第15話 飯田家の過去
俺の名前は飯田雷丸。幼い頃から母親と二人で仲良く暮らしていた。
母さんはとにかく温かくて優しい人で、俺のことをめちゃくちゃ大切にしてくれた。
まぁ、俺が言うのもなんだけど、かなり幸せな子供時代だったんだ。
だが――
そんな平穏な日常に、ある日激震が走った。
「再婚するのよ」
母さんが言ったその一言が、俺の人生を激変させるきっかけだった。
しかも、再婚相手としてやってきたのは、謎の義理の父親。
このオッサン、突然現れたと思ったら、なんと娘まで連れてきやがった。
そう――その娘が、貴音だ。
あの時の俺にとって、彼女は突然現れた謎の存在だった。
義理の父親と一緒にやってきたその瞬間から、貴音は俺にとって妹のような存在になったわけだが、最初はお互いにぎこちなくてな。まさに、どう接していいのかわからない状況だった。
でも、まぁ――
俺たちの生活は、次第に落ち着き始めた。
家族ってそういうもんなんだろうな。
だんだんと一緒にいるのが普通になっていくってやつだ。
だが、幸せな日々は長く続かなかった。
突然、義理の父親が蒸発しやがったんだ。
理由も告げず、何の前触れもなく、まるで煙のようにパッと消えた。
「おいおい、ちょっと待てよ!」って感じで、俺も貴音も、何が起きたのか理解できずにしばらくポカーンとしてたわけだ。
でもな、これで終わりじゃなかった。
次に待っていたのは、さらなる不幸――母さんが病に倒れた。
そして、残酷なことに、そのまま回復することはなかったんだ。
母さんが病室で俺に向かって最後の願いを告げた時、俺の心はぐしゃぐしゃだった。
「貴音を……頼むわね。」
母さんの言葉に、俺はただ頷くしかなかった。
義理の父親が蒸発した今、頼れるのは俺だけ。
それが、母さんの最期の願いだった。
でも、問題はここからだ。
貴音との関係は、めちゃくちゃ難しかったんだ。
彼女は義理の兄である俺に対して、何とも言えない複雑な感情を抱いていたらしい。
父親がいなくなり、母親代わりだった人も失って――貴音の心には、でっかい傷が残ってたんだろうな。
それが理由で、時には俺に対して反抗的な態度を取るようになった。
「おい、何で俺にキレてんだよ!」って思いながらも、俺は母さんとの約束を守ろうとして、貴音のことを気にかけ続けた。
だが、俺も母さんを失った痛みで余裕がなく、思うように貴音と向き合うことができなかった。
結果的に、俺たちの間には距離ができてしまったんだ。
そして、今――
俺と貴音は、ぎくしゃくした関係を続けながら、何とか日常を生きている。
……まぁ、人生ってこんなもんだよな。
でもさ、母さん――
「貴音を頼む」って言われたけど、正直、俺もどうすりゃいいのかわかんねぇんだよ。
……それでも、あいつの支えになってやるしかないんだろうな。
――――――――――
私の名前は、飯田貴音。
小さい頃、私は父と二人で暮らしていた。
母の記憶はほとんどなく、父だけが世界の全部だった。
ある日、その父が再婚した。
その時に現れたのが、優しい義母と――その息子。
飯田雷丸。
突然「兄」として現れたその人を、私はどう扱えばいいのか分からなかった。
距離の取り方も、声のかけ方も、どこに立てばいいのかも分からない。
でも――
お兄ちゃんは、いつも明るくて、よく笑って、
気づけば自然と隣にいるのが当たり前になっていた。
気づいたら家はにぎやかで、私は一人じゃなくなっていた。
……だけど。
ある日、私の中の何かが決定的に変わった。
お兄ちゃんがサッカーの全国大会で優勝したあの日。
フィールドを全力で駆ける後ろ姿。
歓声の中、仲間に肩を抱かれながら笑う顔。
優勝トロフィーを掲げたとき、太陽に照らされたその姿が――
まるで光みたいだった。
胸がぎゅっと熱くなって、呼吸がうまくできなかった。
私はそこでようやく気づいた。
お兄ちゃんは、ただの「家族」なんかじゃない。
私は――
あの人に恋をしていた。
でも、その想いに名前を付けた直後、世界は容赦なく崩れた。
父は、理由も何も残さずに、突然姿を消した。
家族は音を立てて、あっけなく壊れていった。
その中で、ただひとつ残ったものがあった。
雷丸と、優しい義母。
それが、私の心が繋ぎとめられる最後の糸だった。
……なのに。
その義母も、病によって静かに衰えていった。
病室で、母はお兄ちゃんに向けて、震える声で笑った。
「貴音を……頼むわね。」
その言葉は、本当なら優しく胸に触れるはずだった。
でも、私には痛かった。
私は――ただ、お兄ちゃんを「好き」だと思っていた。
だけどそれは、その瞬間にはっきりと“許されない気持ち”になった。
“兄に頼らなければ生きられない妹”と
“妹を支えなければいけない兄”。
その構図が、残酷なくらい、綺麗に形になってしまった。
お兄ちゃんは必死だった。
不器用なほど、真っ直ぐに私を守ろうとしていた。
……だから私は、それ以上困らせることなんてできなかった。
母がいなくなってから、お兄ちゃんは前よりずっと優しくなった。
料理も、洗濯も、学校も、将来のことも。
全部、全部、気にかけてくれた。
その優しさが――
本当に、苦しかった。
支えてくれる手の温度があたたかいほど、
私は「家族」という言葉で、自分の気持ちを押し殺した。
「ありがとう」と笑うたびに。
本当は「好き」と叫びたかった。
でも、それは言ってはいけない言葉だった。
だから私は、今日までずっと――
“普通の妹”の顔を続けた。
――そして。
お兄ちゃんは、サッカーを辞めた。
その日を境に、お兄ちゃんは別人のようになった。
前は、太陽みたいに周りを照らしていたのに。
今は、前髪で目を隠して、声も小さくて、覇気のない顔で。
まるで、魂だけがどこかに置き去りになったみたいだった。
信じられなかった。
私があれほど憧れていた人が、こんなに簡単に光を失ってしまうなんて。
父もいなくなって、母もいなくなって――
そして、私が“好きになった人”もいなくなった。
本当は――あの時、支える番だった。
家族として。
妹として。
いや、それ以上の“何かになりたかった自分”を押し殺してでも、お兄ちゃんのそばにいるべきだったのに。
なのに私は――
『どうしてサッカー辞めたの?』
あれは心配なんかじゃなかった。
ただ、自分の“恋した姿”を奪われた悔しさをぶつけただけ。
支えるべき相手に、傷をえぐる言葉を吐いた。
なのに、お兄ちゃんは無理に笑って見せた。
『サッカーなんてさ、もういいんだよ。
ゲームしてる方が楽しいし!貴音も一緒にやるか?』
笑顔はとても柔らかいのに――声が震えていた。
コントローラーを差し出してくれたその手を、私は冷たく払うように言った。
「やらない」
その直後――兄の部屋の前を通った時。
扉の隙間から、小さく震えるようなすすり泣きが漏れ聞こえてきた。
そっと覗いた私の目に映ったのは、
――ボロボロに腫れた足首を抱え込み、
――歯を食いしばりながら、
――声もなく泣いているお兄ちゃんの姿だった。
その光景が焼き付いて離れない。
最近、お兄ちゃんの同級生にバカにされ、殴られたと聞いた。
ヘラヘラと笑って話すお兄ちゃんの姿が、
あの眩しかった背中とあまりにも違っていて……
私はまた苛立ってしまった。
「だって、その人サッカー部なんでしょ?
サッカーで勝って見返せばいいんじゃない?」
「サッカー?……そんなの、もういいよ。」
その言葉が胸に刺さって、
私は“いもしない彼氏”を理由に家を出て、
お兄ちゃんが作ってくれたご飯を食べなかった。
あんなに頑張って作ってくれたのに。
温かい匂いだけが、家に残っていたのに。
思い出しただけで、胸が締め付けられる。
息が苦しくて、目の奥が熱くなる。
(どうして私は……あの時も、その前も……
寄り添ってあげられなかったんだろう)
お兄ちゃんがサッカーを辞めた時、
一番つらかったのは――間違いなく“お兄ちゃん自身”だったのに。
「最低だ、私……」
私はいつだって、自分の感情を優先して言葉を向けてしまった。
慰めるべき瞬間に、突き放すことしかできなかった。
兄に対する恋心と、
妹としての立場と、
子供の頃から抱えてきた依存のような愛情と、
それら全部が絡まり、ほどけないまま――
私の心は、いまだにぐちゃぐちゃだ。




