よろしくガスマスク
夫は画家である。
2液性のエポキシ樹脂で油絵をサンドイッチしている。
作り方は流動性の高い液体なので、木材を万力で固定をして漏れない枠を作る。隙間をシリコンパテで埋める。絵のパネルの後ろ側に流れないように、やっぱり万力で固定をする。
そして私が装備するのは、防塵防毒ガスマスクにゴーグルに、耐薬品性のニトリルゴムの手袋だ。
エポキシ樹脂というのは揮発性がある。そして、私は化学物質過敏症なのだ。
肌に付くと、もれなく赤く膨れ上がり水が溜まりかゆみ痛みを伴った後に赤黒く乾き皮膚が生え変わるまで、皮膚を割らないように気を付けなければならない。
簡易なビニール手袋でやった時には、手袋からチクチクと劇物成分が侵食しているのを感じた。皮膚が害のあるものに反応している感覚が新鮮だった。
日本で簡単に手に入る1液性のレジンを少し使ってみたが、皮膚の荒れは激しく出た。
よくあれでアクセサリーを作っている動画を見るが、素手でやっている人も多く心配になる。私もブローチなど作ってみたが、ほんの針で落としたくらいの液体で500円玉大の火ぶくれがおこる。
レジンに手袋越しに触れたわけではない。ただ、ビニール手袋をして容器を持ち、色を加えて棒でかき混ぜ銅線をはんだ付けした羽根の型に流しただけだ。
ステンドガラスのような透明感のある蝶の羽根にしたかったので、我慢をして使ってみたが、なかなかの苦行だった。
体質もあるのだろうが、作業中に集中して近づいた顔の皮膚や眼球にも痛みがあった。
しかし、なかなかの見栄えとなり自己満足ではあるが自分を褒めたものだ。
まあ、代わりに立っている姿勢の維持が出来なくなり急遽椅子で座らせるしかなくなったが。
最近、エポキシ樹脂を使用する作家も多くなっているので、防毒マスクにニトリルゴムの手袋は必須だと助言したい。
さて、防毒マスクがあるから。と気が大きくなった私は、たまたま手に入った縦22ミリ幅42ミリ高さ34ミリの少し大きめの黄鉄鉱の結晶が詰まった石を加工することにしてみた。
さすが「愚者の金」といわれるだけの事はある。金色の正立方体がリズミカルに積み上がり並んでいる。
これを600円くらいで中古屋から買ったクロコダイルのセカンドバックのオバちゃん臭い金具を取って黄鉄鉱を貼り付けようと思い立った。
しかし、石に高さがある。革を深く切り取っても足りない。やはりここは黄鉄鉱を切断しよう!
リューターにダイヤモンドカッターを埋め込んだ刃で切っていく。
刃が全く進まない。黄鉄鉱のモース硬度は6.5であり、ダイヤモンドならば切れるはずだ。黄鉄鉱を持つ手が熱い。軍手に変えて石は万力で留めてある。刃は円盤型のリュータービットダイアモンドカッターである。しかし、切れない。熱い。おかしいな。黄鉄鉱は火花が出るとあったが出ない。なんとか横一文字に0.5ミリほどの傷を付けられた。出来た傷にライトを当てる。おかしいな?中が白っぽく見える。
反対側もリューターで削る。数分やってリューターが熱を持っては休むのを10回くらい繰り返して、やっと同じくらいの傷が出来た。
ライトを当てる。なぜか反対側の傷から光が漏れる。
なんで?私はがむしゃらに削った。
アッと思った瞬間に万力の中の石が崩れた。ぽろぽろと結晶ごとに分離した。のだが、中身は水晶だった。水晶の結晶に金メッキをして黄鉄鉱として売っていたのだ。確かに小さな水晶の結晶の塊で中に茶色い何かを内包してしかも白濁していれば価値はない。黄鉄鉱だとしたらこの大きさで4~6倍の値段になるだろう。
それに誰も黄鉄鉱を横半分にしようとする人間も少ないだろうし。
お前さんも、難儀だなぁと水晶に謝る。
水晶のモース硬度は8である。ダイヤモンドカッターでこんなに手間がかかったのには驚いたが、黄鉄鋼のモース硬度6と8との間には、とてつもない硬さの差があるわけだ。
ダイヤモンドは15なので、水晶はもう少し簡単に削れても良かったのではないかとも思うのだが、ホームセンターに500円くらいで売っているのに対して、そこまで求めてはいけないのかも知れない。
さて。再度、別の黄鉄鉱の結晶を持つ。
別の店で買った黄鉄鉱だ。きっと本物だろう。
そして削りだす。
火花が出る。良い調子だ。黄鉄鉱の印だ。
とニヤニヤしていたが、3分も経たずに私がダウン。
硫黄の匂いがガスマスクを通しても鼻に入ってくる。
手を止めて、少し離れた場所でガスマスクを外した。ガスマスクの中にフィルターをなぜか通った黒いスス。鏡を見ると顔にマスクの跡のほうれい線以上の存在感のゴルゴ線が硫黄の煙としてついている。
目が痛い。頭が痛い。喉が痛い。鼻の粘膜が痛い。硫黄ってここまで毒性あったっけ?
Wikipediaで調べる。モース硬度6-6.5。うんあっている。きっと頑張れば使いまわしのダイヤモンドカッターで切れる。
そして載っていた記述に目を見張る。「熱を加えると亜硫酸ガスが発生する」
うっそーーーん。
毒じゃん。水に溶ければ硫酸。
私は、休日の半分を無駄にしていた。
結局、クロコダイルのクラッチバックは髑髏のアルミ製のシールを貼り、革製のベルトを取り鎖にした。
夫のおしゃれをした時のバックになっている。
携帯電話とカードケースくらいしか入らないが、個展やグループ展の時などに使うそうだ。
崩したお洒落をする夫には良く似合っている。悪い言い方ならば胡散臭い人。だけれど。
ガスマスクをつけた私である。
防毒ゴーグルではなく花粉症用のゴーグルだったために、瞼が腫れている。
露出した肌も腫れている。
一枚の絵に油絵は2ケ月かかるとして、エポキシ樹脂で覆う作業を一日5時間ほどやり、日を変えて4回ほど繰り返して一枚の絵が仕上がるのだが、やった日は、その翌日までは寝込んでいる。
顔が全部を覆うマスクも考えたが、色を混ぜる時など視野が広くないと色分けしたカップを零すことがある。
エポキシ樹脂は高価な材料なので無駄にはしたくない。
結局は、このマスクと長いお付き合いをしていくのだろうなぁと思っている。
黄鉄鉱を削った時には、すぐにフィルターを交換した。交換しなければならなかった。
ガスマスク様。これからもよろしくお願いいたします。