黒木さんと“いつものやつ”が通じなかった日
その日、黒木さんはいつものように、食堂の列に並んでいた。
夏の終わり、扇風機が生ぬるい風を回し、カレーの香りが漂っていた。
順番が来る。
厨房口のカウンターに立つ女性を見て、黒木さんは静かに言った。
「中に、いつものやつで」
だが、返ってきたのは
「……え?」
声を上げたのは、見慣れない若い調理員。
名札には「浜崎(研修中)」と書かれていた。
黒木さんは一瞬、言葉を失った。
厨房の向こうに佐藤さんの姿はない。
(ああ、休みか)
今さら「いや、あの…普段の…」などと言うのも野暮だ。
その沈黙の間に、浜崎さんは真面目な顔で中盛りをよそい、
几帳面におかずを並べ、申し訳なさそうに差し出した。
「……中盛りです。ご確認ください」
黒木さんは少し笑って受け取った。
「ありがとう」と言って席に着いたが、
その日のお味噌汁は熱すぎて、10分後でもまだ飲めなかった。
午後、会議室の片隅で誰かが言った。
「黒木さん、今日は“いつものやつ”じゃなかったですね?」
黒木さんは、コーヒーをひとくち飲みながら答えた。
「……“いつものやつ”は、人がいて初めて成り立つんだな」
その日の終わり。
黒木さんは、厨房のホワイトボードの下の方に目をやった。
そこに、小さく書かれていたのは
「佐藤:夏季休暇、明日復帰予定」
彼はホワイトボードの下に貼られた付箋をそっと気持ち上に直しながら、つぶやいた。
「じゃあ、明日は…戻るか、“いつもの日常”が」
■あとがき
“いつものやつ”それは、習慣に見せかけた人間関係の証。
誰かとの信頼が形になった、言葉を超えたやり取り。
けれど、その関係は不在によってふと揺らぎ、
その揺らぎの中で、かえってその“温かさ”を知る。
翌日、佐藤さんが戻った厨房で、
黒木さんが一言
「中に、いつものやつで」
そして、何も言わずに微笑みながら出されたそれを前に、
黒木さんはほんの少し、笑ったのだった。