第157話 ワールドカップ52
〈ピィィィィィ……〉
前半戦終了のホイッスルが、どこか遠くで鳴り響いた。
だが、その音はまるで夢の中の出来事のように、ぼやけて聞こえていた。
俺たちは、足を引きずるようにしてピッチを離れ、ベンチへと戻る。
スコアボードに刻まれた“2 - 0”の数字が、胸の奥にぐさりと突き刺さる。
――2点ビハインド。
だが数字以上に重いのは、その“内容”だった。
圧倒された。
翻弄された。
そして――見下ろされた。
ブラジルの支配は、ただのスコアやパス回しでは語れない“格”の違いだった。
特に、アントニオ。
「こんなものか」と告げたあの冷たい眼差しが、まるで呪いのように、頭から離れない。
ベンチに腰を下ろした瞬間、全身から力が抜けていく。
呼吸は荒い。
汗は止まらない。
けれど、心はどこか――凍っていた。
長谷川キャプテンはタオルを頭にかぶり、額に手を当てたまま微動だにしない。
横で村岡も、スパイクの紐をいじるふりをして、ずっと下を向いたままだ。
ベンチに集まる誰もが、言葉を失っていた。
沈黙。
ただ、重く、息苦しい沈黙だけが場を支配している。
俺は拳を握りしめた。
だが、その手にも力は込められない。
悔しさだけが、ぐるぐると渦巻く。
悔しさと、焦燥と、無力感――そして、心の奥に巣食った“あの言葉”。
――やれやれ、こんなものか。
あれはただのひと言だった。
けれど、あの一言で、すべてが“否定”された気がした。
自分のサッカーも、自分の足も、信じてきたものすらも。
そこへ、監督・藤堂剛の声が響いた。
「おい、顔を上げろ……!!まだ試合は終わっちゃいないだろ!!お前たちは、そんなものか!!?」
檄を飛ばす声は力強い。
けれど、それが届いた者はいなかった。
誰もが、上の空。
心ここにあらずのまま、ただ前を見つめて座っていた。
その空気の中で、俺の耳に、アントニオの声がこだまする。
――“本気で僕を攻略しようとしてくれてるんだろ?楽しみに決まってるじゃないか。”
どこまでも楽しげだったあの表情が、今ではただ、残酷にしか見えない。
気づけば、俺は立ち上がっていた。
「…………俺、ちょっと風に当たってきます。」
小さくそう呟くように口に出した瞬間、監督の鋭い声が飛んだ。
「――おい!?雷丸!?どこに行く気だ!!」
だけど、振り返れなかった。
「……すみません、監督……」
それだけをぽつりと返し、俺はベンチをそっと離れた。
ロッカールームの扉を抜け、静まり返った通路を歩く。
誰もいない、誰も呼び止めない、静かな空間。
スパイクの音だけが、カツン、カツンと反響していた。
まるで、心臓の鼓動みたいに。
目の前のドアを押し開けると、そこにはひんやりとした風が吹いていた。
コンクリートの隙間を抜ける風。
スタジアムの裏手。観客の歓声も、ピッチの喧騒も届かない場所。
俺はその場に立ち尽くし、深く息を吸った。
けれど、胸は少しも軽くならなかった。
……アントニオの顔が脳裏にちらつく。
あの目。
あの声。
そして、あの“失望”。
俺は、拳を強く握りしめた。
痛みが、指の中でじわじわと広がる。
それでも、まだ――涙だけは、流せなかった。
――――――――――――――
ぼんやりと空を見上げていた――その静寂を破るように、ポケットのスマホがブルルッと震えた。
「……ん?」
画面を見れば、表示されたのは【ハーレムメンバー グループ通話】の文字。
「おいおい……なんで今……」
つぶやきながらも、気づけば指は画面をタップしていた。
接続のアイコンがぐるぐると回り、瞬間――
「雷丸様!!」
スマホ画面いっぱいに、雪華、焔華、静香、麗華、貴音の顔が一斉に映し出された。
その勢いに、思わずたじろぐ。
「な、なんだよ……」
しかし次の瞬間――
「その顔は、なんですか!!?」
雪華の目がカッと見開き、鋭く光った。
「えっ……?」
思わずたじろぐ俺に、焔華がすかさず畳みかける。
「試合、見ておったわ! なんじゃその体たらくは! わしの知ってる雷丸はもっと炎みたいに燃えておるはずじゃろが!」
言葉のド迫力に思わずスマホを離しかけたところへ、
「お兄ちゃん……ここでへこたれるとか、ハーレム王の威厳が泣いてるよ?」
貴音の容赦ない言葉が突き刺さる。
「え、ちょ、何だよみんな!そんなに怒んなって……!」
狼狽えながら防御の姿勢をとる俺に、麗華が眉をひそめて冷静に言う。
「……あまりにも情けない顔をしてたから、我慢できなくて電話したのよ。そっちの電波、ちゃんと届いててよかったわ」
そして、静かに静香が口を開く。
「みんな、少し落ち着いて」
言葉は優しいが、目は真っ直ぐだった。
「雷丸君……どうしたの? あんな顔で、どうしてサッカーをしてたの? あなたのプレーから、心が見えなかった」
そして、問いかけるようにゆっくりと続ける。
「――貴方の今の気持ちを教えてちょうだい」
その瞬間、画面越しに、全員の目がこちらに向けられる。
誰も言葉を発さない。ただ、じっと見つめてくる。
まるで、「逃がさない」と言わんばかりに――そのまなざしは鋭く、そして温かい。
俺は……思わず、視線を逸らしながら。
ぽつりと、呟いた。
「……なんでだろうな。あんなに好きだったサッカーが、楽しくなかったんだ……」
その一言が口からこぼれ落ちた瞬間――胸の奥がギュッと締め付けられた。
自分で放った言葉なのに、まるで誰かに突きつけられた真実みたいに重たくて、苦しくて。
画面の向こうの彼女たちは、誰もすぐには返さなかった。けれど、その沈黙すら、俺には妙に優しく感じられた。
だから、堰を切ったように言葉が溢れ出す。
「アントニオのやつ……未来を見てくるんだ。プレーも、思考も、感情すらも全部、読まれてる」
指が震える。スマホを握る手に汗がにじむ。
「全力で仕掛けても、笑ってかわされてさ……。どんな必殺技も、奇策も、あいつの眼には“予定通り”だったんだよ」
拳が膝の上で震えていた。強く握るほどに、爪が手のひらに食い込んでくる。
「……つれぇよ。苦しいよ。俺の全部を否定されてるみたいで……自分の“好き”だったサッカーが、わかんなくなった」
思い出すのは、ピッチの中で何度も跳ね返された自分。飛び立とうとしても、読まれ、止められ、笑われた俺。
アントニオの声。目線。あの、失望したような静かな表情――
それが頭から離れない。
スマホの画面越し、全員が黙って、真剣に俺の話を聞いてくれている。
笑わない。叱らない。ただ、見てくれている。
すると――
「お兄ちゃん!」
画面の中から、貴音の声が鋭く飛び込んできた。
その顔が、ぐっと画面に近づいてきて、スマホ越しにこちらを射抜くように見据えてくる。
「サッカーが楽しくないなら――楽しくすればいいじゃん!」
「……は?」
思わず間の抜けた声が漏れる。
だが、貴音は構わず言い放った。
「お兄ちゃんのサッカーって、“勝つこと”だけじゃなくて、“楽しむこと”だったでしょ!?」
その声は、まるで雷のように――いや、心の奥に届く“目覚まし”みたいに響いた。
「私が小さい頃からずっと憧れてたお兄ちゃんはさ、いつも楽しそうにサッカーしてた! まるで、これ以上楽しいものなんてないって顔で!!」
彼女はにぱっと笑った。太陽みたいに、まっすぐな笑顔。
「ハーレム王のサッカーって、そういうやつでしょ!!」
その一言が、刺さった。
心の奥に、温かい何かがじわじわと広がっていくのが分かった。
「雷丸様、貴方の“ワールドクラス”は脚力だけじゃありません」
雪華が、静かに、でも真っ直ぐな瞳で言った。
「“楽しむこと”――なんだって面白くする、笑って駆け抜ける、その在り方こそ、雷丸様の武器です!」
「雷丸、お主がどんな状況でも全力で突っ込んでいく、あのバカさ!あれこそが、お主の最強の力じゃ!!」
焔華が叫ぶように言った。まるで炎のように、心を揺さぶる言葉だった。
「サッカーだけじゃない。どんな逆境でも、貴方は笑って楽しそうにしてた。だから……私たちは、そんな貴方に惚れたのよ」
麗華は静かに、でも芯の通った声でそう言った。
そして、最後に静香が――穏やかに言葉を紡いだ。
「雷丸君。あなたは、いつも“誰かのために”サッカーをしてきた。家族のため、仲間のため、夢のため」
そして少しだけ、微笑んだ。
「……だから、今度は“自分のため”にサッカーしてもいいんじゃないかしら?」
その言葉が――まるで陽だまりのように、冷え切っていた心に染み渡った。
誰かのためじゃなくていい。勝つためだけでもなくていい。
俺が、ただ“楽しむ”ために――サッカーをしていいんだ。
そのまなざしが、声が、言葉が、画面越しに俺を包み込む。
俺の中の何かが、ふっと軽くなった気がした。
そして――
「……そっか。そっか。そうだったよな」
ゆっくりと笑みがこぼれる。
握った拳に、ちゃんと力が戻っていた。
「よし……」
顔を上げる。迷いはなかった。
画面の中の彼女たちへ、もう一度、しっかりと笑って言った。
「――後半、行ってくる。絶対、魅せてくるから。最高に楽しい、俺のサッカーを!」
雪華がにっこりと微笑み、うん、と頷く。
焔華は「期待しとるぞ!」と親指を立てた。
静香は「ふふ、今度は“らしい”顔になったわね」と満足げに笑う。
麗華は穏やかに「行ってらっしゃい」と囁いた。
そして最後に――
「お兄ちゃん、かっこよく決めてこーいっ!!」
貴音が叫んで、通話が切れた。
静かだった風が――今は、俺の背中をやさしく押してくれている。
俺は、拳をもう一度握りしめた。
よし、後半戦――取り返すぜ。
“楽しむためのサッカー”を。
俺だけの、俺らしいサッカーで。
――――――――――
前半戦が終わって、ミーティングルームの椅子にもたれかかりながら、僕は何気なく天井を見上げていた。
いつもなら誰よりも早く次の戦術を思い浮かべ、周囲に微笑みを返しているこの時間。
だけど、今日の僕は――思わず、溜め息をついてしまった。
「……はぁ」
その音が思いのほか静かに響いたらしく、近くにいたチームメイトが「おいおい、ため息なんて珍しいじゃないか、アントニオ?」と茶化すように声をかけてくる。
「あぁ、ごめんごめん」
慌てて笑顔を貼りつけて返す。
いつもの“太陽の王子”としての仮面――誰にだって明るく、華やかで、余裕を忘れない姿を。
けれど、内心では違った。
――正直に言うなら、がっかりしていた。
飯田雷丸。あれだけ世界を騒がせた男。異世界帰りのハーレム王で、常識外れの技を連発し、どんな相手にも堂々と立ち向かう姿に、僕は期待していたのだ。
この決勝の舞台で、僕に見せてくれると思っていた。
何か、常人では理解できないほどの閃光を。
けれど――違った。
全力で潰してみれば、思っていたよりも脆く、意外なほど静かに崩れていった。
「……やれやれ、僕が期待しすぎたのかもな」
腕を組みながら、ふとつぶやく。
「はは、お前にそこまで期待されるなんて、雷丸も大変だったろうな」
隣の選手が肩をすくめながら、ニヤリと笑って言う。
そのからかいを受けて、僕も苦笑を返すしかなかった。
でも……心の奥では、まだ“なにか”を諦めきれていなかった。
そう。飯田雷丸なら、まだなにかを見せてくれるんじゃないかって――
***
そして、後半戦。ピッチに戻ってきた僕は、再び雷丸と相対した。
その瞬間、思わず吹き出しそうになった。
彼の首に――「未来予知お断り」と書かれた手作りのプラカードがぶら下がっていたのだから。
「な……なんだあれ!?」と実況席がざわつき、審判が駆け寄ってきて、慌ててそのボードを没収する。
観客も爆笑していた。中には「天才か!」と叫んでいる者すらいた。
僕は思わず、笑いをこらえきれずに声をかけた。
「……何やってんのさ、雷丸君?」
すると彼は、あのいつもの――いや、むしろ“いつも以上に”余裕たっぷりな笑みを浮かべて言った。
「よう、アントニオ。前半はつまんねぇ試合して悪かったな」
言葉は軽い。けれど、その目に――確かに“火”が戻っていた。
「そっか。じゃあ今度こそ、楽しませてくれるんだろうね?」
そう返すと、彼はおどけたように肩をすくめて、ニカッと笑う。
「おう、俺の真の実力、今からお見せするってのよ!」
前半で見た、あの空虚な顔はもうない。
視線に、声に、立ち姿に――“らしさ”が戻っていた。
――ああ、これだ。
僕が見たかったのは、この飯田雷丸だ。
なら、今度こそ本気で相手をしようじゃないか。
雷丸君。君の“未来”が、どんなものなのか。
この僕が――すべて、見届けてあげるよ。