上司 ――「はなむけ」
「……ついに、行っちゃった、か」
ほんの、つい今し方。彼の為に入れた珈琲が、まだ湯気を立ち昇らせているぐらい先程の事であり、同時に、もう過ぎ去ってしまった時の事。たっちゃんは私の元から旅立っていった。ここ最近何かに悩んでいるのは分かっていたが、とうとうこの日が来ようとは。
これで、この事務所を去ったのは二人目だ。一人目はいつの間にか、そして今日は、きちんと断りを入れて、でも、私の元からいなくなってしまった。
「まぁ、最初から分かっていた事だけど、ね」
思い出すのは、あの日。たっちゃんが最初にここを訪れた、あの時の事。
+++
音信不通だった父から、久方ぶりに連絡があった。
最初は、嗚呼、彼もようやく家族というものを認識する気になったのかと、そんな風に考えていた。父も流石に社会人としてのマナーを覚えていたのか、初めのうちは此方の様子や向こうの近況報告など、ごくごく普通の親子の会話を演じてきたからである。
が、彼にそんな常識、通用するはずなんか無かったのだ。
「え、い、今何て?」
「だーかーらー、未来あるおそらく有望な若者をお前のとこに向かわせたから、面倒見てやってくれ」
「そんな勝手に……」
全く、数年ぶりに電話を入れてきたかと思えば、すぐこれだ。でもまぁ、虎季の時は連絡も入れず、“こいつを頼む”と一言書いたメモを持たせただけだったのだから、その時に比べれば成長していると言えなくも無い、が。
「大体、その子、父さんを慕って来てくれたんじゃないの?」
父は折角自分を慕ってきてくれた子にも、しばしば追い返すような真似をする事がある。今回も案の定、図星だったようで、
「俺は忙しいんだよ。虎にもそろそろ弟分が必要だろうし、何よりあいつはお前の方が上手くやれるよ」
のらりくらりとかわしにかかってきた。痛い所をつかれた時に、彼がよくやる手なのである。
「そんな無責任な」
「じゃ、よろしくな」
言いたい事だけ伝え終えると、父はガチャンと電話を切ってしまった。
「もう……」
せめて名前ぐらい教えてくれれば良いのに。でも、父の身勝手は今に始まった事では無い。
「さーて、少しお片付けぐらいしておきますかね……」
その件の彼が私の事務所を訪れたのは、それから一時間程後の事だった。
「こんにちは。さぁ、どうぞ。お入りください」
「……お邪魔します」
父に騙されてやってきた青年は、一目でそれと分かる程緊張していた。しかしその瞳にはそれとは別種の、不安の色が浮かんでいる。おそらく、ここがあまりにも探偵事務所として似つかわしくないからだろう。
私の事務所は、私が管理するアパートの一室にある。それは父や他の事務所とそこまで大差無いが、問題は内装である。カントリー調の家具に、安らぎをもたらす観葉植物。壁には私が趣味でこしらえた刺繍のタペストリーが飾られており、ぱっと見は相談室か、さもなければ隠れ家的なカフェだ。そしてそこの主は、自分で言うのもなんだが、まだ若い娘っ子。これで信用しろという方が、難しい話なのかもしれない。父は、私が自分の娘である事なんて、おくびにも出さなかったみたいだから。
「えーと、珈琲で良いですか?」
「は、はい」
「すぐ入れますから、そこに掛けて待っていて下さい」
だから私は、極力彼をおどかさないように気を付けつつ、まずはリラックスさせようと試みる。
けれどもそこは、私の見込み違いだった。
「あの、失礼を承知で伺いますが」
待たされている間に思い至ったのか、彼は確信をつく質問をしてきた。
「貴女は成田賢吾さんの……」
「娘、に当たります」
ただおどおどしているだけの少年かと思ったら、探偵を志望するだけあって、物事を考える癖はつけているようだ。更に驚くべき事に、父に比べればまだ無名に等しい私の事まで、彼は知っていたらしい。彼の目が生き返った事が、それを雄弁に語っていた。
「で、何のご用でしょう?」
だからこそ最初に、出鼻を挫いておこうと思った。このぐらいでめげていては、探偵なんて務まらない。
青年は元々気骨があるのか、それとも父の所で懲りたのかは知らないが、そのぐらいの心構えはしていたようで、少しだけ肩を落としたものの、きちんと自己紹介をしてきた。
「俺、神城龍貴って言います。突然お訪ねして申し訳ありません。今回は賢吾さんからの紹介で、ここに来ました」
カミシロタツキ君、か。これでようやく、彼の事を名前で呼べる。後で字も聞かなければ。
「成程ね。じゃあ、父さんが言ってた探偵志望の少年、というのが」
「俺です」
さて。少し、柄にも無くからかいすぎた。父への怒りがそこまでたまっていたのだろうか。これから一緒に働く事になるかもしれないんだし、せめて探偵っぽい所を見せておこうと、これまで得た情報を組み立てる。
「ふむふむ。さては、父さんにコテンパンにやられたのねー。で、それで勢いづいたって所かしら。でも君、素質はあるみたいね。安心したわ」
「そうなんですよ……。って、あれ? 賢吾さんはそんな事まで言ってたんですか」
「いえいえ。父さんは何も。ただ、“近々探偵志望の少年がお前のとこに行くから、面倒見てやってくれ”って」
「それだけで解るものなんですか?」
今まで名前も顔も知らなかったのに、と付け加えたそうな顔を彼はしていた。
しかし、安楽椅子探偵を、なめていただいては困る。駆け出しとはいえ、これでももう三年も仕事をしているのだ。
「まず、君の靴と服。割と新しそうな物なのに、泥や傷だらけ。きっと、父さんのしごきを受けてきたんでしょう。でも、君は父さんから連絡を受けてから一時間も経たないうちに来た。これは相当やる気のある証拠」
「素質があるっていうのは?」
「ふふ。父さんはね、ああ見えてもプロよ。ちゃんとした子にしか、ここを教えたりはしないわ」
まあ、殆ど勘みたいなものだけどねと、最後は笑ってしめた。仮にも一人娘の所に男の子を送り込むのだ。いくらあの父だって、多少は気を遣うだろう。
青年の表情が安堵に変わった所で、私は言った。
「では、たっちゃん。成田探偵事務所へようこそ」
「はい、よろしくお願いします!」
こうしてたっちゃんは、うちで働く事になったのだった。
+++
私、成田真帆にとって、神城龍貴は二人目の弟子であり、相棒であり、そして本当の弟のような存在だった。それを失うのは、やはり寂しいものがある。
けれども、あの時とは違うのだ。これは別れでは無い、成長なのだ。
そう自分に言い聞かせても、胸の奥に仕舞い込んだ感情は消えてはくれなかった。それだけ、私は彼に特別な想いを抱いていたと、今になって実感させられる。彼からの最後のプレゼントを、まだこうして持っているのがその良い証拠だ。紫色の可憐な花。その押し花のしおりを、時折推理の際にもてあそんでいた事を、もしかしたらたっちゃんには気付かれていたのかもしれない。
だからこそ彼は、こんな言葉を最後に掛けたのだろう。
“見てて下さい、真帆さん。俺、頑張るから”
それは、私の中に渦巻くもやのような塊を拭い去るのに、十分すぎるものだった。私は、彼を見守っていても良いんだと、そう教えてくれたのだから。もし、たっちゃんが道に迷うようならば、その時はそっと支えてあげよう。頼ってくるようなら、私なりに支援しよう。そう決意して、彼に口を出すのを止めた。彼の人生、自分の好きに生きれば良い。
それが多分、可愛い弟子への、私からの餞別だ。
「いってらっしゃい、たっちゃん」
後には広くなってしまった空間だけが、静寂と共に広がっていた。
さて、そんな訳で龍貴の探偵としての物語を描いたのが本作品でした。
彼は何を選び、事務所から巣立っていったのか。
それは本編の続編であるところの、「Seasons ―Afterwards」で語っていければ良いと思っております。
ではでは、またお目にかかるその日まで。




