第1話 『普通の人生』
──普通の人生とは、どういうものだろう。
少なくとも、普通の人はこんな事は考えない。
面接官が痺れを切らしたように、机を指でカタカタ鳴らした。
「……しかしこれ、本当に君が? まるで本物みたいだな」
私は目線を落として、また黙り込む。
少し間を置いて、面接官はため息を隠した。
「……君の絵の才能は本物だ。これほどの技術があれば、きっと素晴らしい事を成せるだろうに、魔法が……ねぇ」
胸が締め付けられる。
魔法。やはりその話になる。
「魔法が使えないとなると、社内での打ち合わせや各社とのやり取りに支障が出る。魔法石での通信が基本だし、契約書の魔法認証もあるからねぇ」
私はまた視線を落とす。
今度ははっきりとした溜め息が返ってきた。
──普通の人生とは、どんな気持ちなのだろう。
──私が普通じゃないから、それを送れないのだろうか。
両親からは十分すぎるほどの愛情をもらってきた。
父がくれたスケッチブックに夢中になった頃の私を、父と母は驚きながらも、いつも褒めてくれた。
絵は嫌いじゃない。楽しい瞬間や、美しい風景を、いつでも思い出せる。
──思い出すな。
──誰かのせいにするな。
*
8年前を思い出される。
生まれて直ぐに、私が魔法が使えないと判明してから街や村の更にずっと奥。
人目の付かない場所に3人で住んでいた。
友達はいなかったけど、お父さんと私にしか分からない言葉を作って遊ぶのが好きだった。
お母さんは変だと笑っていたけど、私は気に入っていたし、こんな日々がずっと続くと信じていた。
2年後、嵐の夜。
父の友人マーカスが、青い顔をして駆け込んできた。
「ダリオは……職務中に……すまない、もっと早く駆けつけていれば……」
母はその場に崩れ落ち、私はただ立ち尽くすしかなかった。
その日を境に、私は声を失った。
*
「……あの、聞こえているかな? 申し訳ないが、今回はご縁がなかったということで」
立ち上がろうとした時、面接官が声をかけた。
「あ、ちょっと待ってくれ」
私は振り返る。
「君のような境遇の子に、良い働き口を紹介できるかもしれない」
差し出された名刺には「夜蝶亭」とある。歓楽街の店。
血の気が引いた。どういう店か知らないはずがない。
私は慌てて名刺を机に置き、激しく首を振った。
「おいおい、何を気取ってるんだ?」
面接官の声が急に冷たくなる。
「魔法も使えない、話すこともできない。お前にいったい何の仕事ができるってんだ?」
私は必死に首を振り続けた。
「現実を見ろよ。お前みたいな欠陥品が、まともな職につけるわけないだろう」
面接官が立ち上がり、私を見下ろす。
「唯一の取り柄は、その顔と若い体くらいだろう。それを活かさないでどうする?」
涙がこみ上げた。
人としても、女としても、完全に否定された。
「母親も病気なんだろう? このままじゃ医者にもかかれない。家賃も払えない」
にやりと笑みを浮かべる面接官。
「お前なら、最低でも一晩で家賃二月分は稼げる。母親の薬代もすぐに工面できる」
違う。そんなことは絶対にしたくない。
父が見ていたら、どう思うだろう。
私は名刺を置いたまま、逃げるように部屋を出た。
「逃げてもしょうがないぞ! 現実は変わらない!」
「そのうち分かる! お前に他に道はないってことが!」
声が背中に突き刺さった。
*
廊下に出ると、冷たい空気が頬を刺した。
足がふらつく。胸が苦しい。
また同じ。
また同じ結果。
ここ一週間で七度目の不採用。
一社目:「魔法適性がないと、お客様対応が……」
二社目:「やはり通信魔法は必須で……」
三社目:「魔法無効体質では、同僚に迷惑が……」
四社目:「申し訳ないが、うちでは……」
五社目:「魔法石通信ができないと……」
六社目:「話せないのでは、接客は……」
そして今日の七社目。最悪だった。
街の中央広場の噴水前で、私はベンチに腰を下ろす。
フードを深く被り直した。
昨夜も、母は咳き込んでいた。 洗面器に散った赤い斑点を拭き取った。
「大丈夫よ、少し風邪をひいただけ」
母はそう言って笑った。
その笑顔が痛々しくて、見ていられなかった。
半年ほど前までは洋裁店で働いていた母も、病が進み、針を持てなくなった。
「シュリが大きくなるまで頑張らなきゃ」
と言ってくれた母は、今は食事すら私に譲るほど痩せてしまった。
医者の診察代は銀貨三枚、薬まで入れれば八枚。
手元にあるのは銅貨十六枚。
到底届かない。
家賃の催促状もまた届いていた。
今月末を越えれば、住む場所を失う。
通りすがりの人々の会話が耳に入る。
「あの子、また座ってるわね」「魔法が使えない子だって。可哀想に」「でも近づかない方がいい。不吉なんだから」
聞こえているのに、聞こえないふりをするしかない。
言い返そうとしても、声が出ない。
*
噴水の水音を聞いていた時だった。
「きゃあ!」
悲鳴。
視線を向けると、商人風の女性が倒れ込み、フード姿の小柄な影が駆け去っていく。
「財布を盗まれました!」
私は立ち上がっていた。
考えるよりも早く。
路地を抜けて走る。 だが小柄な影は速く、すぐに見失った。
肩で息をしながら立ち止まった時。
「そこのお前、止まれ」
背後から声。
振り返ると、治安維持局の制服を着た青年がいた。
十八歳くらいの真面目そうな顔立ち。
「君だな、財布を盗んだのは」
私は慌てて首を振った。
だが青年の表情は動かない。
「目撃証言と一致する。小柄で、フードを被っていた。それに……」
青年は私を見下ろした。
「魔法無効体質の者は、生活に困って犯罪に走ることが多い。統計的事実だ」
胸が痛んだ。
まただ。
「取り調べは署で行う。ついて来い」
スケッチブックを出そうとしたが、制された。
「証拠隠滅の可能性がある。押収する」
唯一の道具を奪われた。
もう何もできない。
*
留置所の石壁は冷たく、鉄格子は重々しい。
青年──ディエゴ・マルケスと名乗った──が、机越しに座っていた。
「名前は?」
首を振る。必死に身振りで伝えるが、眉をひそめられるだけ。
「黙秘か。魔法無効体質の犯罪者によくある」
違う。そうじゃない。
けれど声が出ない。
魔法石を当てられる。 冷たい。反応なし。
「やはりか。魔法も使えない……これで確定だな」
胸が潰れそうになった。
母はどうなる。
家も薬も、全部失う。
その時、扉が開いた。
「ディエゴ、何してるんだ?」
無精髭の男が入ってきた。
髪はぼさぼさで、面倒そうな顔。
「ガルドさん? どうしてここに」
「リィナから連絡があった。スリ事件の目撃者が仲寄屋に相談に来たんだ」
男は私を見やり、言った。
「で、こいつが犯人か」
「状況証拠が揃っています。魔法無効体質で、現場にいて、黙秘を続けていて……」
「そうか。馬鹿か。」
吐き捨てるような声。
「こいつは話せないんだ」
「え?」
「見りゃ分かるだろう。必死に伝えようとしてる。犯人ならもっと堂々とするか、諦めてる」
ガルドさんが近づく。
「筆談はできるか」
涙があふれそうになりながら、私は頷いた。
「ディエゴ、紙とペンを」
「でも……」
「いいから出せ」
差し出された紙に書く。
『私は犯人ではありません。話せないので、筆談で失礼します。シュリエル・オルデンといいます』
ディエゴさんの表情が揺らいだ。
「……話せない?」
『父を亡くしてから、声が出なくなりました』
「……そうだったのか。申し訳ない」
頭を下げた彼を見て、胸が少しだけ軽くなる。
そこへ、栗色の髪を上品にまとめた女性が入ってきた。
胸元の秤の形のバッジが光る。
「店長、調べてきました」
「リィナか。で?」
「犯人は小柄でフードを被っていましたが、獣人族の尻尾が見えたと」
ガルドさんが肩をすくめる。
「こいつに尻尾はないな、何なら脱がせるか?」
ディエゴさんの顔が青くなる。
「完全に人違いでした……本当に申し訳ありません」
安堵が広がり、涙がにじむ。
リィナさんが微笑んだ。
「大変でしたね。私はリィナ。仲寄屋という調停事務所で働いています」
『シュリエル・オルデンです。本当にありがとうございます』
「オルデンさんね!」
リィナの視線がスケッチブックに止まった。
「もしかして、絵を描かれるんですか?」
私は頷き、スケッチを開いた。
噴水の風景、人々の表情。
「これ……まるで本物みたい。今にも動き出しそう」
ガルドも覗き込み、目を見開いた。
「……面白ぇ」
彼はそう言って、私をまじまじと見た。
「疑いは晴れた。帰るぞ、リィナ」
「はい。オルデンさん、本当に大変でしたね」
二人の優しい声に、久しぶりに人の温かさを感じた。
街に戻る道すがら、胸に小さな光が灯る。
──話せない私にも、できることはあるのだろうか。
──普通というものを、私はいつか知ることができるのだろうか。
【第1話 完】