濃守も言う「そんなに泣くでない。五左右衛門殿は夜襲に打ち勝ったのだぞ。流石は高城の次期当主であられる」胤正は兄を誇りに思うと同時に、底知れぬ不安を覚えた。胤正は見舞いに行く道中で負傷兵を嫌というほど見た。出丸を守っていたのは皆、高城の兵。つまり皆、胤正にとっては顔見知りである。知っているものが今まさに命が尽きようとしている。これが初陣の胤正には辛かった。「そろそろ持ち場に戻るぞ、胤正殿。」そう言うと二人はそれぞれの持ち場に戻っていった。胤正を連れる美濃守には分かっていなかった。身内が死ぬという事が。
「三河入道、首尾はどうであった。」義明は夜襲の報告を求めた。「我が舎弟、大学頭が五百を率いて攻撃をしましたが、陥落寸前の所で後詰めが来襲したため撤退しました。幸いにも手負いがわずかにいるだけで死者はおりませぬ」大学頭とは恕鑑の弟、真里谷武田大学頭信秋の事である。「後詰めの速さからして、夜襲を警戒していたのでしょう。敵には中々にできる将がいるようです。それから敵は出丸を放棄しました。」目的は果たせずとも勝利には違いない。「で、あるか」義明は満足げであった。
十月十三日の昼、小弓城からさほど離れていない、真名城から十数人の兵が小弓城へ逃れてきた。彼らによれば相模の伊勢早雲庵宗瑞の軍勢が三上但馬守の守る真名城を蹂躙。守備兵の大半が討たれ、三上但馬守は討ち死にした。というのである。真名城の三上但馬守と言えば原基胤とともに真里谷武田氏に抵抗した近隣でも名をはせた将である。これが事実であれば今見えている六千以上の敵がいるという事である。胤継は房総だけでなく相模までを敵に回したことに気づき、背中に冷たいものが走った。小弓城に来たことは完全なる失策であった。
その日の夕刻、小弓城を脅すように二つの首が包囲軍のもとに並べられた。一つは三上但馬守、もう一つは小西城の留守を任せていた原大和入道道安であった。
実は包囲開始から二日後の十月十二日真里谷武田勢は小弓城を孤立させるべく近隣の諸城を次々と攻撃していた。同日、里見水軍が九十九里浜に上陸。小西郷を略奪、そのまま原大和入道道安の守る小西城にも攻め寄せた。道安は城に避難していた住民や留守の三十の兵卒とともに防戦をするも、衆寡敵せず小西城は陥落し小西郷は文字通り灰燼に帰した。
美濃守は大叔父の首を見て全身の力が抜けた。まさかあの会話が最後になろうとは。戦は二度目といえども初陣はただ後ろで見ていただけであり、これほどまでに戦が残酷であったと初めて知った。「美濃守殿、しっかりしてくだされ」胤正は今にも倒れそうな美濃守を支えた。「お、大叔父上」美濃守は完全に戦意を失ってしまった。美濃守だけではない。小西勢の大半は家族を小西郷に残してきた。その小西郷が敵の手に落ちたことで小西勢の士気は一気になくなった。翌日、小西勢の一部が夜のうちに脱走していた。美濃守は一睡もすることなく、陣幕で無力さに打ちひしがれていた。
今年二十になろうかという若武者には衝撃が大きかった。初陣である胤正に励まされ不甲斐なく思っていた時、軍議の招集がかかった。
「大丈夫か、美濃守」心配するのは父、友胤である。美濃守は「はい」とは答えるものの声は依然として低いままである。「これも戦にはつきもの。深く考えるでない」そう言う友胤自身、正直に言えばすぐにでも小西郷に帰りたかった。しかし父が自軍の総大将であり、その戦いで逃げればそれは自軍の敗北を意味するだけでなく、小西原家末代までの恥である。自分は正しいと言い聞かせ友胤は軍議に臨んだ。
「皆そろったようだな。皆を呼んだのは他でもない。おそらく数日以内に総攻めが予想される」胤継は続ける。「皆存じておるだろうが、わが手勢から脱走者が出た。恥ずかしい話であるが、今わが手勢の士気はどん底と言ってよい程に落ちている。これを敵が知らぬはずがないだろう。」
十月十三日包囲軍は小西勢の脱走兵を捕らえ、士気の低下を知った。「効果てきめんであったな。流石は三河入道じゃ」義明は続ける。「三河入道、そろそろ頃合いではないだろうか。」「流石は公方様。その通りにございます。明日、小弓城に総攻めを仕掛けましょう」
その日の夜、軍議にて正式に総攻撃が決まった。
翌十月十四日早朝、物見やぐらから胤継は敵の様子をうかがっていた。明らかに炊事の煙が多い。総攻撃が来るのは間違いないだろう。胤継は覚悟を決め、諸将に策を伝達した。
辰の刻、包囲軍から陣太鼓が鳴った。「此度の戦は始まりにすぎぬ。各々、死力を尽くすのだ!」足利義明の号令の下、真里谷武田軍が動き始めた。「信秋、そなたが先陣だ。まずは敵の戸張を破り突破口を確保せよ。」恕鑑は弟、信秋に指示を出した。「兄上、お任せください。皆の者、私に続け。一番乗りはわが隊である!」信秋率いる兵卒500は陣太鼓の音とともに「えい、えい」と声をそろえ、じりじりと四の郭へと攻め寄せた。
「まだ引きつけよ」四の郭を任された高城胤広は弓隊を構えさせる。「能登守殿、わしらの手勢だけで広い四の郭は少ししか持ちこたえられぬぞ。」「わかっております。敵にわざと一か所突破口を作らせ、挟撃せよと父は言っておりました」「流石、左馬頭殿じゃ。今だ!放て!」胤広の号令で矢が放たれる。しかし相手は陣盾を使いよく防いだ。
「大学頭様、敵が矢を射かけてまいりました!我らも火矢を放ち、城の構えを燃やしてしまいましょう」信秋の近侍は進言をするも信秋は「小弓城は公方様の御座所となるのだ。最小限の損害で落城させよと兄上は仰せじゃ。門に取り付き丸太で城門を破壊せよ」信秋率いる先陣は被害手負い数名で城門前まで接近した。「矢を射かけつつ、陣盾を構え門に取り付け!丸太を使い城門を壊すのだ!」信秋の号令で背後から丸太を担いだ数名の兵卒が出てきた。
「能登守殿、敵は統率が取れておる。敵が挟撃を受け崩れたら、すぐにでも追撃できるよう準備を頼む。」「お任せください、騎馬武者十騎、足軽三十にて追撃します」
籠城側は矢や礫で丸太を使う兵を死傷させるも、次々と現れる新手には抗いきれず、ついに門が破られた。「大学頭様!城門を突破しました!」近侍の報告に信秋は「よくやった!全軍!なだれ込むのだ!」信秋の軍は一斉に城門から城内に侵入した。
「槍衾用意!」胤広は指揮下の兵に告げると、城内になだれ込んできた信秋勢に向け、槍衾を突き刺した。一瞬にして数十の兵卒から血潮が飛び散った。「敵がひるんだぞ!かかれ!騎馬は敵陣を走り回りかき乱せ!」友胤の号令で待機していた兵が逆襲を始めた。「大学頭様!敵の逆襲に遭い、お味方が多数討ち死に。更に敵の猛攻により城外まで押されましてございます」「何をしておる!陣を立て直せ!」「敵の騎馬武者が陣をかく乱しており、立て直しは不可能にございます」「おのれ、一度立て直す。引くぞ。」信秋隊は一時撤退した。
本郭の胤継に伝令が届いた。「お味方、高城越前守殿、原能登守殿のご活躍により敵先陣を撃退したとの由」「よくやった!勝鬨をあげさせよ。これで味方の士気は大いにあがるわい」胤継は続ける。「城門が突破された四の郭を守るのは下策。よって放棄する。越前守殿と友胤の手勢は三の郭に引き、四の郭の燃えるものすべてに油を撒くように伝えよ」次の命を受けた伝令は「承知いたしました」と言い四の郭へ走った。
「兄上、申し訳ありませぬ」信秋は恕鑑に報告をした。「信秋、敵に手練れがおるのは間違いない。あまり気を落とすな」恕鑑はそういうと総大将、足利義明のもとに走った。「三河入道、大学頭が敗れたと聞いたぞ。」「公方様、申し訳ありませぬ。夜襲の時もそうでしたが、どうやら敵を率いているのは相当な手練れのようです。再び舎弟、信秋に攻撃をさせようと思います。此度は副将に上総介殿をつけ里見からの援兵三百を合わせた兵卒千二百で攻撃をします。」上総介とは庁南武田宗信の事である。本来庁南武田氏は本家筋であるもの、この頃には分家真里谷武田氏と立場は完全に入れ替わっていた。
「上総介か。小弓の原ごときに手こずっていた者で大丈夫なのか」義明は恕鑑に問う。「彼の小弓城への執念は本物かと。それを利用しましょう。」「そうか、ならばそうせよ」義明の下知を受けた恕鑑は再びの攻撃準備に移った。
勝鬨をあげた小弓城守備兵の士気は大いに上がった。将兵の中には「勝てるやもしれぬ」という一種の希望が生まれたのである。美濃守にもその希望は芽生えた。「悲しんでいては大叔父上に示しがつかぬ。弔い合戦をしなければ」
しばらくして、四の郭から胤正、友胤らが三の郭に引き揚げてきた。「父上、先陣を撃退したと聞きました。」「おぉ美濃守、真里谷勢を追い返してやったわ」友胤は笑顔で返し続ける。「しかし城門は破られてしまった故、四の郭は放棄せよ命じられ引き揚げてきたのだ。父上は再び敵を破る策がおありのようじゃ」「そうでしたか、では父上と越前守殿は三の郭に詰めるという事ですな」「そうじゃ、敵はすぐに態勢を立て直してくるじゃろう。美濃守も準備を怠るな。」「父上、お任せください」美濃守は持ち場についた。
巳の刻、再び陣太鼓が響いた。現れたのは前回の攻撃の倍以上の兵である。軍旗には真里谷武田だけでなく所々“丸に二つ引き両”の家紋がみえる。里見勢だ。
対するは三の郭には四の郭から撤収してきた兵と元の守備兵合わせて二百あまりである。
「父上!敵が来ます!」いち早く察知したのは胤正である。「皆の者、敵が来るぞ!備えよ!」胤広は下知を飛ばし、敵の来襲を待った。
「大学頭殿、敵は四の郭を放棄したようじゃ。一気に攻め入り、三の郭を蹂躙すべきじゃ」宗信は信秋に献策する。「それが良いでしょうな。上総介殿は先陣で攻撃をして下され。わが隊も後に続きます。」信秋の命で宗信は手勢三百五十を率いて前進した。「大学頭様、上総介殿をこのまま行かせては再び敵方の策で撃退されてしまうのではないでしょうか」近侍は不安げに信秋に問うた。「なに、上総介の兵が減ったところでわが手勢の被害はないわ。それよりも囮として上総介を使い、策が尽きたらわが隊と里見勢、それから兄上の後詰めによる猛攻ですぐにでも落城するじゃろう」信秋は不敵に笑った。
「者ども!ついにこの時が来た!憎き小弓城を血祭にせよ!」宗信の号令で再び総攻めが始まった。「来たぞ!矢を射かけ礫を投げよ!」友胤の命で守備隊も防戦を始める。「上総介様。四の郭を占拠いたしました。」「よし、堀に梯子をかけ三の郭も突破せよ」宗信の下知で庁南勢は礫や矢にも全く怯まず前進する。「能登守殿、手ごわいが先ほどの攻撃よりも敵兵が少ないぞ。左馬頭殿の策、火攻めをすべきであろうか」胤広は友胤に意見を仰いだ。「越前守殿、実はわしも同じことを考えておった。」その話に割って入ったのは胤正である。「父上、能登守殿、敵の出鼻をくじけば敵も士気が落ちましょう。火攻めをすべきです。」「その言葉にも一理ある。美濃守に伝えるのだ。火攻めを始めよ」友胤は美濃守に伝令を飛ばした。美濃守は下知を聞くと「よし火矢をつがえるのだ。放て!」美濃守指揮下の兵が一斉に火矢を放った。火矢が四の郭の柵や櫓、門に刺さった。油を含んでいた櫓や柵は一瞬にして炎に包まれた。
「誰が火を放てと言った!」信秋は声を荒げる。「やはり上総介は役に立たぬ。わが隊も前進だ。四の郭には入らず、矢の届くところで待機。わしの下知で外から矢を射かけよ。」信秋隊と里見隊も前進を始めた。「上総介様、火攻めで少数のお味方に死傷者が出ております」近侍の知らせに宗信は「火攻めとは小癪な。後詰もおる故、攻撃を続行するのだ」と続行を下知するも、別の近侍からの報告が入る。「上総介様、敵が討って出てきました。高城勢主力の百程の部隊です」「何!討って出ただと。横腹を突かれる前に一度引くべきか」宗信には撤退が頭をよぎったがすぐに不可能だと伝えられる。「上総介様、郭全体が火炎に包まれ退路がありません」「おのれ、ほかに手はない。火の中であろうと構わぬ。撤退せよ。」庁南勢は宗信の下知を受け我先に火の中に飛び込む。ある者はやけどを負いながら撤退できた。ある者は具足に引火し苦しみながら死んでいった。ある者は炎に足がすくみ高城隊に首をはねられた。地獄とはまさにこのことであろう。
「追い首だ!手柄をたてろ!」高城勢百余りを率いる胤広は四の郭に入り、次々と庁南勢を討ち取っていった。胤広自身も首級を挙げ、庁南勢を郭外まで追い出した。「父上!首級をあげられたのですね!おめでとうございます!」胤正は三の郭から胤広に向かって話す。「敵は火のある間、郭には入れぬ。乱取りをしたらすぐに戻る故、少し待っておれ」胤広は部下に命じて戦死した庁南勢から乱取りを始めた。しかし胤広は煙で気が付かなかった。敵の弓の射程に入っていることを。
「上総介殿、なぜ火を放った!」信秋は火傷を負い撤退してきた宗信に詰問する。「あれはわが隊ではござらん。敵方の火攻めによるもの。退路を断たれ敵が討って出てきました。」宗信や撤退してきた庁南勢の軍装を見るに間違いなさそうである。「そうであったか、誤解をしていた。謝罪する。して敵は四の郭にまだおるのか」信秋は宗信に問う「まだ中に多数の手勢が残っておる故、おそらくは」「そうか。よし、四の郭に斉射を行う。弓隊構えろ。よし、放て!」信秋の号令で数百の弓兵が一斉に矢を放った。
斉射は四の郭で乱取りをする胤広らを襲った。矢の雨が降り注ぎ四の郭にいた兵の半数が斉射の餌食となった。その中に胤広の姿もあった。胤広は矢を七か所に受け落馬。胤正のもとに運ばれてきた頃には既にこと切れていた。「ち、父上!」胤正は嗚咽し泣き崩れた。胤正は初陣で父を失った。
すぐに胤広戦死の報は総大将の胤継にも伝わった。「左馬頭様、一大事にございます。高城越前守様、討ち死にしたとの由。」「それは誠か!」胤継は動揺を隠せない。胤広は小弓城防衛になくてはならない人物であった。更に続報が入る「注進!わが軍、敵先陣庁南勢を撃退するも再び真里谷勢の攻撃が始まりました!」胤継はすぐに下知を飛ばす。「三の郭に援兵を送れ。二の郭の宮内大輔入道殿は手勢百、すべてを率いて三の郭へ。本郭の孫次郎殿の部隊を二の郭へ移す。」伝令はすぐに下知を伝えに走った。
三の郭には真里谷勢、里見勢らが殺到していた。胤正は戦意を失い、代わって高城勢を率いるのは右肩を負傷している胤正の兄、高城左五右衛門である。「左五右衛門殿、大事ないか」友胤は前線に出てきた左五右衛門をいたわる。「父が死んだ今、高城の当主はこの私であります。休むことなどできませぬ」「越前守殿は残念であったがその覚悟、心強い」高城勢、小西勢はそれぞれ倍以上の敵を頑強に食い止めた。
美濃守も例外ではない。大叔父、道安の弔い合戦と息巻いて慣れぬ槍を振るう。美濃守は梯子を使い侵入しようとする敵兵の喉を刺し貫いた。血しぶきが顔にかかる。初めて敵を殺したのだ。しかし恐れはなかった。むしろ心が高揚するのを感じた。まるで鬼になった気分である。「大叔父上、見ておりますか。美濃守は初めて敵を討ちましたぞ」そうつぶやくと上ってくる敵を次々と刺し殺していった。
思ったよりも苦戦している。信秋は焦りを覚えた。「まだ落とせぬのか」「敵の抵抗が思ったよりも激しいです。三河入道様の兵を投入するべきかと」近侍は進言する。「兄上に伝令を送れ。後詰の二千を投入してほしいと。それから上総介の兵、百数十しかおらぬがこれも投入するぞ。数で押し切るのだ」伝令は恕鑑の陣に走った。「信秋が手こずるとは。よしわが隊も動くぞ。前進だ。」伝令を受け恕鑑は下知を飛ばした。真里谷勢本隊が動いたのである。
三の郭には全岳の援軍も合流していた。疲労からか敵の勢いも落ち始めていた。だが守備兵にも負傷者や死者が目立ってきていた。そんな折、物見やぐらの兵が叫ぶ「真里谷本隊が動いたぞ!」「何!数は!」友胤は聞き返す。「ざっと二千程かと」「能登守殿、まずいですぞ。押し切られます。」左五右衛門は続ける。「三の郭を放棄し、手狭な二の郭に移るべきです。」「左五右衛門殿、わしも賛成じゃ。よし、二の丸に後退する!伝令!父上に撤退を伝えよ」三の郭の兵が次々と撤退準備をする。
「殿軍はこの全岳に任せよ」全岳は自ら殿軍に志願した。「宮内大輔入道殿、かたじけない」友胤は全岳に礼を言い、撤退を開始した。三の郭の守備兵は二の郭に撤退。全岳らもよく敵を防ぎ、被害は最小限で撤退に成功した。二の郭では原基胤が出向迎える。「しばらく休息をとられよ。わが隊は新手故、しばらくは敵の攻撃を食い止められる。」「かたじけない。」満身創痍の左五右衛門は礼を言った。左五右衛門の右腕の傷はすでに治療ができぬほど悪化していた。小西勢、高城勢はしばしの休息をとり、小弓勢が防戦を引き継いだ。
「兄上、本隊を動かして下さったこと、感謝いたします」恕鑑と合流した信秋は礼を言う。「うむ。まずは里見勢を下げよ。代わりにわが隊が入る。借りた兵が死にすぎると後で面倒だ。」恕鑑は部隊に下知を飛ばし総攻めに加わった。しばらくして「注進、三の郭を占拠いたしました」との伝令が入った。この報告に真里谷勢の士気が上がった。「よし、あと一息だ!二の郭を落とせば落城したも同然である!」信秋の檄に将兵は奮起する。「真里谷勢に後れを取るな!押し込め!」宗信率いる庁南勢も奮起する。攻撃はますます激しさを増した。
胤継は櫓から戦局を見ていた。味方は想定よりも善戦している。しかし多勢に無勢である。勝てるかと言われれば、ほぼ不可能であろう。胤継は決断を迫られた。「敵方に使者を送りたい。」胤継は敵に使者を送った。
「総大将、原左馬頭様は一時休戦し、降伏条件を模索したいとおっしゃっています」使者は敵本陣にて総大将、足利義明と主力を率いる真里谷武田恕鑑に胤継の言葉を伝えた。「三河入道、どう考える。」「公方様、この申し出は受けるべきかと」恕鑑は予想外の小弓城兵の奮戦による損失、御座所となる小弓城の損壊を避けたいとの思惑があった。「よし、ならば三河入道、そなたに任せる。良きに計らえ」恕鑑は頷くと「敵総大将、原左馬頭殿に伝えよ、未の刻までに城から全軍退去せよ。それまでに城を出なかったら再び総攻めをするとな」伝令は再び胤継のもとへ走った。
胤継は伝令から恕鑑の条件を聞くと諸将を集め、話を始めた。「皆の者、これまでよく戦ってくれた。皆を集めたのは他でもない。これからについてじゃ。」胤継は諸将の顔を見た。皆、返り血や傷があちこちにある。満身創痍だ。
「ここまで来たのです。最後の一兵まで戦い抜くべきです。」最初に意見を述べたのは意外なことに原美濃守であった。「美濃守もよく聞け、此度の戦、わが方の勝てる見込み、正直言って皆無である。家名を残さずして討たれるは先代たちに示しがつかぬ。だが、城を捨てて皆逃げるのもまた末代までの恥である。よってこの城から落ち延びる者と残るものを決めたい。」諸将は神妙な面持ちで胤継を見つめた。
「わしは残りますぞ」最初に名乗りを上げたのは原基胤である。「わしは何度もこの城で庁南勢を撃退してきた。その頃から城と運命を共にすると決めておる。次期当主は牛尾家に養子入りした弟、矢五郎胤清とし、後見人を父、宮内大輔入道全岳とする。良いですな、父上」全岳は無言でうなずいた。
「私も残りまする」次に名乗り出たのは高城左五右衛門である。「兄上、何を言われますか!」弟の胤正は驚きの声をあげる。「胤正もよく聞くのだ。私は高城家の長男であり、父、越前守胤広討死の後、高城家の当主として戦いました。しかし、右肩の傷は悪化するばかり。薬師曰く化膿している為、右手を切らねばならないと。槍も振るえぬ体で高城の当主は務まらぬ。よって胤正、そなたに家督を譲り、私はこの城とともに名誉ある死を迎えたい」「あ、あんまりです兄上」胤正はすがるように言う。
「しかし胤正、お前は若い。そこで左馬頭殿にお願いがある。胤正に戦のいろはを教えてやってはくれないだろうか。」胤継は少し考えた末、「わしの所領はすでにない。客将として禄をいただけるのなら喜んで下野守殿をお助けしよう」「かたじけない」左五右衛門は深く礼をした。「兄上、嫌です。父上だけでなく、兄上までいなくなってしまっては」胤正は涙を流し懇願するも左五右衛門の決意は固かった。
それから胤継は友胤、美濃守に語り掛ける。「友胤、美濃守。これまでよく戦った。わしら小西勢はすでに故郷を失って居る。そなたらはどうしたいのだ」「私は最後までこの城で戦い抜く所存!」美濃守は覚悟をもって名乗り上げるが友胤はそれを遮る。「わしと愚息、美濃守は浪人し新たな仕官先を見つけたく思っております。」「父上、何をおっしゃいますか。孫次郎殿も左五右衛門殿も残るのです。我らも。」「ならぬ。我ら小西の一族は今や没落の危機にある。上総にこだわらず、末代まで家が残るように根を下ろせる地を探すのだ」友胤は半ば無理やり美濃守を納得させた。「よし、皆決まったようだな。では城を出る者は支度をせよ。皆、これまでよく戦ってくれた」胤継は深く礼をした。
諸将は続々と退去していく。「友胤。美濃守、達者でな。」胤継は別れを告げた。「父上こそお体大事にしてください」「祖父上のような武者になれるように精進いたします」友胤、美濃守親子はそれに答える。「胤正、良き当主となるのだ」左五右衛門は胤正に最後の言葉をかける。「兄上、分かりました。」涙声であるが確かな覚悟で胤正は答える。左五右衛門は優しく微笑み胤正を見送った。「父上、あとは頼みました」基胤も父に最後の別れを告げる。「良き覚悟じゃ。」全岳は基胤の覚悟を見届けた。
「恕鑑様、敵が城から退去しております。」近侍の報告を受け恕鑑は足利義明に報告をする。「公方様、この戦、我らの勝利です」「よくやった三河入道。」「ありがたきお言葉。敵が全軍退去し次第小弓城を接収いたします。」「うむ」義明は満足げであった。
未の刻となったが、いまだに小弓城から撤退しない兵がいた。「公方様、敵兵の一部が退去しません。様子を見てまいります」恕鑑は万が一に備え五百程の兵を率いて小弓城へ走った。「未の刻となったぞ!退去しないのであれば貴殿らを討つことになる。」恕鑑は残存した部隊に勧告した。
すると城門が開いた。そこにいたのは原基胤、高城左五右衛門とそれに殉じる事を決めた兵、約三十余りであった。基胤は槍を掲げ雄叫びをあげた。「素晴らしき死に場所である!いざ!」「基胤殿に後れを取るな!続け!」左五右衛門もこれに続き残存兵は真里谷勢に突撃を敢行した。「対処せよ!」恕鑑は配下の兵に命じる。華々しい突撃であった。
原基胤は敵陣を駆け回り三、四名討ち取ったのち、背中と脇に槍を受け討死。高城左五右衛門は一、二名討ち取ったのち、体勢を崩して落馬。首を取られた。彼らに殉じた指揮下の兵も次々と討ち取られ遂に小弓城は陥落となった。城に残ったのは誇り高き骸と秋風だけであった。
落ち延びた友胤、美濃守は西へ進む。仕官先をもとめて。彼らの物語は始まりに過ぎない。
ここまでお読みいただきありがとうございます。2章も執筆中です。
このお話の登場人物の後日談をば
原能登守友胤、美濃守親子 2章にて語られます。
原左馬頭胤継 高城氏を頼り根木内城に落ち延びるもその後の消息不明。
原宮内大輔入道全岳 のちに臼井城主となる。天文五年(1535年)7月11日相馬郡府川にて病没。
牛尾弥五郎胤清 兄、原弥次郎基胤の戦死に伴い原氏に復帰。弥次郎の名を継ぎ原弥次郎胤清となる。生涯にわたり足利義明との戦に明け暮れる。天文二十四年(1555)年6月23日までに死去したと思われる。
高城下野守胤正 足利義明や諸豪族との戦をするも30年にわたり高城氏の領土を守り抜いた。居城を根木内城から新たに築いた大城郭の大谷口城へ移した。天文十五年(1546年)4月25日没。
真里谷武田三河入道恕鑑 のちに相模の北条氏と対立するも善戦。品川湊や鎌倉までを勢力圏に収め真里谷武田氏の最盛期を築いた。天文三年(1534年)7月1日死去。嫡子の真里谷武田大夫がほぼ同時期に死去したため、家督争いがおこった。ちなみに甲斐の武田氏とは遠い親戚である。
真里谷武田大学頭信秋 のちに出家し心盛斎全方と名乗る。天文三年(1534年)兄の恕鑑が死去したことで起こる家督争いには足利義明とともに真里谷武田信応を支援。天文六年(1537年)信応方が勝利し佐貫城主となり子の真里谷武田義信とともに実権を握った。のちに家督争いをした真里谷武田信隆と和解し、峰上城が与えられた。天文十八年(1549年)2月3日死去か。
庁南武田上総介宗信 小弓城陥落後、実質的な真里谷武田氏の指揮下に入る。天文六年(1537年)の真里谷武田氏の家督争いでは真里谷武田信応を支援し勝利している。天文七年(1538年)までに家督を嫡子、庁南武田兵部大輔義信に譲っている。天文二十年(1551年)93歳という長寿で死去した。なお宗信の孫、清信には嫡子がおらず武田信玄の3男を養子にもらったとされ、豊信と名乗る。天正十八年(1590年)豊信は徳川勢の攻撃で戦死するが、豊信の子、氏信は土着。この話が正しければ武田信玄の直系子孫が千葉県に今もいることになる。
足利右兵衛佐義明 小弓城占領後、小弓城を居城とし小弓公方と呼ばれるようになる。のちに弟、足利基頼も加わり真里谷武田氏の家督争いに介入。介入により相模の北条氏と古河公方との敵対を招く。天文七年(1538年)義明は関宿城攻略のため、真里谷武田氏、里見氏含む1万8千の軍を率いて北条氏との決戦に臨んだ。しかし、”足利一門の自分に本気で弓を引けるものはいない”との慢心から北条軍の江戸川渡河を許し、10月7日相模台にて両軍は激突した。最初は有利であったものの、里見勢は義明の考えにあきれ戦線を離脱。更に義明は弟の基頼や嫡男、足利頼純の戦死に激昂。自ら突撃を図るも矢に当たり戦死した。小弓公方は戦国大名としては没落するも、義明の孫、足利国朝が豊臣秀吉の時代に古河公方家との婚姻を命じられこの血脈は喜連川藩足利家へと受け継がれる。
おまけ
作中にて戦死した人物の史実。
高城越前守胤広 高城氏2代当主。永正八年(1508年)根木内城を築く。永正十四年(1517年)10月小弓城にて足利義明、真里谷武田恕鑑の攻撃を受け嫡男(左五右衛門か)とともに戦死した。
高城左五右衛門 本名不明。左五右衛門の名であったかも正確でない。永正十四年(1517年)10月の記述に”高城越前守父子滅亡、同下野守逐電”との記載あり。高城越前守の子で討たれたのは高城胤正とされていたが、近年の研究により胤正の死去日は天文十五年(1546年)4月25日という説が浮上。
(非常に信頼度の高い資料、本土寺過去帳に”高城下野守地頭天文十五丙午四月”との記載があったため)
小弓城で戦死した高城越前守の子は、里見系図に記載のある高城左五右衛門なる将と推定されている。
原孫次郎基胤 父は原宮内大輔胤隆。父は基胤の幼い頃に出家し、宮内大輔入道全岳を名乗り、原氏の家督は義兄、原淡路守朝胤が継ぐ。基胤は小弓城将として真里谷武田、庁南武田軍を何度も撃退。永正十四年(1517年)10月の少し前に義兄、朝胤から家督を譲られる。同月14日小弓城落城の際に戦死した”原次郎”は基胤の事とされる。なお、基胤の基の字は古河公方足利高基からの偏諱と推定される。
原大和入道道安 本土寺過去帳に”原大和守、小西殿舎弟”との記載あるのみ。道安は出家後の名前と思われる。出家前の名は不明。
三上但馬守 真名城主。永正十六年(1516年)8月23日二千余りの軍勢を率いて亥鼻城を急襲し、落城させた。翌永正十七年(1517年)10月真里谷武田氏からの要請を受けた、相模の伊勢早雲庵宗瑞や足利勢、真里谷武田勢により三上但馬守の真名城は急襲され落城。真名城落城後の消息は不明。




