この人、たぶん違う (後編)
それから、彼女はぽつぽつと店に来るようになった。
注文はいつも決まりきっていなかった。
「おすすめで」「なんか、疲れてる味で」「ごはんは…普通でいいかな」
そんな曖昧で不思議な申告に、佐藤はなぜか応じられた。
“量”ではなく、“気分”で注文される感覚。
それは面倒であるはずなのに、むしろ心地よかった。
ある日、彼女は味噌汁を一口飲んで、くすっと笑った。
「今日はちょっとしょっぱいですね。でも、それがいいです。今日はちょっと、現実味があるほうが安心する日だったから」
「……そうですか」
彼はそれだけを返したが、その背中は、なぜか少しやわらかくなっていた。
ある雨上がりの夕方、佐藤が仕込みを終えて裏道を歩いていると、前方から見慣れた姿が歩いてきた。
「……あっ!」
彼女が気づき、小走りに近づく。
「佐藤さん、ですよね?わあ、なんだか不思議。こんなとこで会うなんて」
「帰り道なんです。そっちこそ?」
「わたし、家このへんなんです。今日は……えっと、カレー失敗して、それでコンビニに逃げてました」
「カレー、ですか」
「はい。焦げて、炭の味がしました。天才的に下手です、料理……」
言って、彼女は恥ずかしそうに笑った。
それは店の中とは違う、素の笑い方だった。
「でも……あのお店があるから、なんとかなります。ほんと、救われてます」
その一言が、佐藤の胸のどこか深くに残った。
彼は少しだけ考えてから、ぽつりと口にする。
「もしまた、失敗したら……うち、来てください。賄い、余ってる日もあるんで」
「……いいんですか?」
「はい。たぶん、薄味かもですけど」
「わたし、ちょっとしょっぱい日も好きです」
笑顔の余韻を残して、二人は並んで歩いた。
道の端に咲いた小さな雑草に、水滴がまだ光っていた。
■あとがき:
最初から「運命の人」とは思わなかった。
むしろ、どこか変で、噛み合わない。
でも、“申告”が重なるごとに、ふたりの間に「味」ができていく。
それは、ただの恋ではない。
一緒に食べることがうれしい、という感情の名前が、恋だったのかもしれない。




