この人、たぶん違う (前編)
食堂にその女性が初めて現れたのは、雨の降る午後だった。
傘を閉じ、少し迷ったように暖簾をくぐる。
店内には昼の名残の湯気がまだ残っていて、佐藤は黙々と皿を拭いていた。
「……すみません」
その声は、どこか小さく、それでいて妙にくっきり耳に残った。
佐藤はカウンター越しにその姿を見た。
ぱっと見は、ごく普通の女性だった。
長い髪をひとつにまとめて、白いブラウスに紺のスカート。
でも彼の中に、どこか“引っかかる”感覚が残った。
「量、どうされます?」
問いに対し、彼女はきょとんとした。
メニューのどこにも「量」が書かれていないことに、明らかに戸惑っている。
「え、えっと……じゃあ……中?くらい……で……?」
それは“申告”というには、少し心もとない。
けれどその曖昧さが、佐藤には妙に印象深かった。
やがて出された定食を前に、彼女はうれしそうに頷いた。
「わあ……いただきます」
その「わあ」に嘘がなかった。
レンコンのはさみ揚げを頬張り、味噌汁をすすり、ご飯を一口食べるごとに、彼女の表情がほどけていく。
食べ終わる頃、彼女は少し恥ずかしそうに、けれどまっすぐに言った。
「これ……すごくおいしいですね。あの、なんていうか……体の中が、ちゃんとする感じがします」
佐藤はうなずくだけだった。
それが精一杯だったのだ。
この時点で、彼はまだ知らなかった。
これが自分の人生を変える「申告」になることを——。




